2012.7.15「もう十分です Ⅰペテロ4:1-6」

きょうの箇所はこの地上において、きよい生活をどのように送るかについて書かれています。イエス様が福音書で「姦淫の時代」と言われました。この世の人たちは、道徳的にも宗教的にも姦淫を行っているということです。私たちもかつては、そのような中で暮らして、何とも思っていませんでした。しかし、イエス・キリストの尊い血潮によって贖われ、神さまのものになったならば、そういう生活を続けることはできません。それで自分は変わったとしても、自分を取り囲む環境は相変わらずそのままです。では、どうしたら私たちは罪から離れ、きよい生活を送ることができるのでしょうか?

 

1.武装せよ

 

Ⅰペテロ4:1-2「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」この手紙を受け取った人たちは様々な試練の中で苦しんでいました。あるしもべは主人から不当な扱いを受けていました。また、ある人は信仰上の迫害を受けていました。しかし、最も大きな戦いは、肉の欲であります。彼らは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を何とか遠ざけて生きてきました。世の終わりになると、愛が冷え、悪がはびこるので、さらに大変になります。そのために、ペテロは「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じておられます。でも、イエス様はどのように苦しみを受けられたのでしょうか?ヘブル人への手紙には、肉体を持たれたイエス様が私たちと同じような試みに会われたと書かれています。イエス様は私たちにとって信仰の模範であり、同時に完成者でもあります。ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…」とあります。さらに、3節には「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」と言われています。当時、イエス様に敵対した罪人たちとはだれでしょうか?ローマ兵でしょうか?取税人でしょうか?あるいは悪人でしょうか?なんと、熱心に神さまを信じている人たちでした。律法学者、パリサイ人、サドカイ人と言われている人たちが、いつもイエス様のじゃまをしました。ないことあることを言い、議論をふっかけ、罠にはめようとしました。最後に、イエス様を捕らえ、十字架につけました。ピラトは仕方なく、イエス様を十字架につけたのです。イエス様は当時の宗教的な指導者たちを「ああ、わざわいだ」と何度もおっしゃいました。

私たちもこの世にあっては患難があります。イエス様と同じではないかもしれませんが、力ある者たちによってねじ伏せられたり、不当な扱いを受けることがあるでしょう。私はテレビや映画を見て、1つのテーマを発見しました。たとえば、刑事もの、捜査官、サスペンスやアクション、共通したテーマがあります。脇役は大きな組織の地位や権力がある人たちです。主人公というのはどちらかと言うと、そういう組織からはじかれた人です。組織からはじかれた人が事件を解決するという筋書きです。一体だれが、捜査の邪魔をするのでしょう?一体だれが仕事の邪魔をするのでしょう?所長とか、地位や権力のある人たちです。彼らは「上からの命令だ。捜査を打ち切れ」とか「お前は捜査からはずれろ」みたいに言います。主人公はそういう力に翻弄されながらも、事件を解決していくのです。見ている人は、組織からはじかれている主人公と自分を同化させます。主人公は、冷や飯を食わされながらも、事件を解決し、憎むべき人たちの鼻を最後に明かすのです。そして、見た後、すっきりするのです。心の浄化、カタルシスです。主人公が、自分の代わりに地位や権力のある人たちをやっつけてくれたからです。問題は、そういうテレビや映画で現実逃避することです。「ああー、すっきりした」と、現実は現実、ドラマはドラマみたいに、切り替えることです。それは違うと思います。ヘブル12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と書いてあります。テレビや映画の世界で、終ってはいけないということです。

ペテロは「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じています。イエス様と同じ心構えになれば、さまざまな罪や誘惑、迫害、不当な扱いに勝利できるということです。イエス様の勝利の秘訣とは何だったのでしょう?このみことばのすぐ後に何と書いてあるでしょう。「もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」アーメン。イエス様は自分の欲望を満たすためではなく、神のみこころを満たすために生きておられました。簡単に言うと、自分の生涯を父なる神さまにささげておられました。欲望を満たすことに力を注がなかったので、罪や誘惑に勝利できたのです。パウロはローマ6章でこのように言っています。ローマ6:13「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」これまでは、私たちはこの手足を不義の器として罪にささげて生きてきました。しかし、死者の中から生かされた人はどうすべきなのでしょうか?こんどは、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と命じられています。これは神さまに献身しなさいということです。多くのクリスチャンは「献身とは牧師や伝道者がすべきことであり、私には関係ない」と思っています。聖書はそんなことを言ってはいません。死者の中から生かされた人、つまりクリスチャン全員が、神さまに献身するのが標準なのです。旧約聖書のいけにえのように、私たち自身とその手足を神さまにささげるということです。でも、その目的は罪のためではなく、義のため、神さまのみこころのためであります。どうでしょう?「私自身も、手足も神さまのものなんだ」と分かれば、罪を行うことができなくなります。結論を申しますと、罪や誘惑するための武装とは、自分自身とその手足を神さまにささげるということなのです。イエス様のように、父なる神様にささげるなら、罪や誘惑に勝利できるのです。なぜなら、それ以外のことをあまりしなくなるからです。クリスチャンはすべての罪が赦されていますので、何をやっても自由です。でも、自分が神さまのものであり、神さまのみこころのために生きなければならないと自覚したらどうでしょう?優先順位ができてきて、神さまのみこころに関した大事なことはやります。そして、あまり大事でないことは後回しにするでしょう。お金の使い方、時間やエネルギーの使い方、何を思うか、考えるかということです。いつまでも、過去のイヤな出来事を思い返しません。それよりも、神さまのみこころを行うことに焦点を絞ろうとします。すべてを神さまにささげましょう。そうしたら、罪と誘惑に勝利できるのです。ハレルヤ!

 

2.もう十分です

 

神さまへの献身こそがきよい生活を送ることの重要なポイントです。また、ペテロはどこかで、罪の生活に対して、「もう十分です」と、きっぱりお別れすることの大切さも教えています。Ⅰペテロ4:3「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」口語訳には「もうそれで十分であろう」と書いています。テレビの水戸黄門でよく言われる、セリフがあります。「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」。その後、チャンチャン・バラバラがはじまります。おもな悪役がやられた後、「助さん、格さん、もう良いでしょう」。それから、「静まれ、静まれ、控えおろう。この紋所が目に入らぬか」(ジャーン)。「こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公に有らせられるぞ!」(ゴワーン)。「なぜ、最初から紋所を出さないのかな」と思います。やっぱり、悪いやつらを懲らしめてから、出すから良いのです。悪人たちは痛めつけられ、きっちりと裁かれます。それが重要なのです。見ている人はそれですっきりするのです。聖書的に考えたらどうなるでしょうか?私たちが罪を犯しても、神さまのさばきはすぐ下りません。神さまは忍耐深いお方なので、未信者のときの罪を見過ごしておられます。しかし、神さまが定めた道徳的な法則がありますので、それを破ると報いが伴います。好色や情欲に伴う報いとはどのようなものでしょう。若者たちの間にはフリー・セックスが当たり前のように行われています。現代は、新種の性病が20種類以上出ているそうです。一度かかると一生治らないウィルス性の病気もあるそうです。酔酒、遊興、宴会騒ぎに伴う報いとはどのようなものでしょう。それらは酒酔い運転、アルコール中毒、家庭崩壊につながります。テレビでやっていましたが、ホストクラブに通った女性がいました。サラ金から借りて、変なところで働いて返すしかありませんでした。忌むべき偶像礼拝などにふけるとどのような報いがあるでしょう。占いやオカルトもそうですが、最後には恐れと悪霊によって縛られてしまいます。それらは、神のさばきというよりも、罪を犯したことの懲らしめです。神さまは悔い改めることを願っておられます。そのとき、「もう十分です」というお声を聞いて、罪を棄てることができたなら何と幸いでしょう?

私は洗礼を受けた翌年、聖書学院に入学しました。その神学校では「きよめ」がものすごく強調されていました。ある教授は教室に入るなり「肉の匂いが、プンプンする」と言いました。「だれか焼肉を食べたのかな?」と思いましたが、そういう意味ではありません。時々、聖会みたいなものが開かれ、集中的に「きよめ」について語られます。ある教授は、「きよめを知らないのに、この学校の卒業生だと言ってはいけない」と言いました。あるとき、既に天に召されましたが、松木先生がⅠペテロ4章からメッセージされました。このところにある罪を説明した後、「もうそれで十分であろう」と言われました。聖書の口語訳でしたが、まるで、神さまが私に語りかけたように思いました。「もうそれで十分であろう」。「はは、わかりました」とそこにぬかずきました。25歳まで、これらの罪を一通り犯したので、「もう十分だなー」と思いました。あのとき、決断できて本当に感謝でした。良く、考えてみますと、これらの罪はみな中毒になってしまいます。「これくらい良いだろう」「まだ、良いだろう」とやっている間に、もうやめられなくなります。自分を壊し、家庭を壊し、社会を壊してしまいます。中毒になると「もう十分です」と言えなくなります。ですから、「もう十分です」と言えるのは、神さまのあわれみであります。神さまが「もう十分です」と語りかけ、自分も「ああ、もう十分です」と答える。そして、罪を離れ、罪を棄て去る。これは新しい道を歩むために絶対に必要なことです。そういう決断をすると、不思議にきよい生活を送ることができます。

 神さまのみ声の大きさは、大小さまざまであると思います。命に関わる緊急な場合は、雷のようなお声でしょう。しかし、神さまが私たちにお願いする場合は、静かで優しい声かもしれません。人の罪を赦してあげるときは、静かな声かもしれません。継続的に犯している罪から離れるべきときは、どのような声でしょうか?神さまが語られているのに、心の耳が鈍くなっているのかもしれません。心が頑なになって、み声が聞こえない。それはとても危険な状態です。テレビで川下りを見たことがあります。滝は上流からは見えないそうです。「ああ、滝だ!」と気づいた頃は、もう手遅れです。私はエルビス・プレスリーのファンです。パットブーンは熱心なクリスチャンでしたが、エルビスはそうではありませんでした。エルビスは洗礼を受けていましたが、教会から離れ、華々しい道を歩み続けました。やがて過食が原因で、ベッドから起き上がることもできなくなりました。義理の弟がいましたが、彼は熱心なクリスチャンでした。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、そろそろ神さまに立ち返るべき時が来たと思うけど…」。エルビスは「私もそう思う。私のために祈ってくれ」と言いました。その後、エルビスがひとこと祈りました。その翌日、エルビスは帰らぬ人となっていました。42歳でした。しかし、エルビスはちゃんと悔い改めて、天国に行くことができました。神さまは聖書を通して、あるときは親しい人を通して、あるときは超自然的に語ってくださいます。「もう十分です」という声を聞いて、罪から離れ、罪を棄てられる人は幸いです。

 

3.申し開き

 

Ⅰペテロ4:4-6彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」これまでは、「あなたがた」となっていましたが、4節からは「彼ら」となっています。では、彼らとはどういう人たちでしょう。私たちは、かつて、彼らと一緒に好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけっていました。しかし、ある日を境に一緒に行動しなくなりました。「あいつはどうして変わったんだろう。どうして一緒に行かないんだろう」と最初は不思議に思われるでしょう。「おまえ、付き合い悪いぞ。神さまとか言っちゃって、宗教にかぶれてしまったんだろう」。そのように、ののしったり、悪口を言われるようになります。一人だけ良い子になる。一人だけ別行動する。周りは、そういう人を許せません。仲間にひっぱり込もうとしてもだめなら、最後には迫害するでしょう。私も洗礼を受けて1ヵ月後、親友と彼女を一ぺんになくしてしまいました。毎週、礼拝に来ては泣いていました。ヤコブ4:4「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」神さまを愛しながら、この世を愛することはできません。イエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ6:24)と言われました。イエス様を信じて、洗礼を受ける前後というのは、このような戦いがあるものです。いろんな理由をつけて、なかなか、洗礼に踏み切れない人がいます。だれもがそうだとは言いませんが、私たちは同時に二人の主人に仕えることはできないのです。

それではイエス様を信じないで罪の中を歩み続けた人たちはやがてどうなるのでしょうか?「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」とあります。さばくお方とはだれでしょう?それは神さまであり、イエス様です。詳しく言うなら、神さまが奥におられ、イエス様が手前におられます。イエス様を救い主として信じて贖われている人は神さまの前に立つ必要はありません。なぜなら、イエス様がその人の罪のためにさばかれたからです。しかし、生前、与えられた賜物と使命に忠実に生きたかが問われます。これが「キリストのさばき」です。このさばきで永遠の地獄に行くわけではありません。御国、すなわち千年王国は忠実さによって、報いが異なっているようです。では、イエス様を信じなかった人はどうなるのでしょうか?弁護者であり、贖い主であられるイエス様がいません。直接、神さまの前に立つことになります。義なる神さまの前に、自分の正しさで立てる人が果たしているでしょうか?ここに「申し開き」ということばがありますが、法律用語で、答弁、弁明、理由の説明という意味です。「神さまはすぐにでもさばく」とありますが、全部お見通してあるということです。ヨブ26:6「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない」とあります。ミケランジェロという人が最後の審判という壁画を書きました。ホームページに解説が載っていました。「群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、『着衣をさせよ』という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。」神さまの御前では、すべてが露わにされるということです。私たちはそういう意味で、神さまを恐れなければなりません。

 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」ということは先週、学びました。敗者復活のようなセカンドチャンスがあれば良いと望みます。でも、一番、重要なのは生きているうちに、神さまと和解するということです。イエス・キリストの十字架によって、神さまは和解の手をすでに差し伸べておられます。もし、私たちが「その和解をありがたく頂戴します」と手を差し伸べたら、救われるのです。私たちは神さまの前に立ったら「申し開き」などできるわけがありません。しかし、イエス様が神さまとの間に立ってくださり、私たちの代わりに弁明してくださるのです。なんとありがたいことでしょう。それだけではありません。私たちは裸ではなく、義の衣が着せられています。生前犯した罪はキリストの血によって完全に覆われています。私たちが「これこれ、こういうことをしました」とお詫びしても、神さまの方が「え?そうでしたか?いのちの文(ふみ)には書いてありませんね」とおっしゃるでしょう。信仰とはどういうものでしょうか?信仰とは時間の概念を飛ばして、現在と将来を同時に見るということです。今、救われているなら、将来も救われているのです。今、神さまから義と認められているなら、将来も義と認められているのです。今と将来が連続している考え方、これが信仰です。どのように申し開きをするかよりも、イエス様を信じて、神様がくださる義の衣をいただくべきです。Ⅰヨハネ2:1-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」