2012.8.19「目をさましていなさい Ⅰペテロ5:8-14」

悪魔は今も生きて働いている霊的な存在です。悪魔に対しての両極端があります。1つは、悪魔を無視して、全く気をつけない人です。残念ながら、悪魔の存在を認めない教会もあります。それでは、戦う前から負けている状態です。悪魔は神の敵であり、私たちの敵でもあります。もう1つは、悪魔を神さまよりも力ある者として恐れることです。病気や事故、何でも悪魔のせいにする人がいます。確かに背後で働いていますが、私たちの不注意や人間の罪が原因で起こることもあります。あまり、悪魔や悪霊に過敏になるというのも問題です。何事もバランスが必要です。この世において、悪魔は働いていますが、信仰をもって立ち向かえば勝利できるのです。

 

1.悪魔の策略

 

 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と孫子が言いました。悪魔の策略、悪魔の常套手段を知るということはとても重要です。最初の人間、アダムとエバはどうして悪魔の誘惑に負けたのでしょうか?神のようになりたいという高ぶりが原因でした。また、悪魔は神のことばに疑いをかけました。「神は本当に言われたのですか?」と言いました。そして、私たちには、元来、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りという弱点があります。悪魔はここを付いてくるということも確かです。でも、だれが悪魔に完全に勝利したのでしょうか?そうです。イエスキリスト様です。イエス様は公生涯に入る前、40日間断食して、悪魔の試みに会われました。神のことばによって、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに勝利しました。また、イエス様は神の御子であられたにも関わらず、いつも父なる神さまに謙遜に従われました。イエス様は最後に十字架と復活により、悪魔の仕業を砕いてくださいました。悪魔の仕業、武器とは何でしょう?黙示録12:10には「兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の御前で訴えている者」と書いてあります。そうです。私たちの罪を

責め立てるのが悪魔であります。しかし、イエス様が十字架で血を流されたことにより、私たちのすべての罪が赦されました。もう、悪魔は私たちを訴えることはできないのです。それでも、悪魔は「お前の罪はもう赦されない。神もお前を見捨てているぞ」と嘘を言ってきます。これで、洗礼を受けた数多くのクリスチャンが教会から離れてしまいます。本当に残念です。

 ヨハネは「悪魔は3つのことをするので気をつけよ」と教えています。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」盗人とは悪魔のことであります。盗み、殺し、滅ぼすことが悪魔の主な目的です。悪魔は私たちの何を盗むのでしょうか?悪魔は私たちの永遠のいのち、救いを奪うことはできません。なぜなら、私たちのいのちは神さまのふところにあるからです。イエス様はヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と言われたからです。では、何を盗まれるのでしょうか?それは「豊かないのち」です。豊かないのちとは、永遠のいのちという意味だけではありません。これは地上でも、豊かに生きることができる神の祝福という意味です。私たちは貧しく、ひもじい思いをして、はいつくばって天国に行くのではありません。イエス様を信じたということは、この地上でいながら神の国、天国に入ったということです。ということは、この地上でも天国の豊かさを味わうことができるということです。しかし、悪魔はそれらを私たちから盗むのです。「あなたは良きものを盗まれていませんか?」家族や夫婦の幸せがどうして盗まれているのでしょう?互いに欠点を上げつらい、争っているからではないでしょうか?悪魔が「もっとやれ!」とけしかけています。どうして経済的に貧しいのでしょうか?神さまを第一にしないで、この世のものにお金を使っているからではないでしょうか?「殺し」とは何でしょう?羊がどうして殺されるのでしょう?神の群から離れ、孤立してしまうのはとても危険です。誘惑に負けて罪を犯してしまうとどうなるでしょう?悪魔が肉体的ないのちを奪うでしょう。病気もあるもの、悪魔が持ち込むものもあります。もちろん、すべての病気が悪魔から来るものではありません。アダムとエバが罪を犯したことが最大の原因です。でも、人を赦さない罪、中毒性の罪、偶像崇拝は悪魔に対してドアを開けてしまいます。ですから、罪を悔い改めて後ろのドアを閉めましょう。「滅ぼし」とは何でしょう?悪魔は何をもって私たちを滅ぼすのでしょうか?罪です。私たちが罪を犯すことにより、自ら滅ぼされるということです。悪魔は私たちに罪を犯すように誘惑するということです。神さまはこの世界を造ったときに、道徳的な法則も造られました。高いところから落ちると怪我をするように、罪を犯すとそれなりの罰を受けるということです。それは神さまが愛であるとかないとかは関係ありません。たとえば、ある人が怒りや憎しみを持っているとします。悪魔はそれを用いて、放火や殺人へと駆り立てます。またある人がむさぼりを持っているとします。悪魔はそれを用いて、盗みや姦淫へと駆り立てます。悪魔は「今が良ければいいじゃないか」と言いますが、身を滅ぼすような破壊的なことがその先に待ち受けています。

 この世の人たちは、神さまを信じないばかりか、悪魔の存在も信じていません。だから、悪魔は「盗み、殺し、滅ぼし」やりたい放題です。私たちクリスチャンは敵がいることを忘れてはいけません。悪魔は別名サタンとも呼ばれていますが、それは「敵」という意味があります。悪魔は神さまと戦うと負けるので、その代わり、神の子どもをやっつけるのです。もし、神の子どもが惨めな生活をして、敗北するならば、悪魔は大喜びするでしょう。私たち人間が神から離れ、滅びへ向かっていくことが悪魔の願いです。悪魔は将来、火の池で滅ぼされることが決まっています。しかし、一人で行くのではなく、神に造られた人間を道連れにしたいのです。「そうすれば、神は思いを変えて、自分をも赦してくれるかもしれない」と考えているからです。私たちは悪魔の同じところに行ってはいけません。イエス・キリストはそのために十字架にかかり血を流してくださったからです。イエス・キリストを信じる者は、サタンの支配から神の支配に移されるのです。そして、この地上でも豊かないのちを持ち、幸いに暮らすことができるのです。

 

2.悪魔との戦い

 

 Ⅰペテロ5:8-9「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」ペテロは「クリスチャンであるならば、だれも悪魔との戦いは避けることができない。みんな、同じような苦しみを通って来たんだ。」と言っています。悪魔との戦いで最初に言われていることは何でしょう?「身を慎み、目をさましていなさい」ということです。「身を慎み」は、原文では「酔っていない、しらふである」という意味です。また「目をさます」とは、「油断せず注意をしている」という意味です。第一のポイントで悪魔の策略についてお話ししました。悪魔はどこに隠れているのでしょうか?罪の背後に隠れているのです。しかし、悪魔はかしこいので、罪に美しいラッピングをほどこしています。だから、外から見るとそれは罪とは全くわかりません。もし、私が酔って新宿歌舞伎町を歩いていたらどうなるでしょうか?目の前から絶世の美女が近づいてきます。「わぁ、こんな美しい人が世の中にいるのだろうか?」とても良い香りがしてきます。白魚のような手が私の手に触れます。「あなたのような素敵な方を待っていました」。「えー?そうですか?」とフラフラと着いていきます。箴言7章「ついには、矢が肝を射通し、・・・よみへの道、死の部屋に下って行く」のです。悪魔は醜いかっこうをしていません。むしろ、美しくて魅力的で、かっこよいのです。初めから醜かったら、だれもやられません。悪魔は私たちが欲しているのを良く知っています。悪魔は私たちが満たされたいものを良く知っています。だから、身を慎み、目をさましているべきなのです。かえるは変温動物なので、水の温度があまり分からないそうです。バケツに水を入れ、そこにかえるを入れます。バケツをコンロの上に置いて、下からあっためます。ぬるま湯になっているのにかえるは「気持ち良い」とか言って逃げません。かえるは、そのままゆであがるそうです。悪魔もいきなりではなく、じわじわと攻撃してきます。私たちの良心が麻痺して、気付いた頃はもう手遅れです。ですから、共同体である教会から離れず、身を慎み、目をさましているべきです。指導者や親しい人の助言を無視してはいけません。

 悪魔は罪の誘惑を与えるのが第一の手段ですが、二番目は何でしょう?8節の半ばに「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と書いてあります。新約聖書的には獅子であるライオンは、鎖につながれていると思います。私はある範囲しか動けないと信じます。しかし、悪魔のテリトリーに入るならば、一発でやられてしまうでしょう。鎖につながれていても、できることがあります。それは、吼えるということです。「がおー」と吼えられたら、だれでも萎縮してしまうでしょう。それで、持っているものを落としたり、恐れて何もしなくなるでしょう。つまり、悪魔が私たちに与えるものは「恐れ」です。もし、私たちが恐れにつかまるならどうでしょうか?神さまを信頼しないで、そこに立ち止まるか、あるいは後退してしまうでしょう。神の指導者の前に立ちはだかるのは、恐れです。これまでも何回も失敗した。新しいことをやってもまた失敗するだろう。失敗への恐れです。恐れと失望落胆は双子の姉妹です。イスラエルがミデヤンにやられているとき、神さまはギデオンを選びました。しかし、ギデオンは隠れて、酒ぶねの中で小麦を打っていました。主の使いが現れ、こう言いました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」。しかし、ギデオンは私の分団は最も弱く、私は一番若いのです」。ギデオンはいろんな言い訳をします。最後に、主の使いは「安心しなさい。恐れるな」と言いました。何故、恐れてはいけないのでしょうか?神さまは恐れる者と共にいることができないからです。何度も話したことがありますが、子どもの自転車乗りを教えたときがあります。4人も教えたのでベテランです。「パパが後ろから押さえるから、ペダルをこんでごらん」と言います。子どもがハンドルを握ってさえいれば、自転車はどこへでも行けます。こっちが荷台をしっかりささえているからです。でも、子どもが「恐い」とか言って、ハンドルを離したらどうなるでしょう。ハンドルは「くにゃ」と曲がって、それ以上、前に進めません。ハンドルを握るとは信仰に立つということです。私たちが信仰に立つなら、神様は私たちをささえて、進ませることができるのです。悪魔は私たちが信仰に立たないように、吼えて、恐れさせるのです。恐れてはいけません。主が共にいて、勝利させてくださるからです。

 パウロはエペソ6章で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と言いました。神様はどこにでも遍在できるお方です。しかし、悪魔は神ではないので、どこにでも遍在できません。そのため、子分をたくさん持って、組織しています。主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊とは、悪魔の階級的な組織を指すと言われています。詳しくはわかりませんが、国の上を支配する力ある悪霊がいます。ダニエル書に「ペルシャの君、ギリシャの君」というふうに出てきます。おそらく州や地方を治めているのでしょう。宗教や思想、文化や芸術を支配している悪霊もいるかもしれません。固定した考えが、要塞のようになって、神さまの真理を受け入れることができません。あとは、個人や家系を攻撃して悪さをする悪霊がいます。悪霊は住むべき家をさがしています。肉体がないので、自分と似たような家をさがしています。汚れたことをしている人には汚れた霊が入り、もっと悪くなります。しかし、重要なのは「私たちの格闘は血肉に対するものではない」ということです。これは、人間との戦いではないということです。自分の夫や妻を悪魔と言ってはいけません。職場や教会のだれかを悪魔と言ってもいけません。悪さをしているのはその人の背後にいる悪魔なのです。その人は悪魔の手先として、用いられているだけなのです。私が座間キリスト教会にいたとき、会堂を増築しようという計画がありました。発注していた建設会社が倒産し、手付金が戻らなくなりました。そのことで、ある兄弟が牧師先生を訴え、あることないことを全国の教会にばらまきました。かなりの兄弟姉妹も影響を受け、教会を離れました。なんと最高裁まで争われ、10年かかったそうです。訴えた兄弟のその家族はどうなったのでしょうか?可愛そうです。サタンに用いられてしまったのです。サタンは「兄弟たちを訴える者」ですから、その片棒をかついでしまったのです。不正に目をつぶりなさいということではありません。悪魔はそういうことを用いて、教会に分裂を起こそうと狙っているということです。教会に分裂があるのは、悪魔が背後にいることを知らないで、人間同士が戦っているからです。教会は議論するよりも、祈ることの方がずっと重要です。だから、パウロはエペソ6章でこのように命じているのです。エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

 

3.神さまの計画

 

 それでは、なぜ神さまは悪魔の活動を許しておられるのでしょうか?私たちを滅ぼそうとする悪魔をどうして放っておかれるのでしょうか?Ⅰペテロ5:5:10-11 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」このところに、神さまのご計画、神さまのみこころが記されています。神さまは、悪魔の活動から来る、さまざまな苦しみをどうして許しておられるのでしょうか?この箇所を見ると、神様は第一に、私たちを永遠の栄光の中に招きいれてくださいました。私たちがキリストを受け入れたことにより、神の御国に招きいれてくださったということです。では、そのまま天国の神さまのみもとに召してくだされば良いと思います。しかし、神さまは私たちを地上に残して、しばらくの苦しみをあえて通されるようです。神様、「なぜ、悪魔がいる地上に私たちを残されるのですか?」と言いたくなります。これが正しいかどうか分かりませんが、こういうたとえがあります。生きた魚を水槽に入れたまま運ぶ車があります。長時間も運ぶと、お店についた頃、魚はぐったりしてしまいます。そこで、水槽に蛸をわざと入れるそうです。蛸は魚に悪さをします。魚は適度に緊張するため弱らないということです。元気なままで天国に行くために、蛸ならぬ、悪魔いるのでしょうか?ペテロは何と言っているでしょうか?「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。ここには苦しみや試練を通過すると、私たちに4つのことが結果として起こると書いてあります。

 第一は完全になるということです。「完全」とは、元来「整頓する、調整する」という意味から来ています。いろんな苦しみや試練で私たちが整頓され、調整されるのでしょうか?山から切り出された岩は形も不揃いでザラザラしています。それが苦しみや試練のノミで削られます。ガチン、ガチン、ガチン。神の宮を築く石になるためには、整えられる必要があります。ガチン、ガチン、ガチン。痛いです。でも、最後に完成された石になります。第二は「堅く立たせ」とあります。原文は建物を建てるときの基礎の堅さと関係しています。最初、信じた頃はとても不安定です。ちょっとしたことで恐れたり、疑ったりします。でも、いろんな苦しみや試練を通るとどうでしょうか?神さまに対する信仰が堅くなり、ちょっとやそっとのことでは躓きません。私たちの信仰はここまで来る必要があります。第三は「強くし」とあります。これは、「積極的な活動のために備える」という意味があります。鍛えると筋肉が強くなります。同じように奉仕のための力が増すということです。第四は「不動の者」としてくださるということです。これは「土台が置かれる」とか「堅固になる」という意味があります。とにかく、神さまが私たちに悪魔からくることの試練や苦しみを許すのには意味があるということです。ひとくちに言えば、神様に対する信仰が確立するということです。しかし、これはとても逆説的であります。悪魔からくることの試練や苦しみが来たら、信仰を捨てて、神さまから離れることもあるでしょう。しかし、神さまは信仰に堅く立ち、ご自身としっかり結びつくことを願っておられるのです。神さまがなぜ、悪魔の存在を許しておられるのかはっきりとは分かりません。なぜ、信仰を持ったとしても、なぜ試練や苦しみがあるのでしょう?わからないことだらけです。

 私たちには、この地上でいろんな試練や苦しみに会います。あるものは誰かのせいで、またあるものは自分の過失で、またあるものは悪魔的な力によって、またあるものは自然災害によってもたらされます。そういう時、「ああ、どうしてこんなことが起きたんだろう」と後悔したり、悔しがったりします。「神さま、イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起きたんですか?」と文句を言います。大切なものを失ったり、病気や怪我もあるでしょう。失敗や不運としか思えないこともあります。どうしてそんなことが起きたのか、さっぱり分かりません。多くの場合、神さまはその理由を教えてくれません。「なぜ、どうしてですか?」と聞いても無駄です。それよりも、「何のためですか?」と聞くべきです。少なくとも1つのことだけは確実に分かります。それは、「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」ためです。ひとことで言うなら、私たちの信仰が堅固なものとなるためです。私たちは「ああ、このことは私の過失なので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。「ああ、このことは、悪魔が引き起こしたことなので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。そんなことはありません。どんなことでも、神さまがそれを許されたのですから、神さまの御手の中にあります。そして、神さまが一番になさりたいことは、私たちの信仰が堅固なものとなることです。最終的には、私たちが神さまをあがめるようになるためです。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」