2012.9.23「にせ教師への警告 Ⅱペテロ2:10-17」

私は「世の終わりには、地震など天変地異が起こる」ということで、ペテロの手紙を選びました。しかし、それは最後のほんの少しの部分しかありません。先週からⅡペテロ2章からメッセージしていますが、にせ預言者とかにせ教師の話しばっかりです。私も準備のため、読んでいても、あまり恵まれません。しかし、「これが世の終わりの特徴なんだなー」と改めて思うようになりました。世の終わりに、にせ教師たちは「善も悪もない。天国も地獄もない。絶対的な神なんか存在しないんだ」と教えます。多くの人々は、「ああ、そうだ。そうだ」とその教えに巻き込まれるでしょう。そのように人々が神から離れたとき、世の終わりのさばきが突然のように襲うのです。私たちは、まさしく世の終わりの時代に生きています。

 

1.にせ教師のそしり

 

 10節から12節まで「そしる」ということばが3回出てきます。10節には「栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません」と書いてあります。11節は「御使いたちは、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません」と書いてあります。また、12節には「理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです」とあります。そしるとは、悪口を言う、中傷する、ののしる、あるいは神を冒瀆するという意味です。なぜ、にせ教師がそしるのでしょうか?それは、相手をそしることによって、こっちが正しいということを強調するためです。日本ではあまりやりませんが、アメリカでは競争相手の会社をけちょんけちょんにするCMが許されているようです。たとえば、コーラの会社がもう1つのコーラを悪く言います。車の会社が、日本車を潰すようなCMを流したりします。大統領選でも、相手のスキャンダルを互いに暴露したりします。日本では公にはやりません。しかし、学校では友だちの悪口を言ったり、メールで中傷するイジメがたくさんあるようです。先月、尖閣諸島に香港の活動家が上陸しました。海上保安庁に捕らえられましたが、そのとき、活動家たちがものすごい剣幕で何かを訴えていました。今では、中国全土で、デモ隊が叫んでいます。おそらく、いろんな悪口を言っているのでしょう。テレビで国会中継を見るときがたまにありますが、野次を飛ばしているシーンをよく見かけます。世の中では、そしる、悪口を言う、中傷する、ののしるなど、当たり前のように行われています。相手から罵倒されたり、そしられたとき、だまっている方が悪いように思われます。ことばで相手をそしることにより、こっちが正しいと思わせる。それは1つの方法かもしれません。

 聖書に出てくるにせ教師も、まさしくそのようにしていたのでしょう。日本語の聖書は、10節に「栄誉ある人たちをそしって」と書いてありますが、いろんな訳があります。相手は人ではありません。「目に見えない世界の栄光の者たちをそしる」「御使いたちをそしる」という訳があります。それに対して、御使いたちはどうでしょうか?11節「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」とあります。御使いたちはしないのに、にせ教師たちは、主の御前に彼らをそしって訴えるということです。現代のにせ教師は、自分が信じていない他の神さまをそしっています。ユーチューブで、幸福の科学の大川隆法と田原総一郎の対談を見たことがあります。もう、20年前のものです。大川隆法は自分のことを釈迦の生まれ代わりだと言っていました。そして、対談の中でキリスト教だけではなく、他の宗教のことも批判していました。彼は「宗教はある年数が経つといのちがなくなる」と言っていました。そして、「『幸福の科学』こそが終わりの時代にあって、人々を救う宗教なんだ」と言っていました。そういう対談の中で、まさしく、霊的な存在そして、まことの神さまさえも、否定するようなことを発言しています。にせ教師たちは、どうしても自分の教えが唯一まことであることを主張するために、まことの神さまをそしることがあります。つまり、にせ教師は、本来、超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。私も講壇の上からいろんなことを言っています。しかし、聖書の教えからは超えないように気をつけています。大川隆法は「私は人間ではない」と言っているようですが、私はそういうことは言いません。にせ教師は、神の名前を借りて何かを語ったり、あるいは権威を示そうとします。しかし、それは超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。あの御使いたちですら、そういうことはしないのです。なぜでしょう?神を恐れているからです。

 にせ教師のように、神の領域を侵した人はどうなるのでしょう?12節「ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」英語の聖書では、動物は野獣となっています。おそらく、人に危害を加えるライオンやクマのことを言っているのでしょう。ライオンやクマが街中を歩いていたら、捕らえられ殺されるでしょう。なぜなら、危険だからです。にせ教師がこれ以上、間違った教えを流し続けるならどうなるでしょう。人々が汚され、まことの神さまから離れてしまいます。おそらく、神さまはだまっていないでしょう。ペテロは「それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです」とはっきりと断言しています。旧約聖書のⅡ列王記18章にこのような記事があります。ヒゼキヤがユダの王様だったとき、アッシリアが攻めてきました。そのため、大量の銀と金を渡して許してもらいました。しかし、再び、アッシリアが攻めてきました。この時は、「降参して、町全体を明け渡せ」と命じてきました。アッシリアの将軍、ラブシャケが、「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでも言うのか」となじりました。それで、ヒゼキヤは衣を裂き、「きょうは苦難と侮辱の日です」と宮で祈りました。すると神さまは1つの霊を送りました。ラブシャケは内乱のうわさを聞いて、国に引き上げました。彼はそこで剣に倒れました。三度目は、セナケリブ王が手紙をよこしました。イスラエルの神、主をなじるような手紙でした。そうすると、ヒゼキヤは主の前で「主よ、生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください」と祈りました。そうするとどうなったでしょうか?なんと、その夜、主の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、18万5000人を打ち殺しました。それだけではありません。アッシリアの王、セナケリブはニネベに帰りましたが、神殿で祈っているときに暗殺されました。彼らは主の名を借りて勝手なことを言いました。そして、イスラエルの神、主をそしったのです。だから、彼らは滅ぼされてしまったのです。

 旧約聖書は私たちに対する教訓です。世の終わりにも、にせ教師が出てきます。そして、まことの神をそしるでしょう。しかし、そのために理性のない動物のように滅ぼされるのです。私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?神さまだけではなく、人をそしる、悪口を言うということは大きな罪であるということです。マタイ5章には、「兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と書いてあります。なぜ、相手を悪く言ってはいけないのでしょう?その人の背後にはその人を創られた神様がおられるからです。神さまがその人にいのちを与え、その人を生かしておられるのです。さらには、イエス様がその人を贖うために、血潮を流したとなるならどうなるでしょう?その人がクリスチャンであるかないかは関係ありません。イエス様はすべての人のために代価を払ってくださいました。もしも、創造と贖いの2枚のレンズで人々を見るならばどうでしょうか?簡単に、その人をさばいたり、悪く言うということは、背後におられる神さまを冒瀆することになります。確かに日常、いろんな人と出会います。行いが変だったり、無礼なふるまいをする人がいます。私も買い物に行くと、べらべら独り事を言っている人をみかけます。「あまり近寄りたくないなー」と思います。また、テレビを見ていても、いろんな人が出てきます。女子アナやタレントを見て、さばくこともあります。また、家族に対しては、油断していますので、ひどいことばをぶつけることがあります。ということは、そしったり悪口を言うということは、なにもにせ教師たちだけではないということです。日本の教育は進化論を教えこまれていますので、能力のない人を簡単にさばきます。また日本は人と同じでないとダメであるという価値観が染み込んでいます。私たちはこういう文化の中で育ってきました。だから、聖書的な価値観に置き換える必要があります。進化論ではありません。神さまがその人を創られ、命を与えておられるのです。また、キリストがその人のために、十字架で代価を支払ったのです。だから、人をそしったり、悪口を言ってはいけないということを心に深く留めたいと思います。パウロはエペソ4章でこのように命じています。エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」アーメン。

 

2.にせ教師の報い

 

 Ⅱペテロ2:13-14「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」このところには、にせ教師たちの乱れた生活ぶりが記されています。ひとことで言うなら「不義」であります。不義というのは、ギリシャ語でアディキアと言います。これは「不正」「不法」という意味があります。神が定めた律法に反しているということです。神さまはこの世界を創られたとき物理的な法則だけではなく、道徳的な法則も作られました。私たちはこの地上で、万有引力の法則に支配されています。もし、この二階から飛び降りたら怪我をするでしょう。同じように、神さまが定められた律法に反するなら、それだけの報いを受けるということです。だから、ペテロは「彼らは不義の報いとして損害を受ける」とはっきり述べています。では、にせ教師たちはどのような不義、不正をしているのでしょうか?まず、第一に昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。第二は宴席に連なるとき自分たちのだましごとを楽しんでいます。第三は淫行に満ちており、罪に対して飽くことを知らないと書いてあります。リビングバイブルはこのように訳しています。これはJBフィリップス訳と同じ内容です。「その罪に濁った視線は、どんな女性をも逃しません。しかも、彼らのみだらな行為は底なし沼で、うわついた女を誘惑するゲームに熱中しています。」この3つをまとめると、彼らは肉そのもので生きているということです。多くの若者たちは、神の道徳的な法則を全く無視して生活しています。1ヶ月前、大阪の女子高生を取材した番組がありました。気分が悪いので、4,5分しか見ませんでした。しかし、驚くべき内容でした。彼女らは携帯で売春の相手を探しています。AV女優の働き場もあります。そういうことをして、大金持ちになった友だちもいるということです。この世には、女子高生を餌にしている、悪い人たちがたくさんいます。もし、そういう人に捕まったら、「何をしても自由だ」なんて言っていられません。

 ところで、「にせ教師」ということですから、宗教的なことをしている人です。ある人は「私はキリスト教です」と言っています。だから、ペテロは「彼らは、しみや傷のようなものだ」と言っているのです。現代訳は「彼らは、不名誉な、面汚し」と訳しています。つまり、キリスト教会に汚名を与えているということです。にせ教師と言って良いのかどうか分かりませんが、アメリカでも日本でも、そういうニュースが結構あります。昔はアメリカのテレビ伝道者でしたが、日本でも最近、あちこちで聞きます。お寺とか新興宗教では「ああ、またか」ということで、あまり話題にはなりません。しかし、いざ、キリスト教会となると大スキャンダルになります。世の人に「キリスト教会は清く正しいものだ」という認識があるからでしょう。でも、実際には、にせ教師ではなくて、牧師や宣教師の場合もあります。「いや、あいつは、にせ教師だったんだ」と後から言われるかもしれません。イエス様の時代は、パリサイ人、律法学者、サドカイ人たちに、そういう人たちが多くいました。上座を好んで座ったり、やもめたちからお金をまきあげる、いわゆる偽善者でした。なぜ、そういう不義、不正をしてしまうのでしょうか?まず、人々の前に立つ人は、まことの教師であろうとにせ教師であろうと尊敬されます。有名になって、権威や権力を持ったらどうなるでしょう?信者たちを思いのままあやつることができるでしょう。また、そういう教祖と一緒になって甘い汁を吸う、幹部もいます。幹部連中は「教祖はインチキだ」と知っていても、恩恵を受けているうちは着いて行くでしょう。組織ぐるみになると、世に与える悪影響が大きくなります。悪魔もそこに加担して、マインドコントロールや霊的な束縛も与えるでしょう。この世には、そのようにして大きくなった宗教団体がたくさんあるのではないでしょうか?牧師でもクリスチャンのことを「信者」とか「信者さん」と言ったりします。なんだか、新興宗教の収入源のように聞こえます。私は決して、そういう呼び方をしません。私たちは神さまから召された、神の共同体です。パウロは3つのたとえをもって教会とはどういうものかを説明しています。第一は神の家族です。神の家族には子ども、若者、そして父や母がいます。私たちは兄弟姉妹です。第二はキリストのからだです。かしらはイエス・キリストです。そして、からだにはたくさんの器官があります。互いに結び合わされてキリストのみわざを行います。第三は神の宮です。神さまはご自分が住まう場所をさがしておられます。私たち一人ひとりは生ける石です。生ける石が設計図に従って組み合されるとき、神の神殿ができます。そこに、神さまが住んでくださいます。こういう聖書的な教会観を持っているならば、にせ教師の存在を排除することができます。また、こういう教会が、指導者がにせ教師になるのを防いでくれるでしょう。亀有教会の理念の中に「かしらはキリストである」と明言しているのは、このためです。

 不義の報酬、神のさばきは必ずあります。ペテロは旧約聖書の預言者バラムを例にあげています。Ⅱペテロ2:15-16「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。」モアブの王バラクと司たちは、預言者バラムに「どうかイスラエルを呪ってくれ」とお願いしました。なぜなら、イスラエルが神様の祝福を得て、どんどん増え広がっていたからです。バラムは「わかりました。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう」と言いました。神様はバラムに「その民を呪ってならない。その民は祝福されているから」とはっきりと告げました。朝になって、バラムは「やっぱり無理」と告げました。しかし、バラクと司たちは「何でも与えるので、なんとかイスラエルを呪ってくれ」と頼みました。バラムは、再び、神様に聞きました。返事は変わりませんでした。次の朝、モアブのつかさたちが迎えに来たので出かけました。途中の道で、ろばがぴったりと止まってしまいました。そして、道からそれて畑の中に入りました。バラムは「コラ!道に戻れ」と、ろばを打ちました。ろばは狭い道を進みましたが、今度は石垣にぴたっと寄りました。バラムは足が押し付けられたので、「何をやっているんだ」と、またろばを打ちました。もう少し進むと、ろばはバラムを乗せたまま、うずくまってしまいました。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打ちました。すると、主がろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言いました。「私があなたに何をしたと言うのですか。私を三度も打つとは」。そのとき、主がバラムの目を開きました。なんと、主の使いが抜き身の剣を手に持っていた道をふさいでいるのを見ました。ろばは剣を持った御使いを避けたのです。しかし、バラムは全く見えていませんでした。バラムはそこでひざまずいて、「私は引き返します」と悔い改めました。バラムは主が告げられたとおりに、イスラエルを祝福しました。しかし、その物語には続きがありました。彼は「私は金の満ちた家をくれても、主のことばにそむくことはできません。主が告げることなら、それを告げなければなりません」と言いました。しかし、他の聖書箇所を見ると、バラムはあとで堕落したことがわかります。彼はミデヤン人の娘たちをそそのかして、イスラエルを誘惑し、偶像を拝むようにさせました。だから、黙示録2:14「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた」と書いてあります。バラムは不義の報酬を愛した二心の預言者です。

 こういう箇所を見ると、身が縮むような思いがします。預言者とか祭司は神様に仕える特別な人たちです。新約聖書では、牧師だけではなくクリスチャンも同じような使命を負っていることがわかります。終わりの時代には、にせ教師がはびこり、人々を惑わすと預言されています。しかし、私たちもにせ教師の片棒を担いでしまうような可能性があるということです。富や権力はとても、魅力があります。私も「いつかブレイクしたい。有名になりたい」という誘惑がないわけではありません。イエス様はそういう誘惑に勝利して、メシヤとしての使命を全うされました。「キリストには変えられません」という聖歌があります。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も」「キリストにはかえられません。有名な人になることも」「キリストにはかえられません。いかに美しいものも」。「世の楽しみを去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。考えてみれば、すごい内容です。「ちょっとぐらい、富があっても良いだろう。必要経費だから。ちょっとぐらい、有名になって良いだろう。働きが広くなるから」と言うかもしれません。ということは、どこかに誘惑される要因を持っているということです。にせ教師は、どこかの教祖だけではありません。自分にも同じような欲望を抱えていることを否定できません。だから、こそ私たちは常に神を恐れ、キリストにとどまる必要があります。Ⅰヨハネ3:17「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」