2011.03.27 えこひいきしない ヤコブ2:1-7

ヤコブ書の特徴の1つは金持ちに対して厳しく、貧しい人に対して優しいということです。会衆を見回しても大金持ちは見当たりそうもないので、みなさんに届くメッセージではないかと思います。エルサレムに誕生した初代教会には貧しい人が一人もいませんでした。富んでいる人が、貧しい人たちに分け与えていたからです。使徒4:34-35「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」アーメン。その後、宣教が進み、いろんなところに教会ができました。このヤコブ書は「国外に散っている12の部族」にあてた手紙なので、幾分、時代と状況が違っていると思います。彼らは救われてはいましたが、相変わらず昔の価値観を持ったまま生きていたのです。

1.えこひいきの罪

 たとえば、礼拝堂が混んでいて、席があまりなかったとします。そこに二人の新来者が入って来ました。アッシャー(案内をする人)が二人を見ました。片方は金の指輪をはめ、りっぱな身なりをしています。もう片方はみすぼらしい服装をしています。アッシャーは貧しそうな人には目もくれないで、お金持ちに「さあ、こちらの良い席にお座りください」と案内しました。入り口に戻ってくると、貧しい身なりの人が、ぼーっと立っていました。アッシャーは「まだ、そこにいたのですか?席はもうないですよ。じゃ、こちらに立っているか、私の足もとにでも座っていてください」と言いました。英語の聖書で「足もと」は、footstoolイスに座ったときの足台ということばが使われています。簡単に言うと背もたれのないイスです。ちゃんとした席がないので、「補助イスにでも座って」ということです。アッシャーの心、価値観はどのようなものでしょうか?「金持ちは価値があるので、こういう人が教会に来るといろんな面で助かる」ということでしょう。「貧しい人は、献金もしないばかりか、逆に世話をしなければならない。こういう人はあんまり来ちゃ困る」。そのような考えが心の中にあったのではないでしょうか?初代教会は愛にあふれていましたが、教会はだんだんと、この世の価値観によって影響されるようになりました。金持ちの人や権力のある人たちを優遇し、貧しい人を締め出すようになっていたのです。

中世の教会は、きらびやかな衣をまとった聖職者と王様、貴族たちのものでした。一般庶民は教会の外に締め出され、霊的にも物質的にも貧しい状態でした。中世の絵を見ますと分かりますが、建物は豪華で聖職者たちも金ぴかでした。数年前、江戸東京博物館で「ロシア正教会展」がありました。そこに大司祭が着るガウンが展示されていました。あるものは全部、真珠でできていました。また、あるものは金のモールで美しい刺繍が施されていました。聖礼典の調度品はすべて金でした。かぶる帽子、杓、香炉、全部、金でした。ローマ・カトリックも同じ路線を走っていたと思われます。貧しい人たちに仕えていたフランチェスコが、裸足でローマ教皇インノケンティウス三世に謁見しました。これは映画の話で実際はどうかわかりませんが、教皇はフランチェスコにこう言いました。「聖職についた頃、私もそなたと同じ気持ちだった。だが、時とともに熱意も薄れ、教会政治の業務に忙殺される身となった。私たちは富や権力の厚い殻を被っている。そなたたちの貧しさの前に私は恥じる。フランチェスコ、キリストの御名において皆に真理を説きなさい。」そして教皇はボロをまとい裸足のフランチェスコの足元に跪き、足にキスをしました。フランチェスコ会、ドミニコ会、様々な修道会が中世の教会を改革していったのです。やがて、マルチン・ルターによって宗教改革が起きました。聖書が印刷され一般民衆にまで、福音が届きました。そして18世紀、ジョンウェスレーによってリバイバルがもたらされました。ジョンウェスレーは教会に来ることができない労働者のため、農場や工場へ出かけて行って説教しました。その後、メソジスト教会が設立されました。ところが、だんだん教会が腐敗して、金持ちたちが教会の座席を買うようになりました。「そこは私の専用の席だから、他の人は座らないように」ということです。貧しい人たちは、座る場所が制限されました。金持ちたちが教会を休んでいて、実際に席が空いているのに、そこに座れないのです。それで、フリー・メソジストが興りました。「フリー」つまり、座席を買うことを禁じ、だれでも好きな場所に座れるようにしたのです。ちょっと馬鹿馬鹿しい感じがしますが、本当にあったのです。

 現代の教会はどうでしょうか?座席はどこにも座れます。フリーです。しかし、別な面でのえこひいきがなされています。どうしても、教会は金持ちを優遇したくなります。教会の会計さんは、毎月、頭を痛めています。「今月は赤字にならないだろうか?大丈夫だろうか?」「三月は年度末だけど、赤字にならないだろうか?大丈夫だろうか?」きょうはたまたま、今年度、最後の礼拝です。会計の役員さんの顔を、どうぞ見てください。少し、うなだれてはいないでしょうか?ある人は会計の奉仕をやって鬱病になったそうです。それほど、会計は大変なのです。ですから、献金をいっぱいしてくれる人が一人でも増えたら、大助かりではないでしょうか。さらに、牧師や役員に対する誘惑があります。もし、教会に身分の高い人、教育のある人、影響力のある人が来たら嬉しいですよね。議員さん、会社の社長、お医者さん、弁護士、大学教授、芸能人。その人が来ることによって、地域の人たちもつられて来そうな感じがします。そして、教会はそういう人たちに投票して「役員」になってもらいます。結果的にどうなるでしょう?教会はこの世と全く変わらなくなります。お金や地位、知識を持っている人が高められることになります。何も持っていない人は、冷遇されるようになります。こういうことは現代の教会にもありがちなことです。ある教会に、現役を引退した牧師が礼拝に来られていたそうです。ある人たちが「○○先生、○○先生」と呼んだそうです。するとある年輩の婦人がみんなをたしなめてこういったそうです。「うちの教会の先生は○○先生、一人だけです。○○先生だけしか、先生と呼んではいけません」。すごいですね。議員の方は世の中では「先生」と呼ばれています。弁護士も「先生」、大学教授も「先生」と呼ばれています。しかし、教会に来たら、彼らはみな兄弟です。本当は牧師も兄弟なのですが、伝統的に「先生」と呼ばれています。

 ヤコブは何と言っているでしょうか?ヤコブ21「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」ヤコブは「栄光の主イエス・キリストを信じているなら、人をえこひいきはしてはいけない」と言っています。つまり、心が「栄光の主イエス」によって照らされるなら、そんな価値観は持たなくなると言うことです。私たちはクリスチャンになっても、この世の価値観を持っています。ある部分は新しくなったけど、ある部分は相変わらずこの世の価値観のままです。ユダヤ人には金持ちは神さまに祝福されている、だから金持ちになったんだという考えがありました。「金持ち、イコール良い」と考えがありました。しかし、もう1つの付随した考えもありました。「何故、神さまがこの世に金持ちを作ったか、それは貧しい人たちに施すためである。人々に与えるために金持ちが存在している」ということです。箴言222「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。」だから、私たちは神さまを恐れ、人をえこひいきはしてはいけないということです。

2.貧しい人たちへの神の恵み

ヤコブ25「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」ここにはすばらしいメッセージが含まれています。まず、「この世の貧しい人たち」という訳に異論があります。有効な写本は「の」ではなく「に対して」になっています。するとどうなるのでしょうか?英国の聖書はこう訳しています。「世の目から見た貧しい人たち」あるいは「世の見方で貧しい人たち」となります。つまり、この世の見方で「この人は富んでいる」「この人は貧しい」と判断しているということです。たとえば、私が銀行へ融資を受けに行くとします。もし、ジャンバーとサンダル履きで「お金貸してください」と言ったらどうなるでしょうか?たぶん、「申し訳ありません、お役に立ちません」と丁寧に断られるでしょう。しかし、頭をバシッとセットして、最高のスーツを着て、ピカピカの靴を履いて、胸を張って行ったらどうでしょう。そして、こう言います。「おたくの銀行が私に融資してくれましたら、とても益になりますよ」。頼んでいるというよりも、ビジネスを取り交わすという感じです。おそらく、この世の人は私たちのうわべを見て判断するのではないでしょうか?Ⅰサムエル16:7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」。これは、サムエルがエッサイの家に来て、「次の王様はだれか」神さまに聞いたときに受けたことばです。私たちは人を見る、価値観を変えなければなりません。お金を持っている、持っていないではなく、容姿が良いか悪いかではなく、内面の方がより大切なのです。

でも、この箇所を見ると、神さまは貧しい人を愛してくださるということは確かです。神さまは貧しい人たちに2つのことをなさってくださいます。第一は「この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とする」と書いてあります。ある人は「信仰じゃ飯は食えないよ。金銭的に富む者としてくれ!」と言うかもしれません。でも、神さまの方法は違います。お金よりも、まず信仰が先であります。神さまに対する信仰が富むならば、結果的に、金銭的にも富むということです。信仰の父、アブラハムはどうだったでしょうか?最初、神さまからどう言われたでしょうか?創世記121-2主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」主は「私に従えば、あなたを祝福する」と言われました。従うということは、信じるということです。その結果、祝福がやってくるのです。私たちも、まず、信仰が先です。信仰は小切手のようなものです。イギリスのスポルジョンが、肺炎のためまもなく死のうとしている貧しいメイドさんの家を訪問しました。部屋に入ると隙間風をふさぐためにいろんな紙が窓や壁にべたべた貼ってありました。良く見るとその中に一枚の小切手も貼ってありました。今の価値で何十億円の額が書いてありました。彼女は長い間、大金持ちの家でメイドとして忠実に働きました。そのご主人が亡くなるとき、彼女に一枚の小切手を上げたのです。しかし、メイドさんは字が読めないばかりか、小切手の意味すら分かりませんでした。もし、彼女がもう少し前に、お金に替えていたなら、豊かな生活を送ることができていたでしょう。神様も同じで、私たちに信仰を用いて、豊かな生活が得られることを約束しています。

第二番目は貧しい人に対して、御国を相続する者としてくださるということです。ルカ620-21「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」ルカはマタイと違って、心ではなく、実際的に貧しい人は幸いだと書いています。何と、その人に神の国、御国が与えられるからです。皆さん、ここにすばらしいメッセージがこめられています。貧しい人がイエス様を信じて、生まれ変わります。そして、自分を愛してくださる神様を愛するようになります。地上で生きていますが、もう御国に属する神の子です。たとえ貧しくても、身分はどうでしょうか?神さまが王様であるなら、その子どもたちは王子であり、王女です。貧しい人は、これまで生き延びるために生きてきました。それは乞食であり、奴隷の姿です。神さまはキリストの血で贖った人たちを、乞食とか奴隷のままにしておきません。王子であり、王女にしたいのです。残念ながら、クリスチャンになって救われたにも関わらず、相変わらず奴隷をやっている人がいます。私の人生がそうでした。私の家はとても貧しく、私は8人兄弟の7番目で生まれました。父の働きはあまりなく、家にはお金がいつもありませんでした。その代わり長女や長男が家にお金を入れました。母はわずかな田畑を耕し、食べるだけのお米や野菜はありました。しかし、現金がないのです。勉強机や学校の用具も買えません。村に水道が入りました。でも、自分の家に引き込むためには20数万円のお金が必要でした。そのお金がなかったのです。夏になると井戸が濁って、隣り近所に水をもらいに行きました。春になれば竹の子を取りに、冬には縄を綯いました。小さい私は水を汲んだり、薪を割ったり、藁を打ったりして手伝いました。私の中にどんな思いがあったでしょう?父や母は当てにならない。兄や姉の世話になるのは嫌だ。自分の力でなんとか生きてやるという意地がありました。今考えると、それは生き延びる奴隷でありました。奴隷は人よりも良いものを得るため競ったりします。また、奴隷は今、食べていても、いつか空腹になることを恐れています。いくら手元に持っていても、いつかなくなることを恐れています。これが奴隷の生き方です。生き延びるために生きているからです。失礼ですが、みなさんはそういうことはないでしょうか?「自分は小さく貧しい者である。こんな取るにたりない者を用いてくださって感謝します。こんな貧しい、汚れたものを愛してくださってありがとうございます。」そのように言ったことはないでしょうか?それは王子や王女ではなく、奴隷です。「いや、私たちは神さまの奴隷、しもべではないでしょうか?」と言う人がいます。ヨハネ1515「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」これこそが、私たちの標準な姿です。

最近、『王家の者として生きる』と言う本を読みました。少し引用します。夜、私は夢の中で聖書のみことばを繰り返す声が聞こえました。「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことで耐えられない。奴隷が王となる」(箴言30章)。午前3時でしたが、胸苦しさに目を覚まし、深い悲しみが私を襲いました。すると、主が「どうしてこの地が、王になった奴隷の下で耐えることが出来ないのか知りたいか」と尋ねました。「嫌です。でも、あなたはご存知です」と私は答えました。主が続けて言われました。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われてきた。彼は成長しても自分には大した価値がないこと、また自分の意見は尊重されないことを成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずのその人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ」。その朝の数時間で主が私の王子としてのアイディンテティについて教えてくださいました。いくつかの聖書の箇所を導き、神にあるリーダーたちが、王の息子、娘であるがゆえに、自分が王子、王女であるという自覚を持つことがどれほど重要かを見せてくださいました。初めに主が見せてくださったのはモーセの例でした。主が尋ねられました。「なぜモーセがパロの宮殿で育てられなければならなかったのか分かるか?」「いいえ」と私は答えました。「モーセはイスラエルの民を奴隷制度から解放するために生まれてきたのだ。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷の考え方ではなく、王子としての生き方を学ぶ必要があったのだ。自分が奴隷の考え方であるリーダーに、実際に奴隷制度に捕らわれている民を解放する力はないのだ。モーセの人生の初めの四十年間は、後の荒野で過ごす四十年間と同様に重要な年月だったのだ」。

この先はご自分で買い求めてお読みください。かいつまんで内容を説明するとこうです。よく、クリスチャンは「自分は小さくつまらない者ですが、私と共にいる主が偉大なのです」と謙遜に言います。たとえば、教会ですばらしい賛美の演奏を聞いた後、「いやー、とても素晴らしかったですよ」と言ったとします。すると彼らはたいていこう言うでしょう。「私ではありません。イエス様がされたのです。」しかし、これは真理ではありません。イエス様は私たちを彼と働く同労者として召してくださったのです。神と一緒に治める王子・王女として、です。私たちは一人ひとり神の作品です。たとえば、ここにゴッホが描いた『ひまわり』があったとします。もし、私が「なんと下手な絵なんだ」と言ったとします。すると私は2つ過ちを犯したことになります。まず、その絵を描いたゴッホを見下していることになります。もう1つは、私に見る目がないということを暴露していることになります。同じように、「私なんかダメだ」というと造り主の神さまを卑下していることになるのです。確かに私たちは罪の中に生まれ、汚れと恥の中で失われていた存在でした。でも、イエス様は私たちを尊い血しおで買い取ってくだいました。私たちが洗礼を受けたとき、十字架につけられて奴隷の古い人は死んだのです。そして、キリストと共によみがえらされました。もはや、私たちは罪赦された奴隷ではなく、神の子、王子であり王女なのです。今、東北では地震と大津波のため大変な状況です。家も持ち物、家族さえも失いました。あまりにもひどくて、復興まで何年かかるか分からない状況です。でも、聖書は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」と言っています。極論ではありますが、その人たちが救い主キリストと出会ったなら、永遠の命と御国に住まいを持つことができます。そうするなら、失ったもの以上のものが与えられるでしょう。私たちは関東にいながら、何とか生き延びようとしています。ガソリンやトイレットペーパー、パンや水を買うため必死になったかもしれません。私たちは気付くべきです。「もしかしたら、私は奴隷のように生き延びるために生きてはこなかっただろうか?」と。もし、私が王子、王女なら、「王なる神さまが必ず必要を満たしてくださる。ハレルヤ、アーメン」と胸をはって生きられるでしょう。キリストにあって、もう私たちは奴隷ではありません。貧乏人でもありません。豊かな御国の世継ぎ、王子であり、王女なのです。