2012.11.4「新しい天と新しい地 Ⅱペテロ3:10-13」

きょうの箇所は、ペテロの手紙のクライマックスです。また、救済史、救いの歴史から見ても、最後の段階です。なぜなら「新しい天と新しい地」について書いてあるからです。私たちはこの世が終わりだということは、この地上が終わりなんだと思いがちです。しかし、聖書は「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう」と書いています。つまり、地球だけではなく、宇宙的な規模の終わりだということです。地上もだめ、宇宙もだめ、それだったら逃れる場所はありません。ある人にとっては全くの絶望、しかし、私たちにとっては最大の希望であります。

 

1.終わりの日

 

 終わりの日は神学的には「終末論」と呼ばれています。聖書には「主の日」とか「キリストの来臨」という名称で出てきます。万物の終わりのとき、キリストが再び現れるということです。第一のポイントでは、図式にして「終わりの日」について学びたいと思います。終わりの日というのは、正確には、いつ頃なのでしょうか?旧約聖書のダニエル書は、終わりの日について、正確に記しています。ダニエル9:24「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」あるときから70週たつと、永遠の御国がやってくるということです。ここで言われている1週は7年ですから、70週は490年です。490年後に、エルサレムが完全に回復され、やがては永遠の御国がやってくるという意味です。では、その70週はいつから始まったのでしょうか?ペルシャのアルタシャスタ王がネヘミヤに「エルサレムを再建せよ」と命令しました。その再建の命令が発布された年が、紀元前445年でした。いろんな説がありますが、紀元前445年ということにします。それから70週目にメシヤがエルサレムに入場します。ゼカリヤ書9:9-10「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」イエス様がエルサレムに入城したとき、人々は「ダビデの子にホサナ」と歓迎しました。人々はメシヤが来たら、ローマが倒され、イスラエル王国が回復すると思っていました。ところが、そういうことが起こりませんでした。ユダヤ人はイエス様を拒絶し、十字架につけて殺してしまいました。69週目に、救いの歴史が中断されてしてしまいました。

 それでどうなったのでしょうか?神様は、ユダヤ人が躓くことをあらかじめご存知でした。それで、異邦人である私たちを救おうとされたのです。マタイ21章と22章にいくつかのたとえ話があります。ぶどう園のたとえ、王子の婚宴のたとえなどは、御国が選民から取り上げられ、異

邦人に渡されるという教えです。使徒パウロはそのことをローマ9-11章に書いています。ローマ11:11「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」とあります。神さまの深い計画により、異邦人の時が楔形に及んだのです。つまり、69週目の終わり、あるいは70週目の初めで時間が止まったのです。そして、そこに異邦人とき、つまり教会の時代がやってきたのです。パウロが言っているように「今は恵みの日、今は救いの日」なのです。でも、それはいつまでも続きません。異邦人の数が満ちたならば、70週目が再スタートします。ローマ11:25-26「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」つまり、異邦人の時が終ったなら、イスラエルが救われる時がやってくるということです。でも、それは70週目であり、患難の時でもあります。マタイ24章には世の終わりに来る患難がどのようなものか預言されています。マタイ24:21「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」患難の時、「14万4千人のイスラエルが立ち上がる」と黙示録で預言されています。彼らがイスラエルの人たちに伝道するのです。でも、大きな迫害も伴います。人々は命がけで信仰を得なければなりません。患難の終わり頃、イエス・キリストが地上に戻って来られます。これを来臨、あるいは「主の日」と呼んでいます。旧約聖書のいろんな箇所に「主の日」ということばが出てきます。それは神に敵対する者たちが滅ぼされる恐ろしい日です。ヨエル2:10-11「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」患難は前半の3年半は比較的穏やかです。しかし、後半の3年は大患難と呼ばれています。なぜなら、反キリストや獣が猛威を振るうからです。天から災いが降り注ぎますが人々は悔い改めようとしません。獣と地上の王たちは結束し、主とその軍勢に挑もうとします。いわゆる、ハルマゲドンの戦いであります。白い馬に乗った方が、神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれて勝利します。聖書にはクリスチャンが天に引き上げられる「携挙」が記されています。でもそれは、患難の前なのか、患難の後なのか、いろんな説があります。私としては、患難の前に願いたいのですが、ここでは、触れないことにします。 主が来られ悪魔と悪者どもを一掃した後、審判と永遠がやってきます。マタイ25:46「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」ここには2種類の人たちがいます。一方は神にさばかれて永遠の刑罰、つまり地獄に下る人たちです。そこで、永遠に苦しまなければなりません。また、一方は神の救いにあずかった正しい人たち、義人です。彼らは永遠の御国に住まうのです。でも、この図を見ると、永遠は単純ではありません。まず、主が再臨したとき、死んだ人の肉体が復活し天に引き上げられます。その後、千年期が訪れます。1000年の間、この地上が回復されるときを神様が与えてくださいます。イザヤ書やエゼキエル書にあるように、地上のあらゆる動植物が回復します。また、イスラエル民族の回復も同時にあるようです。実は、その後、神の審判があります。「白い御座のさばき」とも呼ばれていますが、未信者が復活して神様の前に立ちます。人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれます。果たして、自分の正しさで神さまの前に立てる人がいるでしょうか?黙示録20:15「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と書いてあります。私たちの場合はどうなるのでしょうか?イエス様を信じている人たちは、神のさばきの前に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。キリストにある者は、新天新地に移り住むことが許されています。黙示録21:1-2「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」アーメン。新天新地こそが完成形です。私たちが見ている月や太陽がありません。この地球も全く新しいものです。別な天体があるのかもしれません。あるいは別の次元で住むのかもしれません。黙示録には「都には、太陽も月もなく、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかり」であると書いてあります。永遠は空想の世界ではありません。仏教が言う極楽でもありません。極楽ではありましょうが、リアルなものです。もともとの仏教には極楽という考えがありません。中国において景教というキリスト教の亜流が栄えた時代があります。空海などの僧侶が、その影響を受け、地獄とか極楽を考えるようになったと思われます。私たちは世の終わりの出来事と御国の完成を厳粛な気持ちで受け止めなければなりません。聖書の最後にヨハネの黙示録があります。イエス様は「見よ。私はすぐに来る。私はそれぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えて来る」とおっしゃっています。報いには2種類あります。1つは永遠の命と永遠の御国です。もう1つは永遠のさばきと永遠の地獄です。願わくは、いや、ぜがひでも、私たちは地獄を避け、永遠の命と永遠の御国を選び取るべきであります。

 

2.終わりの日の心構え

 

ノアの時代は洪水によって全地が滅ぼされました。しかし、終わりの時代は、火によって滅ぼされます。しかし、それは地上だけではありません。天の万象まで及ぶんだということです。テレビ番組で、「地球に彗星が落ちる日がやってくる」と見たことがあります。あるいは、「太陽が大きく膨れ上がり、地球が焼き尽くされる」というのもやっていました。しかし、私たちはそれを見ても、「何万年後だろうから、生きているうちには来ないよ」と冷ややかに見ています。同じように、聖書に記されている世の終わりの出来事を見ても、「ずっと先のことだろう」とまともに考えようとしません。それよりも心配なのは大地震かもしれません。関東直下型、南海トラフ、大津波、富士山の噴火…この日本はどうなるのでしょうか?最近、危険な場所の地価が下がったようです。ある人たちは、もっと安全な場所へと引越しをしているようです。でも、世の終わりは地球規模、宇宙規模ですから、本当に逃れる場所はありません。かなり前に、ノアの箱舟のように、大きな宇宙船を作って、選ばれた人たちが乗るという物語がありました。天から火山弾が降り注ぎ、山という山が噴火しました。やがて、巨大な津波が襲ってくるという物語でした。いわゆる天変地異であります。黙示録8章には、「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」あるいは「たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちてきた」と書いてあります。また、「太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれた」と書いてあります。そのため多くの人たちが死にます。もう、安全な場所などありません。「人々は死を願うが、死が彼から逃げて行くのである」とも書いてあります。

一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか?Ⅱペテロ3:11「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」まず、第一は、「聖い生き方をする敬虔な人であれ」ということです。聖い生き方とは、罪からは離れ、正しい生活をしているということです。また、「敬虔な人」とは、神を恐れ敬う生活をしている人です。これは心構えです。ですから、「どれくらい聖い生活をして、どれくらい敬虔な人であるべきか」ということが言われていません。私は講壇から「お酒を飲むな」と言ったことがありません。ただし、我れを忘れるほどお酒を飲むというのは問題です。この間、ニュースで「川に落ちている車」を見ました。車はまだ浮いている状態でした。救助隊がドアを開けて、こっちに来るように促しても座ったままです。運転手は何をしたかと言うと、川の水で顔をなんべんも洗っていました。そのままでは車が沈んでしまうので、救助隊が無理やり運転手をひっぱり出しました。彼は、丘に上がっても、朦朧としています。酩酊状態で、車を運転し、ガードレールを突き破って、川に落ちたということです。そういう状態の人は、世の終わり、イエス様が来ても危ないですね。英国の聖書はこの箇所を「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と訳しています。その人は、お酒に傾倒し、お酒に身を捧げていました。お酒がすべてだったのです。私たちの周りには、神様よりも傾倒し、神様よりも身を捧げているものがあるでしょうか?昔、アウグスチヌスという人がいました。彼はマニ教に入り、自堕落な生活をしていました。今でいう同棲生活をし、私生児をもうけていました。あるとき、家の近くで子どもたちが鞠つきをしていました。「とりて読め、とりて読め」と歌っているように聞こえました。大急ぎで、聖書を取って開きました。その箇所が、ローマ13:11-14でした。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスが回心した年は、386年です。既に、1626年もたっています。今や救いが私たちにもっと、もっと近づいています。

私たちはこの世のものに心を奪われているなら、それは霊的に眠った状態です。クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った状態に陥っている人がいるかもしれません。その人はどうなるのでしょうか?新しい天と新しい地に入れないのでしょうか?ペテロの手紙は、世の終わりが来て、その後、新しい天と新しい地が来ると書いてあります。しかし、パウロの書簡や黙示録を見ると、世の終わりにはある程度の期間があるようです。神さまは69週目で、時間を止めました。本来なら70週目が来るはずでしたが、その間に異邦人の時、つまり教会の時を挿入されました。今、私たちが住んでいる時代は、異邦人が救われる時代です。神様はユダヤ人以外が救われるように、恵みの年を与えました。でも、異邦人のが終ると、最後の70週目がスタートします。1週は7年間です。この7年間の出来事がヨハネ黙示録に書いてある、患難の時代です。世の終わりというのは、実は7年間の出来事であります。前半の3年半はまあまあで、後半の3年半は大患難が起こります。ペテロが言う、天変地異が起こる厳しい時です。その時、クリスチャンはどうなるのかというのが問題です。私は、霊的に覚めているクリスチャンは天に引き上げられると信じます。しかし、クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った人は取り残されると思います。おそらく大患難を通って、やっと救われるのではないかと思います。『レフト・ビハインド』という本があります。直訳すると、「取り残された」という意味です。私は読んでいませんが、黙示録に書いてあるような非常な苦しみを通る物語でしょう。救われて、クリスチャンになったけれども、世の終わりの出来事を信じない人がいます。救いを「困ったときの神だのみ」か「保険」みたいに思っている人もいます。そういう人は、火のような試練を通過しなければなりません。迫害も非常に大きくなり、命と引き換えにしてでも、信仰を得なければならないでしょう。あまりにも苦しいので、信仰を棄てる人もたくさん出てくるでしょう。できれば、そういうところを通過しないで、神様の救いを喜ぶような生活が良いのではないでしょうか?

ペテロは12節で「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」と言っています。その日が来るのをどうして早める必要があるのでしょうか?だって、世の終わりが来るわけですから、遅い方が良いに決まっているでしょう。しかし、それはそういう意味ではありません。マタイ24章にこれと似たみことばがあります。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このところから、世の終わりと、福音宣教が関係していることが分かります。福音が全世界に宣べ伝えられたら、終わりの日が来ます。また、神様は「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」お方です。神様は世の終わりの時をすこしでも遅らせて、一人でも多くの人が救われるように願っておられます。だから、終わりの時代に住んでいる私たちの使命は、この福音を宣べ伝えることであります。神様の関心が人々の救いであるなら、私たちも同じような心を持つべきであります。さきほど、英国の聖書から「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と申し上げました。それは、私たちが罪から離れ、聖い生活をするということだけではありません。私たちが魂の救いのために傾倒し、魂の救いのために身を捧げることが、世の終わりの時代に住む人の生き方ではないでしょうか?かなり前に、ナチスドイツのユダヤ人を救った『シンドラのリスト』という映画を見ました。彼は自分の全財産を売り払って、ユダヤ人を工場に雇って、虐殺から免れさせました。彼は1100人のユダヤ人をホロコーストから救いました。しかし、映画の終わり、彼は何と言ったでしょう。「もっと助ける努力をしていれば、良かった。」自分の自動車をさして、「この車ならあと2人は救えたのに」と泣き崩れました。私たちは世の終わりがきて、自分たちが救い出されるでしょう。そのとき、できれば、後悔したくないです。「ああ、あの人に福音を伝えていなかった。あの人にも福音を伝えていなかった。私が福音を伝えていたら、もっと多くの人が救われていたかもしれない」。そういう、後悔をしないように、終わりの時代、私たちが何に傾倒し、何に身を捧げているか考えなければなりません。父なる神さまが今、ひとりでも多くの人が救われるように、終わりの時間を引き延ばしています。でも、そのタイムリミットが近づいています。私たちは本当に終わりの時代に生きていることを忘れたくないと思います。世の終わりにおける、神さまのみこころは何でしょうか?Ⅱペテロ3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」