2012.6.10「妻たちよ、夫たちよ Ⅰペテロ3:1-7」

3章から、妻たちと夫たちに向けて、教えられています。それでは質問します。妻たちに向けて、何節、使われているでしょうか?1節から6節、6節使われています。夫たちに向けて、何節、使われているでしょうか?7節だけですから、1節です。また、Ⅰテモテ2章8-15節には、男と女へのメッセージが記されています。男性には「男は怒ったりせず、きよい手をあげて祈りなさい」とたった1節だけです。女性には「女はつつましい身なりで、控えめに」で始まり、なんと7節使われています。ペテロは夫が1節に対して、妻は6節、使っています。パウロは男が1節に対して、女性は7節、使っています。なぜでしょう?女性は複雑な生き物だから、6節も7節もいるのです。男性は単純な生き物なので、たった1節で良いのです。隣の方が女性だったら、「あなたは複雑なので、たくさん教えが必要です」とおっしゃってください。

 

1.妻たちよ

 

 Ⅰペテロ3:1-2「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」「同じように」と言われていますので、前からの続きであることがわかります。2章13節から「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と、王や総督、あるいは主人に従うことが勧められています。「不当な苦しみを受けることがあっても、キリストのように耐え忍ぶのですよ」と教えられています。そして、こんどは「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい」と教えられています。男性にとってはものすごく、すばらしいことばですね。本当に金文字にして、家の目立つところに貼りたいところです。しかし、他の聖書はもっと、柔らかい口調で書かれています。リビングバイブルは「妻は夫に歩調を合わせなさい」となっています。JB.フィリップスは「夫に順応しなさい」と訳しています。英国の聖書は「夫の権威を受け入れなさい」と訳しています。ウーマンリブ運動が盛んだった時代、柔らかく訳したのでしょうか?それは、分かりません。でも、「妻は夫に従いなさい」は、聖書が一貫している教えであります。これは、神さまが定めた法則であり、これに従えば祝福を受けるということです。どんな祝福でしょうか?2節には、みことばに従わない夫の例が上げられています。おそらく、彼は未信者でありましょう。みことばに従わないような夫なら、馬鹿にして良いのでしょうか?そうではありません。「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」と約束されています。「神のものとされる」とは、「神に獲得される」という意味です。リビングバイブルは「その敬虔な態度に打たれて、やがては信仰を持つようになるからです」と訳しています。

 北朝鮮の話です。まだ「北鮮」と呼ばれていたときです。あるところに、みことばに従わない夫がいました。妻が教会に行くのを決して許しませんでした。些細なことで、妻を迫害し、打ち叩きました。妻は叩かれながら「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と賛美しました。夫は「うるさい、やめろ!」とさらに強く叩きました。すると妻はさらに大きな声で「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と泣きながら賛美しました。そういうことが数年間か続きました。やがて、朝鮮動乱が起こり、夫は北朝鮮の兵士として出兵しました。そのとき、アメリカ軍が加わって北と戦いました。夫が属していた北の部隊がアメリカ軍に捕らえられました。銃殺刑に処すために、一人ひとり並ばされました。アメリカ軍の隊長が「この中にクリスチャンはいるか。もし、クリスチャンならば許す」と言ったそうです。例の夫が助かりたいあまり、「はい」と手を挙げました。隊長は「クリスチャンだったら、讃美歌を歌えるだろう。一曲歌ってみろ!」と命じました。そのとき妻が泣きながら賛美していた歌を思い出しました。「主よ、みもとに近づかん・・・」。その先の歌詞が分かりません。でも、どうせハングルだから大丈夫だろうと、適当に歌詞を作って賛美しました。そうすると、隊長は「よしわかった」と言って、銃殺刑を免除してくれました。それで助かった夫は、戦争が終ってからクリスチャンになり、教会の長老になったそうです。妻によって助けられたわけです。松戸に岡野先生が牧会している教会があります。岡野先生は「キリストの弟子とは、みことばのとおりに生きることである」と教えています。たとえば、未信者の夫を持つ、クリスチャンの妻に対して、どのように勧めるでしょう。もし、夫から「日曜日の礼拝に行くな!」と言われたとします。聖書は「妻は夫に従いなさい」と書いてあるので、月曜日とか、水曜日の礼拝に行きます。これまでは、神さまを信じない夫を見下していました。「教会に行きましょう!」と誘っても決して来ることはありませんでした。しかし、彼女はみことばのとおり、夫を敬い、夫に仕えました。数ヶ月たちました。夫は何と言ったでしょうか?「妻をこんなに変えた教会が、どんな教会か一度行ってみたい」と言ったそうです。それでご主人は教会に来て、クリスチャンになったそうです。松戸の教会に行くと、そういうカップルがたくさんおられます。クリスチャンになると、真理がわかってきますので、夫がだんだん馬鹿で無能に見えてくるかもしれません。いつしか夫を見下していることが態度にも出てくるでしょう。そうすると、「教会に行きましょう」と誘っても、絶対に行きません。なぜなら、そんな妻に負けたくないからです。最後の抵抗は、教会に行かないこと、信仰を持たないことです。でも、妻が夫を敬い、その無言のふるまいを彼らが見るときに変わるのです。

 次に、みことばは何と教えているのでしょうか?Ⅰペテロ3:3-4「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」この世では、どんな髪型をするのか、どんなアクセサリーをつけるのか、どんな衣服を着るのか、外面的なものに目が行きます。教会から亀有駅まで行く途中、一体、いくつの美容院があるでしょうか?たまに銀座に行くときがありますが、大きな貴金属店や洋服店が立ち並んでいます。何も、お化粧したり、着飾ることが悪いとは言っていません。「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」と言われています。女性の最も麗しい飾りとは何でしょうか?ジュエル、マスカラ、ネイル、あるいはストッキングでもありません。内面からにじみ出てくる「柔和で穏やかな霊」です。これが一番の飾りであります。英語の聖書は、meek and quiet、「謙遜で静か」あるいはcalm and gentle、「穏やかで優しい」とも訳されています。逆な言い方をすると、ヒステリーであったり、怒りっぽくないということです。たまに、ひとこと言うと、10倍くらいに返してくる女性がいます。箴言21:9「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」と書かれています。「柔和で穏やかな霊」と言いますので、これは御霊の実、聖霊がその人に与える人格的なものです。生まれつき穏やかで控え目の人もいます。しかし、これは聖霊が与える人格的な実であります。心の中の隠れた人柄こそが大事であり、神の御前で価値ある飾りなのです。

 ペテロは5-6節に、その代表的な人物をあげています。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」このみことばを読んで、「ああ、むかしの話でしょう?今は違うわ!」と思うでしょうか?テレビで、「男性は得だ。女性に生まれて損している」アンケート調査がありました。それを道行く女性たちに聞いてみました。7-8割くらいの女性が「そう思う」と答えました。確かに男性は素顔で良いし、横暴な振る舞いが許される場合があります。しかし、男性が得しているか、女性が得しているか議論しても始まりません。もう、女性に生まれたのだったら、これは神さまのみ旨として受け入れるしかありません。ペテロは女性に生まれたなら、「サラの子どもとなりなさい」と教えています。サラはアブラハムを主と呼んで従ったと書いてあります。主とは主人と言う意味です。現代は、自分の夫を「主人」と呼ぶでしょうか?あだ名で呼んだり、よくて「旦那」でしょうか?もし、夫を「主人」と呼ぶなら、自分が奴隷みたいに感じるかもしれません。ペテロはサラのことをとっても称賛していますが、創世記を読むとサラはとっても人間的です。自分に子どもが与えられないので、そばめのところに入りなさいと勧めたのは、サラです。そばめに子どもが生まれて、そばめの態度が大きくなりました。サラはイヤになり、今度はアブラハムに「そばめと子どもを追い出してくれ」と頼みました。では、サラがアブラハムを主と呼んだ、その背景はどのようなものだったのでしょうか?創世記18:12-13それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。」サラはアブラハムを確かに「主人」と呼んでいます。しかし、この背景を見ると、「サラは自分も年だし、夫も年だよ。子どもなんか産めませんよ」という不信仰があります。その中で「それに主人も年寄りで」と呼んだのです。尊敬のことばの中に、皮肉が2割くらい入っているのではないでしょうか?はっきり言うと、聖書の基準はその程度なのです。その程度で、敬虔な婦人と呼ばれるのです。でも、前半の教えは、心にとめるべきです。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。柔和で穏やかな霊という朽ちることのない心の中の隠れた人がらを飾りする」ということです。

 

2.夫たちよ

 

 Ⅰペテロ3:7「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」夫に対してはたった1節です。なぜでしょう?男は単純だからです。もし、隣の人が男性だったら「あなたは単純なんですね」とおっしゃってください。そうです。男は単純なんです。どういう意味で単純なのでしょうか?まず、脳のしくみが単純です。女性は左脳と右脳を結ぶ、海馬というのが男性よりも太いそうです。簡単に言うと、左脳と右脳をつなぐ情報のパイプが太いということです。だから、一度でたくさんの情報が、右から左、左から右へと移動できるということです。女性は一度で複数のことが考えられますし、一度で複数のことが可能です。テレビを見ながら、洗濯物をたたみ、子どもと会話ができます。しかし、欠点は一度にたくさんの情報が飛び交うので、パニックになりやすいということです。男性の場合は、左脳と右脳を結ぶ、海馬が細いので、一回で一つのことしかできません。数年前、朝、この礼拝堂で祈っているときです。ガシャンと自転車がこける音がしました。窓から下をのぞくと、男性が携帯を握り締めながら、倒れていました。おそらく、携帯をしながら運転していたので、何かに躓いたのでしょう。男性は一度で複数のことを行うのは無理なのです。魚を焼いて、味噌汁の鍋をかける。そして、フライパンで何かを揚げているとします。味噌汁とフライパンに集中しています。「あれ?魚焼いていたんだ!」と気づいた時は、魚が黒こげということがよくあります。しかし、男性の長所は、1つのことに集中できるということです。そして、一度にたくさんの情報が飛び交わないので、パニックにもなりにくいということです。目の前の1つのことをこなしていくということです。

 そういう脳内の構造はさておき、みことばを見たいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」ここで、第一に気づくべきことは「妻が女性である」ということです。長年。連れ添った人は、「妻が女性であるということを」と認めるべきです。その次は「自分よりも弱い器だということをわきまえて」とあります。「えー?本当に弱いの?」という疑問が起こるかもしれません。「戦後、靴下と何とかは強くなった」と言われてしばらく経ちます。韓国は儒教の国で男性社会でした。しかし、最近は立場が逆転しているようです。夫が家に入れてもらえなくて、ドアの外で泣いている映像を見たことがあります。日本はどうでしょうか?女性が社会に進出していますので、男性を頼らなくても生きて生ける時代です。そして、職場における男女平等が叫ばれていますので、女性が弱いとは思えない時代かもしれません。女性の方も「男になんか負けないぞ」と、それをエネルギーにしています。しかし、聖書は永遠の書物ですので、その真理はどの時代にも通用します。ここでは「自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」と書かれています。弱い器というのは、長生きするかどうかという意味ではありません。女性は、男性と比べて肉体的に強健ではないということです。どんな時に、「夫は強い器かな?」と自覚するでしょう。まずは、ビンのキャップを開けるときでしょうか?それから、高い棚から、ミキサーなどを降ろすときでしょうか?アメリカでは、レディス・ファーストと言われ、車のドアを開けてあげたり、階段を下りるときは手を差し伸べるようです。とにかく力仕事は男性がやるものだと言うことでしょう。インドネシアのエディ・レオ師からこんな話を聞いたことがあります。あるお家が古くなって、雨漏りがしたそうです。奥さんが、「あなた雨漏り直して」と言いました。夫は「わかったよ」と言ってテレビを見ていました。また、いつの日か雨が降りました。奥さんが「あなた雨漏りを直してよ」と言いました。夫は「あ、わかったよ」と返事はしましたが、そのままでした。とうとう、奥さんが雨漏りを直すために、屋根に上りました。夫はその日も、下でくつろいでいました。ガターンという大きな音がしました。はしごと一緒に、奥さんが屋根から落ちたのです。ひどく腰を打って、歩けなくなりました。その日、以来、奥さんは車椅子生活になりました。ご主人はずっと奥さんのために、車椅子を押すことになりました。

 3:7「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」その後、何と書いてあるでしょうか?「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」とあります。もし、夫が妻に対して「いのちの恵みをとも受け継ぐ者として尊敬しない」ならどうなるでしょう?そうです。いろんなことによって、祈ることができなくなるということです。韓国のチョー・ヨンギ牧師の証です。チョー先生の奥様は音楽家でプライドの高い人でした。それで、チョー先生は、奥様のささいな欠点を攻撃しました。「どかん」とではなく、針で刺すように、あっちこっちと刺しました。すると、奥様はすっかり自信をなくしてしまいました。チョー先生はそれで幸せになったでしょうか?家庭生活どころか、牧会にも支障をきたしたそうです。もう、神さまの前に祈ることもできません。それで、チョー先生は悔い改めて、奥様のことを尊敬し、小さなことでもほめるようにしたそうです。食卓の椅子をそろえただけでも、「ありがとう」とほめました。すると、奥様はだんだん自信を取り戻したそうです。ダムが崩壊するのは、蟻の穴のように小さなところからだそうです。私たちは小さいことがらを無視してはいけません。私も時々、講壇から家内のことを小馬鹿にするような発言をしてしまいます。かなり前ですが、「先生は奥様の悪口を言っても大丈夫なのですか?私にはとてもできません」と言われました。そのときは、「あのくらい平気だ」と思っていました。しかし、その方は他の教会に転会してしまいました。ひょっとしたら躓いたのかもしれません。今、思うと、牧師が妻のことを批判するということは、耐えられなかったのかもしれません。日本では自分の妻のことを「愚妻」とか言ったりします。外国のように、自分の妻を人前では決してほめません。私も古い人間の中に入っていますが、そういう文化の中で育ちました。しかし、悔い改めなければなりません。いや、この際、悔い改めたいと思います。講壇で、あるいは人々の前で、妻を見下げるような悪口は言わないようにしたいと思います。どうか、私のためにもお祈りください。

エペソ5:28「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」とあります。このみことばには、とても思い出があります。座間キリスト教会にいた頃、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。教会が大好きで、いろんな集会にも出るし、掃除もよくしてくれました。あるとき、「みおさんは教会に泊りたい。大川先生の娘になりたい」と言いました。「え?どうしたのかな?」と思って聞いたら、ご主人さんからとても迫害されてるようでした。数年後、高橋みおさんがお風呂場で倒れ、そのまま天に召されてしまいました。教会でご葬儀をすることになりましたが、準備をしているとき、そのご主人が教会にやってきました。そして、私たちスタッフにしみじみとこのように語ってくれました。「わしぁ、妻に悪いことをした。聖書に、『自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである』と書いてある。こんなことが書いてあるのかとわしぁ、びっくりした。わしぁ、妻を長い間、いじめてきた。ということは、自分自身を愛さなかったんじゃ。」と、しみじみと告白されました。それから、ご主人は洗礼を受けられました。その後、長男とその奥様、お嬢様と洗礼を受けられました。「大正に生まれた方が、よく悔い改めることができたなー」と思いました。それで、そのおじいちゃんが言われた「妻を愛することは自分自身を愛することである」というみことばを忘れることができません。私の父は酒を飲んでは、母をよくなぐっていました。母は、私たち子どもたちの前で父の悪口を言っていました。私は、良い模範を見て育ちませんでした。そのせいではありませんが、「妻に負けちゃならない。勝たなければならない。やっつけてなんぼ」みたいなところがありました。せっかくクリスチャンになったのですから、このみことばのとおり生きたいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」みなさんの中には、「今は一人です」「まだ、一人です」とおしゃる方もおられるかもしれません。どうぞ、そういう方も、神さまからの心の癒しと希望をいただきましょう。