2012.9.9「ご威光の目撃者 Ⅱペテロ1:15-14」

きょうは、私たちが信じるための根拠、あるいは信仰の土台は何かということを学びたいと思います。この世にはたくさんの宗教がありますが、大体、経典とかご本尊があります。日本の神道には、教義や経典はありません。日本書紀や古事記からある程度のことを知ることができますが、神話のようなもので、歴史性はありません。新興宗教なども、教祖が神秘的な体験のもとで経典を書いたりしますが、やはり歴史性がありません。一方、キリスト教の場合は歴史性があり、作り話ではありません。近年、キリスト教会の中で、神話や民話のように自然発生したような学説を唱えた神学者がいました。しかし、それは間違いです。私たちは神さまから啓示を受けた人たちが聖書を書いたと信じています。ペテロは私たちが信じるための根拠が2つあると言っています。第一は使徒たちの証言であり、第二は預言者たちの預言です。

 

1.使徒たちの証言

 

 ペテロの時代、聖書といえば私たちが持っている旧訳聖書でした。そして、使徒たちがイエス様の教えや教会に大切な教理を書きました。それがだんだん、まとまり新約聖書になりました。使徒たちの証言とは、今で言う新約聖書です。Ⅱペテロ1:15-16「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」ペテロは自分がこの世を去った後も、これらのことを思い起こせるように文書を残しました。ペテロは「主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません」と言っています。ペテロは第一と第二の手紙で、「キリストの現われ」「キリストの来臨」について述べています。「現れ」とか「来臨」とは、世の終わり、再び来られる栄光のキリストのことであります。キリストが馬小屋で生まれたのを初臨、クリスマスと言います。そのとき、キリストは謙遜で、しもべの姿を取られました。しかし、世の終わり、キリストは力と栄光を帯びた「主の主」「王の王」として来られます。これを「来臨」「再臨」と呼んでいます。ペテロは「これはうまく考え出した作り話ではない」と言っています。当時、ギリシャの中に密議教というのがあって、技巧に富んだ作り話がありました。ペテロはそういう作り話ではなく、「私たちは確かに目撃したんだ」と言っています。一体、何を目撃したのでしょうか?

 Ⅱペテロ1:16-17「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」3つの福音書に変貌山の出来事が記されています。イエス様は、マタイ16章後半で、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです」と言われました。それから6日後、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。何故、3人を連れて行かれたのでしょう。律法によると、2人もしくは3人の証言が必要だからです。弟子たちは何を見たのでしょうか?彼らの目の前で、イエス様の御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これはどういう意味でしょう?イエス様は再び来られる、栄光の姿にしばしの間だけなったということです。それだけではありません、天に戻ったはずのモーセとエリヤが地上に呼び戻され、イエス様と何やら話し合っているではありませんか?ペテロは「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです。もし、よろしければ、私が3つの幕屋を作ります」と提案しました。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。こんなすばらしいことはありません。ペテロはお三方と、山の上にずっと留まりたいと思ったのです。すると、光り輝く雲がその人たちを包み、そして雲の中からお声がありました。神さまの声をペテロとヤコブとヨハネが聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロの手紙では「彼の言うことを聞きなさい」が省かれています。これは、父なる神さまが「イエスは彼らとは別格で、私の子どもである」とおっしゃったということです。そのとき、イエス様は弟子たちに、「自分が死人の中からよみがえるときまでは、だれにも話してはならない」と口止めされました。ペテロはずっと封印していましたが、自分が死ぬ前に目撃したことをここに書いたのです。

 ペテロは何故、自分が目撃した変貌山のことをこのところに書いたのでしょうか?それは、キリストの来臨が作り話ではないということを証明したかったからです。当時のクリスチャンはいろんな苦しみや迫害の中にありました。悪いことをしていないのに、ののしられたり、打ち叩かれたりしていました。人々は「このまま地上の生活が終ったなら本当に不公平だ」と思ったでしょう。今日、多くの教会は、再び来られるキリストのことを強調しません。「え?キリストが本当に来ると信じているの?」と馬鹿にされるかもしれません。だから、信仰がなまぬるいのです。再び、キリストが来られると信じたらどうなるでしょうか?この苦しみや迫害が完全に報いられるということです。なぜなら、キリストはこの世の悪や不正をさばく王として来られるからです。簡単に言うと、本当の宗教と偽物の宗教、白黒つけるためにやって来るのです。悪がさばかれ、正義が報いられるとしたらどうでしょう?ある人にとってはすばらしいことですが、ある人にとっては最悪の時ではないでしょうか。そのためには、王なるイエス様とできるだけ早く、和解しておく必要があります。ペテロは「それはうまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちはキリストの威光の目撃者なのです」と証言しています。ペテロはキリストの何を目撃したのでしょう?それは、再臨のキリストを垣間見たのです。福音書には「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなり」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見ました。ヨハネ黙示録1章に「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。…口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見て、その足元に倒れ、死者のようになりました。なぜなら、変貌山の時よりも、もっと栄光に輝いていたからです。

 ペテロもヨハネもそうですが、栄光のキリストを目撃しました。その当時は、まだ新約聖書がまとめられていませんでした。ペテロもヨハネも、口で伝えたり、手紙に書いたりしていたのです。しかし、イエス様の再臨が思っていたよりも遅れました。これは文書に残す必要があるということで、新約聖書ができあがったのです。何故、遅れたのでしょうか?それは異邦人である私たちが救われるためです。神様は私たち異邦人を救うために、「異邦人の時」を設けました。異邦人の時は、教会の時でもありますが、ほぼ2000年たちました。しかし、これももう終わりが近づいています。なぜなら、福音が全世界に宣べ伝えられたからです。私たちが信じているのは、使徒たちが目撃した証言であります。新約聖書は使徒たちの証言と教えが書かれている書物です。新約聖書の目的は何でしょう?それは、私たちがキリストを信じて救いを得るためです。そして、再び来られるキリストに備えるためです。私たちはこの地上でいろんな祈りをします。日々の問題が解決するように、病気が癒されるように、商売が祝福されるように祈ります。こういう祈りも悪いことではありません。しかし、もっと重要なのは、再び来られるイエス様とお会いできるように祈ることです。あなたは、「ハレルヤ!主よ、お待ちしておりました。」と待つでしょうか?あるいはアダムとエバのように御顔を避けて、どこかに隠れるでしょうか?キリストはアルファーであり、オメガなるお方です。この地上の歴史を終結させ、御国をもたらすために、来られるのです。