2012.9.30「~どうしても必要な事~ ルカの福音書 10章38節-42節」

<ルカの福音書 10章38節-42節>

 

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎え

     した。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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昨年の10月に牧師の任命を受けてからもうすぐ一年が経とうとしています。時々この講壇に立たせていただいていますが、実は今年から自分の中では、メッセージに関して自分なりのテーマを課しています。

それは、イエス様がどのような御方で、私たちをどのように愛してくださっているかという事をみことばから伝えると言う事です。ですから、必然的に新約聖書から語ることが多くなるのですが、今までエペソ2章から神様との和解をさせてくださったイエス様、やもめの献金の箇所からイエス様の慈しみのまなざし、イエス様が弟子たちの足を洗われる箇所から、イエス様がしもべとなって仕えてくださるお姿について語りました

今日は、イエス様が如何にどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているかについてお伝えしたいと思います。

 

1. ベタニヤの兄弟姉妹を愛したイエス様

 

このマルタとマリヤのお話は、この直前に書かれている良きサマリヤ人のお話と合わせてルカの福音書にしか出てこないお話しです。ルカという人はパウロの伝道旅行に同行した人で、そこではギリシャ人で医者だと紹介されています。伝承では、画家だったとも、歴史家だったとも言われていますが、ルカは、このルカの福音書と使徒の働きの筆者として知られています。

ルカの文章全般の特徴のひとつとして挙げられるのは、ルカは男性と女性との記述を公平に扱ってセットにしている事が多いということです。例えば、イエス様が生まれた時のルカの福音書2章の記述では、神殿で生まれたばかりのイエス様を老人シメオンが褒め称えたすぐ後に、年老いた女預言者アンナを登場させています。7章では百人隊長のしもべが病気で死にかけているのをおことばひとつでイエス様が癒された記述のすぐ後に、ナインのやもめの一人息子をイエス様が生き返らせる記述があります。8章には12弟子と大勢の群衆と共にいた女性たちの名前を多数挙げて、他にも大勢の女性たちが仕えていたことが書かれています。そして、このマルタとマリヤのお話も、良きサマリヤ人が男性で、その後女性のマルタとマリヤを登場させています。

このように文章を描いているルカの意図は何なのでしょうか。少なくとも、このマルタとマリヤの話は女性同士の確執の話だから、男性の俺には関係なーい、勝手にやってくれ!・・・という訳ではないはずです。

ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。聖書から答えをいただきましょう。

さて、マルタ、マリヤ、ラザロはエルサレムの南東約3Kmのベタニヤという所に住んでいました。(地図参照)

ルカの福音書には、「ある村」と書かれていますが、ヨハネの福音書の記述によると、この3兄弟姉妹が住んでいたのはベタニヤのようです。イエス様はこの地方に来られた時は、よくこのマルタたちの家に滞在されたようです。

イエス様はこのベタニヤの兄弟姉妹をとても愛しておられました。他の福音書の記述から見てもそのことは良く解ります。兄弟ラザロは、死んで4日後にイエス様によって蘇ったあのラザロです。マリヤはイエス様が十字架に架かられる前に、イエス様の埋葬の準備のために高価な香油をイエス様の頭に注いだあの女性です。

そしてマルタという名前は「女主人」という意味だそうです。その名の通り、マルタはこの家の女主人だったようです。10章38節で、「マルタという女が喜んで家にお迎えした」と書かれてある通りです。

マルタはいつものように喜んでイエス様を出迎えました。彼女は他の箇所にもイエス様たちを喜んで迎え入れて、給仕をしていたと書かれています。ですからマルタには、お客様のお世話やおもてなしをする賜物があったようです。パウロも書簡で言っていますが、この時代、旅人をもてなすのはとても大切な事でした。現代のように、どこにでも、宿屋やホテルやレストランがあるわけではありませんので、宿と、食事を提供してもてなすという事は、思いやりのある人ならば、当然誰でもすべきこととされていました。また、マルタたちはイエス様一行を喜んで何度もお迎えしましたので、彼らはイエス様の教えに賛同して従う信徒だったと言う事になります。

ところがそこで、ある出来事が起こりました。

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10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

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妹のマリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。この「主の足もとにすわる」というのは、ユダヤ教で言えば、「弟子入りをする」とか「先生について習う」という表現です。ですから、マリヤは主の足もとで主のみことばに聞き入っていた女弟子という事になります。

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10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。

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このマルタは、もしかしたら最初はマリヤと一緒に主の足もとに座って、みことばに聞き入っていたのかもしれません。そのうち、あれこれともてなしの事を考え始めて気が落ち着かなくなって、席を立ってしまったのかもしれません。あるいは逆に、マリヤは最初マルタと共にもてなしの準備をしていたけれど、マルタに何も告げずにフェイドアウトしてしまって、いつの間にか主の足もとに座っていたのかもしれません。そこら辺ははっきり解りませんが、この聖書箇所の記述から見ると、マルタはイエス様のみことばを中断させてまで、妹に対する不満をイエス様ご自身に訴えたことは確かです。しかもイエス様に対して「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」と非難し、「私の手伝いをするように妹におっしゃってください。」と指図までしました。 

マルタは、せっかくのもてなしの賜物が台無しになってしまうような発言をしてしまったのです。それは、自分の方がマリヤより正しいと思って自信があったという事と、イエス様なら自分の訴えを受け入れてくださる方だと信頼していたからではないでしょうか。このようなマルタに対してイエス様はこのようにお答えになりました。

 

2. 「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様

 

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<ルカ10:41 >

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

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とイエス様はマルタに「マルタ、マルタ」呼びかけられました。イエス様は相手に特別な感情で個人的に語られる時に、親しみを込めて名前を2度呼ばれたようです。

新約聖書で、この箇所の他に、イエス様がこのように人の名を呼んだのは、たった2か所しかありません。

その2か所はどちらも壮絶なシーンで、一か所は最後の晩餐の時にイエス様がペテロに「シモン、シモン」と呼びかけたところで、もう一か所はキリスト者を迫害するパウロに対して「サウロ、サウロ」と呼びかけたところです。

では、この2か所を見てみましょう。

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<ルカ22:31-34>

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられ

     した。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち

     直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたし

     を知らないと言います。」

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ご存知のように、ペテロはこの後、イエス様の言われた通り、「私はあの人を知りません」と3度言いました。ペテロは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と勇ましく豪語しておきながら、結局イエス様を裏切ってしまったことを悔いて激しく泣きました。イエス様はそうなる事をすべて解っておられたので、「シモン、シモン」と特別に呼びかけられたのです。ペテロというのは、イエス様がつけた名前で、岩という意味ですが、ペテロの本来の名前はシモンです。この名前はシメオンの短縮系でユダヤでは一般的な男性の名前です。イエス様は個人的に語られる時には、ペテロではなく、シモンと呼ばれました。

次にパウロの記述です。

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<使徒9:4-6>

9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。

9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエス

   である。

9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

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ここも有名なパウロの回心の箇所なので、皆さんご存じだと思いますが、パウロは生粋のユダヤ人でしたが、ローマ市民権を持ち、1世紀最大のラビと言われるガマリエル1世のもとで学んだパリサイ派のエリートでした。そして、青年パウロは先頭に立ってキリスト者を迫害した激しい性格の人でこの時もダマスコに向かってキリスト者を捕えてエルサレムまで引いていくつもりで勇ましく道を進んでいたところ、突然天からの光が彼を巡り照らしました。この時のイエス様の語りかけが「サウロ、サウロ」でした。

イエス様が、十字架に向かわれる時にペテロを励まされた時と、また、パウロがキリスト者を迫害する者から異邦人の使徒として立たされた時という、この超有名な壮絶な箇所と並んでイエス様は「マルタ、マルタ」と呼んでくださったのです。イエス様は後にペテロやパウロに語った時と同じ心を持ってマルタに語られたのです。イエス様を喜んで迎えて、美味しい食事でもてなそうとしたものの、うまく事が進まず気が落ち着かず、あろうことかイエス様に不満を訴えた女性に対してです。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書のこのマルタの箇所、ペテロの箇所はルカの福音書、パウロの箇所は使徒の働きの記述ですので、全部ルカが記したということになります。ですから、イエス様はもしかしたら他の人にも名前を2度呼ぶ「呼びかけ」をされたけれども、ルカが記さなかっただけのかも知れません。

冒頭に、「ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。」と、みなさんに問いかけましたが、ルカが女性と子どもと奴隷は人の数に入れてもらえなかったイエス様の時代に、敢えて女性たちを生き生きと描いているのは、イエス様がそうされたから、イエス様が女性たちの生き生きとした活躍をご覧になって、喜ばれるような御方だったからに他ならないのではないでしょうか

ルカの福音書の冒頭にはこう書かれています。

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<ルカ1:1-3>

1:1 私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに

    試みておりますので、

1:2 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げる

    のがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

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ルカは「すべての事を綿密に調べて」書いたと言っています。

イエス様は、身分や性別など関係なく、常に相手の立場や存在を認めて尊重してくださったのです。ルカはそのことを伝えたかっただけなのです。私たちの目には、マルタの働きはペテロやパウロとは格段に違って見えますが、イエス様は同じように尊く思ってくださったのです。マルタには、このイエス様の心が理解できたでしょうか。

 

3. どうしても必要な事、良い方を選び取りましょう

 

私はこのマルタとマリヤの個所を読むたびに、マルタの方に同情していました。

なぜかと言うと、実は私もイエス様を深く知るまでは、マルタそのものだったからです。

私は長男の嫁ですし、義理の母は結婚直後に召されていますので、親戚が集まる時は、このマルタのようにもてなしをしていました。お正月にはおせち料理を黒豆から伊達巻から栗きんとんまで料理の本とにらめっこしてワンセット3日ぐらいほとんど寝ないで凝りに凝って作りました。みんなが集まってワイワイやってても一人でキッチンと食卓の往復をしていました。しかも、マルタと同じく心は喜んでいませんでした。みんなが帰ってから、やっと私のお正月が始まるといった感じでした。

しかしクリスチャンになって、このマルタとマリヤの記述を読んで、本当に必要な事は、久しぶりに会うみんなとの再会を喜んで、楽しくお話をすることだと気付きました。それまでわざと聞き流していましたが、息子の清志は「僕、おせち料理はあんまり好きじゃない。」と言っていたことを思い出しました。次の年のお正月、黒豆とか伊達巻とかを作らないで買ってみました。そして、チキンの唐揚げをつくって、スパゲッティバジルソースを試験的に出してみました。みんなガツガツ美味しそうに食べていました。ちょっとムカつきましたが、考えてみれば誰もおせち料理を全部手作りしろなんて言ってないし、忙しそうな私より、どっかり座って馬鹿なことを言って笑っている私の方が好きみたいです。

マルタはイエス様のために一生懸命仕えました。ただ、喜んで主に仕えるという本質から外れてしまっただけです。イエス様はマルタに、

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10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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と言われましたが、「ここに来てあなたも私の話を聞きなさい」とも、「あなたはあなたの仕事を喜んで続けなさい」とも言われませんでした。それはマルタが決めることだからです。マルタはこの後、どうしたでしょうか。

みなさんはマルタがこの後どうしたと思いますか?マルタには「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様の心が解ったでしょうか。私がマルタなら、その場に座ってイエス様の話を聞きます。お肉が焦げても、煮物がクタクタになってもパンがカピカピになっても良いのです。

まあ、マルタがどうしたか、本当のところは解りませんが・・・。

イエス様は、私たちにも常に良い方を選び取る選択を与えておられます。

毎日の生活を振り返ってみると、私たちは本当に大きな事から小さな事まで多くの選択をし続けています。特に、みなさんが今一番時間や手間暇をかけていることは何でしょうか。そしてその時間をかけてしていることは、イエス様の言われるところの良い方ですか?喜んで主に仕えるという本質から外れてはいませんか?

このマルタとマリヤのお話から、イエス様がどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているということが解りましたが、イエス様は今も生きておられ、私たちひとりひとりの事も、立場や存在を認めて尊重してくださっています。そのイエス様が「どうしても必要なことは一つだけです。」と言われました。

荒野でサタンの誘惑を受けたイエス様がマタイ4:4 で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われたように、みことばは私たちにとって最も大切な霊の糧です。マリヤのようにみことばに耳を傾けることこそ、どうしても必要なことなのです。そうすることにより、神様の御心が解り、私たちは日々の選択を誤らないで主と共に喜んで生きることが出来るのです。