2012.6.3「キリストの模範 Ⅰペテロ2:2:18-21」

 聖書は奴隷制度を容認しているかというとそうではありません。しかし、いきなり社会制度を変えるのではなく、福音を伝え、人々の価値観を変えてから改善するというやり方です。当時、ローマの人口の三分の一が奴隷であったと言われています。戦争で負けると奴隷になるしかありません。でも、当時の奴隷はご主人の家の仕事、家事、家庭教師、すべてを任されていました。ある奴隷は主人のからお金を預けられて商売をしていました。本書に出てくる「しもべ」は家内奴隷であり、家の召使いでした。良い主人もおれば、悪い主人もいるでしょう。現代の私たちに適用するとどのようになるでしょうか?もし、横暴な上司に巡り会ったら、毎日が不幸になるでしょう。どのようにしたら、横暴な上司の不当な扱いに対して、勝利できるのでしょうか?

 

1.神の前における良心

 

 もし、自分が召使いだったら、どうでしょうか?「やっぱり、善良でやさしい主人であれば、良いなー」と思うでしょう。ちゃんと自分のことを評価してくれるし、きつい仕事に対しては、その労をねぎらってくれる主人が良いです。逆に、横暴な主人のもとで働くことになったらどうなるでしょう。きっと、毎日が不幸でしょう。「横暴な」という、ギリシヤ語のことばは「厳格な、頑固な、無情な」という意味があります。ある英語の聖書は「へそ曲がり、偏屈」となっています。「この前は、こう言ったのに、きょうは違うことを言う」主人。自分のやり方とちょっとでも違うと、全部やり直しさせられる。気分次第で、コロコロ変わる主人です。一生懸命がんばったのに、感謝もしてくれない。調子に乗って次から次と無理難題を押し付ける主人。このようなことを言うと、「ああ、昔、そういう上司がいたなー」と、思い出すかもしれません。「いや、今の上司がまさしくそうだ」と思っておられるでしょうか。私は建設会社に勤めたことがありますが、最初の現場は東北高速道路でした。所長はおおらかでとてもやさしい人でした。工事主任は器が大きくて、全部、私たちに任せてくれました。とっても良い現場でした。ところが、その次に配属されたのが、筑波学園都市でした。そこの所長はとってもケチで細かい、偏屈おやじでした。工事主任はリーダーシップのない人でした。その現場は待遇も非常に悪く、下請けの労働者と同じ食堂で食べ、同じ風呂に入りました。だから、労働者たちからなめられました。所長や主任次第で、「最善にもなるし、最悪にもなるんだなー」と思いました。

 19節には「不当な苦しみを受ける」とあります。みなさんの生涯の中で、不当な苦しみを受けたことはないでしょうか?あるいは虐待されたり、人格を傷つけられたことはないでしょうか?多くの人たちは、理不尽なことに対して、心の傷があります。両親から理不尽な扱いを受けた。学校の先生から不当な扱いをされた。子どもの頃、権威ある人たちから、ひどい扱いを受けるとどうなるでしょうか?自分が大人になると、まわりには権威ある人、敬うべき人たちが、当然いるでしょう。それが会社の上司、何かの先生、何かのリーダーだとします。もし、傷があると、ちょっとのことで「ああ、ひどい扱いをされた」「ああ、私のことを理解していない」「ああ、横暴で、身勝手だ」と過剰に反応してしまうでしょう。また、そういう人は、心の底に恨みや怒り、反抗心があります。相手がひどい人だと思うと、そういう感情が少なからず出てきます。「むっ」とした顔になるでしょう。すると、会社の上司、先生、リーダーは、何と思うでしょうか?「こいつは、反抗的だなー。何だ、その態度は・・・」と、意地悪したくなります。つまり、上に立つ人は、自分が持っている権威や権力を用いて、反抗的な人をやっつけたくなるのです。そこまでいかなくても、良いことをしてあげたり、便宜をはかったりはしません。そのまま、両者の関係が続くと、最後にはひどい状態になります。確かに悪いのは上司なのですが、自分が上司の悪いものを引き出している場合があります。何が原因しているのでしょう?自分が権威者に対して傷があり、そのため上司を敬えないからです。上司にしてみれば、自分を敬っていない部下には、良いことをしたいとは思いません。では、心にもないことを言って、ゴマをするのでしょうか?確かに、本心を隠して、世渡りの上手な人もいます。しかし、そういう人は、家庭にしわ寄せが行くでしょう。こんど、自分が上司になると、その恨みを部下に晴らすかもしれません。

 では、どうしたらそういう悪循環から解放されるのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?18-19節「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」ここには、どんな主人に対しても、「尊敬の心を込めて服従しなさい、従いなさい」と言われています。それだけではありません。「神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」とあります。20節にも「それは、神に喜ばれることです」と「喜ばれる」が二度出てきます。心理学的に言うと、上司との関係が悪い人は、自分との父親との関係が悪い人に多いようです。なぜなら、最初の権威は父親から学ぶからです。父親を憎んでいる人は、世の中のすべての権威も憎む傾向にあります。同時に、その人は完全な父親を捜し求めています。「この人は、私が敬える本当の父だろうか?」と一生懸命捜します。しかし、この世の中に、100%完璧な人など存在しません。また、この人には「どうせあなたも、悪い指導者でしょう?」と苦い根の期待があるので、どんな上司からも、悪いものを引き出してしまうのです。でも、私たちの神さまはどういう神さまでしょうか?私たちの神さまは完全な父です。そして、パウロが言うように、すべて世の中の権威は、神さまが与えたものです。ローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」私たちは、神さまのゆえに上に立つ権威に従うのです。そうするとどうなるでしょうか?Ⅰペテロには「神に喜ばれる」と2回書いてありました。「喜ばれる」は、ギリシャ語で「カリス」と言います。カリスには、「好意、寵愛、恩恵、恵み」という意味があります。英語ではfavorです。favorには、「引き立て、愛顧、えこひいき、偏愛」という意味があります。どうでしょうか?世の中の権威者に喜んで従うならどうなるでしょうか?おそらく、権威者はその人を可愛がり、守ってあげようと思うでしょう。しかし、自分の権威に従わなければ、良くて普通、悪くて冷遇するでしょう。決して、良くしてあげるとういことはないでしょう。なぜなら、その人は自分の権威によって、その人に良くしてあげたいとは思わないからです。結局は、その人は、どこに行っても、だれが上司だとしても、そういう運命、そういう環境を拾っていくしかありません。

 では、どうしたら良いのでしょうか?何べんも言いますが、この地上に、まことの父、100%完璧な父は存在しません。私たちが必要なのは天の父です。このお方は、100%完璧な、愛の持ち主です。ペテロは何と言っているでしょうか?「神の前における良心のゆえに」と言っています。原文は、良心ではなく「意識」とか「自覚」です。私たちは地上の権威者、たとえばそれが、上司であろうと何かの先生、指導者であろうと関係がありません。権威者の背後には、父なる神さまがおられます。父なる神さまを意識することがとても重要です。そして、「目の前の権威ある人に従うということは、それは、神さまに従うことなんだ」と考えるべきです。しかし、そのように従っても、その人は自分を不当に扱い、冷遇するかもしれません。まさしく、ここにあるように「善を行っていて苦しみを受ける」かもしれません。でも、耐え忍ぶならどうなるでしょうか?「神さまに喜ばれる」と書いてあります。神さまに喜ばれるとは、「神さまの好意、神さまの愛顧、神さまの恩恵が得られる」ということです。簡単に言うと、神さまが特別に報いてくださるということです。私たちはどうしても、目の前の上司、目の前の権威ある人から、何とかしてもらわないと気がすまないかもしれません。でも、それはいずれ受けるものと期待して、神さまから、その報いを求めるのです。そうやって、不当な苦しみを忍んでいくなら、どうなるでしょう?いつの日か、横暴な主人が悔い改めるでしょう。「ああ、私はこの人に、不当なことをしているかもしれない」と。しかし、それは、わかりません。ただ1つ確かなことは、あなたは目の前の横暴な主人から解放されることは確かです。その人が、善良で優しかろうが、あるいは横暴で偏屈だろうが関係ありません。あなたはどんな主人に対しても、主に仕えるように仕えていけるからです。旧約聖書にヨセフという人物が出てきます。彼は兄弟たちのねたみを買って、エジプトの奴隷に売り飛ばされました。ヨセフはポテファルの家の奴隷になりました。創世記39:2-4「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプトの主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の財産をヨセフの手にゆだねた。」アーメン。主はヨセフと共にいて、ヨセフに良くしてくれました。ヨセフの主人は、そのことが見えたので、ヨセフを信頼して、全財産を任せました。私たちも、人に権威を与えた神さまを認め、神さまの御目のもとで、権威者に喜んで従うのです。そうすると、神さまが恵みを与えて、報いてくださいます。権威者の向こうにおられる神さまを意識して生きるときに、私たちは解放され、やがては、良い運命を刈り取ることができるのです。

 

2.キリストの模範

 

 Ⅰペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」プロテスタント教会では、キリストの贖いついては強調しますが、キリストの模範ということはあまり強調しません。何故かというと、キリスト教の歴史の中で、そういう異端がいくつか生まれたからです。もちろん、私たちはキリストに倣うことによって、救われるわけではありません。しかし、救われた後は、キリストに倣うということが求められています。では、ペテロが強調したいことは、どのようなキリストに倣うということなのでしょうか?文脈から、横暴な主人のもとで、不当な扱いをうけたしもべに対して語られていることが分かります。イエス様が苦しまれた第一の理由はもちろん、私たちを贖うためです。しかし、イエス様がこの地上に肉体を取って、同じような苦しみを味わいました。それは、私たちを理解し、私たちを慰め、私たちに解決の道を示すためでもありました。私たちが不当な苦しみを受けて悩んでいるとき、私たちのように苦しまれたイエス様のことを思うとどうなるでしょうか?イエス様は人々に福音を語り、人々の病を癒し、助け、導きました。1つも悪いことをしなかったのに、ののしられ、打ち叩かれ、最後には十字架につけられました。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったのに」です。普通だったら、ののしられたらののしり返す。苦しめられたら、「やめろ!」と、おどすでしょう。しかし、イエス様はそれをしませんでした。

 イエス様は弱かったから、仕返しをしなかったのでしょうか?イエス様は崇高な道徳家だったので、耐え忍ばれたのでしょうか?そうではありません。23節後半には「正しくさばかれる方にお任せになりました」と書いてあります。正しくさばかれる方とは、神さまのことであります。旧約聖書を見ますと、神さまは復讐の神さまであることが分かります。悪や不正に対しては、必ずさばくというお方です。使徒パウロはローマ12章でこのように述べています。ローマ12:19 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」。アーメン。イエス様が示された模範とは、自分で復讐しないで、父なる神さまにゆだねたということです。聖書は「自分に悪をした人を赦しなさい」とは、ストレートに命じていません。そこには、順番があります。まず、自分で復讐しないで、神さまの怒りに任せるのです。ペテロのように、正しくさばかれる方に任せるのです。その後で、その人を赦し、その人と普通に交わるということです。もし、私たちがその人に恨みや復讐心を持ったままでいたなら、普通に交わることは不可能です。でも、自分に対して行ったひどいこと、悪いことを、神さまにゆだねます。つまり、復讐するのは神さまですから、神さまの怒りに任せるのです。その後は、「おー、ハレルヤ!」とその人と普通に交わります。こうやって生きていると、腹に溜まりません。健康にも良いです。人を恨んでいたり、怒りを持っていると、健康に良くありません。関節痛、心臓病、いろんな病気になります。旧約聖書のダビデはどういう人だったでしょう?。サウルから追われて困っているとき、ナバルという人物が、ダビデをなじりました。ダビデは復讐心を神さまにゆだねました。「10日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ」(Ⅰサムエル25:38)とあります。また、ダビデはアブシャロムから追われて、荒野で疲れ果てているとき、シムイがダビデをのろいました。「出て行け、出て行け、血まみれの男、よこしまな者」と、石を投げたり、ちりをかけました。あとで、ダビデがエルサレムにもどったとき、シムイが「どうか私の咎を罰しないでください」と謝りました。ダビデはその場で復讐せず、シムイに「あなたを殺さない」と約束しました。しかし、ソロモンの代になって、シムイはさばかれてしまいました。ダビデは詩篇17篇で「主よ。聞いてください。正しい訴えを。耳に留めてください。私の叫びを。・・・私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように」と祈っています。ですから、私たちは怒りや憎しみ、復讐心を温存せず、正しくさばかれる方に任せるべきであります。これが、キリストに倣うということです。

 では、キリストに倣うそのエネルギーはどこからいただくべきでしょうか?みなさんは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしませんか?「私はイエス様のように寛容に生きるんだ。決して怒らないぞ!」と誓っても、3日持つでしょうか?あるいは、「上司から不当な扱いを受けても、恨んだりしないぞ。神さまにゆだねるんだ!」と誓っても、3日持つでしょうか?おそらく、半日も経ったら、自分の決心をすっかり忘れ、爆発している自分を発見するかもしれません。最後には、「キリストに倣うなんて無理!もう、やめよう」と思うでしょう。イエス様のように「寛容になり、愛の人になろう」と思っても、どうしてできないのでしょうか?それは、私が自分の力でイエス様のようになろうと努力するからです。もし、ある人がイチロー選手のような良いバッターになりたいなら、どうするでしょうか?ユニフォームを買って、顔かたちやスタイルを真似るでしょうか?イチロー選手にそっくりな人もいますが、イチロー選手のようにプレーはできません。イチロー選手のようになるというのは、姿かたちではありません。もし、イチロー選手が私の中に住んでくれたらどうでしょう?イチロー選手が私に能力を与え、力を与えてくれます。もし、私がベートーベンのようなピアニストになりたいとしたらどうでしょうか?髪の毛をもじゃもじゃにして、「ジャジャジャジャー」とピアノを叩けば良いのでしょうか?無理です。しかし、ベートーベンが私の中に住んでくれたらどうでしょう?ベートーベンが私に能力を与え、力を与えてくれます。では、イエス様のようになろうと思うならば、どうしたら良いでしょうか?イエス様が私の中に住んでくれたら良いのではないでしょうか?実は、イエス様は公生涯を始めるとき、聖霊の注ぎを受けました。そして、イエス様は私の中に父がおり、父の中に私がいるとおっしゃいました。イエス様は父なる神さまと一緒に歩み、父なる神さまの力によって生活しました。イエス様が大いなるみわざを行ない、きよい生活ができたのは、イエス様ご自身の力でしょうか?もちろん、イエス様は三位一体の神さまですから、自分の力でもできたはずです。しかし、イエス様は「私は自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5:19)とおっしゃいました。そうです。肉体を持ったイエス様は人間の代表になり、常に父なる神さまに依存して生きておられました。ということは、イエス様は「あなたもそのように生きれば、良いんだよ」と教えておられるのです。

 パウロはコロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。また、コロサイ3:4「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストと共に、栄光のうちに現れます」。もし、クリスチャンであるならば、もれなく、内側にはキリスト様が住んでおられます。私たちが自分の力でがんばろうと私たちが大きくなれば、キリストのいのちは小さくなります。しかし、私たちが小さくなるならば、キリストのいのちが大きくなります。この世の人たちは、「頑張りなさい、頑張りなさい」と言うでしょう。しかし、聖書は「頑張らないように、頑張らないように」と言っています。そうではなく、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みなのです。あなたの内から、キリストが現れるようにキリストにゆだねなさい」と言っているのです。自分の意思や力でイエス様に真似ようとすると必ず失敗します。イエス様が父なる神さまにいつも頼っていた、そのライフスタイルを真似るのです。同じように、私たちも「イエス様、イエス様」と頼っていくならば、イエス様があなたの内側から現れてくるのです。イエス様が現れたならば、結果的に、あなあなたは寛容で、愛の人になっているのです。道徳や倫理は外側から「ああしてはいけない、こうしなさい」と、人々を変えようとします。しかし、聖書は修養や改善を言ってはいません。イエス様を信じて、霊的に新しく生まれ変わることを求めています。イエス様を信じたら、聖霊によってイエス様が心の中に住んでくださいます。あなたが意識すべきことは、「イエス様、どうか私の内側から働いてください。あなたの知恵をください。あなたの力をください」と願うことなのです。そうするならば、あなたの内からイエス様が現れて、結果的に、あなたはイエス様に倣う人になっているのです。「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に歩きましょう、いつも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、どこまでも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、いつも。」