2012.6.24「弁明できる用意を Ⅰペテロ3:13-17」

当時のクリスチャンはローマ国家の支配の中にありました。身分的には国外追放者であり、寄留者でした。ある人たちはしもべとして、主人に仕えていました。横暴な主人から、善を行っていているのに、苦しみを受けることがありました。現代の私たちは民主的な国家の中にあり、個人の権利や信仰の自由が認められています。ペテロの手紙の時代の人たちよりも、はるかに良い環境の中に暮らしていると思います。しかし、クリスチャンであるがゆえに迫害されたり、イヤな思いをすることがあるでしょう。なぜなら、私たちはこの世の人たちと一緒に悪いことをしないからです。そのためにやっかまれたり、害を受けることがあるでしょう。程度の差はあれ、どの時代においても神の子らはこの世において迫害を受けます。では、どうしたらそういう苦しみから解放されて、平安に生きていけるのでしょうか?

 

1.キリストをあがめよ

 

ここには、私たちが苦しみをうけたとき、やってはいけないことと、やるべきことが書いてあります。Ⅰペテロ3:13-15前半まで。「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」この人は、善を行うことにとても熱心でした。しかし、この世においては、正しいことは、良くないことであると思われるときもあります。社員や公務員として働いていて、「馬鹿正直は良くない。ここはごまかしなさい」ということがたまにあるのではないでしょうか?データーの改ざんを求められたり、不正に値段を書き換えざるようなことがあるかもしれません。「いや、クリスチャンとして、それはできません」と断ったなら、どうなるでしょう?「あなたは正しい。そうしましょう」という上司はまずいないでしょう。私たちは神を恐れるので、もし不正なことをし続けたら、後から大きな刈り取りが来ることを知っています。でも、この世の人たちはそうではありません。「いいから、黙ってやれ!」というでしょう。日常生活においても、こちらは善を行っているはずなのに、衝突することがあるでしょう。また、日本の国は仏教がおもなので、葬式や法事のときに、「どうして焼香しないんだ」と言われるかもしれません。とにかく、こちらは最善を尽しているはずなのに、イヤなことを言われたり、害を加えられたりすることがあります。そういうときに「クリスチャンとしてどうすべきか?」ということです。

 ペテロは何と言っているでしょう?「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。」と言っています。どこかで聞いたことがあるみことばです。マタイ5章にあります。マタイ5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」そうです。イエス様も同じことをおっしゃっていました。「幸いです」という意味は、祝福されるという意味です。すべてをご存知である神さまが、御手を延べてくださるということです。マタイ5章にはさらに何と書いてあるでしょう。マタイ5:11-12「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」神さまが報いてくださるとあります。「でも、天国に行ってからでは遅すぎます」と言いたくなります。この地上で、何とかならないのでしょうか?もちろん、神さまは地上でも報いてくださるお方ですが、私たちがすべきことが2つあります。第一は「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」とあります。私のところにたまに「相談があります」という電話がきます。かなり前に、「今、亀有駅にいるけど、相談があるのでお会いできませんか?」と男性から電話がありました。私は「どういうご用件でしょうか?私にも予定がありますので」と答えました。向こうは、「用件は会ってからお話します」と答えました。私は「申し訳ありません。どういうご用件でしょうか」とさらに聞きました。すると、向こうは「バカヤロー、用件があるから電話してんだよ!」と豹変しました。あきらかにヤクザ風です。おそらくお金の無心でしょう。私は「それじゃ、困ります。お会いできません」と答えました。向こうは、さらに逆上して、「てめーこのやろー、名前は何と言う。今から行くから待っていろ!」と電話の向こうから怒鳴りました。私は「ああ、わかった。警察を呼んで待っている」と答えました。私も元現場監督なので、昔の血が騒ぎました。「本当に来るかなー、来たらどうしよう。よーし、覚悟を決めなくちゃ」と心配しました。その時は、来ませんでした。

 今のは、あまり良い例ではないですね。聖書的にはどうなんでしょうか?ペテロは「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」と言っています。私たちの信仰に最も有害なものは、恐れです。鉄でできた船が水の上に浮いています。どうしてでしょう?それは鋼鉄の板が、たえず、水を外に締め出しているからです。もし、鉄板に穴があいていたらどうでしょう?水がものすごい勢いで、流れ込み、まもなく船は沈没するでしょう。恐れは信仰を失わせてしまう最大の敵です。多くの人は「恐れ」が心の中に入ることを許してしまいます。「もし、こうなったらどうしよう?」「もし、そんなことになったら、もうおしまいだ」。ある人たちは、いつも「最悪だ」「最悪だ」と言っています。そういう人は人生に最悪を呼び込んでいる人です。クリスチャンであるなら、逆に「最善だ」「最善だ」と言うべきです。そうすると、普通に最善のことが起こります。ある人が調査したところ、私たちの恐れる恐れが実際に起こる可能性は3%だそうです。つまり、97%は実際に起こりもしないことを恐れているんだということです。もちろん危機管理は必要です。でも、毎日の生活で、私たちは、信仰をないがしろしにして、恐れすぎていることは確かです。もう1つは何でしょうか?「心を動揺させない」ということです。「動揺する」のギリシャ語は、「精神的にかき乱す、さわがす」という意味です。人からさばかれたり、脅かされて、動揺しない人がいるでしょうか?世の中には、人を強迫したり、付きまとう人がいます。悪質なストーカーもいます。でも、最も気を付けるべきことは、心の問題です。「動揺する」つまり、精神的にかき乱されると、それが妄想にまで発展し、外出すらできなくなります。「人間って本当に弱いもんだなー」と思います。ある人が発した一言で、心の中が混乱し、心配で夜も眠られなくなります。「なんであんなこと言うんだろう、ひどいじゃないか!」と怒りや憎しみまで出てきます。最後には無力感に襲われ、何もできなくなります。多くの人たちは、恐れや動揺を過少評価しがちですが、私たちの生活を破壊するほどの力があります。もちろん、みことばのとおり、恐れないで、動揺しなければ良いのですが、もっと良い手はあるのでしょうか?

 あります。ペテロは「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と命じています。ペテロは恐れやすい人でした。ペテロの本名はシモンです。シモンは川辺に植わっている葦という意味です。葦ですから、問題の風が吹くとすぐ揺れてしまいます。しかし、イエス様は「お前は、これからシモンではなく、ペテロ、岩なんだ」と言われました。岩はがっちりして動きません。すばらしい名前です。でも、ペテロの信仰生活においてあるときは岩、あるときは葦、ペテロとシモンがたえず入れ替わっていました。でも、ペテロはすばらしい方法を自ら発見して、それを私たちに提供しています。それは、心の中でキリストを主としてあがめるということです。これはどういう意味でしょう?JB.フィリップスは「キリストに向かって完全にささげることに単純に集中しなさい」と訳しています。New English Bibleは「キリストを主として崇敬することに心を向けなさい」と訳しています。私たちの心が1つの部屋だとします。その部屋の中に、恐れや動揺、怒りや憎しみが混在しているとします。どうやって、取り除いたら良いのでしょうか?「恐れや動揺、怒りよ、心から出て行け!」と命じれば良いのでしょうか?それも良いかもしれませんが、一時的で、また戻って来るかもしれません。その代わりに、「キリストは私の主でです。アーメン、ハレルヤ!キリストを礼拝します」とそこに思いを向けたらどうでしょうか?つまり、恐れや動揺の代わりに、キリスト様を礼拝することに集中するということです。そうすると心の中に神の信仰、神の平安、神の光があふれてきます。その結果、恐れや動揺が出て行くのではないでしょうか? 詩篇34:1「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」とあります。「あらゆる時」です。「うまく行っているときも、うまいう行っていないときも」です。エディ・レオ師は、「男性は一日に約240回、性的な誘惑を受ける」と言いました。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。もし、4分毎に表れた性的な想像を消して、礼拝と置き換えるならば、男性は1日に240回、4分毎に、主を礼拝して交わることができます。そのような生活はなんと力強いことでしょう。私たちにトラウマや恐れがやってきたときどうしたら良いでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。私たちに怒りや悲しみがやってきたときどうしたら良いのでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」これこそが、勝利の秘訣です。

 

2.弁明できる用意を

 

 ペテロは迫害や苦しみをもっと積極的に用いることを勧めています。Ⅰペテロ3:15後半から「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」私たちが迫害や苦しみの中でも神様をあがめつつ、善を行っていたならどうなるでしょうか?中には「あなたはどうしてそういう生き方をしていられるんですか?」と尋ねる人が出てくるということです。最初は馬鹿にしていたのに、「どうしてそういう生き方ができるんだろう」と、興味を持つ人が出てくるということです。神さまは私たちの周りに、平安の子、心の柔らかい人たちを用意しておられます。そういう人たちは、義に飢え渇いている人たちです。「この世に、神さまが本当にいるなら信じてみたい」「人は死んだらどうなるんだろう」「死後においても希望があるのだろうか」。そのような素朴な質問をしてくる人たちがおられます。そういうときにどうするかということです。あるクリスチャンは、「そうですか?一緒に教会に行きましょう!」と言います。悪いとは言いませんが、その前に、すべきことがあります。なぜなら、この世の人たちにとって、教会はあまりにも敷居が高いからです。それに、教会に来て、だれかの力を借りなければ説明できないのでしょうか?そうではありません。あなたがその場の、伝道者であり牧師なのです。ハレルヤ!ルターは、万人祭司を唱えました。祭司とは、この世の人と神さまとの間に立って、とりなす人です。

 このところに、「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書いてあります。「だれにでも」、ということは子供でも大人でも、男性でも女性でも、インテリでもインテリでない人でも、善人でも悪人でも、ということです。私たちは心の中でより分けてしまいます。「この人は、罪深いので神さまから選ばれていないんでは」と敬遠しがちです。でも、一番、信じにくい人は自分を正しいと思っている人です。善良で暮らし向きの良い人ほど、救われにくいのです。一番、信じやすい人は問題のある人です。しかし、私たちは問題がある人には近づきません。なぜなら、問題のある人につかまえられて、一緒に沈没するかもしれないからです。ですから、私たちは、あまり問題のない、健康な人に近づこうとします。イエス様は何と言ったでしょうか?「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)私たちはどうも、反対なことをしているみたいです。とにかく、「だれにでも」です。次は「いつでも」です。「いつでも」ということは、自分の信仰が上向きとのときも、自分の信仰が下向きのときも、ということです。ある人は「私は良い証になっていないので、イエス様のことは言えない。恥ずかしい」と思っています。では、仕事がうまくいって、正しい行いをしている時だけに、証をすることができるのでしょうか?そうではありません。逆に、「こんな者でも神さまから愛されています」ということの方がよい証になるのです。この教会に山崎長老さんがおられました。山崎さんはいつもこのように言って人々を誘っていました。「わしなんか、酒も飲むし、タバコも吸うよ。それでも救われているんじゃ。はははは」と言っていました。「恥は我がもの、栄えは主のもの」ということばがあります。自分がダメであっても、キリストさまがすばらしいのです。ここに焦点を合わせていけば、ダメな自分がいつか良くなるのです。私たちはこの口を開いて、キリストを証すればするほど、生活がそれに比例して良くなるのです。逆に「私はダメだから」と、口を閉ざしていると、良くなることはありません。どうぞ、福音のために、キリストのために口を開きましょう。

 最後に言われていることは、「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」ということです。弁明とは擁護するとか、言い開きをするという裁判のときに使われることばです。使徒26章でパウロがアグリッパ王のもとで、自分の信仰を弁明しました。そして、最後にはキリストを信じるように勧めています。現代的に弁明とはどういう意味でしょう?ある英語の聖書はlogicalにと訳しています。これは「論理的な」「筋の通った」という意味です。普通の証は自分の体験ですから、あまり論理的でなくても結構です。しかし、ある場合は、「これはこういう意味です」と論理立てて答えなければならない時があります。ある人が「人間は死ねばみんな同じでしょう」と言ったとします。それに対して、どう答えるべきでしょうか?「人間の魂は不滅なので、死後の世界があります。問題は、どこで永遠を過ごすかです」。また、ある人が「罪、罪というけど、なんでキリスト教は人を罪人呼ばわりするんだ」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「罪とは、人間がまことの神さまから離れ、自分勝手に生きていることです。子どもが親なんかいらない、自分一人で育ってきたと言うようなものです」。また、ある人が「宗教はみんなおんなじだよ。本物なんかありはしない」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「この世には偽札がたくさんあります。でも、偽札があるからと言って、本物のお札がないわけではありません。」また、ある人が「キリスト教は狭すぎる。なんで、キリストしか救いはないと言うんだ。とても排他的だ」と言ったとします。私だったらこう答えます。「1たす1が3になるでしょうか?水素と酸素を化合させると牛乳になるでしょうか? 1たす1は2です。水素と酸素を化合させると水になります。私たちは数学や自然科学において狭いことに文句を言いません。なぜなら、真理は排他的なのです。キリスト教も同じです」。復活に対しても、十字架に対しても、来世に対しても、弁明できる用意をしておくべきです。

 こういうのを弁証論と言います。「キリスト教弁証論」という本もあります。でも、多くの場合、私もそうですが、話し過ぎるのです。その人が1つしか質問をしていないのに、私たちは10個も答えてしまいます。もう話したら、「今がチャンスだ」とばかり、話が止まりません。もうその人は頭がいっぱいになって、あとはあふれるばかりです。心の中で「もう二度と聞くまい」と思うでしょう。ある人が「口は1つで、耳が2つあります」と言いました。カウンセリングではこれはとても重要な真理です。「下手な鉄砲数打てば当る」という方法もないわけではありません。しかし、本当に獲物をしとめる人は、ライフル銃のように的を絞る人です。では、どうしたら良いでしょうか?その人が持っている問題や心の悩み、あるいは興味を持っていることに耳を傾けるということです。30分も聞いているとその人の世界が見えてきます。聖霊さまが、「ああ、この人の必要なこうものかな?」とテーマを悟らせてくださいます。自分が持っている知識を全部出せば良いというわけではありません。その人のニーズ、必要に対して、1つか2つ答えてあげれば良いのです。1つか2つです。決して10個与えてはいけません。1つか2つでしたら、しばらくするとお腹が減って、またやってきます。真理に対して飢え渇きをもっている人は特にそうです。再びやってきたら、また1つか2つ与えれば良いのです。私を信仰に導いてくれた職場の先輩がまさしくそうでした。私は「神さまがいるなら見せてくれ!」と言いました。すると、先輩は「電波は目に見えないけど、いっぱい飛んでいるよ」と言いました。私は「弱い人が神さまを勝手に作ったんだろう」と言いました。すると先輩は「私たちは弱いよ。自分の弱さを知っている人が強いんじゃないかな」みたいに言いました。全部、正確に覚えていませんが、たとえ話をよく使って聖書の真理を教えてくれました。しかし、あとから分かったことですが、聖書に実際にそういうたとえ話や物語があったんですね。

 ペテロは何と言っているでしょうか?「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」と言っています。弁明において、一番重要なのは、知識や技術ではなく正しい良心です。未信者とどうしても、議論になる場合があります。本当なら議論に勝ちたいところですが、負けても良いのです。むしろ、負けた方が良いのです。なぜなら、議論に勝ったとしても、その人を失うのがもっと不幸だからです。信仰の世界を全部、理性で説明することは不可能です。全部説明できたら、信仰はいりません。人間は、知性で信じるのではないのです。その人を自分が本当に愛しているかどうかです。愛こそが人を信じさせるのです。三浦綾子さんは自分が学校で教えてきたことが全部間違っていたことに気づき、自暴自棄になっていました。前川青年が一生懸命に語るのですが、皮肉な目でながめながら煙草に火を付けました。やにわ、前川青年は傍らにあった石を取り、自分のひざをゴツンゴツン打ち始めました。三浦綾子さんは「何しているの?やめなさい」と叫びました。前川青年は「信仰のうすいぼくにはあなたを救う力がない。だから、不甲斐ない自分を罰しているんだ」と答えました。そのとき、三浦綾子さんは「だまされたと思って、私はこの人の生きる方向について行ってみようか」と思ったそうです。ことばで論理的に説明することも大切です。でも、神の前における正しい良心こそが、正しい福音を伝えるために最も重要なのです。