2012.8.26「神のご性質にあずかる Ⅱペテロ5:1-9」

ある人たちはイエス様を信じて天国へ行くのが救いだと思っています。もちろん、天国に行けることはすばらしいことです。私たちは生きているうちに、その救いを絶対に得なければなりません。しかし、聖書は信じた後に、成長すべきことも教えています。成長のゴールは、神のご性質にあずかる者となるということです。他の表現ではキリストに似た者となるということです。もちろん、この地上では完全にそうなることは不可能です。でも、神のご性質にあずかる者となるために努力していくなら、神さまの役に立つものとなり、実を結ぶ者となります。教会では恵みが強調されますが、努力とか行いはあまり強調されません。この世の人たちは、神の恵み抜きで、自分の努力やがんばりで生きています。でも、聖書には、正しい意味での努力はあります。

 

1.神のご性質にあずかる源

 

 1節から4節までは、私たちが神のご性質にあずかることのできる力の源について書かれています。1節はペテロの挨拶ですが、手紙を受け取った人々はどんな人たちでしょうか?1節「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」手紙を受け取った人たちは、信仰のある人たち、クリスチャンでした。2-3節「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」ペテロは信仰を受けた人たちに3つのものが豊かにされるように願っています。

その第一は、恵みです。恵みは救われるためだけにあるのではありません。救われた後も恵みが必要なのです。普通、教会では洗礼を受ける前に洗礼準備会を持ちます。ある教会に行ったら、このような説明を受けるかもしれません。「救いは行いではなく恵みです。でも、救われたあとはいくつかすべきことがあります。これからは教会員として、聖日礼拝厳守、十分の一献金、毎日聖書を読み、そして祈ること、賜物にあった奉仕をすること、罪から離れきよい生活をすること、牧師や指導者の指導に従うこと。承諾したら、ここに署名をしてください」と言われます。さらには、牧師と役員の前で入信の証をして、審査を受けなければなりません。結構、最初からハードル高いように思いますが、これは何を言っているのでしょうか?「救いは恵みですが、救われた後は行いが必要ですよ」と言っているようなものです。どこかに「恵み」ということばが書いてあるかもしれませんが、努力や行いが全面的に出ています。ある人は「救いは恵みだけど、信仰生活では行いが必要ですと言うのは、立派な詐欺だ」と言いました。私はこういう決まりごとが嫌いなので、洗礼準備会も簡単にやってきたところがあります。でも、あるときにわかりました。「救いも恵みだけれど、救われた後の信仰生活も恵みなんだ」ということです。もし、これらを律法で捉えるならば信仰生活が行き詰るでしょう。「礼拝を守らなければならない」「献金をしなければならない」「聖書を読んで祈らなければならない」「奉仕をしなければならない」。このように肉によってやらなくても良いのです。肉によってやっても神さまは喜びません。神さまは私たちが礼拝しなければ淋しいのでしょうか?神さまは私たちの献金が必要なほど貧しいのでしょうか?私たちが奉仕をしなければ何もできないのでしょうか?神さまは全能の神さまですから、私たちの助けなしで何でもできます。でも、神さまは私たちを通して働きたいのです。主役はあくまでも神さまです。神さまの恵みによって礼拝をさせていただき、神さまの恵みによって献金をさせていただき、神さまの恵みによって奉仕をさせていただくのです。信仰生活、つまり天国に行くまでは、ずっと恵みが必要です。ハレルヤ!

 第二は平安です。ヘブライ語ではシャロームですが、平和、泰平、和睦、他に「秩序ある状態」という意味もあります。これは、神の国における、神さまと私たちとの関係であります。神の国の王さまは神さまです。もし、王なる神さまと敵対関係にあったら平安も平和もありません。それだけではなく、市民権が剥奪され、神の国から追い出されるでしょう。私たちは生まれた時から日本人なので、市民権の有難さがあまり分かりません。世界中には、数え切れないほどの難民がいます。住居も食べ物もなく、医療も受けられません。もし、ちゃんとした国の市民権があればどうでしょう。人権が守られ、さまざまな保護も受けられるでしょう。私たちは、以前は神の民ではありませんでした。神さまと敵対関係にあり、滅びに向かって生きていました。ところが、いろんな導きによって福音を聞き、イエス様を信じました。そのことによって、神さまと和解が成立し、神の国の市民になったのです。ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメン。私たちが神の国の市民であるならば、どのような特権が受けられるでしょう?罪のさばきや呪いを受ける必要はありません。神の子として、神さまから守りと助けをいただくことができます。世の中にはいろんな平和運動があります。しかし、一番、必要なのは神との平和です。仮に、この地上ですべてのものを無くしたとしても、神との平和があるならば、神の国の市民として保護を受けることができるのです。

 第三は主イエスの神としての御力です。3節後半に「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」とあります。私たちが神さまのご性質にあずかるためには、主イエスの神としての御力が必要だということです。では、私たちの努力は全く必要ないのでしょうか?Ⅱペテロ1:5「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして○○を加えなさい」と書いてあります。聖書は人間の努力を否定していません。しかし、神さまがなさる分と人間がやるべき分があります。改革派の信仰を持った人は、神の主権を強調するあまり、人間の意志や熱心な行いを軽んじます。だから、なんでも「神さまがなさった」「神さまがゆるされた」と言います。人が死んだときも「神さまが死ぬことをゆるされた」と言います。究極的にはそうかもしれませんが、その人の不摂生とか不注意が原因したということもあるでしょう。何でも、かんでも神さまを持ち出しては神さまに失礼だと思います。創世記1章と2章には神さまによる天地創造が記されています。神さまによって造られた人間にはなすべき仕事がありました。それは他の被造物を正しく管理するということでした。アダムは土地を耕したり、動物の名前をつけました。柵を作って、他の動物から、家畜を守ったことでしょう。もし、堕落しないでそこにいたなら、金の他に様々な鉱石を掘り起こし、加工して産業を興すこともできたでしょう。神さまは豊かな地球を与えました。知恵を用いて正しく管理していれば、食糧難も資源の枯渇もなかったでしょう。同じように、私たちの信仰生活においても、私たちがなすべき分と神さまがなさる分があるはずです。何でも、神さま任せというのは違うと思います。では、人間の努力や勤勉さをどう位置づければ良いのでしょうか?神さまは私たちに知恵や力、さまざまな能力をくださいました。しかし、それらを神さま抜きで使ってはいけません。神様の助けと導きを得ながら、用いるのです。私たち自身に、知恵や力や能力の限界がくるときがしばしばあります。そういう時は、へりくだって神さまに求めることが必要です。神さまが聖霊によって私たちの内側に努力や勤勉さを持続させてくださるのです。ハイブリッド車というのがあります。その車は、あるときはガソリンで、あるときは電気で走ります。その切り替えが自動的に行われているようです。私たちも自分の力でやっているときもあれば、聖霊の力でやっているときもあります。自分モードと聖霊モードが自然に行なわれたら良いと思います。私も自分モードで説教をがんばって語ると、午後、ぐったりするときがあります。ああ、「肉で頑張ったのかなー」と反省します。まとめですが、私たちが神のご性質にあずかるものとなるため、源となるものが3つありました。第一は恵み、第二は平和、第三はキリストの力です。恵み、平和、キリストの力が私たちの中にあるので、キリストに似たものとして変えられるのです。

 

2.神のご性質にあずかる

 

私たちっクリスチャンは、心の霊において新しくされました。そして、以前の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るのです。裸のままではいけません。私たちには肉があるので、ありのままでは生きていけません。造り主のかたちに似た新しい人を着なければなりません。新しい人とはどんなものかが、5節に以降にあります。Ⅰペテロ1:5-8「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」一番最初に信仰があります。この信仰は1節にある「救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた」という信仰です。この信仰はクリスチャンであるならば、だれでもが持っています。信仰があれば、もちろん天国に行くことはできます。しかし、ペテロはその上に7つのものを加えなさいと命じています。そうするなら、「役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」と言っています。これらを1つ1つ説明したいと思いますが、今回は、JBフィリップスの訳がとても良いと思いましたので、この訳をベースに学びたいと思います。

 第一は「あなたの信仰が、善なる生活と共に働くように」と言うことです。信仰が独立してあるのではなく、善なる生活がくっついているということです。善とはgoodnessです。キリストを信じるということは、この世のものと敵対するようなイメージがあります。酒も飲まない。タバコも吸わない。テレビも見ない。ギャンブルや娯楽もしない。何だか禁欲的で「しない宗教」のような感じがします。そうではなく、「信仰とは、生活の中で善なることを積極的に行うことなんだ」ということです。信仰は、本来ダイナミックで、世の中を変える影響力があります。私はジョエル・オースチンの本を読んでいますが、「人に良くしてあげることは、その人の感情口座に預金をしていることなんだ」と書いてありました。逆に、その人に冷たいことを言ったり、失礼なことをすると感情口座から引き出していることになります。預金の残高がある場合なら大丈夫ですが、ない場合はお互いの関係が壊れてしまいます。だから、普段から親切なことばをかけたり、良い行いをして口座に預金をしておくべきだということです。

 第二は「あなたの善なる生活に知識が伴うように」ということです。単なるお人良しではなく、知識が必要なんだということです。知識とは善と悪を見分ける力です。アダムとエバは神から独立してその知識を得ようと堕落しました。それ以来、人間は自分の魂で善と悪を判断して生きています。しかし、本来の善悪の基準は神さまとの交わりの中で与えられるものです。クリスチャンには聖書があります。聖書のみことばは絶対です。もし、聖書のみことばをもって人をさばくならばどうなるでしょう?だれ一人、対抗できません。神さま抜きで、みことばを用いると律法主義になります。みことばは両刃の剣です。その剣で相手をさばいたら、自分にもその剣が跳ね返ってきます。ですから、私たちの知識はいつでも神さまとの交わりが基盤であるべきです。善なる生活にその知識が伴う必要があります。

 第三は「あなたの知識に自制が伴うように」ということです。自制とはself-controlです。パウロは「知識は人を誇らせる」と言いました。知識自体は良いものです。しかし、人間はこの知識を持つことにより、高慢になります。なんでも教えたがります。私もテレビを見て知ったかぶりをして、恥をかくことがあります。この世の識者や科学者もそういうミスを犯します。今は情報化時代です。情報は確かにすばらしいものです。しかし、情報にもコンロールが必要です。どれが必要な情報で、どれが不必要な情報かをより分ける力がなければなりません。同じように、私たちの知識にも制御するもの、つまり自制が必要です。

 第四は「自制に耐え忍ぶ能力が伴うように」ということです。JBフィリップスの訳のendureは我慢とか辛抱という意味があります。ということは一時的な自制ではなく、ずっと長い間、耐え忍ぶ自制です。私たちも時々、自制が切れるときがあります。今の時代の人たちは、多くのストレスにさらされています。自制がふっと切れるときがあるかもしれません。そういうとき、罪を犯すのではないでしょうか?ゴムもピーンと張ったままだと、何かの衝撃で切れてしまうでしょう。クリスチャンは神さまの懐に安らぎながら耐え忍ぶべきではないでしょうか?詩篇46に「静まれ」とあります。神さまの中でリラックスしながら、耐え忍ぶことができるのではないでしょうか?

 第五は「耐え忍ぶ能力に神さまへの献身が多く伴うように」ということです。日本語の聖書は敬虔と訳されていますが、JBフィリップスはdevotionということばを使っています。devotionは献身のほかに、専心とか傾倒、「…に向ける」という意味もあります。私たちはだれに心やエネルギーを向けているのでしょうか?イエス様であり、神さまであるべきです。イエス様に集中していると、耐えられるからです。ただ我慢するというのは大変です。イエス様を見上げながら、我慢する。スポーツの世界では監督やコーチは絶対です。試合のときも、どうしたら良いか支持を仰ぎます。これまでずっと練習をささえてきた監督やコーチです。だから、試合のとき歯を食いしばってでも頑張るのではないでしょうか?だれが私たちを応援しているのでしょうか?イエス様が人生のコーチです。イエス様が私たちを支え、私たちを応援してくださるのです。

 第六は「今度は、兄弟愛という品質を持つように」となっています。神さまだけの献身では不足だということです。そこに兄弟愛が含まれる必要があります。昔は「横を見るから躓くので、神さまだけを見上げるように」と言われました。「牧師を見ないように。兄弟姉妹とも交わらないように。神さまだけを見上げなさい」と言われていたようです。私は1996年からセルチャーチにしようと思い、すべての家庭集会をやめました。牧師が導くのではなく、信徒リーダーが導くようにさせました。しかし、今、残っているセルは半分以下です。私は形から入ったので、失敗しました。やはり、教会は兄弟姉妹の愛の交わりが必要です。これからどのような組織にしていくか、わかりませんが、礼拝だけではなく、もっと別な交わりの場が必要であろうと思います。それも、単なる交わりではなく、お互いを建て上げる共同体が必要です。

 第七は「兄弟愛はクリスチャンの愛で導かれるように」となっています。兄弟愛とクリスチャンの愛とは違うのでしょうか?クリスチャンの愛は原文ではアガペーとなっていますので、神さまからの愛です。神さまからの愛が、兄弟愛の源だということです。もともと、私たちにはそのような愛はありません。しかし、イエス様を信じてから神の愛が与えられました。今も聖霊によって神の愛が注がれています。だから、クリスチャンが「私には愛がありません」と言ってはいけないのです。すでに神の愛が与えられていますので、その愛を差し出せば良いのです。なくなると、神さまから新たに愛が与えられるようになっているのです。ハレルヤ!

 信仰に対して、7つの品性が付け加えられました。つまり、クリスチャンは神さまを信じる信仰のほかに、こういう7つの品性も必要だということです。パウロはガラテヤ書5章で、御霊の実として現しています。ペテロもパウロと同じようなことをここに書いているのではないかと思います。つまり、イエス様を信じた信仰で終ってはいけないということです。恵みと平安とキリストの力によって、神さまの性質にあずかる者となるのです。しかし、そこには私たちの努力も必要になります。

 イエス様は「空の鳥を見なさい…天の父がこれを養っていてくださる」と言われました。確かに空の鳥は種蒔きもせず、刈り入れもしません。だけど、空の鳥は自分がすべき最低限のことはしています。すずめは毎日、餌をついばんでいます。つばめは朝早くから虫を捕まえています。ムクドリは、刈り取った草の上を何か探しています。川鵜も潜っては魚を捕まえています。彼らは神さまが与えた能力を用いて、神さまが与えた自然から食べ物を取っています。じっと、口をあけているわけではありません。またイエス様は「野の花を見なさい」とも言われました。確かに野の花は働きもせず、紡ぎもしません。でも、野の花は一生懸命自分ができることをしています。太陽が昇ったらそちらの方に葉っぱを向けます。根を地中に張って、水分や養分を吸い取るでしょう。もちろん、神さまは太陽光線や雨を降らせてくださいます。でも、何も動かないような植物でさえも、自分なりの努力しています。同じように、神さまのなさる分と私たちがすべき分がちゃんとあるのではないかと思います。きょうのテーマは「神さまのご性質にあずかる」ということでした。ということは、私たちが神さまのご性質にあずかるためには、神さまの力もさることながら、私たちの努力も必要だということです。つまりこれはどういうことかと言うと、「選択、決断、実行」ということです。神さまは私たちの代わりに「選択、決断、実行」をしてくれません。私たちが、神さまが願われる信仰者として成長するために、「選択、決断、実行」が必要なのです。親は子どもの成長を喜びます。同じように、父なる神さまは私たちが霊的に成長することを喜んでくださいます。神さまは一遍で、奇跡的に、ご自分の性質にあずかる者に作りかえることもおできになるでしょう。天国に行ったらそうなります。でも、この地上で、あえて時間のかかることをしているのには訳があります。やはり、神さまは私たちと交わりを持ちながら、成長していくのを喜びたいのです。結果も重要ですが、成長するまでのプロセスが大事なのです。成長のプロセスを喜びましょう。Ⅱペテロ5:2-3「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」