2012.9.16「にせ教師の特徴 Ⅱペテロ2:1-9」

イエス様はマタイ24章で「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わす」と預言されました。それでなくても、世の終わりには神さまを信じる人が少なくなるのに、どういうことでしょうか?それはサタンが自分の滅びが近いのを知り、できるだけ多くの人を巻き添えにしたいからです。世の終わりには、信仰を持つことさえも困難なのに、妨げも多いとは、どういうことでしょう。映画でも物語でもクライマックスというのがあります。どんな場合も、ラストシーンというものは、荒れるものです。ある者は死に、ある者は生き残るという壮絶な戦いがあります。ペテロは終わりの時代に住む私たちに、「目を覚まして、備えるように」とこの手紙を書き残したのだと思います。

 

1.にせ教師の特徴

 

 ここに、にせ教師の特徴がいくつか書かれています。Ⅰペテロ2:1「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」第一に、にせ教師は「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込む」とあります。異端とは、単に間違った教えという意味ではありません。それを信じても、決して救われないという教えです。私たちは真理か嘘か両極に分けようとします。片方が真理で、もう片方が嘘であるというふうに考えてしまいます。しかし、それは本当ではありません。真理というものは真中にあるのです。真理には、ある程度の幅がゆるされています。なぜなら、人間は真理の一部しか知らないからです。そして、真理の右と左に、極端というのがあります。極端とはどういう意味でしょうか?みなさんは農道を車で走ったことがあるでしょうか?道幅が3メートルもありません。車一台がやっと通れるような幅です。その道の両脇は水路か田んぼです。ハンドルを切り損ねると、がばっとはまってしまいます。はまったら、だれも助けにきてくれません。真理というものは、この道路と同じように真中にあるのです。私たちは信仰生活を送るとき、両脇の極端にはまってはいけません。

大体、にせ教師の教えというものは極端です。文鮮明が唱えた統一原理があります。その教えは、エバがサタンと姦淫したので人類に罪が入ってしまった。罪をきよめるためには血わけが必要だ。そこで、集団結婚式をして、教祖から正しい種をもらうのです。明らかに変な教えですが、聖書を使うので、多くの日本人が捕らえられています。どういう人が捕らえられるのでしょう?家庭に問題のある人です。家族の愛に飢えている人たちが、文鮮明という父親を求めるのです。そして、彼らは集団生活をして、きびしい奉仕に明け暮れています。「これは間違いである」と気付いても、集団生活がすばらしいので抜けようと思わないそうです。もちろん、そこにはマインドコンロールも入っています。他にもキリスト教の異端として、エホバの証人が有名です。統一教会ほど、反社会的ではありませんが、家庭が壊れます。彼らの教えは世の終わりとそのさばきを強調します。この世はまもなく終るので、エホバの神を信じて、千年王国に住まわなければならないと主張します。しかし、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要です。だから、彼らは財と時間をささげて、組織に献身します。エホバではなく、ニューヨークの組織が彼らの神さまなのです。一軒、一軒、家庭を訪問して伝道活動をしています。彼らは人々の救いのためではなく、自分が救われるためにあのような布教活動をしているのです。動機は、愛ではなく恐れです。律法とノルマに縛られ、ハツカネズミが車輪を漕ぐような生活を強いられています。最近、韓国では新天地イエス教という異端がすごい勢いで増えています。新天地イエス教は、聖書のことばを文脈に関係なく、比喩(たとえ)で解釈するという特徴があります。最初は普通のクリスチャンとして教会に入り込み、やがて献身します。教会で一定の地位を持ってから、人々を間違った教えに導くのです。今も大きな教会に、工作員として入り込み、機会を狙っています。他に全世界に広がっているのは、ニューエイジの考えです。「宗教は1つだ。キリスト教会も1つになるべきだ」と主張します。ニューエイジの特徴は、霊媒、オカルト、超常現象です。癒し系の音楽、自己啓発セミナー、マンガ、映画、ゲームにかなり入り込んでいます。

 他にもたくさんありますが、彼らに共通する道徳的な特徴があります。Ⅱペテロ2:2-3「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」道徳的な特徴の第一は、好色であります。性的問題が必ず付きまとうということです。なぜでしょう?宗教的に高い立場に着くと、何でも思いどおりになります。だから教祖は、好き勝手をして、重婚問題にひっかかったり、性的な罪で訴えられます。しかし、マインドコンロールされている人たちは、それは罪ではなく、喜ばしいことであると思っているようです。本人が被害者として訴えないのですから、罪に定めるのが難しくなるのは当然です。オカルト的でスピリチャルなカウンセリングもいくつかあります。受ける人は、心のすべてを打ち明けるのですから、そこに誘惑が入り込む隙が生じるでしょう。ペテロは「そのために真理の道がそしりを受けるのです」と言っています。真理の道とは信仰であり、キリスト教会がそしりを受けるということです。「ここしか救いがない」と思ってきたのに、そうではなかった。非常に残念なことです。

第二の道徳的特長は、貪欲です。ペテロは「作り事のことばをもってあなたがたを食い物にする」と言っていますがどういう意味でしょう?この人は、知識や知恵があり、頭が良いのです。迷っている人に「神さまはこう言われます」と断言するでしょう。にせ教師の教えの特徴は、人々に選択の余地を与えません。「神はこう言われます。正しい教えはこれです。」と断言します。その教師に逆らうということは、神さまに逆らうことになります。しかし、その教師は人々をたくみにコントロールしているのです。目的は何でしょうか?貪欲です。その人が持っているものを奪い取るためです。「あなたがたを食い物にする」とはそのことです。新興宗教に共通していることは、お金や財産が目当てです。「どうして、取られるのかな?」と不思議に思いますが、作り事のことばをたくみに用いるからでしょう。「ああいえば」「こういう」。相手は頭が良いのですから、かなわないかもしれません。では、どうやって見抜くのでしょうか?貪欲です。本当のキリスト教は、奪うのではなく、与えるものです。パウロがこのように言っています。使徒の働き20:35「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」キリスト教の精神は自己犠牲です。人を食い物にするというのは、とんでもないことです。しかし、牧師も人間ですから、霊的なものを蒔いたら、肉のものを期待するかもしれません。ここいらへんは、戦いがあります。キリスト教会において、しるしと奇跡のわざを行なう伝道者がいます。テレビに出たり、方々に出かけて大きな集会をするでしょう。確かに、すばらしい奇跡が起こります。癌が癒され、死んだ人が生き返ったりもします。そうすると、いっぱい感謝する人も出てくるでしょう。やっぱり1つの誘惑だと思います。だから、これは人ごとではありません。私たちは、ただで受けたのですから、ただで与えなければなりません。

ペテロは彼らに対して何と警告しているでしょうか?1節には「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」また、3節には「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」彼らの末路は滅びであり、きびしいさばきです。にせ預言者やにせ教師はサタンと同じ火の硫黄の中に投げ込まれます。なぜでしょう?サタンの手先になって、人々を惑わしたからです。ある人たちは純粋に神さまを求めて、自分たちのところに来たのでしょう。それなのに、異端の教えで、彼らを束縛し、天国への門を閉ざしたのです。だから、ペテロは「神さまはすみやかに、怠りなくさばきが下される」と言います。でも、どうでしょうか?異端をもたらしたにせ教師、あるいは教祖は、すぐには死にません。けっこう長生きする人もいます。ですから、「すみやか」というのは当っていないような気もします。私はそこには2つの力が働いているからだと思います。1つはサタンの力です。サタンがにせ教師たちに力を与えているからだと思います。もう1つの力は神さまのあわれみです。彼らの多くは、自分を買い取ってくださった主を信じていたのです。ところが、ユダのように主を否定してしまいました。イエス様もユダに対して、最後まで悔い改めるチャンスを与えておられました。もし、神さまがサタンもにせ教師も、すべての悪も滅ぼすとおっしゃったなら、立ち尽くせる人がいるでしょうか?クリスチャンといえども罪を犯すことがあるので、神さまのあわれみを受けている存在です。私たちは聖書からこういう構造を知って、極端な教えにはまらないで、真理の内を歩むべきです。そのためには、聖書を正しく信じている教会に属し、いつもへりくだって聖書から教えられることが重要だと思います。

 

2.にせ教師の末路

 

ペテロは3節で「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」と言いながら、その後、たくさんの例をあげています。4節から9節まで、3つの例をあげています。第一は罪を犯した御使いたちに対するさばきです。Ⅱペテロ2:4「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」これと同じようなみことばがユダ書にもあります。ユダ6「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」御使いがいつどこで罪を犯したかは聖書にはっきりとは書かれていません。しかし、イザヤ書やエゼキエル書から、あるいはヨハネの黙示録からある程度のことは想像できます。おそらく、この世界が創られる前に、サタンと3分の1の御使いたちが、神さまに反逆したのではないかと思います。彼らは天から落とされ、あるものは悪霊になり、またあるものは暗やみの穴の中に閉じ込められてしまったのでしょう。少し前に、『タイタンの逆襲』という映画を見たことがあります。タルタロスという地の深いところに、12人のタイタンが閉じ込められていました。ギリシャ神話ですから、聖書とちょっと違います。ある御使いたちは、今もなお、ずっと穴の中に閉じ込められているのです。気の毒といえば気の毒ですが、ここで言いたいことは、神様のさばきには容赦はないということです。

二番目の例はノアの時代の不敬虔な人たちに対するさばきです。Ⅱペテロ2:5「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」ノアの洪水です。キリスト教会の中にもノアの洪水を信じない人たちがいます。ある学者たちは、一部分だけに洪水が起きたのであろうと言います。しかし、不思議なことに洪水物語は世界中にあります。アメリカのインディアンの中にも、洪水物語があります。地層を調べると、ぶ厚い砂層があり、全世界を呑み込むような洪水があったのではないかと推測できるそうです。中国の漢字には洪水の物語が残っています。洪水の「洪」の象形文字があります。地上が水を覆っているかたちで、その上から二本の手が伸びて、助けを求めているように見えるということです。また、船という字も不思議です。左側の舟は象形文字です。右のつくりには、八と口があります。口は人を意味するそうです。これは箱舟に8人が乗っていたということを現しているのではないでしょうか?また、穴という字があります。穴はウ冠の下に八と書きます。洪水で助かったノアの8人はしばらくの間、洞穴に住んでいたのではないかと思います。また、空という字があります。空は穴の下に工という字があります。八人が青空のもとで働いた、つまり工です。そして、今まで住んでいた穴が空っぽになった。そういう連想のもとでこの字が形成されたのではということです。なんだか、しゃれみたいですね。ノアの洪水は創世記だけはなく、いろんな書物にもあるので、これは歴史的な事実だということです。神さまは罪深い人たちをさばいたということです。

三番目の例はソドムとゴモラに対するさばきです。Ⅱペテロ2:6-8「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」ソドム、ゴモラは現在の死海の南にあったのではないかと言われています。ロトは「エデンの園のように潤っているので羊に適している」と思って、低地全体を選び取りました。しかし、低地の町々には、よこしまな人たちが住んでいました。ソドムの罪は、男色、同性愛ではなかったかと言われています。ペテロは「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けた」と述べています。近年、ポンペイの遺跡が発掘されました。ポンペイはローマのリゾートタウンでにぎわっていました。ところが、79年ヴェスヴィオス火山が突然噴火しました。そこにいた人たちは、火砕流に飲み込まれました。一瞬のうちに生き埋めになって死んだのです。1740年頃、ポンペイの発掘がなされました。娼婦の館などが発掘され怪しげな壁画がたくさん残されていたそうです。考古学者たちは、火山灰の空洞に石膏を流し込みました。なんと、顔の表情までもはっきりと分かるものもありました。かなり前のことですが、伝道者の滝元明先生がポンペイを訪れたことがあるそうです。確かに、石膏で復元した遺体があったそうです。しかし、あるところに行くと、板塀で囲ったエリヤがあったそうです。そこを見てはいけないということでしょう。当時のローマがいかに堕落していたのか白日のもとにさらされたのです。

ペテロがさらに、言いたいことは何でしょうか?Ⅱペテロ2:9「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」主は、ノアの洪水の時は8人を救い出されました。ソドムとゴモラの時も、義人ロトを救い出されました。終わりの時代、私たちはにせ教師による異端、あるいは不敬虔な人たちの中に生きています。義人ロトのように心を痛めて暮らしています。しかし、神さまは終わりの時代、どのように働いているのでしょうか?「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出す」と約束しておられます。かつての患難のときそうであったように、終わりの時代においても、神さまは救いの御手を伸べておられるということです。そして、不義な者に対してはどうでしょう?「不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」アーメン。このように聖書には、一方には救い、他方にはさばきがあるということをどう思うでしょうか?私は本当に嬉しく思います。先月の8月16日、木曜日、家内が岩手に帰っているので、ゆっくり説教準備をしていました。ゆっくりという意味は、疲れるとテレビでも見るということです。ちょうど高校野球がやっていました。また、あるチャンネルでは「あばれん坊将軍」もやっていました。つい、あばれん坊将軍を見てしまいました。北町奉行の息子が盗賊の一味に入り、死罪を言い渡されました。さばいたのは北町奉行の奉行であり、息子を切り捨て、自分も死のうと思っていました。なぜ、息子がそんなことになったのか?それは10数年前、奉行が今で言う水商売の女性と恋に陥り、息子が生まれました。しかし、周りの人たちが反対し、離婚させられました。息子は、父が自分を捨てたということで、すっかりグレてしまいました。息子は悪いと知りながらも、盗賊の一味に加担してしまったのです。父が息子に問いただすと、10年前に母が亡くなったということです。それで、奉行である父は不憫なことをしたと息子に謝ります。でも、息子の死罪は免れません。そこに登場したのが、新さんこと、あばれん坊将軍です。その盗賊の背後には旗本屋敷が糸を引いていることが分かりました。結果的に、罪が1つ軽くなって、島送りになりました。「待っていますから」と婚約者が言いました。私はそれを見て、感動しました。「法は曲げられません。でも、なんとか救いの道はないのか?」聖書の福音と似ているなーと思いました。

私たちは観客席から、「こっちが悪いから神のさばきを受けて当然だ」と言うかもしれません。もし、私たちがノアの8人ではなくて、不敬虔な人たちであったらどうなるでしょうか?洪水で滅ぼされるしかありません。あるいは、もし、私たちがソドムとゴモラの町の住人たったらどうするでしょうか?火と硫黄で滅ぼされるしかありません。私たちもかつては、不敬虔な者たちの中にいました。不義な者どもとして、さばきの日まで、懲罰のもとに置かれていたのです。でも、神様のあわれみによって救われたのです。だからと言って、にせ教師や不敬虔な者を大目に見ろということではありません。神さまの義と神さまの愛は、十字架に表わされています。イエス・キリストが私たちの罪を負ってさばかれました。本来、私たちがさばかれるところを、イエス様が身代わりになってくださったのです。しかし、これによって、神の義と神の愛が立ったのです。私たちは神さまの側に立って、「あっちが悪いが、こっちは良い」とやりがちです。しかし、善悪をさばかれるのは神さまだけです。私たちは元罪人、元犯罪人だったのですから、人をさばく権利はありません。一番の違いは、神さまのあわれみを受けているということです。私たちが身代わりになったイエス様と神さまのあわれみを忘れない限り、どんな誘惑にも勝利できると信じます。自分が信じたとか、自分に正しさがあったとか言っている人は非常に危険です。世の終わり、背教が起こり、人々の愛は冷えていきます。にせ預言者、にせ教師もさらに多く現れるでしょう。そのために私たちは、聖書のことばにしっかりと留まるべきです。そして、神の義と神の愛を表しているキリストの十字架のうちに留まるべきです。アーメン。