2012.9.2「永遠の御国に入る恵み Ⅱペテロ1:10-15」

もし、私たちが「この地上の生活がすべてではない、死後に行くべきところがある」と確信できたら何と幸いでしょうか?法事などやる必要ないですね。救われて良い所にいるのですから、供養する必要が全くありません。「死ぬまで生きれば良いや」と思うでしょう。ある人は10年、またある人は80年、この地上で生活します。しかし、永遠と比べたなら、10年も80年もほとんど変わりありません。たとえ100歳まで生きたとしても、永遠がなければさびしいです。この地上で、死に別れしたとしても、向こうで再会できたら何とすばらしいでしょう?この地上ではいろんな不条理や不公平がありますが、向こうで報われたら何とすばらしいでしょう?もし、永遠の御国が事実であるなら、この地上の生活が変わってくるのではないでしょうか?

 

1.永遠の御国に入る恵み

 

 Ⅱペテロ1:11「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」きょうの箇所には、私たちが行くべき場所について記されています。「クリスチャンが死んだら、どこへ行くのか」ということが明確に記されています。私たちはどこへ行くのでしょうか?このところに「永遠の御国に入る」と書いてあります。御国とは英語で、kingdomであります。kingdomはkingとdomainが合わさったことばです。kingは王様です。そして、domainとは領地とか領土という意味です。王様の領地であります。一体、だれが御国の王様で、だれが御国を所有しているのでしょうか?11節「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。主というのは、領主とか王様という意味です。御国の王様は、イエス・キリストであります。みなさん、他の国に入るためには何が必要ですか?たとえば、私がデンマークにしばらく住みたいと願っているとします。デンマークは王国で、マルグレーテ2世が治めています。ヨーロッパのほとんどの国は6ヶ月くらいだったら、ビザはいらないそうです。でも、1年間住みたいと思ったなら、ビザが必要でしょう。そこに永住したいとなると、永住権が必要になります。つまり、「住んでも良い」という向こうの国の許可が必要だということです。これは日本でも同じです。外国の人が日本に住みたいと願うなら、全く同じでしょう。ときどき、強制送還される人がいます。それは、ビザを持っていないからです。昔はビザを取るためにその国の大使館に行きました。私も30年くらい前に、韓国に行きましたが、その前に韓国の大使館に行きました。けっこう横柄でした。大使館とは何でしょう?別な国の中にありながらも、本国の領土と同じ扱いを受け、本国の全権大使が駐在しています。教会は御国の大使館みたいなところです。もし、だれかが御国に永住したいなら、永住権を取得する必要があります。神さまは教会にその権威を与えているのではないでしょうか?

 では、どうやったら御国に入る永住権を取得できるのでしょうか?ここに私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。救い主であるイエス・キリストを信じで、王なるキリストのご支配を受けなければなりません。私たちはアダムの子孫なので、罪があるために御国に入ることができません。「私は法律に触れるような悪いことは1つもしていません」という人がいます。それでもダメです。神さまは100%の正しさ、神の義を求められるので、生まれつきの人間では全く不可能です。イエス様はマタイ5:20で「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と言われました。当時、神の戒め(律法)をことごとく守る人たちがいました。それは、律法学者やパリサイ人でした。どんな几帳面な人でも彼らにはかないません。彼らの義よりもまさるものとは何でしょう?パウロは、ローマ3章で「神さまは別の義を用意された」と言いました。それは、キリストを信じる義であります。キリストは私たちの罪のために十字架で血を流し、なだめの供え物となられました。神さまは罪に対する怒りを取り下げ、キリストを信じる者を義と認めることにしました。ですから、神の国に入るためには、イエス・キリスト救い主として信じる必要があります。人が信じたら、OKという神の証印が押されます。ビザには必ずその国の証印が押されます。エペソ1章には「聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。信じたら、洗礼を受けるべきですが、それ以上に聖霊の証印が必要です。洗礼イコール聖霊の証印ではありませんが、洗礼と深い関係があります。なぜなら、イエス様が洗礼を受けられたとき、聖霊が天から下りました。また、使徒2:38「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と約束されています。

 ですから、永遠の御国に入るためには、主であり救い主であるイエス・キリストを信じれば良いということです。難しい人たちもいます。なぜなら、地上での「しがらみ」があるからです。地方に行くと、信仰を持つということは、家族や地域の人たちと別れることだと思われています。お墓や仏壇の問題があるので、どうしても信仰をもてないという人たちがいます。特に、日本では260年間に及ぶ徳川幕府の政策がありました。キリスト教は邪宗門であり、信じたら、大変なことになると思われてきました。実際、イエス様は「父、母、妻、子を捨てよ。自分のいのちまで捨てよ」と言われました。日本では、イエス様を信じて御国に入るということは、そう易しいことではありません。どこかで必ず、「本当に永遠の御国に入りたい」という決断をしなければなりません。親しい家族や友人から「宗教にかぶれちゃって、馬鹿なことをやめなさい」と水を差されるでしょう。異教の日本においては、本当に戦いがあります。周りの人たちが反対するでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ7:13-14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」多くの人は「神さまなんかいないんだ。天国も地獄もないんだ」と言うでしょう。多くの人が何と言うかは問題ではありません。神さまの真理の声に従う方が良いのです。永遠の御国は確かにあります。イエス・キリストは天から下ってこられ、十字架と復活によって、神さまへの道を設けてくださいました。一生に数回、「ああ、永遠の御国があるんじゃないかな」と御国の入口が見えるときがあります。テレビのSFではありませんが、時空のゆがみで向こうの世界がちらっと見えるときがあります。教会にくると、そういう時がありますが、そう何度もありません。御国の入口が見えたときが勝負です。「家族や他の人が何と言おうと、私は、今、信じます」と決断した人だけが、御国に入ることができるのです。

 

2.永遠の御国に余裕で入る

 

 第一のポイントはキリストを信じて、何とか御国に入るというビギナーズ・コースでした。スキーやゴルフでもビギナーズ・コースというのがあります。実はクリスチャンもそうであります。ギリギリ御国に入る人と余裕で入る人がいます。ギリギリ御国に入る人とはどういう人たちでしょうか?簡単に言うと救いの信仰しかない人です。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたものの、自分勝手な生き方をしている人です。Ⅱペテロ1:5-7「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」ペテロは「あらゆる努力をして信仰には徳を、徳には知識を…」と、いくつかの品性を加えています。この人は基本的な信仰があります。それでも永遠の御国は入ることができます。でも、「あらゆる努力をして信仰の上に、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を加えなさい」と命じられています。これらの品性は救われた人が身に付ける品性であり、霊的成長の証しでもあります。でも、キリストを信じて、洗礼を受けても、「そういうものは私はいりません」という人も中にはいます。李光先生は、「怨念晴らし」ということを良く言われます。イエス様を信じても、心の中で「あの人は絶対赦せない」という人がいるものです。それが親であったり、おじさんであったり、先生や友人かもしれません。そういう恨みを抱えていると、ときどき爆発して周囲を困らせます。いわゆる怨念晴らしであります。その人は、「私を傷つけた人を絶対に赦しません」と怒りを手放すことをしません。では、そういう人は天国に行けないでしょうか?行けます。なぜなら、救いは無条件だからです。李光先生は、「怨念晴らしをしながら、天国になだれ込む人もいる」とおっしゃいます。確かに、教会には怨念晴らしをしながら、信仰生活を送っている人たちがいます。それでも、天国に入ることはできます。

 でも、ペテロは信仰の上に、徳をはじめとする様々な品性を見に付けなさいと言っています。そして、何と言っているでしょう。Ⅱペテロ1:9-11「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」ペテロは「これらのことを行っていれば、この先、つまずくことは決してありません」と言っています。信仰が確立し、安定するということです。では、そういう人はその先どうなるのでしょうか?「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです」と言っています。原文には「恵み」ということばはありません。「入場が豊かに供給される」「入場が豊かに提供される」「入場が豊かに与えられる」という意味のことばです。別な言い方をすると、「余裕をもって御国に入ることができる」ということです。ギリギリなんとか御国に入れてもらえる人と、余裕をもって御国に入れる人では、どちらが良いでしょうか?数年前、大津の教会に行ったついでに京都に行きました。冬の1月、夜行バスで京都に行き、早朝からお昼まで京都見学をしました。龍安寺とか金閣寺が、雪が降ってとっても良かったです。それから1日半、JCMNの会議のため教会で過ごしました。予定では3時で終わりなのに、4時過ぎまでかかりました。私は「行くところがあるので早く終って欲しい」と言ったのですが、津倉さんが「どうせ、夜行でしょう」と言いました。私はそれから奈良の手前にある平等院鳳凰堂に向かいました。もう、日が暮れてきました。着いたら、5時半くらいで、門を閉める作業をしていました。「東京から来ました。なんとか入れてください」と頼みました。600円取られました。中は貸し切り状態です。薄暗い中に、鳳凰堂がライトアップされていました。宝物倉には入れませんでしたが、「来て、見た」という達成感はありました。

 門を閉める直前、無理して、ぎりぎり入れてもらったという経験をしました。それでも、入れたから良かったです。せっかく行ったのに、ダメと言われたら、泣くしかありません。ある人がルーブル美術館に行ったけど、門が閉まるところでした。「日本から来たんです」と言ったら、係り員が一緒に案内してくれたそうです。永遠の御国、天国はどうでしょうか?韓国のハレルヤおばさんと言われた、崔子実という婦人牧師がおられました。先生はこういうことを話されたことがあります。私たちが死んで、御国に入るときイエス様が門の中におられるそうです。イエス様を信じて、洗礼を受けたけれど、ほとんど教会に行ったこともない。奉仕も伝道もしなかった人がやってきました。イエスさまは「ああ、そうですか?」と一寸、挨拶しましたが、そっけない顔でした。もう一人、別な人が入ってきました。その人は、洗礼を受けた後、神さまに従い、信仰生活を全うした人でした。イエス様はその人をハグして、「どうぞ、こちらでお茶でも一杯」と言われました。そして、「あのときは大変だったねー」と、労をねぎらってくれたそうです。どっちが良いでしょうか?ま、天国に入れただけでもすばらしいと思います。救いは恵みですから、信じただけでも入れます。行いは必要ではありません。でも、余裕をもって御国に入ることができたら何と幸いでしょうか?つまり、信仰は救われたという点ではなく、救われて成長し続けるという線でとらえるべきであります。やがて、イエスさまの前に立つんだという期待と喜びをもって地上で生活すべきです。そうしたら、「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」

 

3.永遠の御国に入る準備

 

 ペテロは自分が永遠の御国に入ることが近いと言っています。Ⅱペテロ1:13-15「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」ペテロは肉体の死を別の表現を用いています。「私は地上の幕屋にいる」と言っています。「私」とは自分の魂(霊と魂)であります。そして、「地上の幕屋」とは肉体のことです。つまり、私自身が肉体の中に住んでいるということです。使徒パウロもⅡコリント5章でもっと詳しく述べています。Ⅱコリント5:1-3「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」幕屋とはイスラエルの民が荒野を旅したテントであります。動物の皮とか布でできていました。しかし、長い間、雨風にさらされると朽ちてしまいます。私たちの肉体も50年を越えるとどこかしこ壊れてきます。ある人は内臓が壊れたり、骨組みが壊れたりします。目や耳、歯も壊れてきます。しまいに脳までも壊れてきて、記憶力がなくなります。私たちの肉体では永遠の御国で住むことは不可能です。これは地上のからだであり、天上のからだがどうしても必要となります。使徒パウロは、幕屋のかわりに、「神の下さる建物」あるいは「永遠の家」と言っています。英語の聖書では、テントではなく、ビルディリングとなっています。これは朽ちない栄光のからだを意味しています。永遠の御国には栄光のからだが用意されているということは、なんと幸いでしょうか?

 ペテロもパウロも、死ぬということは、「幕屋を脱ぐことなんだ」と言っています。つまり、魂が肉体を脱ぐ、それが死であるということです。肉体を脱いだ魂は裸の状態です。私たちは死んだら裸の状態でパラダイス(天国)にしばらくの間います。しかし、裸の状態では、完全でありません。その後、神さまは永遠の御国に私たちを入らせてくださいます。永遠の御国では私たちの栄光のからだが用意されています。死なない栄光のからだに、死なない私たちの魂がすっぽりと入るのです。良いですね。楽しみです。かなり前にアバターという映画がありました。あの映画は、ニュー・エイジの思想があるので、ちょっと危ない映画です。肉体と霊魂が分離するという映画がたくさんあります。でも、アバターの主人公は事故で半身不随になりました。しかし、アバターのからだに魂が入ると、自由に動くことができました。最後に自分のもどるべき肉体がなくなり、死ぬしかありませでした。しかし、奇跡が起こってアバターは体で生きることができました。その映画は聖書の一部をまねて作ったのです。聖書の方がオリジナルです。ペテロは「私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです」と言いました。ペテロはイエス様から、「あなたはまもなく死にますよ」と言われていました。でも、ペテロは表現を換えて「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」と言いました。死だと、「そこで終わり」という断絶がどうしてもあります。しかし、「幕屋を脱ぎ捨てる」となると違ってきます。詳しく言うと、幕屋を脱ぎ捨て、裸になり、しばらく天国に留まる。その後、復活して天にある永遠の建物に住まうということです。一連の流れをご理解できたでしょうか?肉体の死は決して美しいものではありません。事故や病気、老衰、いろいろあるでしょう。魂が肉体を脱ぐ時はとても辛いそうです。三浦綾子先生は、「死という、最後にすべき仕事がある」と言われました。ジョンバニヤンの『天路歴程』という物語があります。クリスチャンが死の川を渡るとき、本当に辛い思いをしました。しかし、そのとき「希望」が傍らにいて彼を励ましてくれました。途中、やっとの思いで肉体を脱ぐと、今度は軽やかに向こう岸に着くことができました。そこは天のエルサレムでキラキラ輝いていました。

 私たちは聖書的な来世観を持つことがとても重要です。死は終わりではありません。キリストにあるなら復活があり、永遠の御国があるということです。私たちのゴールは永遠の御国に入って、主イエス・キリストとあいまみえるということです。この地上ではどうしたら良いのでしょうか?神の国、永遠の御国はすでにこの地上に来ています。目には見えませんが、私たちは霊的にはそちらで生きているのです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。天の御国、永遠の御国は2千年前から、すでにこの地上に来ているのです。そして、間もなく目に見えるかたちとしてやってきます。だから、準備をしなければなりません。死の準備も大切ですが、死ぬ前に入国できる権利を得なければなりません。そして、この地上で神さまと親しく交わり、神のみこころを行って生きます。その人は地上でありながらも、半分は永遠の御国に住んでいるのです。ですから、永遠の御国が全く新しいところということではありません。地上でいくらか味わっているからです。クリスチャンは、霊的にはすでに永遠の御国に入っています。願わくば、もっともっと、地上でも永遠の御国を味わうことができますように。そして、来るべきときがきたら、何とかギリギリではなく、余裕をもって入りたいと思います。