2012.8.5「神の羊の群を牧しなさい Ⅰペテロ5:1-5」

先月「亀有教会の理念」が発行されました。その中に、教役者(牧師)の役割というものが記されていました。「かしらなるキリストに仕える」「ビジョンを示す」「権威を委譲する」「聖礼典を執り行う」など、すべきことが4つありました。きょうの箇所は、その心構えであります。やっていることは見えますが、その心構えは見えません。でも、心構えはところどころに現れてきます。「イヤイヤやっているなー」とか「ちょっと横柄に見えるなー」とか、あるかもしれません。それらはみんな、心構えから来るものです。しかし、きょうのメッセージはだれのためのメッセージでしょうか?もし、「これが、牧師が持つべき心構えです」と言ったならば、自分の首を絞めることになります。でも、私たちは聖書から、順番に学んでいますから、きょうの内容も全員に必要であろうと思います。ここに「長老たち」と出てきますが、当時はみことばを教える長老と監督指導する長老がいました。一人で両方を行うか、あるいは別の人を立てて奉仕を分担していました。ここでは、文脈上、長老イコール牧師といっても構いません。ペテロは本来、使徒でありましたが、長老の一人としてへりくだって勧めています。おそらく、ポント、ガラテヤ、カパドキア、ビテニアにそれぞれ長老が立てられていたと思います。ペテロは「指導者として、以下の3つの心構えを持つように」と勧めています。

 

1.強制されてではなく、自分から進んで

 

Ⅰペテロ3:2「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて羊を牧することがあるのでしょうか?ちなみに、牧師という言葉は、羊飼いが羊を牧するというたとえから来ています。カトリックでは神父と言って、神さまの代理人のイメージがあります。しかし、プロテスタント教会では、そうではありません。イエス様が大牧者であり、羊の所有者です。そして、牧師はイエス様から託された羊をお世話します。では、「強制されてどこかの群の牧師になるということがあるのでしょうか?」あります。教会が教団に属している場合、「その教会に行きなさい」と牧師が派遣された場合です。教会よりも教団の方が強くて、牧師を遣わすという場合があります。その牧師は自らの意思ではなく、教団の命令だから逆らえないのです。あとは父親が牧師で、息子が後継ぎになる場合です。あとは、後継者がだれもいないので、会衆から「お前がやれ」と強制されるかもしれません。少し極端ですが、以上のような教会もないわけではありません。

しかし、「一体だれが牧師になれ!」と任命するのでしょうか?大牧者なるイエス様ではないでしょうか?日本はキリスト教国でないので、牧師になってもあまり尊敬されません。給料が低くて生活が苦しいのが相場です。教会員からいじめられ、追い出されるときもあります。そういう姿を見た牧師の子どもは自分が牧師になりたいと思うでしょうか?「牧師には絶対にならない」という若いクリスチャンもいるでしょう。では、どうして牧師になるのでしょうか?「イエス様がなれ」と命じたからであります。これを召命と言います。神からの召命がなければ、決してできる仕事ではありません。そこで、ペテロは何と言っているでしょうか?「神に従って、自分から進んでそれをなし」と言っています。原文は「神さまに応じて、自発的に」という意味です。第一に神さまの召命(命令)があります。それに対して、自分が「分かりました」と従うわけです。あるときマタイが収税所で仕事をしていました。イエス様が収税所にいるマタイを見て、ひとこと「わたしについて来なさい」と言われました。マタイは立ち上がって、イエス様に従いました。マタイはイエス様に「給料がどのくらいもらえるか、社会保険があるのか、家と車が備えられているのか」全く、聞いていません。マタイは直ちに従って行きました。これが「神さまに応じて、自発的に」という意味です。だから、教団とか牧師である親、あるいは教会員から強制されてなるのではありません。神さまからの召命こそが、最も大事なのであります。

韓国の昔の話です。貧しくて、小学校も出ていなかった男性が神学校に入りました。成績が卒業のレベルに達していないため、教授たちの中に立たされました。教授たちは彼に留年を伝えるつもりでした。その男性はひとこと祈らせてくださいと祈りました。「父なる神さまこの神学校を卒業して牧師になりたいです。どうかお願いします。イエス様のお名前によってお祈りします」と祈りました。その後、みんなが「アーメン」と言いました。男性は「それでは卒業させてもらえるんですね」と言いました。教授たちは「ダメだよ。君の成績では卒業できない」と言いました。しかし、男性は、「今、先生方は『アーメン』と言ったじゃありませか。だから、卒業させていただきます」と答えました。この男性のメッセージはとても単純でした。「イエス天国、信じないなら地獄」でした。彼は飲まず食わず伝道をしながら、村々にたくさんの教会を建てたそうです。馬に乗った日本の憲兵に「イエス天国、信じないなら地獄」と叫びました。憲兵は驚いて馬から落ちたそうです。ですから、人から強制されてではなく、「神に従って、自分から進んでそれをなす」ことが重要なのです。

 

2.卑しい利得を求める心からではなく、心をこめて

 

イエス様の時代、宗教家たちは卑しい利得を求めていました。中世においても、教皇や司教は卑しい利得を求めていました。自分たちに献金すれば、煉獄から天国に行けると言いました。煉獄は辛い修行の場所です。もし、地上のだれかが献金したら、その人の罪が軽くなり、天国に行けるのです。これは嘘です。また、教会が国教会になるといろんな利権が生まれるでしょう。宗教が国家権力と結びつくと堕落するものです。イギリスやドイツでもそういうことがありました。卑しい利得とは、「汚いお金、不正な利得」という意味です。お金はいつの時代も誘惑であります。特に牧師は貧しいので、「あったら良いなー」と思うでしょう。どんな俳句や川柳にもくっつく下の句があるそうです。「五月雨を集めて早し最上川」、「それにつけても金のほしさよ」。「朝顔につるべ取られてもらい水」、「それにつけても金のほしさよ」。教会では「お金」は汚いものだと思われています。だから、お金のことはあまり言いません。昔の教会では、清貧に甘んじることが美徳とされていました。牧師は霞を食べて生きていると思われたようです。そのため、裏で悪いことをしたり、偽善的な生き方をする人もいました。卑しい利得を求めるのは、よくありませんが正しい報酬は求めても良いのです。Ⅰテモテ5:17-18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。』」こういうみことばは、講壇から話されることはほとんどありません。特に「きよめ」を強調する教会はそうです。でも、報酬について正しく語られなければ、この先、牧師になる人がいないでしょう。

しかし、ここで言われていることは、「心をこめてしなさい」ということです。これは、「喜んで」「快く」あるいは「熱心に」という意味があります。この世では、いっぱいお金をもらえるなら、「喜んで、熱心に」やるかもしれません。しかし、いくらもらえるかに関係なく「喜んで、熱心に」奉仕するということです。これはある有名な伝道者の証です。まだ、駆け出しの頃、ミッションスクールでの奉仕に新幹線で出かけたそうです。学生たちの前で、全力で話しました。帰りに封筒をあけたら「ゼロ」の数が思っていたよりも1つ少なかったそうです。そのとき、「これじゃ、新幹線代にもならない」と思ったそうです。しかし、すぐに神さまに悔い改めました。その先生は、人数が多かろうと少なかろうと、報酬が多かろうと少なかろうと「心をこめて」全力でやり続けました。だから、今でも用いられています。その先生が、当亀有教会に来てくさったことがあります。まだ、古い会堂で、子どもたちも小さかったです。特別集会が終ってから先生に謝礼を差し上げました。すると、先生は目の前で封筒を破り、「子どもたちにうまいものでも」とその中から2万円くださいました。いや、1万円だったかもしれません。とにかく、驚きました。私も職業柄、結婚式やお葬式の奉仕があります。謝礼ですから、決まった額はありません。「おいくら差し上げたら良いでしょうか?」と聞かれても答えません。多い時もありますし、少ない時もあります。神さまは生きておられますので、ちゃんと帳尻を合わせて下さいます。「卑しい利得を求める心からではなく、心をこめてする」ということが大事だと思っています。

 

3.支配するのではなく、むしろ群れの模範となる

 

「支配」とは、「圧制する」「独裁的になる」という意味です。お金もそうですが、「支配」も魅力があります。中世の時代は、教皇と王様、どちらが権力があるか争いました。あるときは王様、またあるときは教皇に権力がありました。プロテスタントになってからはどうでしょうか?イギリスではエリザベス女王が国教会の首長になりました。しかし、それでは良くないと、長老派や会衆派が出てきました。ですから、今でも牧師の権威は教会によってまちまちです。聖公会やペンテコステ教会は牧師の権威が高いです。しかし、バプテスト教会になると信徒と同じ立場で、機能だけが違います。私も人間ですから、「教会を自分の思うとおりに動かせたら良い」と思います。単立教会で、カリスマ的で能力のある牧師は結構良いところまで行きます。しかし、ワンマンになりすぎて、軌道をはずれる場合もあります。何でも思い通りにやると、カルト的な教会になってしまいます。牧師が偉くなりすぎて、だれもとめられない場合があります。たとえば、エンジンが大きくて馬力のある車に乗りたいでしょうか?加速もあり、ものすごいスピードが出ます。でも、車にはブレーキも必要です。いくらスピードが出ても、ブレーキのない車に乗る人はいません。一方、ブレーキだけでは車は走りません。「これもダメ、あれもダメ」と言っては、教会は進みません。だから、牧師は聖霊から来るビジョンと熱心さを持つことが必要です。それと同時に、「常識的にどうなのか、予算的にどうなのか」と水をさす人も必要なのです。

ペテロは何と言っているでしょうか?「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めています。「支配する」とは、人に「これをしなさい」「そこへ行きなさい」と命令することです。でも、「模範になる」とはどういう意味でしょうか?言うだけではなく、自分でやって見せるということです。そして、「あなたも私のようにできますよ」と励ますことです。これって結構、難しいです。口でしゃべるのは優しいけれど、実際に行うのは難しいです。たとえば、牧師は教会員に「伝道しなさい」「祈りなさい」「家庭を開いてセルをしなさい」「世の人々に仕えなさい」と聖書から勧めます。では、「自分ができているだろうか?」「良い模範を示しているだろうか?」と言われたら疑問です。伝道1つでもそうです。牧師は講壇から話しますが、外で伝道する機会はほとんどありません。知らない人と友だち関係になってから、伝道するというのは大変です。たまたま、教会に尋ねてきた人には伝道できます。でも、どうやったらこの世の人たちに伝道できるでしょうか?郵便局で2年4ヶ月アルバイトをしたことがありますが、そのときは結構、伝道しました。でも、教会に結びついていません。郷里伝道もしましたが、洗礼を受けるまでは行きません。韓国のキム・ソンゴン牧師は、年間、教会で洗礼を受ける人の1割を自分が導きたいと願っています。先生はとても忙しくて、世の人たちのところへ出かけることができません。それでどうしたでしょうか?パートを頼んだそうです。「1時間、私の礼拝に出席すると、これこれ支払う」と言いました。昨年の話ですが、30数名くらい、それで救われて洗礼を受けたそうです。「いや、それもちょっとなー」と思います。当教会におられた山崎長老さんは、いろんな手を使いました。「お昼ごはんご馳走するから集会に来なさい」とか、「その品物買うから集会に来なさい」と誘ってきました。ちょっとこの世的かもしれませんが、「伝道しよう」と思えば、アイディアが浮かびます。今の人は、口で「やれ」と言っても動きません。教会も同じで、牧師がお手本を見せるということが重要です。自分がそう言ったのですから、そうしたいと思います。「模範を示して、教える」「教えて、模範を示す」です。アーメン。

 

4.神さまの報い

 

きょうの主題は牧師にとって、自分の首を絞めるようなものです。こんなにしてまで、牧師になりたい人がいるでしょうか?世の中の仕事の方がよっぽど楽しくて、報いがあると思うでしょう。牧師に召されるとは貧乏くじをひくことなのでしょうか?でも、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ5:4「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」アーメン。はっきり言えることは、羊の所有者は神さまです。そして、イエス様が大牧者です。大牧者とは、「牧師のかしら」という意味です。昔のことばで言えば、「ドン」「総元締め」であります。牧師は大牧者なるイエス様のもとで仕えているのです。信徒に仕えているというよりも、大牧者なるイエス様に仕えているのです。信徒から給料をもらっているのではなく、大牧者なるイエス様からもらっているのです。信徒に報いてもらうというよりも、大牧者なるイエス様から報いてもらえるのです。ちょっとこれはオーバーな表現かもしれません。でも、究極的には当っています。多くの牧師が燃え尽きたり、失望落胆するのは、この順番が分からないからです。牧師は信徒から雇われているのではなく、イエス様から雇われているのです。ハレルヤ!これが重要なのです。牧師はどの職業よりも、傷つきやすい職業です。ある信徒は「私たちの献金で牧師家族を養っているんだ!」と言います。しかし、それは間違いです。みなさんは神さまに献金しているのです。その次に、神さまがご自分の群のために働いている牧師に「いくらいくら」与えるのです。しかし、神さまがこういう制度を許しているのは、牧師が謙遜になるためでもあります。ある牧師は会社で働いて、一銭も献金からいただきません。そうすると牧師はどういうふうになるでしょうか?「私はあなたがたから世話になっていません」と、どうしても傲慢になります。だから、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ5:5「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」「みな」とは、長老も若い人も、牧師も教会員もということです。みな、お互いに謙遜という着物を身につけるべきです。大切なことは、高ぶらないで謙遜になるということです。へりくだり、謙遜になるならば、神さまが恵みを与えてくださるからです。私たちは自然と高ぶってしまいます。高慢になるのには努力はいりません。でも、謙遜になるためには努力が必要です。私たちは外に出るとき必ず衣服を身に付けます。もし、裸で外を歩いたら捕まってしまうでしょう。でも、すべてのクリスチャンが身につけるべき衣服があります。それは謙遜という衣服です。何を着ても構いませんが、謙遜を1枚はおりましょう。

最後に、もう一度、神さまの報いということをお話したいと思います。「牧師になって何の得があるんだ」と思っている人もおられるかもしれません。Ⅰペテロ5:4「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」この世で尊敬され、高収入を得られる仕事とは何でしょう?医者とか弁護士でしょうか?それに比べ、牧師はマイナーな職業かもしれません。特に日本ではそうです。アメリカやヨーロッパはそうでないかもしれません。でも、人に尊敬されるかとか、お金の問題ではありません。ここには、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」と書いてあります。今、ロンドン・オリンピックたけなわです。サッカーとかどうなんでしょうか、ちょっと気になります。当時、ギリシャでオリンピックがありました。優勝者、勝利者には月桂樹の冠がかぶせられました。すばらしい光栄です。でも、ペテロは私たちが受けるのは「しぼむことのない栄光の冠」であると書かれています。月桂樹の冠はいつかは、しぼんでしまいます。たとえ、金メダルと取ったとしても、この世限りのものであり、永遠ではありません。大牧者なるイエス様がくださる栄冠は、しぼむことのない栄光の冠です。これは永遠のものであり、御国で受ける神さまの報いです。それではこれは牧師だけが受けるのでしょうか?そうではありません。牧師と同じように、人々のお世話をし、人々を建て上げた人にも与えられると信じます。なぜなら、聖書には「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。マルチンルターも万人祭司説を唱えました。エディ・レオ師が今年の4月石巻に来られこのように教えてくださいました。「牧師が自ら牧会の働きをすることは牧師の働きのわずか20%です。しかし、80%の大事な働きがあります。第一は群を見渡しながら、「あなたは他の人の世話をし、他の人を建て上げていますか」と監督することです。第二は、もしそれができていなければ、牧会できるように訓練することであると言いました。群を牧会するのは牧師一人ではありません。すべての信徒が、「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。つまり、牧会的な働きを忠実に行うなら、だれでも「しぼむことのない栄光の冠」を主からいただくことができるのです。オリンピックで栄冠のメダルを取れる人はまれでしょう。だれでも取れるものではありません。しかし、大牧者なるイエス様が用意されている、「しぼむことのない栄光の冠」はそうではありません。あなたもいただくことができるのです。あなたもすばらしい栄冠の冠をいただくことができるのです。