2011.03.20 みことばを実行せよ ヤコブ1:22-27

みことばを実行すること、これこそがヤコブ書のテーマです。本当に耳が痛いです。私も、神さまから、「これだぞ!」と言われているものがあります。それはマタイ28:19「行って弟子を作りなさい」です。これは牧師にとって、イエス様からの最大の使命だと思います。しかし、「いやー」と言いながら、スルーしている自分がいます。ちなみに、スルーというのは、聞き流すということです。少し前にお笑いの人が、「右から来たものを左に受け流す」という歌がありました。これが「スルー」をするということです。どうぞ、きょう私がお話する聖書からのメッセージをスルーしないで、心に受け止め、しっかり実行する者となりたいと思います。

1.みことばを実行する人になる

ヤコブ122-24「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」日本語では良くわかりませんが、英語やギリシャ語の聖書は、おどろくような表現がなされています。「みことばを実行する人」は、doers「行う人々」となっています。一方、「ただ聞くだけの者」は、hearers「聞く人々」となっています。23、24、25節を読んでいくと、やはり、doer「行う人」とhearer「聞く人」が交互に出てきます。当時、どのように言われていたかわかりませんが、教会で「行う人」と「聞く人」と二種類に分けていた可能性があります。ヤコブは教会の人々を見回して、「あなたは行なう人ですね」「あなたは聞く人ですね」と言っていたかもしれません。「うぁー」、とても厳しい感じがします。今の時間は、私が「話す人」で、みなさん全員が「聞く人」になっています。しかし、礼拝が終ると、ある人たちは「行う人々」になり、またある人は「聞く人々」になります。「聞く人々」の中に牧師が入っている可能性もあります。牧師は人に語って、「ああしろ」「こうしろ」と指差します。しかし、三本の指は「あなたは行っていますか?」と自分に向かってきます。ヤコブ書は牧師自身にとっても、厳しい書物です。できれば、スルーしたい書物です。私はこの教会で、満23年間、語っていますが、ヤコブ書全部からこのように語るのは始めてです。

ところで、ヤコブはイエス様の肉の兄弟ですが、イエス様の教えをやっぱり聞いたことがあると思います。だから、どことなく、イエス様のメッセージに似ています。私はこの箇所を読んでいて、マタイ7章の最後の部分を思い浮かべました。マタイ5章から7章までは、イエス様の教えをまとめた、山上の説教になっています。イエス様はその説教を終えるときに語ったたとえ話があります。マタイ724-27「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」イエス様のところに、数えきれない人たちが集まりました。みんな「なんと権威ある教えだろうか!いままで聞いたこともない!すっげー」と感嘆しました。彼らはイエス様の教えを聞くには聞いたのです。でも、イエス様はご存知でした。この聴衆の中には、聞いて行う人「doer」と聞くだけの人「hearer」がいることを。このたとえ話はしばしば誤解されてきました。イエス様を信じる人は岩の上の人生で、イエス様を信じない人は砂の上の人生であるみたいに思われてきました。でも、よく見るとそうではありません。イエス様のことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人なのです。一方、イエス様のことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人なのです。両者ともイエス様のことばを聞いています。決定的な違いは、イエス様のことばを行う者になっているか、あるいは聞いても行わない者になっているか、どちらかです。ここでも、二種類の人たちがいます。行う者と行わない者です。驚くべきことは、イエス様がヤコブのように、会衆をたった2つに分けていることです。「そんなに人を単純に分けて良いのでしょうか!」と言いたくなります。中には半分実行している人だっているでしょう。7割くらい実行している人はどうなるのでしょうか?

私はここではっきり申し上げたいことがあります。それは、私にも実際、起こったことです。私は24歳の時、はじめて教会に来ました。そして、大川牧師のメッセージを聞きました。とても感動しました。人生どのように生きるべきか、たくさんの指針をいただきました。大川牧師のメッセージテープが全国から注文が来ていました。当時ですが1週間、100本はダビングしていたと思います。いつか、私は大川牧師のメッセージをテープから書き起こす人になり、大きなバインダー2つできました。その頃から、私はテープお越しをして、人の教えを貯める人になっていたんですね。今も全く、同じようなことをしています。みなさんの中にも、あるいは、「鈴木牧師のメッセージはためになるからなー、賛美には遅れても、メッセージだけは聞きたい」という人がいらっしゃるかもしれません。ありがとうございます。でも、「ためになる話」はどこに行っても聞くことができます。世の中の講演会に行けば、お金はかかりますが、すばらしい講師のお話を聞くことができます。でも、講演会と礼拝の説教の違いは何でしょうか?私はずっと、大川牧師のメッセージを聞いて、それを自分の中に取り入れていきました。でも、あるとき、私の中に逆転が起こりました。「もし、聖書のみことばが、神のことばであって、真実であるなら、すべて聞き従うべきではないだろうか?この部分は信じられるけど、この部分は信じられない。この部分は従うことができるけれど、この部分は従うことができない。それは、矛盾したことではないだろうか?」と思いました。「ためになる話を聞く」、あるいはためになる教えを聖書からいただく」というのは、自分が主体で、神さまの真理は奴隷状態です。自分の主観で、どんどん切られていくからです。榎本保郎先生がおっしゃっていました。「私たちが一旦、聖書を神のことばとして認めたら、主従が逆転し、私たちが神のことばに従うしかない。私たちがみことばを切り刻むのではなく、私たちがみことばによって切り刻まれるべきなのだ」と。

そうです。ヤコブがdoer「行う人」とhearer「聞くだけの人」に分けました。イエス様も「行う者」と「行わない者」とに分けました。もし、みなさんが「ためになる話を聞く」程度であれば、「聞くだけの人」であり「行わない者」になるのです。日本人の中にも、聖書を読んでいる人がたくさんいるでしょう。でも、自分のために神の真理や導きを求めて読むとしたら、やはり、「聞くだけの人」であり「行わない者」になるのです。決定的な違いは何でしょう?それは自分が主人になっていて、「これは従えるけど、これは従えない」と振り分けているからです。では、「みことばを行う人」「みことばを行う者」とはどういう人なのでしょうか?それは、「あなたのみことばは真実であることを心から認めます。だから、私はあなたのみことば実行できる、できないに関わらず従います」と決断した人なのです。その人は王座を降りて、真理のみことばを王様にし、「私はあなたに従います」としもべになった人です。どうでしょう?あなたはテレビのようなコメンティターでいたいでしょうか?「それは違う、こうでしょう。そうじゃない」。そのように神さまのみことばを切る人です。そういう人は、ずっとこれから先も、「聞くだけの人」であり「行わない者」です。そうではなく、「みことばを行う人」になりましょう。どうすれば良いのでしょう。心の王座を真理のみことばに明け渡し、このように告白します。「聖書の創世記から黙示録まで、神さまのことばであることを認めます。実行不可能なこと、信じられないような奇跡も、矛盾と思われるような箇所も信じます。真理である神さまのことばに従います。アーメン。」そうれば、あなたは「聞くだけの人」ではなく、「行なう人」の仲間入りをすることになります。イエス様は「みことばを実行する人」を大歓迎しておられます。

2.みことばを実行する人の祝福

23節以降に、みことばを実行する人と実行しない人の違いがはっきりと記されています。みことばを聞いても行わないなら、生まれつきの顔のままだということです。聖書で「生まれつき」というのはどういう人を言っているでしょうか?Ⅰコリント2章に「生まれながらの人間」と記されています。Ⅰコリント214「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」生まれながらの人とは、イエス様を信じていない人、新生していない人です。人は、イエス様を信じると霊的に生まれ変わります。それから、みことばの乳を飲んで、霊的に成長していきます。やがて堅い食物である義の教えもいただけるようになります。しかし、生まれながらの人は、神さまの教えが愚かなことに思えます。だから、その教えを実行しません。そうすると、やはり、生まれつきの顔のままでいることになります。私たちは「生まれつきの顔」と言われても、「顔は1つだろう?他の顔があるのだろうか?」と思います。確かに、鏡を見ると見慣れた自分の顔しか写っていません。このごろは、「ああ、大分、年を取っちゃったなー」と嫌になります。しかし、言い訳するわけではありませんが、自分自身の内面の顔、内面の姿というのがあります。これは本当に若くて、38歳です。クリスチャンなら、実年齢から20歳は引けるんじゃないかと思います。それでは、そんな根拠は聖書のどこにあるのでしょうか?Ⅱコリント317-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント416「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」アーメン。神さまのもとには私たちの内なる人を映す鏡があります。おそらく、私たちは麗しい姿に変えられていると信じます。そして、肉体を捨てて、イエス様のところに行ったとき、「ああ、やっぱり本当だった」と自分の姿を見て驚くでしょう。外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされているのです、アーメン。

でも、私たちはだまっていて、内なる人が成長するわけではありません。神さまと交わり、みことばを実行する人になってこそであります。ヤコブ1:25「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」ヤコブは「完全な律法」あるいは「自由の律法」を一心に見つめて離れないように勧めています。そうすれば、みことばを行ない、成長することができます。私たちが、みことばを行うときに、何が障害になるのでしょうか?それは律法主義です。「私はみことばに従わなければならない」「私はみことばを実行しなければならない」と考えたならどうなるでしょう。たとえば、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めを受けたとします。そして、その人が「ああ、私は隣人を愛さなければならない」と実行しようとします。しかし、すぐ困難を覚えます。聖書には戒めや命令がいっぱいあります。頭ではそれらは正しいと分かります。しかし、実行しようとすると、妨げが入ります。だれが妨げるのでしょうか?自分自身が妨げるのです。それを肉の働きと言います。そのことはローマ7章でパウロが説明しています。ローマ7:7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。ロ-マ7:18-20「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」。みことば、つまり律法に対して、阻むのは自分の中にある肉です。「しなさい」と言われると「したくないし」、「してはいけません」と言われると「したくなります」。律法主義とは自分の行ないによって神の義を得ようとすることです。とても立派なように見えますが、大変な生き方です。せっかく恵みによってクリスチャンになったのに、多くの人たちは、肉によって仕上げようとしています。

なぜ、ヤコブが「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、事を実行する人になります」と言ったのでしょうか?完全な律法と不完全な律法があるのでしょうか?あるいは不自由な律法と自由な律法とあるのでしょうか?律法は1つです。問題は、どのように私たちが読むかです。Ⅱコリント3章に「文字は人を殺し、御霊は生かすからである」と書いてあります。当時、古い契約は石の板に書かれました。古い契約が朗読されると、人の心におおいがかけられます。おそらく、それを聞いた人々は「守りたくない、嫌だ」と思うのでしょう。そうではなく、人が主の御霊に向くならばどうでしょうか?同じ律法ではありますが、心のおおいが取り除かれます。新しい契約に仕える私たちが旧約の人たちと違います。第一にイエス・キリストが律法を全うしてくれたので、私たちは律法の呪いから解放されているということです。もう、律法の処罰は受けなくて良いのです。律法を守って神さまから受け入れられる必要もありません。なぜなら、御子イエス様によって神さまは満足されたからです。もうひとつは、イエス様を信じることによって私たちの霊が生まれ変わり、石ではなく御霊が私たちに教えてくださるのです。そして、私たちは御霊により頼むなら、御霊がみことばを行える力をくださるのです。もはや、律法は守らなければ「恐いぞ、罰せられるぞ」というものではありません。むしろ、自由の律法なのです。律法を守っても、守らなくても神さまは私たちを愛して、受け入れていてくださるのです。私たちの肉で神さまを喜せることはできないし、全く不要なのです。そうすると、私たちは安心して、喜んで律法を守りたくなります。私たちが神さまを愛しているからです。

この世の中の多くのものは律法主義に成り立っています。学校ではどうでしょうか?廊下を走ってはいけません。遅刻してはいけません。私語を謹んで先生の教えを聞きなさい。60点以上取らなければ不合格です。「あれだめ、これだめ」「これしなさい、あれしなさい」。社会に出ても同じです。そうすると私たちの肉が反応します。ある人は反抗します。しかし、ある人は自分の力でがんばって、その標準に達しようとします。前者は律法に反発し、後者は律法主義で生きる人です。この両者がクリスチャンになるとどうなるでしょうか?「ああ、神さまを信じるともっと守るべきことが多くなるのか、まっぴらごめんだ」と思うでしょう。しかし、ある人は「よおし、私の真面目さと努力によって、神さまからの好意と栄誉を得よう」と頑張るでしょう。そして、ある人は直接献身し、牧師になるかもしれません。しかし、最近、牧師の中でも鬱や燃え尽きが多いのはなぜでしょう?律法主義で生きているからです。恵みによってクリスチャンになったけれど、信仰生活は戒めを守り、真面目に努力するしかない。しかし、それは肉でやっているのです。肉とは生まれつきの力や努力です。ある場合は、とっても美しく見えるかもしれません。でも、肉でやっている人はできない人をさばきます。そして、できる自分を誇るのです。クリスチャン生活は、この世の人たちの生き方とは全く違います。真面目さとか、努力がいらないと言うのではありません。解決は御霊によって歩むということです。私たちの内におられるキリスト、聖霊がみことばを実行させてくださるのです。私たちは「イエス様、一緒にみことばを行ないましょう」とお願いすれば良いのです。イエス・キリストは仲介者として、新しい契約を結んでくださいました。それだけではありません。私たちがみことばを読み、アーメン、そうですと同意します。イエス様を愛する人は、このみことばに留まります。そして、イエス様と一緒にみことばを行なうのです。これが本当の信仰生活です。

『恵みによる歩み』という本があります。今から、5,6年前に出会うことができました。それはでは律法主義ではありませんでしたが、律法で歩んだり、恵みで歩んだり、チグハグな信仰生活でした。なぜなら、律法がなければ人はなまけてしまうと思ったからです。「聖日礼拝厳守」「什一献金をする」「伝道をする」「不品行をしない」「悪いことばを発しない」「人を赦す」「よく祈る」「毎日、聖書を読む」「罪を犯したらすぐ悔い改める」・・・私たちの周りにはたくさんの戒めがあります。みんな正しいものです。教会では洗礼を受ける前、1つ1つを学んで、最後に「これらを守ります」と誓約書にサインをさせられるそうです。人は信じるだけで救われるはずなのに、救われた後は大変だなーと思います。もちろん、それら1つ1つはすばらしいものであり、実行すべき内容です。でも、もっと大切なことは、神さまは私たちが何もしなくても愛しておられます。「聖日礼拝を守らなくても、献金をしていなくても、伝道していなくても、不品行をしても、悪いことばを発しても、人を赦すことができなくても、祈らなくても、聖書を読まなくても」神さまは私たちを愛しています。そして、イエス・キリストにあって神さまを喜ばせる必要はありません。そして、最も大切なことは神さまの愛をいただいたからには、こんどは神さまを愛する者となるということです。逆に、そうしなくても良いと言われると、そうしたくなるのです。でも、自分の肉、つまり自分の力や行ないではありません。神の霊、聖霊によってそうさせていただくということです。私は神様の器です。実際にやらせてくださるのは、イエス様であり、聖霊なんです。もし、良いことすばらしいことができたとしたら、その栄光は神さまのものです。ハレルヤ!キリストにあって、律法は変化しました。ヤコブ125「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。