2012.7.8「キリストの陰府下り Ⅰペテロ3:18-22」

イエス様は肉体的には、3日間死んでいました。しかし、霊においては陰府にくだって何かをなさっておられたようです。ある人たちは「死者たちに、福音を宣べ伝え、そこで信じた者は救われた」と言います。いわゆるセカンド・チャンスであります。柔道には敗者復活戦というのがありますが、人間は死んでからもう一度、救われるチャンスがあるのでしょうか?そういうことを含め、イエス様が陰府に下られた目的について学びたいと思います。

 

1.キリスト論の全体

 

キリスト教会には古くから「使徒信条」なるものがあります。当教会は祭典的な礼拝を目指しているので、信条を唱えるということをしなくなりました。おそらく、キリスト教会の半分くらいは、「使徒信条」を礼拝において唱えているかもしれません。しかし、きょうのテキストを見ますと、使徒信条のほとんどの内容が記されています。神学的には、キリスト論の全体を網羅するものであります。ですから、最初のポイントでは神学校で学ぶような「キリスト論」を概略的に学びたいと思います。

キリストがこの地上に来られた第一の目的は何でしょうか?18節「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」ここには処女降誕については触れられていませんが、キリストがこの地上に来られた目的が記されています。目的とは正しい方が悪い人々の身代わりになるためです。「正しい方」とはだれでしょう?イエス・キリストです。イエス様は律法の下で生まれ、律法を全うされました。もし、罪があるならば身代わりになることができません。人類の歴史の中で罪のないお方はイエス様、お一方だけです。すべての人はアダムの子孫として生まれたので罪があります。この世では、相対的に「良い」とか「悪い」と言われるかもしれません。しかし、絶対者なる神の前に立ったならば、どんな人でも「悪い人々」の中に入ります。私たちの正しさでは、義なる神さまの前に立つことはできません。たとえば、嘘を何回ついたら嘘つきになるでしょうか?1回です。では、罪を何回犯したら罪人となるでしょうか?1回です。この世で、罪を犯したことのない完全無欠の人はいません。自力では神さまのところに到達できないのです。そのため、神さまは独り子をこの世に遣わし、全人類の罪を御子の上に負わせました。そして、御子イエスは身代わりに神のさばきを受けられました。歴史の教科書で何と言われようと、キリストの十字架の死は、身代わりの死だったのです。

その後、イエス様はどうなったのでしょうか?18節後半「それは肉においては死に渡され、霊においては生かされて」と書いてあります。イエス様は肉体的に死んで、ヨセフの墓に葬られました。金曜日から日曜日の早朝まで、3日間、死んでいました。しかし、「霊においては生かされ」どこかに行ったようです。19-20節「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」イエス様は死者の霊たちがいる陰府に下られました。では、何しに行ったのでしょうか?ノアの時代に死んだ人たちのところへ行き、「みことばを語られた」と書いてあります。創世記6-9章にはノアの洪水のことが記されています。ノアは100年くらいかけて大きな箱舟を作りました。作っている合間に、「まもなく大雨が降って洪水になるから、この箱舟に入りなさい」と人々に警告しました。しかし、ルカ17章には「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました」と書いてあります。おそらく、ペテロの時代、教会において「ノアの家族以外の人たちはどうなったんだろう?全部滅びてしまったのか?彼らに救いはないのだろうか?」という疑問があったのでしょう。それに答えるために、ペテロは、キリストは霊において死者たちのところへ行ってみことばを語られたのだと教えたのです。では、死後にも救われるチャンスがあるのでしょうか?そのことについては、後半のポイントで語りたいと思います。とにかく、キリストは霊においていかされ、捕らわれの霊たちのところへ行って、みことばを語られたということです。

その次に何と書いてあるでしょう?21節「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」ここにはバプテスマ、つまり洗礼の意味が書いてあります。わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われました。そのことが、今あなたがたを救うバプテスマの型(タイプ)であるということです。箱舟の外は水であり、死でありました。しかし、彼らは死の水を通って救われたのです。レビ記などでは、沐浴、つまり水で洗うということが罪や汚れを洗いきよめることでした。しかし、新約のバプテスマは一度死ぬこと、そして新しく生まれ変わるという意味があります。パウロはローマ6章でこのようにバステスマを説明しています。「私たちはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえったのです。私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです」と言っています。当時のキリスト教会において、バプテスマのとき、何かを誓ったのではないかと思います。その証拠に「正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と書いてあります。ここは解釈がとても難しいところであります。彼らはバプテスマによって、一度、古い人に死んで、新しくなりました。イエス・キリストの復活にあずかった、正しい良心によって、神さまに誓ったのです。ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活は単なる歴史ではなく、自分たちもバプテスマによって、十字架の死と復活にあずかったのです。パウロはローマ6:7で「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と言いました。クリスチャンはキリストと共に十字架に死んで、キリストと共によみがえった存在なのです。ハレルヤ!

キリストは復活してからどうなされたのでしょうか?3:22「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。キリストは天に上り、神の右の座に着かれました。神学的にはこれを昇天・着座と言います。「昇天」は昇る天であり、イエス様しか使われません。クリスチャンが死んだら、「召天」、召される天であります。しかし、イエス様は天に昇られたので、「昇天」です。そして、父なる神の右の座に座られました。座られたとはどういう意味でしょう?私たちは立ったままでいると疲れるので、「やれやれ」と座ります。座るとはゆっくりするということでしょうか?そうではありません。神の右の座とは権威を象徴しています。父なる神さまは、王権をキリストに与えたのです。そして、座るとは王の執務を開始するということです。つまり、キリストは神の国の王として、治めておられるということです。ヘンデル作曲のメサイヤという曲があります。キリストの降誕、受難、復活、そしてキリストが王として永遠に君臨することが歌われています。ここに、「御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて」とあります。天使には階級があります。救われた人々に仕える御使いがおります。重要なことを告知する天使もいるでしょう。そして、悪魔と戦う天使と天使長がいます。このようにキリストは数えきれない天使たちを従えておられるのです。イエス・キリストは、王の王であり、主の主として、世界を統べ治めておられるのです。

私たちはこの地上で教会において、主の勝利を宣言し、主を礼拝しなければなりません。なぜなら、私たちがイエスを主と告白し、礼拝するときに、悪の軍団が退くからです。毎週、私たちがここに集まっているのは暇だからではありません。キリストにあって古い人に死に、キリストにあって新しい人に生まれていることを確認するためです。私たちは罪と悪魔から解放され、キリストに属する者です。この地上で生かされている限り、神をあがめ、神に仕える者であります。先月の6月14日午後2時から、古谷惠子姉の告別式がありました。14日の朝、聖書を読んでディボーションしていました。告別式のプログラムもメッセージも前の日にできていました。しかし、「それで良いのかなー」と思いました。「いつくしみ深く」じゃないだろう。「すべての悲しみ、すべての恥を主の喜びに変えてしまおう。すべての病い、すべての痛みを主の喜びに変えてしまおう。イエスロード、イエスロード、イエス、イエスロード、イエス、イエスロード、アーメン」という賛美が浮かんできました。「でも、私が歌ってもきっとリードできない、どうしよう?」と思いました。「そうだ、私たちは生きるにしても死ぬにしてもキリストの名があがめられることなんだ。きょうの葬儀も、一つの礼拝なんだ。キリストの勝利を宣言しよう。キリストは、罪も呪いも恥も病も死さえも取り去るお方だ。これを語ろう」と思いました。賛美は「いつくしみ深き」でしたが、キリストの勝利について大胆にメッセージしました。私だけ浮いていましたが、それでも良かったと思っています。私たちはこの地上でいろんな使命が与えられています。福音を宣べ伝え、隣人を愛することが必要でしょう。しかし、現在から永遠の御国にいたるまで必要なのが、賛美と礼拝であります。キリストの十字架と復活、そしてキリストの王としての支配を賛美するのです。どうぞ、私たちの人生をキリスト論的にしましょう。生きるにも死ぬにも、キリストの御名があがめられますように。アーメン。

 

2.キリストの陰府下り

 

 前半においては、キリストが陰府に下られ、ノアの時代の人々にみことばを語ったということをお話ししました。問題なのは、私たちが死んでから、もう一度、救われるチャンスがあるかどうかです。3:19「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあります。みことばとは何でしょうか、どういう内容でしょうか?4:6「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが…」とあります。福音とはギリシャ語でユーアンゲリオン、「戦争に勝った」という知らせであります。イエス・キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、「私は十字架ですべての罪を贖った。私を信じる者は生きる」と告げたのかもしれません。これと似た記事がエペソ4章にもあります。エペソ4:8-10 「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」。ここにも、「捕らわれの霊」と似た、「捕虜」という表現があります。神学的にはどうなるでしょう?「キリストは陰府に下り、多くの捕虜を引き連れ、高いところに上られた。高いところとはパラダイスである」ということです。キリスト以前は、陰府が二階建てであったようです。ルカ16章に、貧乏人のラザロとある金持ちが死んで、陰府に行ったことが書いてあります。二人とも陰府に行ったのですが、ラザロの方が高いところです。一方、金持ちは陰府の低いところで炎が燃えています。上と下には大きな淵があって、渡ることができませんでした。陰府の上にいる人たちはノア、アブラハム、ダビデとか旧約聖書の義人であったと思います。イエス様は復活したとき、陰府の上部を携えあげて、パラダイスを作られたのではないかと思います。現在、パラダイスは天国の待合室のようなものとして存在しています。

 問題になるのは、イエス様が復活後、世の終わりが来るまで、陰府にくだって福音を語り、信じる者をパラダイスに引き上げるかどうかです。つまり、そのことが陰府に下り、捕虜を引きつれ、一緒に上られるということが繰り返されるかどうかです。久保有政という牧師がセカンド・チャンスはあると主張します。久保先生は同じ座間キリスト教会の出身で、離散したイスラエル人とか終末論を研究している人です。久保有政師のホームページを見るとこのようなことが書いてあります。フランシスコ・ザビエルが16世紀に日本にやって来たとき、数多くの日本人が、彼を通してカトリックの教義を聞きました。ザビエルは教皇庁へ書き送った手紙の中で、「地獄」についてのカトリックの教義を日本で説くことがいかに困難かを、次のように語っています。「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと、私たちが教えていることです。彼らは、亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。『神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのか』と、彼らはたびたび尋ねます。彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私も、いとしい人々がそのような嘆きを隠せないのを見て、涙を抑えられないことがあります」。ザビエルは結局、日本人に対しては、地獄の恐怖を説くのではなく、十字架の福音の恵みを強調することによって、宣教を推し進めました。しかし、どこへ行っても、「キリストを信じないまま死んだ私の両親や、先祖たちは今どこにいるのですか」という日本人の質問に悩まされ続けたのです。

 久保有政師の回答はこのようなものです。陰府は、地獄とは全く別の場所です。今日、クリスチャンは死後は天国へ行っており、一方、未信者は死後、陰府に行っています。未信者は地獄に行っているのではありません。地上に生きている間になす回心は、他の何にもまさって尊いものです。生きているときに信じるのが、一番良いのです。しかし一方では、地上に生きている間に福音を聞く機会が一度もなかった人々も大勢います。彼らは、今は死んで、一般的死者の世界である「陰府」にいます。あるいは、地上にいるときは福音を聞く機会が充分なかった、という人たちもいます。彼らは、ただそれだけで、もう救われないのでしょうか。そうではありません。聖書は、福音は陰府に行った人々のためにも存在している、と明確に語っているのです!ピリピ2:10-11新共同訳「それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ここで「地下のもの」と言われているのは、陰府にいる人々をさします。「地下」の世界は聖書ではつねに陰府を意味し、陰府は「地下の国」と呼ばれています(エゼ32:18)。聖書は、福音は陰府の人々のためにも存在していると、述べているわけです。ヨハネ5:25-28「死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。…そして聞く者は生きるのです」とも言われています。イエス様が「生きる」というとき、それは救われるという意味です。陰府の死人であっても、キリストの福音を聞き、生かされるとき、神への心からの礼拝を捧げることができます。まさに死後のセカンド・チャンス、死後の救いです。キリスト者以外の死者は、今は陰府に行っています。地獄に行っているのではありません。陰府は一般的な死者の世界であり、一方、地獄は最終的な刑罰を宣告された人々のみが、世の終末になって行く所なのです。 陰府はいわば留置場のようなものであり、裁判前のものです。一方、地獄は刑務所のようなものであり、裁判後、刑の確定後に収容されるものです。刑務所では、もはや弁護士も来ることはありません。しかし留置場や拘置所など、裁判前の所では、弁護士も来てくれることがあります。裁判のときに無罪となることもあります。「キリストの陰府における福音宣教」という主題は、ギリシャ正教では昔から一般的なものでした。

 久保有政師の教えはさらに続きますが、最後まで読むと、「ああ、セカンド・チャンス、死後の救いはあるかもしれない」と思うかもしれません。Ⅰペテロ3章や、エペソ4章などに書いてあるセカンド・チャンスのようなことは新約聖書全体にどのくらいあるのでしょうか?私は10%ないと思います。90%以上は、生きているうちに信じなければならないと書いてあるからです。たとえばヨハネ3:18-19「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」とあります。ヨハネは「今、信じないならばすでにさばかれており、将来もさばかれる」と言っています。私は交通違反で何度も捕まったことがあります。ある時、6号から入って、すぐ右折しました。なぜなら、前にバスが停車していたからです。道にお巡りさんが立っていて、「ここは右折禁止だ!」と言いました。私は「17年間ここを通っているけど、そんな標識は見たことがない!」と言いました。お巡りさんは私をそこまで連れて行ってくれました。矢印がいっぱいあるけど、右側だけ棒だったのです。「いやー、ひどい標識だなー」と思いました。では、お巡りさんは私が知らなかったということで許してくれたでしょうか?その道路標識は私が亀有に来る前から立っており、右折が禁止されていました。私は法律を破ったのです。だから、捕まったのです。5年前の2007年8月23日です。そのお陰で、7月の書き換えでゴールドの免許になりそこねました。「キリストが復活したなんて知らなかった」「キリストを信じれば救われるなんて知らなかった」。私は「知らなかった」ということも、さばきの対象になると思います。アダム以来、すべての人は罪の中に生まれ、罪を犯し、死んだら永遠の滅びが定まっていました。しかし、例外的にイエス・キリストを信じるならば罪赦され、救われるのです。これは当たり前のことではありません。特権であり、神のあわれみであります。「嬰児や2,3歳で死んだこどもは自動的に天国に行くのでは」という神学もあります。福音を全く知らなかった人、聞かなかった人が確かにいます。ひょっとしたら、イエス様が陰府にくだり福音をもう一度、宣べ伝えてくださるかもしれません。私たちはそのことも含めて、神さまにゆだねるしかありません。私は「信じなかったもの全員がさばかれて、地獄に行く」とは思いません。父なる神さまは善なる神様です。しかし、確実に言えることは、生きているうちに信じるなら救われるということです。ヨハネ12:36「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」