2012.7.22「あなたがたは幸いです Ⅰペテロ4:12-19」

試練や不当な苦しみ、非難を受けても、喜んでいられるでしょうか?このような人は最高のレベルのクリスチャンではないかと思います。一般的に、私たちが試練や不当な苦しみにあったとき、2つの行動を取ります。第一は怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。やったらやり返す、刺し違えてもいいから戦うというタイプです。第二は「長いものには巻かれろ」です。打ち叩かれながら嵐が過ぎ去るのをじっと待つという道です。「これを差し出すので、私を苦しめないで」と貢ぐタイプです。しかし、聖書は第三の道を提示しています。それらを受けても、乗り越えていくタイプです。空を飛ぶ鷲は強い向かい風に乗ってより高く飛ぶことができます。サーファーは高い波が来たら、その波をつかまえて乗ります。クリスチャンとして、そういう生き方を送ることができたらなんと幸いでしょう。

 

1.たましいの救い

 

 この手紙は試練や苦しみの只中にあるクリスチャンに書き送られています。ですから、この手紙のテーマは「どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるか」です。クリスチャンになって、苦しみや悩みがなくなるでしょうか?あります。信仰を持ったために新たな苦しみもやって来るでしょう。この地上に生きている限り、試練や苦しみを避けることはできません。イエス様は「この世では患難がある」と言われました。では、どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるのでしょう。Ⅰペテロ1:9「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」とあります。前後から解釈すると、試練や苦しみの中でも喜んでいられるのは、「魂の救いを得ているから」ということです。みなさんは魂の救いを得ているでしょうか?でも、「魂」とは何でしょう?ギリシャ語ではプシュケーであり、精神、感情、心とも訳せます。パウロは人間を3つに分けています。外側から言うと肉体と魂と霊です。すべてのクリスチャンは霊的に救われています。ヨハネ3章には霊的な生まれ変わりこそが救いであると書かれています。しかし、魂の救いとなるとどうでしょうか?魂とは、心とか思い、感情であります。霊は救われていても、心が救われているでしょうか?なんだか、こんなことを言うとキリスト教の異端かと思われるかもしれません。

 しかし、私はあえて申し上げます。私たちはイエス様を信じて、霊的に救われるなら天国に行くことができます。しかし、私は心も救われる必要があると思います。霊的な生まれ変わりも必要ですが、もう1つ心の生まれ変わりも必要であるということです。この考えは丸屋真也先生のカウンセリングを学んで与えられたものです。丸屋先生は「心理的な生まれ変わり」と呼んでいます。長い間、キリスト教会は霊的な救いばかりを述べてきました。しかし、心つまり、考え方が古いままで生きている人が大勢いるということです。エリヤハウスでは「心の中のすべての部分が福音化されるべきだ」と言っています。心のある部分には福音の光が届いていますが、ある部分は古いままであるということです。本当にそんなことが聖書的なのでしょうか?ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ書は1章から5章の前半までが罪の赦しについて書かれています。そして、5章の後半からは原罪からの解放について述べられています。そして12章1節には「そういうわけですから」と別なことが言われています。「心の一新によって自分を変えなさい」とあるので、霊ついては語られていません。ここで言われている心はヌースであり、考えとか思いです。「心の一新」とは、心の更新という意味であり、生まれ変わりと同じ意味です。そして、「変える」というギリシャ語はメタモルフォーで、青虫が蝶に変身することばです。英語ではtransformです。つまり、私たちは霊的に生まれ変わったけれど、心が相変わらず古いままでありえるということです。霊的に生まれ変わったならば、心も生まれ変わるべきではないでしょうか?私は心の癒しを20年以上求めてきました。最初は座間キリスト教会に新井宏二先生が来られ、インナーヒーリングについて教えてくださいました。田中信生先生、聖契神学校のディール師からも学びました。さらにはチャールズ・クラフト、ニール・アンダーソンの本も読みました。インドネシアや蒲郡で「解放のキャンプ」も受けました。服部雄一先生からも「ひきこもり」について学びました。エリヤハウスでは2年間学びました。丸屋真也先生から2年間、李光雨師から2年間学びました。お金と時間をどのくらい使ったか分かりません。

最終的にわかったことはこれです。心が完全に癒されるのは天国に行ってからです。もし、私の心が完全に癒されるのを待つなら、あと200年かかるでしょう。私はこれまでこの「心」が癒されるように願い求めてきました。しかし、別な方法があることに気がつきました。それは私たちが霊的に生まれ変わったのと同じです。私たちはクリスチャンになるとき、古い霊と新しい霊とを取り替えました。救いとはそういうことです。同じように、心の救いとは、古い心と新しい心を取り替えることではないでしょうか?パウロが言っている「心の一新によって自分を変えなさい」とはそういうことだと思います。古い心を治すよりも、新しい心に取り替える方が、自分を変える最短な道ではないでしょうか?私はそれをすることができました。李光雨先生がこの教会でも話されたことがありますが、AコースとBコースです。Aコースというのは、これまでの壊れたコア世界観を持っている心です。コアとは心の核であり、考えや思いの中心となっているものです。多くの場合、Aのコア世界観は弱くて壊れやすいものです。みんなこれで生きているので、恐れと不安で支配されています。それに比べてBのコア世界観は神さまがくださる新しい世界観です。神さまご自身が支えておられるので決して壊れることはありません。しかし、AからBへと、コア世界観を変えるためには理由が必要です。Aのコア世界観の心の叫びを完了させる必要があります。「こうしてくれ、ああしてくれ」という心の叫びが神さまによって完了させられます。その後に、Bのコア世界観を選び取るのです。これがBコースです。では、自分がまったく別人になるかというとそうではありません。相変わらず弱さや欠点を持ったインナー・チャイルドが自分の中にいます。でも、それを脇に置いて、自分はBコースで行きます。そうすると試練や苦しみが来ても、爆発したり過剰反応しません。ちょっとはグラっときますが、神さまがなんとか乗り越えさせてくださいます。そのうち、インナー・チャイルドも成長していきます。私のパソコンにはハードディスクが2つ付いています。箱を開いて、AからBに線を付け替えると今度は、Bが動き出します。同じパソコンですが、Bのプログラムで動くので、Aとは違います。もし、あなたの心の核(コア)をAからBに付け替えたらどうでしょう?あなたの感情や肉体、生き方までも変わってきます。もちろん、Bに付け替えたあと、新しい考え、新しい生き方を教え込まなければなりません。でも、心の核(コア)が安定しているので、どんどん積極的な考えや良いライフ・スタイルを吸収していきます。以前は、不安定で脆弱なAのコアだったので、いくら積極的な考えや良いライフ・スタイルを入れてもすぐはじき返されてきました。心の奥底で、それは不可能だと思っているからです。私は脆弱なAからBのコア世界観に取り替えました。どんどん積極的な考えと良いライフスタイルが身についています。第一に毎日が幸せです。これが、ペテロがいう魂の救いではないでしょうか?Ⅰペテロ1:9「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。ペテロは信仰の結果、たましいの救いを得ていると言いました。霊的な救いと同時に、魂の救い、心の救いを得てください。

 

2.あなたがたは幸いです

 

 ペテロは何と言っているでしょう?私たちが試練や苦しみにあったらどうすべきなのでしょうか?Ⅰペテロ4:12-15「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」ここには3つのことに対する、聖書的な反応の仕方が書かれています。一番目は、燃え盛る火のような試練がやってきたときです。普通でしたら、思いがけないことが起こって驚き怪しむでしょう?別なことばで言うなら「神さまを信じているのに、なんでこんなことが起こるんだ。なんでだよ?」です。「思いがけないこと」とはハプニングです。ギリシャ語辞典には、自然現象や叫び、騒ぎ、不平、飢餓、戦争、争い等で生じると書いてあります。私たちは予期しないこと、自分を壊すようなとんでもないことが起こるとどうでしょうか?2つの反応をします。第一はこっちも怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。でも、刺し違えてもいいから戦うしかないという道です。第二は長いものには巻かれるしかない。嵐が通り過ぎるのを、耐えて待つという道です。しかし、魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人は別な反応をします。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜ぶ」ということです。「苦しみを喜ぶ」そんなことがありえるのでしょうか?パウロはピリピ人への手紙の中で「喜びなさい」と何度も言っています。パウロは何も悪いことをしていないのに、牢獄に閉じ込められ、自由を奪われています。犯罪人のように扱われ、脅かされています。しかし、パウロは自らも喜び、ピリピの人たちにも「喜びなさい」と命じています。イエス様も何も悪いことをしていないのに、打ち叩かれ、苦しめられ、ひどい目に合わされました。「わぁ、私もイエス様と同じだ。イエス様の苦しみにあずかれるんだ。わぁー」。「いや、できるかなー」と思います。でも、空の鷲は向かい風を喜んでいます。サーファーも大きな波が来ると喜んでいます。パウロは言いました。Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」パウロは死ぬほどの危険に会いましたが、そこで神さまの救いを体験しました。だから、「これから将来も救い出してくださる。なおも救い出してくださる」と期待しています。私たちも試練や苦しみの中でも、神様を信頼し、その中で喜ぶべきです。富士急ハイランドにはものすごいジェットコースター「高飛車」があるようです。121度の最大落下角度がギネス世界記録に認定されたそうです。乗っている人は「キャー」と叫びながら、スリルを楽しんでいます。わざわざお金を払って、危険にさらされて、喜んでいます。バンジージャンプを楽しんでいる人もいます。私たちも試練や苦しみの中で、ハプニングを喜ぶようになりたいです。「ここにも神さまがおられ、私をささえておられる。ハレルヤ!」と。

 二番目は人々の非難です。悪口を言われたり、ののしられたりする時、どうすれば良いのでしょう。第一はこちらも負けじと相手を非難し、ののしり返すというやり方です。「死ね!」と言われたら「お前こそ死ね!バカヤロー」と言うことです。第二は言われて萎縮し、そこに座り込むことです。韓国の芸能人で自殺する人がかなりいます。ホームページやブログに「馬鹿、死ね!」と書かれて、しまいに自らの命を絶つ人がいます。第三は何でしょう?第三は魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人です。14節「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」幸いとは、英語の聖書にhappyと書かれています。人から悪いことを言われて、happyになれるんでしょうか?なぜ、happyなんでしょう?神の御霊が、とどまってくださるからです。とどまるとは、そこにじっとして休息するという意味のことばです。聖霊はよく鳩にたとえられます。なぜなら、イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように下ってきからです。そのあと、聖霊はずっとイエス様の上にとどまっておられました。私たちもときどきではなく、聖霊がずっと私の上にとどまっておられたなら何とhappyでしょうか?聖霊が私たちをなぐさめ、聖霊が私たちを癒し、聖霊が私たちを立ち上がらせてくださるでしょう。なぜなら、聖霊は「慰め主であり」非難される人の味方だからです。

三番目は16節です。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」これは、辱めを受ける、恥を受けるような苦しみです。イエスさまも辱めを受けました。役人たちは目隠しをして、イエス様を叩き、「だれが叩いたか当てろ!」と言いました。ひげを抜いたり、つばをかけました。みなさんの中で、つばをかけられた人がいるでしょうか?また、イエス様はローマ兵から、いばらの冠をかぶせられ、さんざん嘲弄されました。死ぬ一歩手前まで鞭打たれました。そして裸にされ十字架に付けられました。イエス様と比べたなら、私たちが受ける辱めや恥など、小さいものです。しかし、辱めや恥は私たちの自尊心を傷つけ、人格を破壊する力があります。では、どうしたら良いのでしょうか?第一は侮辱には侮辱を、恥には恥を与えるという道です。第二はそれらをただ受けて、地の底に沈んでしまうという道です。そうでありません。第三の道があります。魂に救いを得、Bコースを歩んでいる人はどうするでしょう?「かえって、この名のゆえに神をあがる。」「ああ、私もイエス様と同じ辱めにあった。嬉しい。主をあがめます」ということです。これはよっぽど神さまから愛されて、心が本当に健康なら耐え忍ぶことができるでしょう。雨がえるが、水をかけられたらどうなるでしょうか?目をぱちぱちして、「うれしい」と思うのではないでしょうか?私もそういうふうになりたいですね。とにかく、いろんな苦しみや試練を受けますが、それを乗り越える姿がここに記されています。本来なら立ち向かうか、あるいは巻き込まれるか、この2つしか選択肢がないようです。しかし、それらを乗り越える第三の道があるということです。乗り越えるというのを英語で、overcomeと言います。李光雨先生はこのことばを大変好んで使われます。overcomeとはその名のごとく、上を乗り越えるということです。たとえ、苦しみや試練を受けても、そこで喜び、そこで幸いを得、そこで主をあがめるということです。私たちは苦しみや試練を乗り越えたら、そうしたいところですが、乗り越える前からそうできたら何と幸いでしょう。「ああ、また来たな。とうとうやってきたな。主よ、あなたの出番です。私と共にいて、乗り越えさせてくださるのですね。」そうしていると苦しみや試練が、苦しみや試練で終りません。その中で、私たちは金のように練られ、純粋なものとされるのです。いよいよ、主の栄光を拝するものとなるのです。

 

3.神のさばき

 

ペテロの手紙もそうですが、聖書が一貫している教えがあります。それは神さまのさばきがあるということです。神さまは悪に対しては必ず裁くお方です。私たちは神さまの最終的なさばきがあるので、仕返ししません。「やったらやり返す。言われたら言い返す。侮辱されたら侮辱する。ののしられたらののしり返す。」これは怨念晴らしの世界です。しかし、私たちが復讐しなくても、神さまが復讐してくださいます。私たちは神さまの御手に怒りや復讐心をゆだねることができます。神さまに本当にゆだねたならば、喜びと幸いを得、主をあがめることができるのです。あなたの怒りと復讐心を神さまの御手にゆだねましょう。神さまはどんなお方でしょうか?Ⅰペテロ4:17-18「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」私たちはこのところから、神さまを恐れるということを学ぶべきです。神さまはお友だちではありません。神さまはあくまでも神さまです。ある人たちは万人救済説、「すべての人が最終的には救われる」という神学を唱えています。聖書にはそういうことは書かれていません。さばきが来るとはっきり言われています。神の福音に従わない人たちの終わり、神を敬わない者や罪人たちがどうなるか言われています。ここには神のさばきがあることが明記されています。しかし、良く見るとさばきには順番があります。さばきは、まず神の家から始まると書いてあります。神の家とは教会です。そして、義人がかろうじて救われるとも言われています。これは人ごとではありません。自分自身も神さまとの関係、さまざまな出来事において、自分を吟味する必要があります。罪が満ちているこの世において、私たちも罪を犯し、そのまま放置している場合があるかもしれません。だから15節で「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」と言われているのです。

そういうことも考えながら、総合的に言えるべきことは何でしょう。ペテロの手紙の主題は試練や苦しみに関するものです。どんな試練や苦しみがあったとしても乗り越える道があります。神さまが共にいて乗り越えさせてくださいます。そして、私たちは精錬された金のように出てくるのです。もう1つはその背後に、はっきりとした神のさばきがあるということです。私たちは神さまと和解することが必要です。罪を贖われたイエス・キリストを信じて、神さまと和解するということです。ある人たちは、神さまと和解できたかもしれませんが、人との和解がまだできていないかもしれません。まだ、恨みをもって生きています。「あいつだけは別だ」と言っているかもしれません。しかし、それでは神さまのさばきに立つことはできません。神さまが「私はあなたを赦してあげましたよ。こんどはあなたの番ではないでしょうか?」とおっしゃるでしょう。これは脅しとか交換条件ではありません。神の恵みに対する応答です。私たちが本当に喜びと幸いを得、主をあがめることができるのは、他者の罪を赦し、怒りを神さまに手渡すときです。ペテロも、4:19「ですから…真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っています。主の祈りにもありますように「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」と心から祈りましょう。ハレルヤ!