2012.10.28「主の日の到来 Ⅱペテロ3:8-10」

ある人たちは「聖書の神は、さばきの神さまで恐い」という人がいますが、そうでしょうか?もし、クリスチャンであるなら、「神さまは愛ですよ」と答えるでしょう。でも、ペテロ第二の手紙を学んで分かったことですが、両面あるように思えます。つまり、恐い神さまと愛なる神さまの両面があるということです。神さまに顔が二つあるわけではありません。しかし、恐さと愛というものが全く別なものではなく、神さまのご人格には、二つのものが共存しているように思います。つまり、神さまは恐いけれど、愛なるお方なのではないでしょうか?

 

1.主のみこころ

 

当時、「主が来るのがどうして遅いのか?」「来臨の約束はどうしたのか?」という人たちがいました。それに対して、ペテロはどう答えているでしょうか?Ⅱペテロ3:8「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」ペテロは「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と言っています。神さまは永遠なるお方であって、私たちと時間の概念が違うということでしょう。この計算で行くと、西暦2012年だったら、まだ2日しかたっていません。西暦3000年でも、たった3日です。詩篇90:4「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」神さまの御目から見たら、人間の寿命がいかにはかないでしょう。神さまにとって「千年は一日のようです」というのは分かりますが「一日は千年のようである」とはどう意味でしょうか?この分脈から考えると、神さまが、私たちが立ち返るのを待っているお気持ちではないでしょうか。たとえば、ほうとう息子のお父さんは、どのような気持ちで、毎日、息子が帰るのを待っていたでしょう?「一日千秋(いちじつせんしゅう)の思い」ということわざがあります。これは、ある物事や、人が早く来てほしいと願う情が非常に強いこと、一日が千年にも長く思われる意からきているということです。神さまは永遠の神さまですが、滅びに向かっている人間が、立ち返るのを一日千秋の思いで待っておられるのでしょう。神さまは私たちの人生が非常にはかないことをご存知です。だから、「きょう帰ってくるだろうか?」「明日帰ってくるだろうか?」と待っておられるのです。しかし、当の人間は自分が永遠に生きるつもりでのんびりしています。まさしく、神さまにとっては、一日は千年のようであるのではないでしょうか?

Ⅱペテロ3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」榎本保郎先生の『新約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「イエスが、神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ3:17)と言っておられるのも同じことである。神はいつでも来られるが、いま来たら、そのキリストを信じなくて裁かれて行く人間が多いから、一人も滅びないように忍耐しておられるのだ。あなたがたの救いのために遅くされているのであって、なにも約束が反故になってしまったのではない。」アーメンです。ノアの箱舟のときは、たった8人しか救われませんでした。しかし、神さまはご自分の御国に、大勢の人たちが入るように願っておられます。2000年たっても、世の終わりが来ないということは、かなりのキャパがあるということでしょう。神さまはひとりでも滅びることを望まず、忍耐して待っておられるということです。たとえば、私が海外旅行のツアーコンダクターだとします。「○○時○○分に搭乗口から乗るように」とみなさんに伝えてあります。しかし、まだ来ないお客さんがいます。もう、ジェット機のエンジンがかかっています。時間なのに来ません。私は、係りの人に、「すみません。もう2、3分待ってください」とお願いするでしょう。でも、定刻になったら、ジェット機は飛び立ちます。ツアーコンダクターの気持ちはいかばかりでしょうか?「まだ来ないのか、まだ来ないのか」と、いらいら待っているでしょう。もう、時間です。ツアーコンダクターは、ジェット機に乗るしかありません。お客さんの席が空いたままです。ジェット機が離陸のために走り出しました。It’s too late.ま、旅行だったら、残念だったで済まされるかもしれません。しかし、永遠の御国に入り損ねたなら、どうなるでしょう。永遠に後悔しなければなりません。だから、神さまは、深く忍耐して、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

このところに、はっきりと神さまのみこころが示されています。神様は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。宗教改革者のジョン・カルバンは神の選びということを強調しました。これは、「救われる人は、はじめから予定されている。神の選びは絶対である」という考えです。これくらいだと反対はしません。しかし、「救われない人、つまり遺棄される人もはじめから選ばれている」とまで言います。そのような『二重予定説』を唱えるなら賛成できません。神さまのみこころは、「ひとりでも滅びないで、すべての人が救われるように」ということではないでしょうか?すべての人が、救われるチャンスがあるということです。重要なことは、悔い改めに進むということです。これは、「心を換える、方向転換する」という意味です。言い換えると信じるということです。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが十字架で全人類の罪のために死なれました。三日目によみがえり、信じる者が義とされる道を設けてくださいました。神さまはキリストを信じる者を、義と認め、ご自分の国に入れてくださいます。これが福音です。これまでは、「神なんかいない。キリストも信じない」と思っていました。しかし、間違っていましたと、方向転換し、キリストを信じることです。ある教団は、自分がこれまで犯した罪を全部、悔い改めなければならないと言います。しかし、それは無理です。自分でも、思い出せないものがたくさんあります。また、交通事故で死にそうなときには、そんな時間はありません。「救い主、キリストを信じる」この一点だけです。救いの手続きをそんなに難しくしてはいけません。人は、ただ信じるだけで救われるのです。

ところで、ここに集まっているほとんどの方は、すでに救われている人たちです。私たちは、世の終わりがいつ来ようとも、御国に入っているわけですから大丈夫です。問題は、この福音を信じないために救いからもれている人たちのことです。神さまのみこころははっきりしています。ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。私たちクリスチャンは、神の子どもであり、イエス様の弟子です。私たちは「みこころがなりますように、御国が来ますように」と祈っています。でも、それだけで良いのでしょうか?神さまのみこころと同じ、こころを持つ必要があります。神さまはひとりでも滅びることなく、救われるように願っておられます。当然、私たちも神さまの熱い思いをいただくべきであります。そして、福音を伝え、御国の証をすべきではないでしょうか?そして、一人でも多くの人たちが、救われるようにお手伝いする必要があります。教会の使命とは何でしょうか?それは、神さまの願いを実行することではないでしょうか?となると、世の終わりにおいて最も重要な課題は、伝道ということになります。私は「伝道」ということばがあまり好きではありません。「宣教」の方が良いかもしれません。この際、呼び方は問題ではありません。イエス・キリストが私たちのために何をなされたのか?どうやったら罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのか?私たちの隣人に伝える必要があります。もう、私は講壇から同じことを何辺も語っています。私が救いの話や、たとえ話をすると、「もう、何辺も聞いたよ。耳たこだよ」と思うでしょう。それだったら、耳たこの内容を、話せるはずです。たとえ話も覚えているはずです。どうぞ、自分の体験も交えて、福音を伝えてください。それが、世の終わりの時代に生かされている私たちの使命です。子育てや家事、仕事も忙しいかもしれません。しかし、伝道と証しは私たちの生活の真中で、できることであります。私が直接、福音を語ることのできる人は限られています。しかし、ここに集まっている70人の人たちが、3人に伝えたら、210人になります。葛飾区と足立区では、約100万人の人たちが住んでいます。松戸市は約48万人です。亀有教会が1000名の会衆になったとしても、全然、全く、追いつきません。世の終わりは迫っています。どうか、父なる神さまの愛と情熱に押し出されて、ひとりでも多くの人が救われるように、福音を宣べ伝えましょう。

 

2.主の日の到来

 

Ⅱペテロ3:10「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」主の日が、盗人のようにやって来るとはどういう意味でしょう?実は盗人は、「いつ何時にあなたのところに入りますよ」とは教えてくれません。もし、分かっていれば、警察を呼ぶか、棒を持って待っているでしょう。しかし、盗人はいつ来るか分かりません。同じように、主の日、世の終わりもいつ来るか分からないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?その対策が、Ⅰテサロニケ5章に書いてあります。Ⅰテサロニケ5:2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」この世の中には大きく分けて二種類います。暗やみの者で、暗やみの中に住んでいる人たちです。言い換えると、神さまから離れ、罪の中にいる人たちです。もう一種類は、光の子どもであり、昼の子どもです。言い換えると、神さまの救いをいただき、光の中を歩んでいる人たちです。しかし、問題が1つあります。一時、光の子どもになったのに、暗やみの中に住んでいる人たちです。そういうケースはありえるでしょうか?ありえると思います。ロトとその家族は、ソドムとゴモラに住んでいました。まさしく、そこは暗やみの世界です。しかし、アブラハムのとりなしによって、御使いが遣わされました。「滅びがやってくるから逃げよ」と言っても、すぐには信じませんでした。御使いが手をひっぱって、やっと町から脱出することができました。教会から離れ、霊的に麻痺しているということはありえます。永遠のいのちは持っているけど、この世の罪の中にどっぷり浸かっている。そういう人には、主の日が盗人のようにやってきます。パウロが言っています。Ⅰテサロニケ5:8-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」アーメン。

もう1つ、後半のメッセージでお伝えしたいことがあります。それは10節後半のことばです。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」日本語の聖書は「天の万象は焼けてくずれ去り」となっています。でも、天の万象とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では「天体の基本的な要素」となっています。英語の聖書には、elementsとなっています。天体を構成している、成分とか要素という意味になります。つまり、神さまは新しい天を造る前に、古いものを消滅させるということです。だから、その日には、天は大きな響きをたてて消えうせるのです。もう1つ地はどうでしょうか?「地のいろいろなわざは焼き尽くされる」とあります。いろいろなわざとは、いろいろな働きです。日本語では「焼き尽くされる」となっていますが、原文は「あらわにされる、発見される」という意味のことばです。つまり、火によって焼かれることにより、その働きがどういうものであったのか、あらわにされるということです。ある働きは焼き尽くされ、またある働きはちゃんと残るということです。私はこのことを考えたとき、Ⅰコリント3章のみことばを思い出しました。Ⅰコリント3:12-15「もし、だれかがこの土台(キリスト)の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

このみことばは、コリントの教会にあてられたものです。コリント教会には、「私はアポロにつく」、別の人は「私はパウロにつく」と、ねやみや争いがありました。いろんな賜物をもって、いろんな働きしていましたが、動機が不純でした。パウロが教会の土台を据えました。土台とはイエス・キリストです。その上に、教会の人たちが神の家を建てなければなりません。しかし、ここにいろんな材料が記されています。これらの材料を2つに分けることができると思います。一方は火で焼かれてなくなるもの、もう一方は火で焼かれたとしても残るものです。金、銀、宝石は、おそらく残るでしょう。私はこれら3つのものにほとんど差がないと思っていました。チョー・ヨンギ師が「365日のマナ」という本を書いていますが、このように解説していました。ここで言う、黄金とは、王権と父なる神を象徴しています。神を愛して黄金の家を建て、審判の日によくやったと称賛されるように。銀とは何でしょう?旧約聖書を見ると人々は罪の赦しを受けるときに銀を捧げて罪の赦しを受けたと書かれています。ですから「銀」は救いを意味していました。行いではなく、キリストを信じる信仰によって建てるなら、神のさばきの火を免れることができます。宝石とは何でしょう?宝石とは聖霊の9つの実と9つの賜物が宝石なのです。9つの実と9つの賜物の輝かしい宝石で整えられて、その人は神の審判の日に、大きな祝福と称賛を受けることになるのです。後半は、木、草、わらです。1つ1つ説明しませんが、これらは火でやかれると燃えてなくなります。おそらく、たやすいもので信仰生活を建てたのでしょう。

マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」アーメン。木、草、わらで家を建てるとは、二流品の材料で家を建てるということです。自分の生活、自分のお金、自分の時間、自分の願いが第一です。そして、そのあまったものを神さまにささげ、家を建てるということです。クリスチャン生活も、あまりものをささげることがあるかもしれません。また、表向きには信仰的に熱心であっても、裏ではそうでないという場合もあります。牧師やリーダー役員は本当に注意をしなければなりません。その働きが、神のさばきの火によって焼き尽くされるかもしれません。この世にはたくさんのボランティア活動、NPO団体があります。そういうところに時間や労力を捧げている兄弟姉妹がおられると思います。とても、良いことだと思います。しかし気をつけなければならないことがあります。この世の価値観は、ヒューマニズム、人本主義の考えです。簡単に言うと「人間を救うのは人間である」という考えです。彼らの中には世界を支えておられる神さまがいません。だから、自分たち、人間がやらなければならないと思っています。人種差別、貧困問題、エネルギー問題、失業問題、不登校やひきこもり…本当にやるべきことがたくさんあります。もちろん、教会もNPOを取ってやっているところもあります。私もそういうことをしながら、伝道すべきだと思います。アーメンです。でも、この世界を造り、保持しておられるのは神さまです。私たちはその中にほんの1部を手伝うことしかできません。もしも、一生懸命やったのに、さばきの火によって焼き尽くされたら悲しいですね。Ⅱペテロ3:10「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」私たちは、このみことばから、神を恐れるというか、畏敬の念をいだかずにはおられません。聖歌に『ゆうべ雲やくる』という賛美があります。これは、再臨信仰で有名な森山諭先生が作られた歌です。あるとき、空いっぱいの真っ赤な夕焼けを見たとき、「ああ、主がやって来るのではないか」と思ったそうです。「夕べ雲焼くる空を見れば、主の来たりたもう日のしのばる。ああ神の前にわれいそしまん。わざやむる時の間近きいま」。「神の前にいそしまん」とは、神の前で、神と共に生活するということです。そして「わざやむる時の間近きいま」とあります。森山諭先生にとって、わざとは、伝道のみわざでした。『夕べ雲焼くる』という先生の自叙伝があります。朝、5時から田んぼの仕事をし、日中は伝道活動をします。やがて、用いられてくると、先生は北に南にと、伝道し、ほとんど家にいませんでした。家は農家で、奥さんが田んぼを作っていました。お米を農協に出して得たお金も全部、伝道につぎ込んだそうです。家族は、田んぼと畑で生きて行くことは可能だったようです。今の牧師や伝道者はとても真似することはできません。でも、「世の終わりが間近い、だから一人でも多くの人に伝道しなければ」と思ってやったのです。考えてみれば、世の終わりは、伝道のチャンスです。ひところはそうでもなかったかもしれませんが、今、「世の終わりが来ますよ」と言っても、否定する人は少ないでしょう。大地震とか異常気象、資源の枯渇…「ああ、世の終わりが来たのかな?」と思っています。しかし、私たちは世の終わりに絶えられる救いを持っています。永遠のいのちと、永遠の御国を持っています。罪と死に打ち勝たれた、イエス・キリストを信じるなら救われるのです。世の終わりも近づいていますが、神の国も同時に近づいています。一刻も早く、世の終わりのさばきから逃れて、神の国に入る必要があります。そんなに複雑に説明する必要はありません。世の終わりのさばきから逃れたかったなら、救い主、イエス・キリストを信じれば良いのです。キリストこそ救い、キリストこそ永遠のいのちです。この方を信じていれば、いつ世の終わりが来ても、大丈夫です。