2012.11.25「十全的な救い マルコ5:25-34」

キリスト教会では、一般的に、救いというと「罪が赦されて天国に行けることだ」と言います。そして、「やがては、天国に行けるのだから、病気や貧しさ、多少の悩みも我慢しなさい」と言うでしょう。では、毎週、日曜礼拝に来るのは、天国まで持つために気付け薬をもらうためでしょうか?ギリシャ語で「救い」はソーテリアと言いますが、一般的には、死、危険等から救われるという意味です。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いもあります。それが、やがて「救い主によって与えられる罪と滅亡からの救い、永遠の生命の祝福」という意味になりました。しかし、聖書では救いはもっと広い意味があります。これから24回に渡り、聖書が言う救いについて学んでいきたいと思います。きょうのメッセージはその全体を示す序章となっています。

 

1.この女性の苦しみ

 

 この女性は、12年間、長血をわずらっていました。婦人病であり、いつも痛みがあり、貧血気味でした。レビ記15章には「長い日数にわたって血の漏出のある場合、彼女は汚れた存在である」と書かれています。「彼女にさわる者はだれでも汚れる。さわった者は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる」とあります。つまり、彼女の病気は単なる病気ではなく、宗教的に汚れているということです。だから、彼女はイエス様ご自身ではなく、着物のふさにでも触りたいと願ったのです。さらに、26節に何と書いてあるでしょうか?「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」ここには医者と書いてありますが、当時は呪術といいましょうか、御祓いのように病気を治す者もいました。今でも沖縄にはそういう人がいるようです。それでどうなったんでしょうか?「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった。」持っている財産をふんだくられたということです。家族にも迷惑をかけたことでしょう。が、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。何らかの治療を受けたかもしれませんが、それがかえって病気を悪化させたということです。「これは、昔のことでしょう。でも、現代の医学はそうじゃありません」と言うかもしれません。でも、そうでしょうか?大きな病院では、レントゲンのほかに、CTスキャン、MRIなどの医療機器を入れています。1台数億円するのではないでしょうか?だから、元を取るために、病院に行ったら、機械を使った検査を受けることになります。問診で良いのではと思ったものでも、いくつかの機械を回されます。昨年、ある朝、目がまわるので病院に行きました。すぐ、CTスキャン、MRIの検査を受けました。MRIは、まるで頭にバケツをかぶせられて、棒でガンガンたたかれているような音がしました。幸い何ともありませんでした。今でも、新薬を試したい大学病院がたくさんあるのではないでしょうか?

 このところに、彼女の苦しみがいくつあるでしょうか?表現を換えるなら、「彼女はどういう事柄に救いを得たいのか?」であります。第一には身体の痛みがありました。29節には「ひどい痛みが直った」と書かれています。ですから、キリキリ刺すような痛みがあったのではないでしょうか?第二は宗教的な汚れがありました。この病気は、英語の聖書にはplagueとなっています。これは疫病や伝染病のことです。ギリシャ語には「神の罰、たたり、かかる見地から見た肉体的苦痛、あるいは病気」という意味があります。つまり、人々から「あなたは神様から呪われている」と思われていたのです。第三は心理的な苦しみがあります。「多くの医者からひどい目に会わされて、持ち物をみな使い果たした」のですから、恨みや憎しみがあって当然です。「直るといったのに、直るどころかもっと悪くなった。なんとひどい藪医者だろう」と思ったでしょう。第四は経済的な苦しみがあります。「持ち物をみな使い果たした」とありますので、貯金も財産もゼロです。ひょっとしたら親からお金を借りているかもしれません。「このごくつぶしめ!」と言われているかもしれません。第五は生活全般における苦しみです。体が弱いので仕事も結婚もできません。彼女は、「娘よ」と呼ばれているので、おそらく30代前後でしょう。12年間の歳月ため、将来の希望が全くありませんでした。こういう人にこそ、救いがいるのではないでしょうか?いや、これらの問題をすべて解決することが救いではないでしょうか?日本語の聖書には28節に「きっと直る」と書いてあります。また、34節に「あなたの信仰があなたを直したのです」とあります。2つの「直る」は、ギリシャ語ではソーテリアであります。ですから、原書に忠実に訳すならば、「きっと救われる」「あなたの信仰があなたを救ったのです」と訳すべきであります。なぜなら、この女性は5つの苦しみから救われたからです。

 

2.この女性の救い

 

 それでは、この女性がどのようにして5つの苦しみから救われたのか、1つずつ学んでいきたいと思います。彼女は後ろから、こっそり、イエス様の着物にさわりました。ルカ福音書には「着物のふさ」と書かれています。「ふさ」というのは、祭司の服と同じで、権威を象徴しています。この女性は神であるイエス様の権威を信じていたのです。また、「考えていた」は原文では「口で言っていた」という意味です。「お着物にさわることでもできれば、きっと救われる。きっと救われる」と言い続けていたのです。あとで、彼女の信仰がイエス様からほめられます。なぜでしょう?ローマ10章には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書いてあります。彼女の信仰は心からあふれて、それが告白にまでなっていたのです。「きっと救われる、きっと救われる」とブツブツ言いながら、弱ったからだを引きずって、イエス様に近寄りました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」ここに、第一の肉体的な救いがあります。なぜなら、血の源がかれて身体の痛みが去ったからです。「直った」と思って、彼女は群衆に紛れ、立ち去ろうとしました。なぜなら、肉体的な救いを得たからです。

 でも、イエス様はそのまま彼女を帰しませんでした。30-32節、イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。イエス様は全知全能の神様ですから、どの女性が触ったか知っていました。しかし、あえて名乗り出るように言われたのです。「しかし、婦人病ならば、きっと恥ずかしいでしょう。そのまま帰らせて良いのでは?」と思うでしょう。いいえ、イエス様のみこころはそうではありませんでした。33節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」彼女は、ひれ伏しながらも、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。いつ頃から病気になったのか。多くの医者に通ったけど直らなかった。全財産を使い果たしても、ますます悪くなる一方だった。あなたの噂を聞いて、「着物のふさにでも触れば救われる」と思ってやってきました。そして、さきほど群衆に紛れて後ろからさわったら、あなた様から力が臨んできて、血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。これまでの経緯と病気が直ったことをイエス様に告げました。このように、イエス様に真実を余すところなく打ち明けるとどのような効果があるでしょう?カタルシス(浄化)と言いますが、心のわだかまりや傷が癒されます。これは心理的な救いと言えるでしょう。「イエス様が私のことを聞いてくださった。そして、私のことを理解してくださった。アーメン」。これは肉体的な救いと別の救いではないでしょうか?女性は、自分のことを聞いてもらえるだけで、心が癒されるそうです。ハレルヤ!男性諸君、教えないで、ただ、耳を傾けましょう。

 それからどうなったでしょう?34節そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」彼女には、まだ、3つの目の問題が残っていました。宗教的な汚れです。これは、神様から見放されている、神様の怒りをかった病気であるとみなされていました。イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。英国の聖書は、My daughter「私の娘」と訳しています。彼女は、イエス様から「私の娘よ」と呼ばれました。さらに、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。信仰とはどういうものでしょうか?英語の詳訳聖書はこのところの信仰をこのように解説しています。「私に対するあなたの信頼と確信、神から湧き上がる信仰があなたを救のです。」長くてよくわかりませんが、信仰というのは自分の確信と神様からくる信仰の2つが結びついたものです。つまり、彼女の信仰は自分が勝手に持ったというのではなく、神様から与えられたものです。ということは、神様は彼女を愛している。彼女はのろわれた存在ではなく、神様の娘であります。これは霊的な救いではないでしょうか?そうです。彼女は霊的な救いに預かったのです。

 まだ、他にあります。イエス様は「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と彼女を祝福しました。これです。イエス様がだまって彼女を去らせなかったのは、彼女を祝福したかったからです。もし、彼女があのとき、名乗らないで立ち去っていたならば、肉体の救いしか得られませんでした。でも、心の恥や霊的な呪いがあったでしょう。もし、また、病気が再発したならどうなるだろうという心配も残るでしょう。「安心して帰りなさい」とはどう言う意味でしょう?これは「平安があるように」という意味です。平安とは、穏やかという意味だけではなく、「すべてにおいて充足するように」という意味があります。また、「病気にかからず、すこやかでいなさい。」とありますので、これから二度と病気にならないように、病気を追い出し、封印するという意味です。将来も病気にならないというイエス様の保障です。だから、もう、病気を怖れることはありません。ずっと、健康でいられるということです。「すこやかでいなさい」は健康のことだけを言っているのではありません。英語の聖書はbe wholeとなっています。wholeは「全体の、完全な、無傷の、そっくりそのまま、十全的な」という意味があります。つまり、神様の肉体だけではなく、十全的な救いを与えたいと願っておられるのです。彼女にとっての救いは何でしょう?肉体が救われ、心が救われ、霊的に救われました。でも、これから経済的な救いも必要でしょう。また、結婚あるいは家庭の救いも必要でしょう。最後には、病気や災いを怖れないで、平安の中で生きられるという救いです。彼女は天国に行く前に、天国の喜び、天国の命を味わうことができたのです。この世にいながら、神の国が彼女にやって来たということです。これこそが、イエス様が私たちに与えたい救い、十全的な救いなのです。

 

3.十全的な救い

 

 十全的ということばを、ホリスティックと言います。最近は医療の間でも使われるようになりました。これまでは、肉体の病理しかみてきませんでした。しかし、そういう病気になる心の問題、ライフ・スタイル、あるいは霊的な原因があるということが分かり始めてきました。病気になるような生活をしていたなら、根本的には直りません。ストレスや心配事、怒りや憎しみをもっていたなら、必ず病気になります。聖書は、昔からそういうことを言っています。では、ホリスティック、十全的な救いにはどのようなものがあるのでしょうか?これは、これから20数回に渡って語る内容ですので、「お楽しみに」ということです。でも、私は今後、おもに4つの分野で語りたいと思います。第一は霊的な救い、第二は肉体的な救い、第三は心の救い、第四は生活すべてにわたる救いです。順番に説明させていただきます。第一の分野は霊的な救いです。これは、神様との関係から来るものです。イエス様を信じて罪の赦しを得る。義とされる。新しく生まれ変わる。神の子とされる。神の国に入ることなどは、霊的な救いです。霊的な救いについては、教会で良く話されます。あるテーマについては、もう何度も聞いた内容かもしれません。キリスト教では、日本でも、福音の番組がいくつかあります。よく話されるのは、十字架による罪の赦しです。「罪を悔い改め、イエス様を信じましょう。そうしたら、罪赦され、永遠の命を得ることができます」と言います。しかし、「神、罪、救い」は外国の宣教師が持って来た福音です。どうでしょう?「自分の罪深さが示されて、教会に来て救いをいただいた」という人がどれくらいいるでしょうか?10人にどれくらいいるのでしょうか?おそらく、2,3人だと思います。聖書に出てくる、ほとんどの人たちは、自分の必要を求めてイエス様に近づいたのではないでしょうか?多くの人たちは、「病気を治してくれ。問題を解決してくれ。腹がへったので何か食わせろ。目を開けてくれ」というふうに近づいたのではないでしょうか?ですから、教会が霊的な救いだけで、アプローチしていたならば、多くの人たちが救いにあずかることができないということです。もちろん、霊的な救いがなければ、本当の救いとは言えません。でも、順番が1,2,3,4でなくても良いということです。2番目、3番目、あるいは4番目が最初に来ても良いとうことです。長い間、キリスト教会は霊的な救いだけを説いてきました。そのため、どうなったでしょうか?新興宗教が病気の癒しをします。いろんな占いや祈祷師が心の救いを与えようとします。また、心療内科や精神科では、鬱などの人があふれています。また、神社が縁結び、安産、経済の祝福、交通事故から守られるようにとお守りやお札をくれるでしょう。日本人は頭では西洋の教育を受けています。自然科学を信じて、理性で生きています。しかし、心は東洋的なので、目に見えない力を信じています。だから、病院だけではなく、そういう神的なものに頼りたがるのです。日本に来た外国の宣教師は西洋の合理主義を受けているので、目に見えない力を軽んじる傾向があります。しかし、日本は東洋であり、アニミズムの世界観を持っています。だから、西洋的なものだけでは足りないのです。

 ホリスティック、第二の救いは肉体の救いです。病の癒しと言っても良いでしょう。しかし、目が見えない人、耳の聞こえない人、いろんな障害のある人は、癒しではありません。ないものが与えられる創造の癒し、奇跡が必要です。イエス様は公生涯において、3分の1は、病の癒し、奇跡、悪霊の追い出しをされました。イエス様は、神の国の福音を伝えると同時に、こういうことを行われました。何故でしょう?それは、「みことばに伴うしるし」であります。イエス様は病を癒したり、障害を直すことによって、神の国がどのようなものであるのか、証明されたのです。神の国には病も障害もありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。そのとき、イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションしたのです。スーパーマケットで、ウィンナーとかビールを「どうぞ、一口」とか言って勧めています。イエス様は神の国を少し味わわせてから、霊的な救いを得るようにデモンストレーションしたのです。ですから、肉体の癒しは神の国に入る門と言えるでしょう。

 第三の救いは心の救いです。「内面の癒しと変革」と言っても良いかもしれません。30年ぐらい前から心の癒し、インナー・ヒーリングが注目されました。当教会でも、エリヤハウスや解放キャンプなどを紹介してきました。キリスト教は「自分は罪を犯した」という加害者の部分を主に扱ってきました。しかし、自分が受けて来た被害者の部分はどうでしょう?多くの場合、「あなたは神様からたくさん赦されたのだから、あなたに罪を犯した人を赦しなさい」と言います。1万タラントと100デナリのたとえもそういうことが書いてあります。でも、それができる人はどれくらいいるでしょうか?おそらく、3割くらいしかいないのではないでしょうか?あとの、「7割りはそれとこれとは別だ」と怨念晴らしをして生きているのではないでしょうか?丸屋先生は、「キリスト教会は霊の部分は取り扱ってきたけど、心の部分はなおざりにされてきた。人は霊的な救いと心理的な救いが必要である」とおっしゃいました。霊的には救われても、考え方が相変わらず古いままということがありえます。従来行われてきた、心の癒しばかりだと堂々巡りみたいなところがあります。今後は、考え方を新しくし、ライフ・スタイルを変えていくというものが有効なようです。

 第四は生活すべてにわたる救いです。その他の救いと言っても良いかもしれません。初めに言ったように、救いというのは一般的には、死、危険等から救われるという意味でした。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いです。それでは、生活すべてにわたる救いにはどのようなものがあるでしょうか?私たちは詩篇から多くの励ましや信仰をいただきます。なぜでしょう?詩篇の多くはダビデが作ったか、あるいはダビデの生涯を背景にして書かれたと言われています。ダビデは、サウル王やアブシャロムから命を狙われました。多くの悪者や敵に囲まれても、奇跡的に守られました。ダビデに、あらゆる環境の中であっても、喜びと平安がありました。これは現代社会に生きている私たちと同じではないでしょうか?主が私たちの盾であり、岩であり、砦なのです。テレビのニュースを見ると、歩道を歩いているのに車にはねられたとか、ストーカー、詐欺事件がなどあります。本当に安全な場所などありません。みんな戦々恐々で暮らしています。ですから、生活すべてにわたる救いが必要です。人間関係、経済、結婚、物質、環境からの救いが必要です。

Ⅲヨハネ2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。魂に幸いとは、霊と心の幸いです。健康は肉体の癒しです。そして、すべての点で幸いを得るというのは、仕事や家庭、物質や環境の幸いと言えると思います。もちろん、順番的にはたましいの幸いが必要です。でも、私たちはこの世に生きているので、すべての点でも幸いを得、また健康であることが必要です。これが神様のみこころです。つまり、全部の救いにあずかることが神様のみこころです。私たちがこのことに対して、無知であるならば、病気で貧しいまま、天国にはいつくばって行くことになります。キリストは十字架にかかり、私たちの罪だけではなく、病ものろいも取り去ってくださいました。だから、キリストにあって十全的な救いにあずかり、主の御名をあがめる人生を送りたいと思います。