2012.10.7「背教への誘惑 Ⅱペテロ2:18-22」

私が第一、第二ペテロを選んだのは、世の終わりについて書かれているからです。5年くらい前に、オーストラリアの牧師が「日本の何箇所かで大きな地震が起こる」と預言しました。今は、そういう預言を信じていない人でも、「大地震が起こる」と恐れています。地震に備えることはもちろん大切ですが、その後に、起こるリバイバルのために備えることも重要です。日本は、そういうことが起こらないと、まことの神さまを求めません。神さまは世の終わりが来る直前に、日本が救われるチャンスを与えてくださると信じます。

 

1.背教への誘惑

 

ここ数回、「にせ教師」について学んでいます。こういうテーマが続くとイヤになるかもしれません。なぜ、こういうことが語られているかと言うと、世の終わりににせ教師が多く現れるからです。彼らは一体、何をするのでしょうか?Ⅱペテロ2:1「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことをする」と書いてあります。「自分たちを買い取ってくださった主」とありますので、クリスチャンになった人たちだと思います。彼らは、既に救いを得ています。しかし、その人が異端の教えを信じて、主を否定するならば滅びる可能性があるということです。先日、「新天地イエス教」という宗教団体から手紙が来ました。これは韓国の異端ですが、クリスチャンを捕らえ、やがては教会を乗っ取ろうという団体です。他の新興宗教もそうですが、なぜ、クリスチャンを自分のところに改宗させようとするのでしょう?「あるところでは、クリスチャンを改宗させると、3倍の功績になる」と聞いたことがあります。なぜかと言うと、クリスチャンがこちらに来たということは、「こっちの宗教が正しい」という証明になるからです。私たちで言うなら、良い証しになるということです。たとえば、他宗教の人が回心して、クリスチャンになったならば、良い証しになるでしょう。そのようなことを、新興宗教やキリスト教の異端が、熱心にやっているということです。エホバの証人では、「私はクリスチャンで教会に通っていますよ。だから結構です」と言っても、引き下がりません。「一緒に聖書を勉強しましょう」と家に上がりこんできます。なぜでしょう?クリスチャンを改宗させると、何倍もの功績になるからです。

 では、にせ教師たちは、どのように私たち信仰者を誘惑してくるのでしょうか?Ⅱペテロ2:18-19「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」まず、「むなしい大言壮語を吐いている」と書いてあります。「むなしい」とは、「空虚な、内容のない、無価値な」という意味です。「大言壮語」は、「大きすぎる、尊大な、思い上がった言葉」という意味です。大体、教祖には、そういうところがあります。ある教祖は、たくさんの本を出版しています。本には「自分に神さまから啓示が与えられ、この世に平和をもたらすために選ばれた」みたいに書いています。そこに有名人が加入すると、「本当なのかも」と思ってしまいます。さらに、多くの人たちがその団体に加入すると、それが真実のように見えてきます。彼らの話を聞くと、まさに「むなしい大言壮語」です。ところどころに、聖書のことばを引用しています。また、世界に知られている神さまの名前を並べています。共通しているのは、「自分が最高の啓示者であり、メシヤの生まれ変わりである」と大胆に明言することです。次に「誤った生き方をしている」と書いてあります。どのようにして誤った生き方が分かるのでしょうか?すぐ分かるのは金銭の用い方です。べらぼうに高い住宅に住んでいたり、高級品で身を飾っています。それから、結婚が不健全です。結婚していても、他の多くの女性と関係を持っています。ある場合は、相手が信者の奥さんであったりします。イスラムではそうではないようですが、重婚は罪であります。このように、「そういうことはおかしいだろう?」ということをやっているのです。ですから、私たちはその人の教えとその生活ぶりを、チェックする必要があります。そういう意味では、伝道者や牧師も危ないです。牧師夫妻が、仮面夫婦になっている。人前では仲良くやっていても、実はもう離婚状態ということもありえます。お寺だったら、「お墓さえ、守ってくれればそれで良い」となるかもしれません。しかし、キリスト教会は、倫理的にとても高いので、無理です。牧師は辛いですね。ぜひ、お祈りください。

 さらに、にせ教師たちはどのように誘惑するのでしょうか?「ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し」とあります。せっかく、イエス様を信じて、この世から御国に入りました。しかし、クリスチャンになっても、内側に肉があります。地上で生きている限り、完全になくなるということはありません。しかも、誘惑に負けやすい人というのは、ようやくそれをのがれようとしている人、つまり信仰的に弱い人です。もちろん、信仰のベテランでも、誘惑はあります。しかし、神様にすべてをささげて、従っていないクリスチャンは危ないです。多くのクリスチャンは、この世と神の国の間を行き来しています。日曜日、教会では「私はクリスチャンだ。ハレルヤ!アーメン」と告白するかもしれません。しかし、家に帰ると全く、別の人になります。そして、月曜日から土曜日まで、この世の価値観で生活します。聖書を一回も開かない。そして、次の日曜日、教会にやって来ます。なんとか、信仰生活を保っている状態です。そういう人に、にせ教師たちは「肉欲と好色によって誘惑する」のです。「誘惑」は、原文では「餌でおびき寄せる」という意味があります。肉欲や好色という餌で釣ろうとするのです。キリスト教会には「十戒」があります。また、山上の説教のような倫理的に高い教えがあります。しかし、「そういうものは律法主義で、古い教えだ」と言うかもしれません。「あなたは律法から解放されて自由な生き方ができます。これが本当の自由です」と言うでしょう。リビングバイブルはこのところをこう訳しています。「善人になったからって、救われるもんじゃないんだよ。それなら、いっそのこと、悪いことをした方が、ましじゃないか。やりたいことは、やればいい。それが自由というもんだ。」しかし、それは自由ではなくて、放縦であります。なぜなら、神さまが定めたきまりの中に、本当の自由があるからです。

 ペテロは「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです」と言っています。現代訳聖書は「人はだれでも何らかの奴隷になっているものである」と訳しています。にせ教師たちは、自由を与えるようなことを言いながら、最後にはその人を支配します。大体、新興宗教の場合は、いろんな恐れや呪いによって、その人を支配します。「ここを離れたら、無限地獄に落ちるぞ」とか言います。そして、教団や教祖の言いなりになります。もう、そこから抜けられません。ここに記されている「ようやくそれをのがれようとしている人々」とはクリスチャンであります。なぜなら、20節には「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」と書いてあるからです。確かに、その人たちはイエス様を信じてはいたと思います。しかし、それは「知る」というレベルではなかったかと思います。このところに使われている「知る」はギリシャ語で、エピギノスコーで「完全に知る」という意味です。すばらしいことばです。この人は知的に神さまを知っています。しかし、心は神さまにささげていません。つまり、他のものに仕え、神さまの奴隷にはなっていません。だから、誘惑に負けてしまうのです。がっちりイエス様に結ばれている人は、誘惑を跳ね返すことができます。しかし、イエス様を信じていながらも、自分の本当の価値をこの世のものに置いている人は危険です。その人は名誉や業績、持ち物、人々の評価を偶像にしています。「私は神さまに仕えています」と言いながらも、そういう副産物に仕えているならどうでしょう?私たちは頭、知性で神さまを知ることも重要ですが、心を神さまにささげることがもっと重要です。パウロは「私はキリストのしもべ、キリストの奴隷である」と言いました。いろんな名刺があります。牧師も名刺にいろんな肩書きをのせています。本当は自分一人しかいないのに「主任牧師」と書いたりします。○○団体の代表、○○博士、何行も肩書きを書きます。でも、「キリストのしもべ」にはかないません。私は「神さまの奴隷であり、神さまがしなさいと言ったこと以外はしません」。すばらしいですね。どうぞ、みなさんも、キリストのしもべ、神さまの奴隷になってください。そうしたならば、にせ教師の誘惑に簡単にはまることはありません。一番、危ないのは中途半端な信仰です。イエス様はヨハネ黙示録で「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」とおっしゃっています。

 

2.背教者の行方

 

 「一度、救いを受けた者が滅びることがあるのか?」という神学的な問題があります。たとえば、永遠の命というのは、いわば、尽きることのない命です。イエス様を信じて、永遠の命をいただいたのだったら、これから永遠に生きられるということです。もし、何かの原因でその人が、信仰を棄てたとします。すると、その人に与えられた永遠の命がなくなるのでしょうか?永遠の命をいただいていたなら、失われることはありません。これは、改革派の神学から来た考えです。改革派は一度信じた者は、滅びることがないという神学を持っています。私も以前は、この立場に立っていました。しかし、聖書のあちこちを見ると、「いや、そうでもないなー」という考えに変わりました。その根拠になるところが、きょうの箇所です。Ⅱペテロ2:20-22「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」改革派の立場の人は、「イヤ、その人は始めっから救われていなかったんだ」と言うでしょう。しかし、それは無理があるように思えます。この人は、主であり救い主であるイエス・キリストを知り、世の汚れからのがれた人です。また、この人は、義の道を知って一度は神さまに従った人です。しかし、何らかの理由で、信仰を棄てた人です。こういう人を聖書では、背教者と言います。Ⅱテサロニケ2:3「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」と書いてあります。この箇所は、「世の終わりに、背教が起こるから気をつけよ」ということを教えています。せっかくイエス様を信じて救われたのに、その信仰を棄てるとはどういうことでしょうか?

 明治時代は開国とともに、西洋のいろんな文化が入りました。いわゆる文明開化です。そのとき、キリスト教も一緒に入りました。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など、多くの文豪たちは聖書を読みました。彼らは頭ではキリストを知りましたが、心をキリストにささげるところまでは行きませんでした。しかし、有島武朗という文学者はキリストを信じて、洗礼も受けました。『カインの末裔』『生まれ出ずる悩み』『或る女』などを書きました。彼はあとで「私はキリスト教信仰を棄てます」とはっきり断言しました。普通は、ひっそりと教会を去るのですが、断言する人はめずらしいです。最後に彼は女性と一緒に自殺しました。彼の師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」と言明したそうです。彼のように、自らの意思で「私はキリスト教信仰を棄てます」と言うならば、その信仰が有効かどうか、ということです。イスラエルは背教の歴史です。イスラエルの民はせっかく、エジプトから救い出されたのに、神さまに従いませんでした。そのため、古い世代はみんな荒野で死にました。ヨシュアとカレブ、そして新しい世代が、約束の地カナンに入りました。しかし、カナンの地に入ってからも、神さまに従わず、偶像を礼拝しました。預言者たちは「背信の子らよ、帰れ」と言いました。やがては、メシヤであるイエス・キリストを十字架に付けたのです。神さまはどうしたでしょうか?「一度はユダヤ人を棄てたが、世の終わり、再び、チャンスを与える」と約束しています。聖書の歴史を見て分かりますが、「信仰を棄てますか、ああ、そうですか。あなたは地獄行きですね」と簡単には行かないということです。まさしく、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りがあると信じます。イエス様はご自分を裏切ったユダを、最後まで愛し、最後までチャンスを与えておられます。神様の愛は変わらない愛、永遠の愛であることは確かです。

 もう一度、背教ということを考えてみたいと思います。一度、信じた者が滅びる可能性はあるのかということです。ヘブル6章に、この箇所と似たみことばがあります。ヘブル6:4-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」このみことばの解釈は2つあります。改革派の信仰を持つ人は、「まさか、そういうことがあるだろうか?」と逆説的に捉えています。逆説的に、「一度救われた人が滅びるわけがないだろう?」と解釈しています。しかし、この聖句を文字通り解釈するなら、「救われた人が堕落したならばもう無理だよ」と言っているのではないかと思います。Ⅱペテロ2章に戻ると、堕落した人は、さらに悪くなると言っています。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」中川健一先生が、ハーベストタイムというTV番組でこのように語っていました。「世界で最も聖い人たちとはだれか?それはクリスチャンです。では、世界で最も醜くて汚れている人はだれか?それもクリスチャンです。」とおっしゃっていました。昔、川上宗薫というポルノ小説家がいました。なんと彼は牧師の子どもです。長崎の原爆で、母と二人の姉妹が死にました。それで、父は棄教したということです。そのために、彼も道をそれたのでしょう。ニーチェも牧師の子どもで洗礼を受けました。しかし、大学生のとき当時の哲学に傾倒し、信仰を棄てました。そして、「神は死んだ」と言って虚無主義を主張しました。ニーチェは、最後に発狂して死にました。なぜ、一度信じた人が堕落すると普通の人より悪くなるのでしょう?未信者は「バチが当る」とか言って、神を恐れています。しかし、一度、神さまを信じて堕落した人は、神さまを恐れません。なめてかかっています。だから、さらに悪くなるのです。

 22節「彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」豚は本来、綺麗なところが好きなようです。しかし、本能的にどろの中にころがるようです。問題は、汚れた罪の状態に戻るかどうかということです。本当に救いを得ている人はどうでしょうか?汚れたら、また洗うでしょう?同じように、罪を犯しても、「これは本来の私ではない」と悔い改め、主に立ち返るでしょう。これができる人と、これができない人がいます。倒れたら倒れっぱなしの人、あるいは倒れても立ち上がる人がいます。どうして、そんな風に分かれるのでしょう?私はその人の神観に関係があると思います。あわれみ深い神さまを信じているか、あるいは愛のない厳しい神さまを信じているかです。別な言い方をすると、泥んこの中で、神さまと出会っているか、ということです。私は田舎で育ちましたが、家の近くにはどぶ川がありました。そういうところに落ちると大変です。ズボンに黒光りした泥がつき、体から臭い匂いがとれません。たまに、子どもがどぶ川にはまることがあります。そうすると、お母さんは「どこ見て歩いているの?」と大声を上げて叱ります。それで、井戸の近くで服を脱がせ、ザバザバ洗ってくれます。これが母の愛です。子どもはただ「仕方がないなー」という顔をしています。私もこういう経験をしたことがあります。もう、どうしようもない。これは、汚れた罪の状態に陥ったのと同じです。でも、あわれみに富んだ神さまは、私たちの罪を洗い流してくださいます。イザヤ1:18 「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」こういう体験を何度か積むと、「申し訳ないから、もうやめよう」と思うようになります。神さまの愛は永遠の愛です。エレミヤ31:3「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります。神学校の先生が、「永遠の愛とは、これっきりの愛ではない愛である」と定義しました。昔、「これっきりもう、これっきりーですか?」という歌がありました。私たちの愛は、2回、あるいは3回で限度です。「ああ、この人はこういう人なんだ」と関係を断ってしまうでしょう。しかし、神さまの愛は、永遠の愛です。何度でも赦すお方、無限に赦すお方です。

イエス様の弟子でペテロとユダがいます。ペテロはイエス様を3度も知らないと裏切りました。ユダは「あれがイエスです」と祭司長たちにイエス様を売りました。どちらも大きな罪です。ペテロは「どの面下げて」と思われても、イエス様のところに戻りました。しかし、ユダは「私は罪を犯した」と後悔して、自殺しました。二人とも大きな罪を犯しましたが、どこが違うのでしょう?ペテロは「イエス様はきっと赦してくださるだろう」と思って、立ち返りました。しかし、ユダは「イエス様はきっと赦してくださらないだろう」と思って、自分で罪を清算しました。ここの違いです。イエス様は「7の70倍赦しなさい」と弟子たちに教えられました。なぜでしょう?自らがそういうお方だからです。無限の愛と無限の赦しを本当に受け止める人は、堕落しません。たとえ、罪を犯して倒れても立ち上がることができます。そういう、あわれみに富む神さまと出会いましょう。