2011.03.13 怒るに遅くせよ ヤコブ1:19-21

怒りの感情がすべて悪いわけではありません。福音書で、イエス様も御怒りになられたことが何度かありました。世の中の不義や不正を正すためには怒りが必要なときがあります。しかし、かっとなる怒り、コントロール不能の怒りというものもあります。現代の若者はよくキレルと言われていますが、怒りは人生を破壊するマイナスの力もあります。怒ると血圧が上がり心臓や脳に良くありません。親しい人間関係を壊すでしょう。また、怒りにまかせて物を壊すかもしれません。また、人生の判断を誤る可能性もあります。ヤコブの手紙には「怒るに遅いようにせよ」と書いてありますが、旧訳聖書の箴言には、同じようなことばが4箇所もありました。箴言16:32「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」と書いてあります。もし、私たちが怒りによって振り回されることがないなら何と幸いでしょう。

1.怒りの原因

 「怒るな!」と言われても、怒る原因がそこに存在するかぎり無理なような気がします。しかし、よく考えると、ある人は同じことをされても怒らないし、ある人は同じことをされて激怒します。つまり、人によって怒る対象というか、怒る条件が異なるのではないでしょうか?たとえば、ある人がある出来事で怒ったとします。どういう状況で自分は怒ったのか?また、その時、自分の心で何を考えたのかチェックしたら良いでしょう。再び、他の出来事で怒ったとします。相手は違うかもしれません。しかし、どういう状況で自分が怒ったのでしょう?そのとき、自分は何を内側で考えたのでしょうか?そういうのを1ヶ月くらい調べていくと、自分はどんな特定の状況に置かれたときに、激怒しやすいのかということが分かります。今、宮崎県の新燃岳が噴火しています。噴火はどんなところから起こるでしょうか?地質の弱いところからドーンと噴火します。たとえば、あなたは家庭で伴侶とのやりとりで噴火したとします。それをAとします。次は職場で会社のだれかとのやりとりで噴火したとします。それをBとしましょう。さらに、教会で、だれかとのやりとりでドカンと噴火しました。それをCとしましょう。ABC何の脈絡もなさそうです。でも、その根元をたどっていくとどこに達するでしょう?噴火の根元はどこでしょうか?そうです。マグマです。怒りのマグマがあって、普段はそれがいろんな抑圧がかかって、抑えられています。でも、何かの出来事で抑圧がなくなった。「ここで、だったら、怒れる!」ドッカンとやってしまうのです。

 多くの人たちは「怒らないように」と、自分を自制しようとします。そのため、一生懸命、お祈りするかもしれません。心理学の本を読んで、自分の性格を変えようとするかもしれません。でも、ある状況下に置かれると、ドッカンと爆発します。だれかが、あなたの地雷を踏んだのです。あるいは、スイッチを押したのです。すると、あなたは自動的に反応するしかありません。後から、惨めな気持ちで、爆発の処理をします。ケーキやプレゼントを買わなければなりません。自制や抑圧することには限界があります。では、どうすれば良いのでしょう?さきほど、調べたデーターから傾向と対策を練ると良いのです。自分はどういう状況の中で爆発しやすいのか?そのとき、自分の内側で何を考えているのか?これがとっても重要です。怒りは感情ですが、その前に、私たちは深いところで何かを考えているんです。この考えが歪んでいると、歪んだ感情が出てくるのです。つまり、怒りという感情を変える前に、考えを変えることが重要なのです。ABCの出来事で、おそらく、共通した状況や考えがあるはずです。たとえば、自己中心的で身勝手な振る舞いによって、自分の世界が壊れると思ったのかもしれません。せっかく自分が準備したことを台無しにされた。私が積み上げてきたキャリアを馬鹿にされた。「勝手に、壊すな!」と怒ったのかもしれません。あるいは、責任を果たすべき人がその責任を果たさなかった。そのために、自分の世界が壊れると思ったのかもしれません。相手が会社の上司、夫、牧師だったりします。「あんたがいい加減なので、私が不当な扱いを受けている。ちゃんとやれ!」と言うことです。今の二つが結構、多いようです。なぜなら、私がカウンセリングを学んでいる李光雨師が良くあげるテーマだからです。

 しかし、多くの人は「あいつが悪い」「あいつのせいだ」「あいつがあんなことをしなければ良いのに」と怒る対象のせいにしています。確かに、あなたを怒らせた人にも罪があります。身勝手さとか、無責任、不当な扱い・・・いろいろ原因はあるでしょう。でも、あなたがこの世に生きている限り、そういう人たちをあなたの前から全部払拭することができるでしょうか?これから、先ずっと、マシンガンと手榴弾をもって、そいつらをやっつけていくのでしょうか?それは不可能です。この世に生きている限りは、どこでもそういう人たちがおり、あなたもそういう状況に何度も遭遇するのです。では、どこを変えると良いのでしょうか?人や状況を変えるのではなく、あなた自身の考え方を変えると良いのです。つまり、自分はどういうことについて怒りやすいのか?自分の中にある未解決な怒りの問題とは何か?自分は一体、何に怒っているのか?マグマの正体を知るということです。

2.怒りのエネルギー(怨念晴らし)

実は怒りは、何かを成し遂げるためのエネルギーになります。朝日新聞で「日本人が好きな1000年間の歴史上のリーダー」はだれかを調べました。織田信長とか、徳川家康、坂本竜馬とかと、ならんで田中角栄が第四位だったそうです。「怨念晴らし」の第一人者、李光雨師がおっしゃったことを引用します。田中角栄は、庶民の宰相とかいろいろ言われたが、彼の人生を自伝で読むと、怨念晴らしの典型的なパターンである。まず最初に、被害者としての被害感情、抑圧された1つの世界を持っていた。彼の場合には新潟の雪深いところで、本当に貧しい家に生まれた。そして、貧しい子ども時代を過ごした。優秀だった、でも、新潟の雪深い地方の中では、自分の才能を発揮することが出来ない。だから、小学校卒業してすぐに、東京に出て、丁稚奉公しながら、結局は土建屋さんで財を成した。戦後、すぐに国会議員の選挙に打って出て、初めは落選した。そして、国会議員になりたかったのはどうしてか。「先生と呼ばれたかったから」とインタビューに答えている。彼に長年仕えた早坂茂三という秘書が、『怨念の系譜』という本を書いた。河井継之助、山本五十六、そして田中角栄。この3人は同じ長岡を中心としたところの出身。彼らは雪深い越後の県民性を背負っている。それは、雪の中で本当に苦労して、何もできない日の中で、自分の中にある才能をどこで爆発させようか。その1点を見つけたときに、その才能が開花していく。長年、彼に仕えた秘書がそう言っている。これを私たちは「成功物語」として見れば、これは良い話である。しかし、エネルギーの源がどこにあるかと考えるなら、それは怨念の世界である。田中角栄が日本列島改造論を書いたのは何故か。関越があり、そこへ行くと谷川岳を通る。あそこがあるから、新潟は雪が深い。あそこ全部崩しちゃおうかと思った。そうしたら雲が関東に抜けて、雪が降らないで済む。本当に考えたそうである。それほどのイメージ、力、目標を生み出す元になっているものは何か。それは怒りである。それはもちろん、個人的な怒りということも含めて、その土地の人たちが持っている束縛された、抑圧されたその世界。その抑圧に対する、自分の中から生まれてくる反発、反抗心。これを私たちは怨念の世界と呼ぶ。そして彼のように才能があって、時代の要請のある人は大きな業績を残す。しかし、果たしてそれが本当に良いものを生み出すのだろうか。聖書の原則はこのところが明確である。「人の怒りは神の義を実現することができない」。人が怒りをエネルギーに何か良いと思うことを、やったとしても、結果としてそれは最終的には良いものを生み出さない。

ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」なんと、驚くべきみことばでしょうか。外側から見たら、その人のやっていることはすばらしことかもしれません。でも、神さまは、その動機、エネルギーを問われます。さきほどの政治家だけではなく、伝道者や牧師ですらも怨念晴らしでやっているかもしれません。世の中じゃだめだったけど、この世界で成功して見返してやる。また、信徒に復讐するために牧師になる人がいるそうです。そういう人たちは良いところまで行きます。しかし、サタンは一番、良い所で足元をすくって、台無しにするそうです。牧師や伝道者が良いところまで登り詰めて、最後に教会を分裂させたり、キリストの御名を辱めることがあります。最近の日本のキリスト教界にそういう人がとても多いのに気付きます。牧師だけではなく、リーダーになる人も何が自分を動かしているのか、エネルギーの源をチェックする必要があります。怒りや憎しみがエネルギーになってはいないでしょうか?私も人のことを言っておられません。私は24年前にこの教会に赴任しました。第一回目の礼拝で何と言ったでしょうか?「3年に100名ならなければ教会をやめる」と言ったのです。恥ずかしながら、24年たっても、100名礼拝が実現していません。本来ならとっくの昔にやめていなければなりません。なのに、どの面下げてと申しましょうか?この面下げてここにいます。私はここで奉仕していて、本当に砕かれました。インドネシアのエディレオ師に出会い、父の心をいただきました。また、エリヤハウスでも癒されました。最終的には、李光雨師のカウンセリングを受けて怨念から解放されました。1年半前のことです。56歳でした。イエス様を信じて霊的に生まれ変わったのが25歳です。そして、心というか思いが新しくなったのが56歳です。うぁー、人生の後半です。周りの人たちを見て「ああ、この人も怨念で動いているなー」って分かります。でも、裁くことはできません。なぜなら、私が解放されたのが56歳だからです。神さまは、きっとこれから私を通して、すばらしいことをなさると本当に期待しています。 

エペソ人4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」サタンはその怨念の世界に必ず手を伸ばして来ます。人との関係を破壊するために、教会を破壊するためにです。怨念と怨念がぶつかることを修羅場と言うそうです。教会が怨念晴らしの修羅場と化し、サタンの草刈場になってしまいます。最終的には牧師が辞めるか、教会が分裂したりします。教会は無条件の愛を説いていますので、怨念を出す場としては最高のステージになります。自分がかつて満たすことのできなかった、怨念を教会で晴らすことができます。役員会や総会もそういう場所になります。こんど4月17日教会総会があります。教会の独立について話される予定です。そのとき、物申す人が出てくるでしょう。気をつけてください。その人が正しいことを言っているかどうかではなく、その人のエネルギーが何かを知るべきです。どうぞ、怨念と怨念がぶつかる修羅場だけは避けましょう。サタンが喜ぶだけです。私たちも自分自身のことを、気をつけましょう。怒りで物ごとをやってはいないかどうかです。ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」

3.怒りの解決

 キリスト教会はこれまで加害者の部分だけを扱ってきました。つまり、「あなたが犯した罪のためにイエス様は十字架にかかったのですよ。罪を告白したなら、あなたは赦されます。」と言います。実際、そのように罪赦され、罪責感からも解放されます。しかし、加害者ではなく、被害者的な部分もあります。つまり、だれかによって傷つけられて被害を被ったということです。多くの場合、1万タラントの負債を赦してもらったたとえ話を用います。そして、「あなたはとうてい返すことのできない罪を赦してもらったんだから、今度はあなたに対して罪を犯した人を赦すべきですよ」と言います。これは恵みによる赦しと言えますが、これができる人はどのくらいいるのでしょうか?李光雨先生は、「それができるのは3割くらいではないか」と言っていました。神さまから多大な罪を赦してもらった。だから、あの人の罪も赦すべきである」と分かります。でも、心の深いところでは赦すことができないのです。なぜ、怒りが爆発するのでしょうか?それは、その人の被害者的な部分が十分に解決されていないからです。たとえば、自分の存在を正しく、敬意をもって、存在を価値あるものとして取り扱われないことがあります。もし、不当に取り扱われるならば、怒りの根っこになります。そして、私たちを動かすエネルギーの根っことして私たちの中にとどまります。「どこかで必ず見返してやる。復讐してやる。この怒りを晴らしてやる」。最終的に、被害者が加害者になっていく、これが怨念晴らしです。

怒り、つまり怨念晴らしから解放されるため、李光雨先生はもう1つの十字架を提示しました。「もう1つ」と言っても異端的なものではありません。「二本の十字架」と言うと、「ゴルコタの丘には三本立っていたでしょう」と言うかもしれません。でも、聖書を見ると私たちの加害者的な罪を贖う十字架の他にもう1つの十字架が提示されています。Ⅱコリント5:19-6:1「 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」ここで言われているテーマは、神様と人間との和解です。和解するために、神さまの方から私たちに懇願してくださっています。多くのクリスチャンは、神様は和解を強制していると思っています。「和解しないとひどいことが起こる」と脅迫している。そうではありません。懇願というのは、神さまの方から「和解してはくれまいか」と乞い願うことです。つまり、「罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました」。「これを対価にもう和解しては、くれはしまいか」という神様の懇願です。

そして、この和解を神の方から懇願してくださるというこの原則は、神と人との和解を土台として、人と人との和解にも適用される教えになっていきます。それがエペソ人への手紙です。エペソ2:14-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」。このところは文脈から見ると、ユダヤ人と異邦人が十字架によって和解すべきことを語っています。「神さまがキリストを十字架にかけたので、この命によって、もう怒りの矛を納めてくれはしまいか」という和解を勧めています。私たちも「あいつ」を赦すためには代価が必要です。ただで赦すことはできません。実は、キリストの十字架は赦せない「あいつ」のためにもあるのです。あいつとは、幼い時の父や母、兄弟かもしれません。学校の友人でしょうか先生でしょうか?あいつのため、もう1本の十字架が立っています。そして、イエス様はあなたにもこう語っておられます。「私の十字架に免じて、あいつを赦すことはできないだろうか?この命に代えて、この命でもう償うので、赦してあげては、くれはしまいか」と、イス様はあなたに懇願をして下さっています。私は李先生の奥様、エリカ先生のこの祈りを聞いたとき、「ああ、もったいないです。赦しますよ」と心の中で告白しました。でも、みなさん、赦すということは、どういう意味でしょう。赦すということは、復讐の権利を放棄するということです。神の義を要求する権利を放棄するということです。ある人たちは、最後の部分を握って離しません。この権利を放棄したら生きてゆけないと思います。しかし、そのため多くの人が精神や肉体を壊しています。そればかりでなく被害者から、加害者になっています。聖書で「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐は私のすることである。私が報いをする」と主は言われます。どうぞ、主が分かってくださり、謝ってくださるのですから、復讐の権利を神さまにお渡ししましょう。

みなさん赦すということは忘れることではありません。赦すということは感情ではなく、意思であり選択です。訴える権利を十字架の対価によって、放棄することです。「主よ、この復讐の権利を私は永遠に放棄いたします」と十字架の足もとに置いた時に、赦すことを始めることができるのです。赦しても当人と仲直りして、関係を取り戻すことがすぐできないかもしれません。でも、怒りを手放したのですから、少しずつ成長に伴って回復できます。そして、最後にエネルギーを変えることです。現代は「環境に優しいクリーンなエネルギーを」と叫ばれています。これまでは「どこかで必ず見返してやる。復讐してやる。この怒りを晴らしてやる」という負のエネルギーでした。こんどは神さまが逆転勝利を与えてくださいます。あなたが苦しんできたことが今度は益になるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。あなたは自己中心的な振る舞いのゆえに、あるいは責任を果たせない人のもとで、世界が壊れる経験をしたかもしれません。でも、それは神さまが長い間、あなたを仕込んでおいてくださったのです。あなたが癒され、解放されたならば、今までのマイナスがプラスに転換されます。あなたには、ある世界に関しては専門的な知識があります。同じような境遇の人を理解し、また解決のステップへと助けるコーチになることが可能です。神さまはあなたを今度は、そのように用いたいのです。それが逆転勝利です。ブレーク・スルーと言っても良いでしょう。ブレーク・スルーとは、今までぶつかっていた壁が壊されて、そこから突き抜けるということです。私はリバイバルはまず、個人から起こると信じています。あなたがブレーク・スルーすることによって、泉から川になって流れていくのです。