2012.8.12「神にゆだねなさい Ⅰペテロ5:6-7」

みなさんは学校のとき、国語の成績はどうだったでしょうか?私はあまり良い方ではありませんでした。本もほとんど読みませんでした。一番上の兄が、下の弟や妹に、筑摩書房の日本文学大系全50巻を買ってくれました。しかし、その中の数巻しか読みませんでした。そのほとんどが、実家の秋田にあります。牧師になってから、本を読んでいます。ところで、聖書には節とか段落というものがあります。原文のギリシャ語にはありませんが、便宜上、そういうふうになっています。前回の礼拝では1節から5節まで学びました。なぜなら、段落がつけられており、1つの塊になっているからです。でも、ある英語の聖書は1節から4節までが1つの塊で、5節から7節までが1つの塊になっていました。きょうは、6節からですが、前の5節も関係しているということを最初に申し上げます。

 

1.へりくだりなさい

 

Ⅰペテロ5:6「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」ここに「へりくだる」とありますが、どういう状況でへりくだるのでしょうか? 6節のはじめに「ですから」と書いてありますので、前の節と繋がっています。では、5節を読んでみます。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」若い人たちに対し、長老たち(教会の指導者)に従いなさいと命じられています。戦争に負けてから、「権威に従う」ということがあまり言われなくなりました。家庭でも父親の権威は失墜し、学校でも先生の権威が失墜しています。そのために、家庭も学校も混乱しています。では、教会はどうでしょうか?牧師の権威を強調するとカルトみたいにとられます。当教会は、1995年からセルチャーチを導入しました。そのとき「フラット」「フラットになる」ということばがはやりました。牧師と信徒とのフラットな関係です。セルチャーチで共同体になるのは良いのですが、弊害も出ました。それは聖書的な権威がなくなり、みんなタメ口になります。みんなモデルのローラのようになります。確かに神さまの前では牧師も信徒もフラットかもしれません。しかし、牧師には身分ではなく機能としての権威が与えられています。その人自身を守るため、あるいは群全体を守るために、「ノー」と言わなければならない時もあります。だから、ペテロは「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」と命じているのです。長老たちとはだれかと言うと、1節から4節まで書いてある、神の羊を養う指導者のことであります。指導者に従うということは、結局、その人自身が守られるということなのです。

でも、その後に何と書いてあるでしょう?「みな互いに謙遜を身に着けなさい」とあります。「若い人たちだけではなく、指導者たちもそうですよ」ということです。なぜなら、指導者たちこそ、高ぶる恐れがあるからです。聖書では、謙遜というのが衣服のようにたとえられています。みなさんは、家の中では普段着かもしれませんが、一歩、外へ出るとある程度の服を着るでしょう。いくら暑くても裸で外を歩く人はいません。同じように、教会という神の家族の中でも、衣服が必要です。それは、「謙遜」という衣服です。春ごろですが、近くにアリオ1階のヨーカドーに買い物に行きました。レジをすませた後、はおっていたジャンパーが裏表であることに気付きました。家から買い物をしている間、ずっと裏表だったんですね。今どきの流行で、裏表もアリかもしれません。しかし、いいおじさんが、そういうファッションはしないでしょう。いやー、顔から火が出るような思いをしました。みなさん、「謙遜」という衣服を着ていますか?それを来ていないと、高ぶりが丸出しになります。私たちは努力しなくても、自然に高ぶることができます。謙遜には努力が必要ですが、高ぶりには努力はいりません。うまくいくと、「俺がやった」「私がやった」とつい誇りたくなります。特に能力のある人、人の前に立つ人は、要注意であります。私はJCMN、セルチャーチ・ネットワークに属しています。私はこれでも関東のコーディネーターであります。香港のベン・ウォン師が6年位前にやって来て「できる、できる、教会開拓はできる」と言いました。練馬グレースもそれに踊らされて「10年で40の教会を生み出す」と宣言しました。あれから3年たっても1つも生み出していません。今年の春、私は怒って「本質だけじゃ分からない。日本人は方策や戦略も教えてもらわないとダメなんだ」と言いました。他の先生も「そうだ、そうだ」とか言って、今年から新しい取り組みを始めました。先月もすばらしいセミナーを持つことができました。私は「次回の10月はこういうテーマで学びましょう」と提案しました。家に帰ってから、どうなったでしょう?高ぶりがありました。家内に「私がこうした」「私がこう言った」と言いました。寝る前に、「自分は高ぶっているなー」とすぐ分かりました。確かに、神さまは私に知恵を下さったかもしれません。しかし、もっとすばらしいことは小笠原先生をはじめ、他の先生方が「そうだ、そうしよう」とへりくだって下さったからです。私が、このまま高ぶるなら、やがてそっぽを向かれるでしょう。本当に恐ろしい思いがしました。高ぶるのには努力はいりません。へりくだるのに努力が必要なのです。

6節後半の、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とはどういう意味でしょう?「神の力強い御手」とは何なのでしょうか?そのヒントはやはり、前の5節にあります。神さまはどのような力を持っておられるのでしょうか?前の5節後半には「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えるからです」と書いてあります。神さまは高ぶる者に対して敵対します。反対に、へりくだる者には恵みを与えてくださるお方です。旧訳聖書を読むとわかりますが、神さまを捨てて高ぶった王様はすぐ退けられています。しかし、へりくだって神さまと共に歩んだ王様は長く用いられました。確かに、神さまは生きて働いておられます。ハドソン・テーラと言えば、中国の奥地伝道で有名な宣教師です。彼は一人で中国に乗り込み、とても大きな働きをしました。数年後、本国から宣教師が送り込まれ、宣教団体ができました。ハドソン・テーラは助けになると思いましたが、そうではありませんでした。他の宣教師たちは「何故、お前だけが勝手にやるんだ」と彼をねたみました。ハドソン・テーラは神さまに「私がこんなに一生懸命やっているのに、なぜ、他の人たちは邪魔をするのですか」と文句を言いました。神さまは、彼に1つの幻を見せてくれました。流れの早い川の真中に自分が立っていました。流れが強い上に、石ころまでゴロゴロ流れてきます。彼は神さまに「これでは立っていられませんよ。石も痛いですよ」と、文句を言っています。そのとき、神さまが「あなたは立っているから抵抗に合うのです。川底に潜りなさい」と言いました。ハドソン・テーラは川底に潜りました。そうすると、川の水も、石ころさえも自分の上を流れていきました。自分は全く害を受けませんでした。彼は「川底に潜るとは、へりくだることなんだ」ということが分かりました。私たちも、へりくだるなら、人のねたみや妨げも問題にはならないということです。

神さまはどんなお方でしょうか?「ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」とあります。創世記にヨセフという人物が出てきます。彼はラケルの子どもで末っ子でした。それで父ヤコブからとてもかわいがられした。あるとき、ヨセフは「夢を見たよ。父も兄弟たちも自分を拝んだよ」と自慢しました。そのため、兄たちからねたみを買い、エジプトの奴隷に売られました。ヨセフはポテファルの家で仕えました。良いところまで行きましたが、誤解されて、牢獄にぶちこまれました。あるとき、牢に入れられた高官の夢を解き明かしました。「ここを出られたら、私のことを王様に話してください。無実の罪で入れられているのです」とお願いしました。しかし、その高官はコロッと忘れてしまいました。それから2年後、パロ王が夢を見ました。王さまは、その意味がまったく分からなくて、イライラしていました。「だれも、私の夢を解き明かせる知者はいないのか?」すると、あのときの高官が「ああ、一人います」と思い出しました。一番、良いときにヨセフは牢獄から呼び出され、王様の夢を解き明かしました。そして、彼は奴隷からエジプトの総理大臣になりました。なんと、ヨセフは17歳から30歳まで、13年間奴隷だったのです。そのとき、ヨセフはすっかり謙遜になっていました。「夢を解き明かすのは私ではなく神さまです」と言いました。さらには、自分を奴隷に売った兄弟たちを赦し、エジプトに非難させました。そのように、神さまはちょうど良いときに高くしてくださいます。下積み生活で苦しんでいる人もいるかもしれません。「ぜんぜん、報いられない」とぼやいているでしょうか?でも、神さまは今も生きておられます。6節をもう一度、お読みいたしましょう。5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。

 

2.神にゆだねなさい

 

Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」「思い煩い」は、心配事、問題や悩み事とも言い換えることができます。だれしも、心配や悩み事があるのではないでしょうか?しかし、心配や悩み事が全くない人たちがいます?それは墓石の下で眠っている人たちです。生きているからこそ、心配や悩み事があるのではないでしょうか?では、クリスチャンになったら、心配や悩み事がなくなるでしょうか?なくなりません。この手紙は、クリスチャンに充てられたものです。彼らも思い煩っていたのです。だから、ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言ったのです。生きているから、思い煩い、心配や悩み事があるのです。ハレルヤ!でも、私たちがこの世の人たちと違うところはどこでしょう?それらをゆだねられる神さまがおられるということです。英国の聖書はこう書いています。Cast all your cares on hem, for you are his charge.直訳するならば、「あなたの心配事すべてを彼に放り投げなさい。なぜなら、あなたは彼の責任だからです。」「彼」とはもちろん神さまのことです。Castというのは、釣りのキャスティングと同じ意味です。私たちは「放り投げるなんて、そんなに乱暴で良いのでしょうか?」と心配になります。でも、神さまがあなたの担当だったら、良いのではないでしょうか?これは昔あった紡績工場の話です。工場の中では、大きな紡織機が立ち並び、女工さんたちが忙しく働いていました。相手は機械ですから、糸が絡むことがたまにあります。あるとき、糸が絡んだため、担当の女工さんが一生懸命、直そうとしました。しかし、こんがらがって、余計おかしくなりました。それで、女工さんが「技師を呼びました。」彼女は「一生懸命、直そうとしましたが、うまくいきませんでした」と告げました。技師が彼女に言いました。「あなたがすべきことは、機械を直すことではありません。私を呼ぶことでした」。世の中にはいろんな専門家がいます。心配や悩み事を受ける専門家は私たちの神さまだということです。ハレルヤ!

では、教会で仕えている牧師の役目とは何なのでしょうか?一時代前の牧師の理想像は、教会員のお世話をすることでした。小笠原先生も本当によくお世話をします。人の話を何時間も聞いても平気です。私たちもJCMNで多くの牧師先生方のコーチングをしています。一番難しい人を小笠原先生が担当します。私などは「その人は牧師の賜物がないんだから、無理だよ」とはっきり言います。しかし、先生はそうではありません。向こうが「もう結構です」というところまで、とことん付き合います。私はバウンダリー(境界線)ということを学んで、「本当に良かったなー」と思っています。日本人の多くは共依存です。共依存は、「本来、その人がやるべきことを、代わりに負う」ことから来る問題です。つまり、他の人の責任を自分が負うということです。子どもの責任、妻の責任、夫の責任、だれかの責任です。その人の代わりに、親が負ったり、夫が負ったり、妻が負ったり、子どもが負ったり、だれかが負ったりします。そうすると、負われた人はどうなるでしょう?その人の身勝手さ、弱さ、中毒がずっと治らないということです。なぜなら、親切な人が自分の問題を取り除いてくれるからです。負っている親切な人はイヤイヤながらやっているので、心の中は怒りと憎しみがいっぱいです。なぜ、イライラして、悩み事が多いのでしょう?身勝手な人の問題まで背負っているからではないでしょうか?どうすれば良いのでしょう?余計な世話をしなければ良いのです。洗濯物がたまっても、部屋がちらかっても、宿題を忘れても、借金が重なっても、中毒で死にそうでも、放っておけば良いのです。「冷たいじゃないですか?いつ助けるのですか?」と言うでしょう。私たちが助けられるのは、その人が本当に困ったときです。いくら水泳が上手な人でも、水に落ちたばかりの人を助けないそうです。もし、飛び込んだら、しがみつかれて一緒におぼれてしまうそうです。その人がおぼれて、本当に弱ったときに、飛び込むのです。私たちはそういう人たちの消耗品になってはいけません。牧師が本来すべきことは、神さまにゆだねることを教えることだと思います。最初、少しくらいは持ってあげるかもしれません。しかし、その人が自分の重荷を持つことができるように訓練することがより重要です。中には、人の世話をするのが好きな牧師がいます。多くの人が自分を頼ってくるのを生きがいにしている牧師もいるかもしれません。それこそ、共依存の牧師だと思います。聖書にははっきり、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。面倒を見てくださる神さまのところに連れて行くことが最も重要なことです。

17世紀、イギリスにおいて理神論なる考えが生まれました。そして、18世紀のフランス革命以降、ヨーロッパ中に広がりました。理神論者は、神さまが世界を創造したことは信じています。しかし、神さまがこの世界に一定の法則を与えて創造した後、手放したという考えです。つまり、神様の手を離れた世界、自然界が意思をもって動いているということです。人々は「神様はこの世界には関知していない」「神さまはいらない」「神さまは死んだ」と言い始めました。神さまはどこかに存在していたとしても、この世界にはめったに干渉しないんだということです。ダーウィンが「自然に生物が誕生し、自然に進化した」と言いました。世の人々は「私たちはやっと神さまから自由になれたんだ。神さまなしで生きてゆけるんだ。この地上にユートピアを築くんだ」と言いました。ところが、第一次、第二次世界大戦が起こり、不安と恐れ、虚無が人々の心を支配しました。神さまがいないんだったら、自分たちで心配しなければなりません。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害もそうです。科学が進歩し、物質的に豊かになりました。しかし、今、多くの人たちの精神が病んでいます。なぜなら、不安と恐れと虚無を取り去ることができないからです。神さまは世界を造ったけれど、後は放っておいているのでしょうか?聖書は「世界を造られた神様は、今も世界を保っている」と言っています。神さまは私たちの心配や不安に無関心なお方ではありません。聖書には「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。問題なのは、神さまではなく、神さまに背を向けている人間の方なのです。神さまは解決を持っています。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害、資源不足、家庭崩壊、失業問題…すべてに対する解決を持っています。

ある人が「神さまは失業問題に関心を持っているんですか?」と牧師に質問をしました。その牧師はオーストラリアの牧師でしたが、このように答えました。「マタイ福音書の20章を開いてください。そこにはぶどう園で働く労務者を雇う記事が書かれています。主人は早朝、午前9時、お昼、午後3時に、雇用するためにでかけました。しかし、それだけではありません。午後5時にも出かけ、仕事にあぶれている人たちを見つけて、彼らを雇いました。たった1時間しか働かなかったのに、一日分の賃金を与えました。なぜ、そのようなたとえ話が書いてあるのでしょう?神さまは失業問題にも関心があるからです。」そのように答えました。あなたはご自分が持っている悩みごと、心配事を独り占めして、神さまにゆだねていないのではないでしょうか?「この問題は、私が一番良く知っています。神さま、どうか私を見守ってください」と、そのように祈ってはいないでしょうか?私は「神様、私を見守ってください」という祈りが大嫌いです。なんという傲慢な祈りでしょうか?「私がやりますので、遠くから見守ってください」。そうではないと思います。私はむしろこのように祈るべきです。「神さま、一緒にやりましょう」と言うべきです。今、神さまは聖霊によって一人ひとりのところにいらっしゃっています。実際に、私たちと行動して、私たちを助けてくださるのは聖霊様です。韓国のチョー・ヨンギ牧師は、一番、多いときで70万人の教会を牧会していました。どうやって、それが可能なのでしょうか?ヨイド純福音教会の成長の秘訣は2つあります。1つはすべての信徒が区域に属し、区域長が彼らの世話をしました。区域長が10の家族を面倒みたのです。そして、もう1つは聖霊様の働きです。チョー・ヨンギ牧師がいつも言っていたことはこれです。「愛する兄弟姉妹。ここにいらっしゃっておられる聖霊様を歓迎しましょう。聖霊様を認めましょう。聖霊様に従いましょう」。聖霊様を歓迎し、認め、従うということです。なぜなら、聖霊様が私たちの助け主だからです。

きょうは2つのことを学びました。第一は高ぶらないで、へりくだるということです。神さまの力強い御手の下にへりくだるなら、どうなるのでしょうか?神さまはちょうど良いとき、私たちを高くしてくださいます。第二は思いわずらいを、いっさい神さまにゆだねるということです。ゆだねたらどうなるのでしょうか?神さまが私たちのことを心配してくださいます。神さまは今も生きて働いておられます。だから、神さまは、私たちを高くしてくださり、私たちのことを心配してくださるのです。本当に神さまが生きておられるのかどうして分かるのでしょうか?それはこのみことばの通りに実行すると分かります。どうぞ、今、この瞬間、祈ってみましょう。祈りの中でへりくだり、祈りの中で思いわずらいをゆだねましょう。そうするなら、私たちの共におられる神さま、聖霊様が奇跡を起こしてくださいます。それでは、共にお祈りしましょう。そして、今週、そのような奇跡が起こるかどうか期待しましょう。