2012.6.17「兄弟愛を示し Ⅰペテロ3:8-12」

「最後に、もうひとことだけ」と言いながら、なかなか終らない人がいます。パウロもそうですが、ペテロも「最後に申します」と言いながらも、すぐ終っていません。ある英語の聖書は、「最後に」ではなく「要するに」というふうに訳しています。「つまり、これが大事なことですよ」と言うとき、「最後に」という表現を用いているようです。ペテロが「最後に申します」と言っている内容は、「神の国の価値観で生活しなさい」という勧めであります。もし、こういうことがなされたならば、争いや犯罪、戦争すら起こらないでしょう。ペテロは「この世を変える前に、あなたがたから実行しなさい」と勧めています。「神さまのみこころは何か」と、問う人がいますが、これほどはっきりしているものもないと思います。

 

1.あれ

 

 なぜ、「あれ」と言うかと申しますと、英語の聖書が、beとなっているからです。これは行いというよりも心の状態です。この世は、何をするかという行い、つまりdoがすべてです。しかし、聖書はその前に、心の状態がどうあるべきかを教えています。心の状態は外側からは見えません。しかし、それがことばや行動として出てきます。心の状態が正しければ、正しい行動が後から着いてくるからです。つまり、be「どうあるべきか」は、do「何をすべきか」よりも重要だということです。ハレルヤ!このことを1つ学んだだけでも、何か黒い霧が「ぱっ」と晴れた気がしないでしょうか?ペテロは5つのbe「あれ」を説いています。3章8節を見るとどうでしょうか?「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜でありなさい」と、5つ出てきます。もしも、5点満点で自分自身をチェックするならば、どのくらいの点数になるでしょうか?1つずつ説明しますので、どうぞ、ご自分でチェックしてみてください。

 第一は「心を一つにし」です。心を一つにするとは、和合することであるとギリシャ語の辞典に書いてありました。詩篇133:1-2「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。」とあります。私たちは生身では一つになることは決してできません。罪から贖われて、神さまのもとに集まるときに一つになることができるのです。あくまでも、「キリストにあって一つです」。教会同士も一つになることができません。しかし、どんな教会であっても、異端でない限りは「イエスは主である」と告白することができます。イエス様の周りにいた弟子たちも、みんな違っていました。それぞれ衝突するような考えや性格を持っていました。しかし、彼らはイエス様のもとに集まって、和合することの大切さを学んだのです。イエス様から学んだ初代教会はどうだったでしょうか?使徒2:46「毎日、こころを一つにして宮で集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。私たちが一つになるならば、特に伝道をしなくても、人々が集まって来て、救われるのです。

 第二は「同情し合う」ということです。英語の聖書はfeeling感情と訳しています。「感情を1つにする」ということができるのでしょうか?これは難しいと思います。男性は女性と比べて、感情をあまり現しません。人の前で、涙を流すことはほとんどないでしょう。しかし、クリスチャンになると、ぐっと感情が豊かになり、涙もろくなることも確かです。それでも、感情というのはそれぞれ違うと思います。では、ペテロは、どのような感情を言っているのでしょうか?ローマ12:15「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」とあります。喜びの中に意志も入っていますが、感情も多分に入っています。赤ちゃんや子どもはよく笑うし、喜びます。もちろん、泣いたり、怒ったりもします。多くの場合は、そういう感情は自分のことであります。自分に良いことがあれば喜ぶし、自分がイヤな思いをすると泣きます。しかし、「同情し合い」ということは、他の人の感情を分かち合うということです。兄弟姉妹の喜びを自分の喜びとする。兄弟姉妹の悲しみを自分の悲しみとすることです。この同情心が、私たちから外の世界に広がったら、すばらしいのではないでしょうか?

 第三は「兄弟愛を示し」です。ギリシャ語の聖書はフィラデルフォイとなっています。アメリカの東部に似ている都市名があります。これは、兄弟姉妹に対する愛、つまり、キリスト者相互間の愛です。聖書には「互いに愛し合いなさい」といたるところで、命じられていますが、多くの場合は、兄弟姉妹に対する愛を指しています。ギリシャ語には「人間愛」「博愛」という言葉が他にあります。どちらも、フィレオー「友を愛する」という語源から来ています。しかし、聖書は「人間愛」「博愛」をほとんど語っていません。宗教改革と同じ時代にヒューマニズムも現れました。その時代、キリスト者でありながら、ヒューマニストがたくさんいました。なぜ、ヒューマニズムが現れたのでしょう?それは、カトリック教会があまりにも人間性を否定し、抑圧したからです。だから、その反動として、人間性を取り戻す意味で、ヒューマニズムが起こったのです。それでも、私は、聖書はヒューマニズムを語っていないと思います。なぜなら、私たちは神さまを愛する愛がないと、隣人も愛せないからです。私たちはキリストを信じて、父なる神の子どもとなります。その次に、聖霊によって神の愛が注がれ、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。でも、本当に神さまを愛しているかどうかは、兄弟愛があるかどうかで分かります。

 第四は「あわれみ深く」です。ギリシャ語は、内臓と関係があります。イエス様が人々をご覧になったとき、「深くあわれまれた」と福音書に書いてあります。あわれみというのは、切実な同情心であります。英語ではcompassionate共に苦しみとなっています。子どもが怪我や病気で、手術をする場合、母親はcompassionate共に苦しむのではないでしょうか。この間、中学の運動会があり、家内が見に行きました。私は、グラウンドが見えづらいので、すぐ帰ってきました。有悟が走るとき、家内の心臓がドキドキしたそうです。子どもの緊張感を母親が感じるのかもしれません。また、聖書では「あわれみ」という言葉と対比することばに「さばき」があります。預言者的な賜物を持っている人は、すぐ、人をさばきます。「ここが足りない、ここが変」とか言って、さばきます。確かに、そういう人はたくさんいるかもしれません。しかし、イエス様の心のメガネは「あわれみ」でした。どうぞ、「あわれみ」というメガネをかけましょう。そうすると、「ああ、こういうわけで、この人はこういう言動をとらざるを得ないんだなー」と深く同情することができるでしょう。不思議なことに、人はさばかれていないということが分かると、心を開き、自ら変わろうとすることも確かです。イエス様の周りにいた人たちは、さばかれないで、受け入れられていることがわかっていたので、喜んで変わろうとしたのです。

 第五は「謙遜であれ」です。謙遜は「心の卑しい、心の低い、卑屈な」という意味があります。ある程度の能力があり、自信にあふれた人は謙遜になるのは難しいでしょう。口では「いや、いや」と言いながら、高慢さを隠します。自信を持つことは良いのですが、自尊心やうぬぼれになりやすいことも確かです。イエス様は神の御子ですから、何でもできました。しかし、イエス様はいつでも謙遜に歩まれました。謙遜とは「自分には能力がない」「自分は何者でもない」と言うことなのでしょうか?謙遜とはどこから来るのでしょうか?そうです。父なる神さまがくださったから、そういう能力や力があるのです。もし、神さまがそれらを取り上げたならば、一瞬にしてなくなるでしょう。旧約聖書のヨブは、一瞬にして10人の子どもたち、財産、名誉、健康まで取られました。謙遜というのは、「すべては神さまによるものです。神さまなしでは何1つできません」という思いから来るのではないでしょうか。

 「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜であれ」を5つの「あれ」をご提示しました。残念ながら、5つの「あれ」は、この世では、そんなに価値あるものとは見られないでしょう。この世では何ができるか、「行い」がすべてです。しかし、私たちはこの原則を忘れてはいけません。do「何をすべきか」よりも、be「どうあるべきか」が、重要だということです。これら5つの「あれ」は、この世ではなく、神の国の価値観です。では、この世には通用しないし、役にも立たないのでしょうか?そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。2000年前から、イエス様と一緒に神の国が来ているのです。やがて、この世は終わり、神の国がすべてを支配するでしょう。と言うことは、私たちの生き方、私たちの価値観の方が、永遠に続くのです。5つの「あれ」を大事にしましょう。

 

2.するな

 

 Ⅰペテロ3:9「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」原文は「メー」という、否定で始まります。「メー」は、禁止を表す命令で用いられることばです。母親が小さな子どもに言うのと似ています。ペテロはどんなことを「するな」と命じているのでしょうか?まず、「悪をもって悪に報いるな」とあります。リビングバイブルは「害を受けたら」と訳しています。日常生活において、悪を受けたり、害を受けることがあります。私たちはそれに対して、仕返ししたくなります。すぐその場ではしなくても、ちゃんと覚えていて、いつかその時が来たら仕返しするのではないでしょうか?子どものときもよく、口げんかしたものでした。相手は悪いことを言うと、こっちも負けじと仕返しをします。相手が叩くと、こっちも叩き返します。そして、だんだん争いが増してきます。やったらやり返す。これが発展して戦争になるのです。しかし、聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じています。キリスト教国と言われているアメリカはどうでしょうか?ベトナム戦争は古いですが、最近はアフガニスタン紛争とイラク戦争がありました。テロリストは確かに問題ですが、アメリカは報復爆撃をしました。そういう意味では、アメリカはもはやキリスト教国ではありません。離婚率や犯罪率もとても高い国です。裁判がとても多く、訴訟大国とも呼ばれています。聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じているのに、現実はそうではありません。これはすべてのクリスチャンに言えることですが、頭で信じてはいても、実際の生活に適用されていないということです。アメリカは西部開拓のときから、銃社会で「やったら、やり返す」という考えが染み込んでいます。それが要塞のようになっていて、「正義のために戦うしかない」となるのです。同じように、この世の考えが、聖書の考えよりも強いということが、よくあります。聖書がそう言ったとしても、「これは別の問題だ」と言うのです。私たちの中にも、「これは別の問題だ」と排除しているものはないでしょうか?ちなみに、「デザートは別腹」と言って食べる人がいますが、それは嘘です。同じ腹に入ります。

 もう1つは、「侮辱をもって侮辱に報いず」であります。侮辱とは、「ののしる、そしる、悪口を言う」という、言葉に関するものです。10節に「舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」とあるのはそのためです。子どものときは、友だちとよく口喧嘩したものです。「お前の母さんでべそ」とか言ったものです。「侮辱には侮辱を」が体に染み付いています。ことばというのは本当に破壊力があります。ヤコブ書には「舌は火であり、死の毒に満ちている」と書いてあります。私たちは「ことばというものは、音の振動なので、たいしたことがない」と過少評価しがちです。しかし、聖書は実体であると言っています。イスラエルでは、シャローム「平安があるように」と言われたなら、その人は「平安をいただいた」と思うそうです。あるとき、ひとりの男性に「シャローム」と挨拶しました。しかし、あとからその人がアラブ人であることを気づきました。それで、その人の後を追いかけ、「さっきのシャロームを返せ」と言ったそうです。同じように、私たちが怒りや憎しみで発する、悪いことばも実体があるのです。ある人が鉢植えの花に対して、実験したそうです。片方には「お前は咲かなくてもよい」と呪ったそうです。そして、もう片方には「美しい花を咲かせておくれ」と祝福したそうです。それを毎日、行ったら、片方の花は枯れて、もう片方の花は美しい花を咲かせたそうです。私たちが何の気なしに言っている子どもへのことば、どうでしょうか?私も家内に対して、侮辱するようなことばを発することが多々あります。この場で、悔い改めます。

 では、聖書は何と言っているのでしょうか?「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」「かえって」というのは、「その代わりに」という意味です。「悪や侮辱の代わりに、祝福を与えなさい」ということなのです。生身の人間に、そんなことが可能なのでしょうか?もしも、クリスチャンの成熟度をはかるならば、このことができるかどうかでしょう。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」きよめを強調する教団があります。私もその神学校で、少し学んだことがあります。きよめを強調することは悪くはありません。でも、どれくらいきよめられているか計るテストがここにあります。害を受けたり、侮辱された時ではないでしょうか?その人がきよめられ、自我に死んでいるなら、痛みは感じません。なぜなら、死体には感覚がないからです。ある人は、がまんするところまでは行くかもしれません。でも、祝福を与えるところまで行くでしょうか?これは、人間のわざではありません。人間のレベルを超しています。キリスト教は道徳ではありません。むしろ、奇跡です。マタイ5章でもイエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とお命じになられました。「祝福する」ということの中には、いろんな意味が含まれています。英語の詳訳聖書には「その人の繁栄と幸いと守りのために祈ること。そして、その人を本当に同情し、愛すること」とありました。これは、チャレンジです。どういうチャレンジでしょうか?遠くに入る人ではなく、近くにいる人たちです。ペテロはそれができる根拠を示しています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 

3.させよ

 

Ⅰペテロ3:10-12 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」ここにはっきりと、幸せな人生を送りたいならどうしたら良いが書かれています。あなたは幸せな人生を送りたいでしょうか?その秘訣がここに書かれています。多くの英語の聖書には、letということばが3回出ています。letというのは、「○○させよ」という使役動詞です。「だれに」でしょうか?それは自分自身に対してであります。自分に対して、「○○させよ」ということですから、そこには意思とか選択が求められます。では、どんな「させよ」があるのでしょうか?第一は「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。ヤコブ書は「舌とかくちびるは、制御するのが本当に難しい」と告げています。考える間もなく、勝ってにしゃべります。でも、自分の意思と選択によって「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。第二は「悪から遠ざかり、善を行わせよ」です。聖書は悪と戦えとは言っていません。むしろ、「悪から遠ざかれ」と言っています。詩篇1篇にも幸いになる道が教えられています。1節には「悪者のはかりごとに歩まず。罪人の道に立たず」と書かれています。これは、そばに近づくなということです。悪や誘惑のそばに近づくと、ブラック・ホールのように呑み込まれてしまうということです。第三は「平和を願い、平和を追い求めさせよ」ということです。だれに?これは自分自身に対してです。多くの人たちは「世界が平和でありますように」と願います。しかし、自分自身が平和でない場合があります。平和は、まず自分自身が平和で、その次に家庭や教会、職場、地域社会へと広がるのではないでしょうか?

これら3つのことは、3:9「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」ということを言い換えているに過ぎません。ペテロはこれを言わんがために、詩篇34篇を引用したのです。第二のポイントでこれは、人間的には不可能であると申し上げました。そして、最後のポイントでは、「3つのことを自分自身にさせるんだ」ということを聖書から勧めました。でも、舌とかくちびるを制御することが可能でしょうか?やっぱり、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」というエネルギーがあるのではないでしょうか?そうなんです。何故、私たちが口や行いで仕返しをしてしまうのか?それは、心の深いところに恨みや憎しみがあるからです。それを晴らせるような機会がやって来たとき、内側から自然に出てくるのです。それを李先生は、「怨念晴らし」と呼んでいます。もし、心の奥底が愛と赦しとあわれみに満ちているなら、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」ということがなくなるのです。次に癒された人が、3つのことを自分自身にさせることが可能になります。ですから、最初のステップは心の中につまっている怒りのマグマ、恨みのマグマを神さまに明け渡すことです。これは負のエネルギーであり、多くの人はこの力によって生きています。私もかつては、「ひどいことしやがって、このやろー」「ちくしょう、いつか復讐してやるぞ」と、そんな風に生きてきました。クリスチャンになってからも、そうしていました。だから、寝言でも、よく叫んでいました。しかし、今はエネルギーを変えました。「原子力エネルギーから自然エネルギーへ」とよく言われています。「ちくしょう!今に見返してやるぞ」みたいに頑張っている人もいます。それも、負のエネルギーです。そういう政治家がたくさんいます。そういう牧師もいます。それではうまくいきません。一番、良いところで、サタンにひっくり返されてしまいます。ですから、その怒りを神さまにゆだねるべきです。私たちの神さまはどのような神さまでしょうか?「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」神さまがさばき、神さまが報いてくださいます。神さまに怒りや憎しみをゆだね、平和を願い、自らに平和を追い求めさせましょう。