2012.10.14「この世の終わり Ⅱペテロ3:1-7」

昔、The end of the worldという歌がありました。失恋の歌でした。失恋が、世の終わりという気持ちも分からない訳ではありません。しかし、「世の終わり」は歌だけではなく、いろんな宗教、いろんな預言者が語っているテーマです。かなり前にはノストラダムスの大予言がありました。最近はマヤ暦人類滅亡説というのがあり、今年がその年に当るようです。聖書も世の終わりについて、述べていますが、それは単なる終わりではありません。主イエス・キリストが再び来られ、神の国が完成する時であります。つまり、一方では「この世の終わり」でありますが、他方では「御国の完成」であります。

 

1.世の終わりの言及

 

Ⅱペテロ3:1-4「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」ここに、ペテロが何のためにこの手紙を書いたのか、その目的が示されています。ペテロは、彼らの「記憶を呼びさまさせて、純真な心を奮い立たせるため」に手紙を書きました。彼らは何かを忘れていたのです。3節には「終わりの日」と書いてあります。また、4節には「キリストの来臨」とも書いてあります。来臨と言ったり、再臨と言ったりします。ということは「世の終わり、キリストが再びやって来られる」ということを思い起こさせるために、この手紙を書いたのです。彼らは日常の生活に追われて、キリストの来臨についてすっかり忘れていました。これは、ペテロが生きていた時代だけではありません。今日の教会でも言えることです。日本のキリスト教会において、聖書が言うかたちで世の終わりが来ると信じている人たちはどれくらいいるでしょうか?おそらく半分くらいでしょう。他の半分くらいは象徴的に捉えているかもしれません。世の終わりとか、キリストの来臨について話すのは、タブーになっている教会もあります。昭和5年くらいに大勢の人が救われるというリバイバルが起こりました。そのとき、熱心な人たちが「世の終わりが来た、まもなくキリストは再臨される」と言いました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上って旗を振って待っていたということです。しかし、主は再臨されませんでした。そのため教団が分裂し、再臨についてあまり語らなくなりました。「あつものに懲りて、なますを吹く」ということわざのとおりです。

しかし、世の終わり、主が来臨されるということは、聖書全体に書かれている大事なテーマです。ペテロはまず、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」と述べています。これは、旧約聖書の預言者たちのことです。多くの預言者は、世の終わりについて預言しています。特に有名なのは、イザヤ書です。あとは、ダニエルやエゼキエル書にも書いてあります。これらの書物には、世の終わりだけではなく、完成した御国がどのようなものであるかまで記されています。また、旧約聖書の最後に集められている小預言書には、「主の日が来る」というさばきの預言に満ちています。主の日は恐ろしいのです。なぜなら、悪が完全にさばかれるからです。旧約聖書の一番最後にあるマラキ書4章にこうあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は仰せられる──」。これを読んだら、一日も早く、神様と和解しなければならないと思うでしょう。では、新約聖書ではどうなのでしょうか?ある神学者は「新約聖書の10分の1は再臨について書かれている」と言いました。ペテロは「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるため」と言っています。使徒たちとはだれでしょうか?イエス様と直接会った人たち、もしくは使徒たちの証言をまとめた人たちであります。たとえば、マタイ、マルコ、ルカはそれぞれの福音書にイエス様がおっしゃった教えを書き留めています。たとえば、マタイ25章には再臨の主をどのように待つべきか、いくつかのたとえ話があります。花婿を待つ10人のおとめのたとえ、タラントのたとえがあります。それから、羊飼いが羊と山羊をわけるたとえがあります。片方の人たちは御国を受け継ぐけれども、もう片方はそうではないということです。こう言う箇所を見てわかりますが、世の終わり、主が再臨されたとき、白黒はっきりさせられるということです。

ペテロは「記憶を呼びさまさせ」「心を奮い立たせ」「思い起こさせる」と言っています。「記憶を呼びさまさせ」は英語で、stir upになっています。これは、「かき回す」とか「奮起させる」という意味のことばです。なぜ、こんなことをしなければならないのでしょうか?なぜなら、「世の終わり」とか「主が再び来る」というのは、いつの日なのか分からないからです。「来る」、「来る」と言って、もう2000年もたっています。だから、「そんなのは嘘なんだ。脅かしなんだ」という人も当然、現れるでしょう。ペテロの時代ですら、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」とあざける人たちが起こっていました。今日、そういう人がいても不思議ではありません。弟子たちはイエス様に「いつ終わりの日が来るのですか?」と質問しました。イエス様は世の終わりの前兆についてはいくつか話されましたが、いついつですとは言われませんでした。なぜでしょう?もし、○○年○○月に、主が再臨されると分かったならどうでしょう。それまでは来ないということになります。そうすれば、「まだ来ないのなら」と自堕落な生活をするでしょう。ある人は悪知恵を働かせて、その日まで、借金をいっぱいしておくかもしれません。借金を踏み倒して、天国に行くという人も出てくるでしょう。だから、イエス様はいついつですとは言われませんでした。多くの人たちは、「自分が生きているうちには来ないだろう」と高をくくっています。そして、今、現在の生活に埋没してしまうのです。地にべったりと足をつけ、「生きているうちが花だ」みたいな自堕落な生活をするでしょう。つまり、再臨の信仰のない人たちは、どうしても生ぬるくなるということです。だから、時々、このようなメッセージをして、かき回す必要があるのです。ところで、日本は大地震が起こるという予報に満ちています。少し前は、南関東直下地震でした。その後は東海地震、その後は南海トラフ巨大地震まで発展しました。また、日本中に活断層が走っているということで、安全な場所がありません。世の終わりも心配ですが、日本は大地震でなくなるかもしれません。そういう意味で、私たちは恐れと共に、正しい緊張感を持つ必要があります。世の終わりもそうですが、大地震も、最後のリバイバルとなります。私たちクリスチャンは、この世の人たちと同じように恐れてはいけません。もちろん、地震や災害に備える必要があります。そうなったら、日本経済はパンクするかもしれません。その時、人々の心が動揺し、確かなものを求めるでしょう。そういう時こそ、私たち一人ひとりが、聖書の神さまを証しするチャンスとなるのです。自分が生き延びるということも重要ですが、一人でも多くの人が永遠の御国に入ることができるように助ける必要があります。イエス様はルカ福音書でこのように嘆いています。ルカ18:8「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは、世の終わり、人々の信仰が覚めているだろうか?あるいは無くなっているかもしれない、ということです。私たちは世の中がどのようになろうとも、人々がどう言おうとも、聖書のみことばに信仰を置くべきです。なぜなら、聖書のみことばは、たとい世の終わりが来ても、永遠に残るからです。

 

2.世の終わりのありさま

 

ペテロの時代、世の終わりなんか来ないという人は、どのようにあざけっていたのでしょうか?Ⅱペテロ3:4-7 次のように言うでしょう。「『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」ここには、世の終わりがどのようなものか、一部、言及されています。あざける人たちは「父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と言っています。父祖たちとは、イスラエルの先祖たちのことです。旧約聖書にはノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、12部族、それから王様がたくさん出ました。ペテロの時代でも、ノアの時代から3000年くらいたっていたでしょう。それでは、創造の初めはどのくらい前なのでしょうか?中世の学者は人類の誕生が、紀元前6500年と言いましたが、定かではありません。進化論者は人類の歴史が20万年前と言いますが、そんなに古くはないと思います。では、地球ができたのはどのくらい前なのでしょうか?これも分かりません。ペテロは、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成った」と言っています。創世記1:9-10 「神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」創世記によりますと、地は神のことばによって、水と分けられてできました。その後、どれくらいたったか分かりませんが、ノアの時代、大洪水にみまわれました。だから「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました」と書いてあるのです。当時の世界とは、洪水前に生きていた人たちです。何千万人にいたか分かりません。また、かなり進んだ文明を持っていたでしょう。だけど、ノアの家族8人以外は、みな滅びました。この地上も、洪水前とでは、随分と変わった環境になったでしょう。しかし、大事なことがここに書かれています。それは、最初は地が洪水によっておおわれて滅ぼされたということです。創世記9章に神さまがノアと全被造物に結ばれた契約が記されています。そこでは神さまは「大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。つまり、大洪水では滅びないということです。

しかし、世の終わりはそうではないと、ここに書かれています。Ⅱペテロ3:7 「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」これはどういう意味でしょう?ノアの時代、この地上は、水によって滅ぼされました。確かに神さまは、「水によっては滅ぼさない」と約束はしました。しかし、「今度は」、というか世の終わりはそうではありません。水ではなく、火によって滅ぼすと預言されています。水も恐いですが、火はもっと恐いですね。この火はさばきのためであり、同時に、この世を再生するためでもあります。さきほど、ご紹介した旧約聖書の預言書には「主の日が来る」と預言されています。そして、その時、火によってさばかれるとも書いてあります。イザヤ書66:15-16「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」これは、まさしく主が再び来られるときの預言です。イエス様が地上にいた頃のユダヤ人は、こういうメシヤを望んでいました。メシヤが来て、ローマ帝国を滅ぼし、イスラエル王国を再建させてくださると信じていました。だから、バプテスマのヨハネは「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。しかし、火のバプテスマが来ませんでした。そのため、牢獄に捕らえられていたヨハネは「来るべきお方はあなただったのですか?」と弟子たちを通して聞いたのです。メシヤであるはずのイエス様が、十字架で死んでしまいました。だから、弟子たちは失望し、みんなどこかに逃げ去ったのです。神さまの計画は、人間の考えと違っていたのです。神さまはこの地上を火で滅ぼす前に、なんとかご自分と和解してもらいたかったのです。そのため、御子イエスを和解の君として、地上に遣わしたのです。イエス様が来られてから、約2000年経ちます。どうして、世の終わりのさばきが来ないのでしょうか?その答えは、Ⅱペテロ3:9に書いてあります。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ここに神さまのみこころがはっきりと示されています。神さまはさばきの神さまではありません。神さまは忍耐の神さまであり、『ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

ということは、予定されている神の国に入る人数にまだ達していないということです。神の国は私たちが考えている以上に、広いところかもしれません。この地上では人口問題、食糧問題、環境問題に頭を抱えています。人口が増えたら良いことはないと人々は考えています。だから、中国では一人っ子政策が続けられています。そのために、インドの人口が中国を抜くかもしれません。資源の枯渇、狭い国土にあふれる人口、魚も獲れない、旱魃のため穀物が取れない、「わぁどうしよう?」これが、人類が抱えている問題です。人類に未来はありません。しかし、神の国には、そういう問題が全くありません。神さまはちゃんと住むべきところを用意しておられます。イエス様が何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ14:12-13「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は地上では大工でした。一般的に、大工の仕事は家を建てることです。おそらく、イエス様は神の国の住まいを建てるために、今も働いておられることでしょう。「しかし、イエス様、2000年もたっているんですよ?どうしたんですか?」と文句を言いたくなります。でも、神の子であるイエス様が2000年もかけて建てたお家は、どれほどすばらしいものでしょうか?やっぱり、神の国の総人口を考えたら、そのくらい時間がかかるかもしれません。今も、東北では仮設住宅で住んでいる方が大勢いらっしゃいます。また、洪水で家が流されて、仮設住宅に住んでいる方もおられるでしょう?天にある、御国の家は、仮設住宅ではありません。大邸宅、マンションです。テレビで大富豪の大邸宅を見たことがあります。信じられないくらい大きな応接間があり、ベッドルームが10個くらいあります。ガレージには外車が何台もあり、中庭にはプールまでありました。「ま、そこまで贅沢でなくても良いです。書斎と3LDKがあれば十分です」と言いたくなります。

ある人々にとっては、世の終わりは「人類の破局」です。しかし、イエス様を信じて救われている人にとっては「人類の希望」です。みなさんはどちらの方に立っておられるでしょうか?「人類の破局」ですか、それとも「人類の希望」でしょうか?この教会には、ご夫婦でありながら、お一人は「人類の破局」の方に立ち、またお一人は「人類の希望」に立っているかもしれません。それだったら、非常に淋しいのではないでしょうか?行くところが同じであるならば、どんなに素晴らしいでしょうか?私たちは2つの焦点を持っためがねを持つ必要があります。昔の遠近両用のめがねは、上の方が遠くを見る近眼用です。そして、下の方にレンズがかぶさっていて、近くを見る遠視用です。1つのめがねなのに、2つの焦点があります。私たちも遠くを見る目、近くを見る目の両方が必要です。遠くというのは、自分が生きているときは、世の終わりが来ないかもしれないということです。私たちには地の塩、世の光としての使命があります。主が来られる日まで、ビジネスや政治、教育、芸術の世界にクリスチャンを送りこんで、神の栄光をもたらす必要があります。もう1つは、近くを見る目です。私たちが生きているうちに世の終わりが来る、もしかしたら今晩かもしれないと備えることです。テサロニケの教会のある人たちは、まもなく世の終わりが来ると考え、今の生活を投げ出していました。パウロは何と言っているでしょう?Ⅱテサロニケ3:11-12「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」これは、世の終わりを強調しすぎる極端な人たちです。「この世は終るんだから。仕事をしても仕方がない。楽しく暮らそう」。もう、地に足がついていません。フラフラ、宇宙遊泳している人です。パウロは「落ち着いた暮らしをして、主がいつ来られても良いように備えておきなさい」と命じています。これは私たちの人生においても同じです。世の終わりがいつくるか分かりませんが、同時に自分の人生もいつ終わりがくるか分かりません。だから、私たちは長期的な目標と同時に、明日、死んでも良いという悔いのない人生を送る必要があります。「身の回りを整理する」というと何か不吉な感じを与えます。でも、私たちはあんまりごちゃごちゃしていると後の人が大変です。たとえば、再臨で、あるクリスチャンが天に引き上げられたとします。地上に残された人が、その人の部屋に入ってびっくりすることのないようにしましょう。「こんな本を読んでいたの。変なDVDもいっぱいあるよ」と、言われないようにしましょう。では、どんな生活をすべきなのでしょうか?第一は、これまで生かされてきたことを感謝するということです。人々にも神さまにでもです。第二は、隠れたところで見ておられる神さまを意識して生きるということです。第三は、霊的に目をさまして、慎み深く生活しているということです。そうすれば、いつ来ても大丈夫です。この世の終わりが来ても、また、自分の人生の終わりが来ても大丈夫です。