2012.11.11「主の忍耐は救いである Ⅱペテロ3:14-18」

きょうはⅡペテロの最後です。そして、きょうの箇所は、この手紙の結論とも言えるかもしれません。世の終わりに住む人たちの心構えと言っても良いでしょう。それにしても、難しくて、厳しい内容でした。やっと終わりなんですね。Ⅱペテロは終わりでも、世の終わりはこれからやってきます。ですから、学びが終っても、私たちは世の終わりが来ることを忘れてはいけません。世の終わりと重なるかもしれませんが、日本にはまもなく、大地震が起こると言われています。どうか、その時が、教会のリバイバルとなり、大勢の人たちが救われる時となることを願います。きょうは3つのポイントでメッセージさせていただきます。第一は「励む」第二は「気をつける」第三は「成長する」です。

 

1.励む

 

 世の終わりに住む私たちは、どのような心構えで生きるべきなのでしょうか?Ⅱペテロ3:14「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」「そういうわけで」とありますので、結論的な事柄であることが分かります。私たちは、世の終わりがどのように来るのか学びました。「世の終わり」はキリストを信じない人たちにとっては、人類の破局であります。一方、キリストを信じる人たちには、「新しい天と新しい地」に住まうことができるという希望です。私たちはいつか、神様の前に立つ日がやってきます。だから、ペテロは「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」と勧めています。「御前」とはもちろん神様の前ですが、正確にはちょっと違います。私たちと神様の間に、贖い主であるイエス・キリストがおられると信じます。Ⅰヨハネ2:1「もし、だれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」とあります。全く罪のない人はこの世に存在しません。私たちクリスチャンは、義であるイエス様がおられます。言い換えると、罪や汚れがイエス様の義によって覆い隠されているような状態です。宇宙飛行士が宇宙で着ている宇宙服のようなものです。すっぽり義の衣で覆われています。以前のキリスト教の教えは「あなたは今晩、死んでも、神様の前に立つことができますか?」というものでした。教会に来る度ごとに、ぶるぶる震えなければなりません。さばきが怖いので、聖い生活をするというものでした。私はそうではないと思います。私たちのことを弁護してくださるイエス様が世の終わりまでおられます。だから、単独で神様の前に立つということはないと信じます。

 ヨハネは「全き愛は恐れを締め出します」と言いました。恐れで聖い生活をするというのも1つの道です。もちろん、私たちは神様を恐れなければなりません。でも、もう一方は、私たちはキリストにあって完全に愛されているゆえに聖い生活をするのです。つまり、イエス様の恵みに対する応答であります。この世の人たちは、罰則が嫌なので法律を守ります。もし、罰則が伴わないなら、平気で法律を破るでしょう。この世は、罰則によって人を従わせる方法を取ります。それは、人間とは悪であるという前提に立っているからです。しかし、クリスチャンはどうでしょうか?イエス様を信じて義とされた存在です。神様から既に義と認められているので、それにふさわしい生き方をしようとするのです。だから、根底にある動機が違います。Ⅱペテロ3:14の前半を見ると、そのことが分かります。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから」とあります。手紙を受け取っている人たちは、愛する人たちです。しかも、その人たちは、世の終わりにイエス様が来ることを待ち望んでいます。再び来られるイエス様を、怖がっていません。むしろ、待ち望んでいます。だから、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励む」のです。我が家では、家内が外で働いています。私は家の隣である教会にいます。もし、雨が降ったら、洗濯物や布団を入れなければなりません。洗濯物は家内が干したのだから、家内に責任があります。でも、急に雨が降ったらそんなことは言っていられません。私は家内に怒られないように、洗濯物を入れるのでしょうか?そうじゃないですね。家内をがっかりさせたくないためです。あるときは、流しのお皿やお茶碗を洗ったりします。子どもたちは洗いません。私が進んで洗います。気持ち良いですね。でも、家内が出がけに、「雨降ったら洗濯物入れてね。それから、お茶碗も洗っておいてね。ついでにご飯も炊いておいてね。どうせ暇なんでしょうから」と言ったらどうでしょうか?むかっと来て、「なんで俺が!」と思うでしょう。しかし、何にも言わないから、進んでやったとき、気持ちが良いんですね。「イエス様がまもなくこの地上に来られる」としたらどうでしょう?あるいは、地上の命が尽きて「イエス様の前に立つ」となったらどうでしょう?やっぱり、イエス様をがっかりさせたくないですね。しみと傷で汚れたままでは、申し訳が立ちません。完全にとは言えなくても、ある程度、聖い生活をしていたいと願います。

 でも、何があるか分かりません。ポンペイのように、かっこ悪いことをしているとき、世の終わりが来るかもしれません。昔、ある教会で、ある先生がこういうメッセージをしたそうです。「今晩、イエス様が来られたら、この会衆の中の何人が天に引き上げられるだろうか?おそらく、半分もいないだろう」と言ったそうです。シーンとなって、お互いの顔を見合ったそうです。そして、みんな頭の中で「だれとだれは大丈夫だけど、あの人は無理だろう」と考えたそうです。それは福音ではありません。律法です。人を恐れさせて従わせるものです。そうではありません。「私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」。これが福音です。世の終わり、イエス様が再び来られるのは、良い知らせなのです。なぜなら、すべてのことを報いてくださるからです。だから、私たちは恵みの中で、期待して主を待つべきであります。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここに、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」とあります。イエス様を信じる者に、例外はありません。もれなく、みんな救われるということです。「全き愛は恐れを締め出します」アーメン。

 

2.気をつける

 

 このことも何度もいわれてきました。なぜなら、世の終わりには、にせ教師がたくさん現れるからです。Ⅱペテロ3:15-17「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」ペテロは、同じ使徒である、パウロのことを語っています。「パウロの手紙の中には理解しにくいところもあります」と言っています。なんだか安心します。やっぱり、パウロの手紙は難解で、何回読んでも分からないのが普通なのです。でも、ペテロが言いたいのは、世の終わりについてです。当時のにせ教師たちは、「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」ということです。キリスト教教理の中で、最も、意見の合わないテーマは終末論です。これを話すと教会が割れてしまいます。シュバイツアーは、医者で音楽家で、だれもが認める偉人です。しかし、彼が唱えた終末論は全くの見当違いであると言われています。キリスト教会史で、「世の終わりが来た」と急進的な異端が何度も起こりました。もう、世の中から孤立して、村まで作った人もいます。「主は○○年来る」と言って、異端になったグループもたくさんあります。そのため、「こと終末論に関しては触れない方が良いだろう」ということになりました。「羹に懲りて、なますを吹く」ということになったのです。

 でも、私たちは聖書が教えている全部のことを学ばなければなりません。だから、世の終わり、再臨についても語らなければならないのです。なぜなら、世の終わりが迫っているからです。でも、聖書を解釈するときに、忘れてはならない原則というものがあります。ペテロがいた頃、どのような人たちがいたのでしょう?「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」と書いてあります。「無知な」とは、「よく学んでいない」という意味です。「曲解」とは、「捻じ曲げる」という意味です。JB.フィリップスはunbalancedと訳しています。「バランスに欠いている、極端である」という意味です。Ⅱテサロニケ3章に書いてある人たちは、どうだったでしょう?まもなく、世の終わりが来ると思って、仕事もろくにせず、人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていました。昭和5年頃、ホーリネス教団にリバイバルが起こりました。大勢の人が救われ、台湾や中国にも宣教師を派遣しました。しかし、「イエス様はまもなくやってくる」と極端の方に走りました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上り旗を振って待っていました。学校も行かず、仕事もしないで、教会に集まってイエス様を待っていました。しかし、イエス様は来られませんでした。そのため、教団が分裂してしまいました。しかし、ペテロの時代の人たちは全く逆です。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか?父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ3:4)と言いました。つまり、「世の終わりなど来ない、このまま世界は続いて行く」と言ったのです。どちらかと言うと、この世の人たちはこのように考えているかもしれません。これまでのように東から太陽が昇り、西に沈んだように歴史が永遠に流れて行くと信じています。『日はまた昇る』という文学書のとおりです。しかし、聖書は「月も太陽もなくなる日が来る」と言っています。ある人たちは月や太陽、星々を拝んでいますが、それがなくなる日が来るのです。まさしく、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。ですから、私たちは2つの焦点で時代を見なければなりません。遠近両用めがねというのがあります。1つは遠くを見る目であります。もしかしたら、世の終わりは私が生きている間、来ないかもしれない。あと、100年後かもしれない。だから、伝道をしながら、社会にも貢献するということです。極端な人たちは、「この世はどうせ終るので、クリスチャンは政治とか経済に深く関わるべきではない」と言いました。そうではありません。この国を変えるために、クリスチャンの政治家、クリスチャンのビジネスマン、クリスチャンの芸術家が必要です。私たちはあらゆる分野に、神の栄光が現れるように仕えるべきです。もう1つは近くを見る目です。本当にイエス様が間もなくやってくるかもしれない。いつでも、イエス様の前に立てるように聖い生活をするということです。そのためには、部屋や持ち物を整理し、身軽にしておく必要があります。あまりにも、この世にのめり込むなら、ロトの妻のように取り残されてしまうでしょう。つまり、信仰生活において、バランスが必要だということです。だからペテロは、「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」と命じているのです。

 

3.成長する

 

 Ⅱペテロ3:18「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」これは、ペテロの祝祷、最後の祈りであります。礼拝の終わりでも、祝祷をしますが、このような祈りで終っても全く構わないと思います。祝祷は、キリスト教会の習慣だったのではないかと思います。手紙でも教えでも、最後は一番、言いたかったことをもう一度言うはずです。ペテロが言いたかったことは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」ということです。驚くべきことに、イエス・キリストは救い主だけではないことが分かります。「私たちの主である」ということです。主というのは、王様とか支配者、神様という意味です。旧約聖書では、世界を創造された、イスラエルの神が「主」と呼ばれていました。しかし、イエス様が復活してから、イエス様が主になりました。新約聖書では、イエス様が主であります。ピリピ2:9-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」父なる神様が、御子イエスに「主」という名をお与えになったのです。私たちがひざをかがめて「イエス・キリストは主である」と告白するとは、イエス様を礼拝するということです。しかし、それで終わりではありません。なんと、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白することによって、父なる神がほめたたえられるのです。頭ではよく分かりませんが、手前には主イエス・キリスト様がおり、その向こうには父なる神様がおられるということでしょうか。第一ポイントで話しましたが、神様の間に、弁護者で、義なるイエス・キリスト様がおられるということです。私たちがイエス様を礼拝するとき、父なる神様が栄光をお受けになるということです。ハレルヤ!ここにキリスト教会のキリスト教会たる、ゆえんがあると言っても過言ではありません。

 そして、ペテロは「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています。伝統的な教会は、恵みは強調しますが、知識はあまり強調してきませんでした。「あんまり勉強しても、頭でっかちになるだけだから」と言われてきました。私は恵みと知識が別ものなのではなく、セットなのだと思います。恵みだけでも良くありません。また、知識だけでも良くありません。恵みと知識において成長するということです。では、恵みとセットになった知識とはどういうものなのでしょうか?詩篇136篇を見ますと、そのことが良くわかります。詩篇136:1-9「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。」前半は、神様がどんなお方であり、どんなことをなされたのかが記されています。そして、後半は、その恵みがとこしえまであることを賛美しています。私たちは神様がどんな方であり、どんなことをなされたのか、聖書から知る必要があります。でも、どうやって分かるのでしょうか?それは、聖書から学んで、神様に関する知識を得なければなりません。神様に関する知識を得たならば、「ああ、神様は恵み深い」と感謝することができます。仏教のことを例にして申し訳ありませんが、仏教には2つの極端があります。1つは密教です。曼荼羅というものに絵が書いてあります。細かな教えはなく、神秘的な体験が主体であります。教えよりも、神秘的な体験であります。だから、その人たちは滝に打たれたり、何ヶ月もどこかにこもって断食するのです。もう1つは仏教哲学です。インド古来の文字を調べ、その教えを体系的に組み立てます。一生懸命、勉強しなければ悟りが開かれないという道です。日本の神学校にも2つの極端があります。1つは、聖書は良く読みますが、神学的な学びは害になるのでしません。修養生と言われる人たちは、良く祈り、良く伝道し、良く捧げます。もう1つは聖書を解体し、理性によって再び組み立てます。そこでは、聖書のイエスと歴史上のイエスは異なります。ほとんど祈らないで、教義だけを学びます。神学者であり、哲学者です。私たちは恵みと知識の両方が必要です。

 イエス様はどのように弟子たちに教えたでしょうか?イエス様は学校のようなクラスルームに集めて勉強させませんでした。どちらかと言うと少人数で、一緒に生活しながら教えました。道を歩き、いろんな出来事に遭遇したときに、教えました。1つ教え、1つ実践させました。実践して失敗したら、何故、失敗したのか考えさせました。イエス様は権威を力を与え、やがては派遣しました。弟子たちにとって、イエス様ご自身が恵みであり、イエス様ご自身が知識だったのです。私たちの時代は聖書しかありません。強いて言えば、キリスト様が立てた使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。さらに、目には見えませんが聖霊様によってイエス様がこちらにいらっしゃっています。このお方は世の終わりまで、私たちと共におられるお方です。たとえ、世の終わりが来ても、私たちをちゃんと御国まで連れて行ってくれます。ペテロは、世の終わりが来るまで、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と言っています。もし、世の終わりが来たなら、私たちは一瞬にして栄光の姿に変えられるでしょう。こつこつ勉強しても、無駄なような気がします。そうではありません。神さまは一緒に成長する、プロセス(過程)を喜んでおられます。一瞬にして変える道よりも、子どもの成長のように少しずつ成長する方を願っておられます。成長することは喜びです。私たちは身体的にはもう大人かもしれません。しかし、霊的にあるいは、心や知性の分野で成長する余地がまだまだあります。世の終わりが来週の日曜日やって来たとしても、キリストの恵みと知識において月曜日から土曜日まで、成長していきたいと思います。