2012.12.2「罪の赦し コロサイ1:14」

先週から、「救い」についてのメッセージを取り次いでいます。12月はクリスマスがあるために中断しますが、来年からまた再開したいと思います。キリスト教で「救い」というと、最初に取り上げるべきテーマは「罪の赦し」ではないかと思います。なぜなら、私たちの罪が赦されるために、イエス・キリストが十字架にかかられたからです。ですから、「罪の赦し」は「罪の贖い」と言い換えても良いでしょう。だから、コロサイ1:14ではこのように言われています。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」

 

1.赦しの代価

 

 一般的に使われる「許し」は許可するとか、賛成するという意味のことばです。たとえば、このように使います。「だれの許しを得て、この部屋に入ったのですか?」「いや、ドアが開いていたので、ちょっと入ったんです。どうか許してください」。これは、軽い意味の許しです。しかし、キリスト教会でよく言われるのは「赦し」のほうです。赦免と言うときの「赦」です。赦免は罪や過ちを許すことであります。そして、この「赦し」は許可という意味の「許し」よりも、もっと重たいものです。なぜなら、罪が赦されるためには、同等の代価や代償を支払う必要があるからです。たとえば、子どもが石を投げて、私の家の窓ガラスを割ったとします。その子どもがやって来て「ごめんなさい、ついうっかりして」と謝ったとします。私は「そうか、子どもがやったことだからな」と許したとします。けれども、窓ガラスをそのままにしておくなら、雨や風が入ってくるでしょう。そこで、私はガラス屋さんを呼んで修理してもらって、1万円くらい払うかもしれません。つまり、こういうことです。私が子どものしたことを許すといった場合、1万円を自分が弁償しなければなりません。「ああ、子どもの親に弁償させれば良かったなー」と後悔するかもしれません。罪というものもそれと同じで、だれかが代価を支払う必要があるということです。この世においても、「贖罪」ということをたまに聞くときがあります。今から25年くらい前、大韓空港機が爆破され、115人の死者を出しました。そのとき、金賢姫(キム・ヒョンヒ)が工作員の一人として捕らえられました。彼女は後で特別赦免を受け、自由の身になりました。そのとき、彼女が言った「贖罪」ということばが新聞に大きく載っていました。今でも彼女は「金賢姫元死刑囚」と呼ばれています。本来だったら、死刑になるはずの人が、特赦(特別赦免)を受けたのです。

 私たちもある意味では、特赦を受けた者です。なぜなら、アダム以来、罪を犯した人は神の前にさばかれて、地獄に行くことが決まっていたからです。しかし、キリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったので、特赦を受けたのです。でも、キリストの十字架がなぜ、私と関係があるのか、知らない人がほとんどではないでしょうか?そのためには、私たちは旧約聖書を読まなければなりません。レビ記には罪を犯した人が、どのように赦されるか克明に記されています。旧約聖書で罪という場合、おもに3つあります。1つは罪過、つまり自分が犯した様々な罪です。2つ目は汚れです。これは道徳的な罪ではなく、儀式的なものです。3つ目は咎です。咎は罪と似ていますが、「外れている」「曲がっている」という意味があります。先祖から受け継いでいるものを咎と言ったりします。私たちはこういう罪があるために聖なる神さまに近づくことができません。レビ記にはこういう罪を赦していただくために、羊や山羊や牛を祭司のもとに連れてきます。その人は動物の上に手を置いて、自分の罪を告白します。次に祭司は動物をほふり、その血を祭壇の周りに注ぎかけます。さらには内臓や脂肪を焼いて煙にする場合もあります。しかし、もっとも重要なのは、動物が命である血を流すということです。本来なら、自分が死んでお詫びをしなければならないところを、動物が死ぬわけです。その様子を見た人は「ああ、罪はただでは赦されないんだ。もうやめよう」と思うでしょう。旧約聖書ではこれが数限りなく行われてきました。しかし、御子イエス様が「罪を取り除く神の小羊」としてこの地上に来られました。ヘブル9:12、26「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。…しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」イエス様はご自分の血を流すことによって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、もう動物のいけにえは不要になったのです。私たちはキリストの血によって罪赦され、神様に近づくことが許されるようになりました。これが新約、新しい契約です。

 しかし、1つ考えるべきことがあります。罪の代価をだれに払ったかであります。「贖う」はギリシャ語ではアゴラゾーと言います。当時、ローマやギリシャ時代は奴隷が市場で売られていました。アゴラゾーの正確なニュアンスは「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払う」ということです。イエス様は、まだ奴隷市場の中で解放されていない人たちのためにも代価を払っているということです。一番妥当なのは、「ああ、そうですか。ありがとうございます」とそこから出てくることではないでしょうか?また、「贖い」は英語で、ransomということばも良く使われます。これは捕らわれ人を解放するための身代金という意味です。この世では、人質の解放のために身代金を払わされることがあります。では、「イエス様は十字架で罪の代価を支払いましたが、一体だれのためか」ということです。ある人は、身代金はサタンに支払われたと言いました。しかし、サタンは私たち以上に罪を犯しているので、その権限はないはずです。では、その代価は、神さまに支払われたのでしょうか?そうなると十字架は神さまの自作自演ということになります。確かに神さまなのですが、神さまの何なのでしょうか?この問題を解き明かすのが「なだめ」という言葉です。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」「なだめ」と聞くと、何だか異教的に聞こえます。神さまの御怒りをなだめるために、犠牲をささげるという感じがします。「なだめの供え物」というギリシャ語の意味は、贖罪所という意味で、契約箱の黄金の蓋のことです。そこに、年1回大祭司がいけにえの血を注ぎます。蓋の両側には、羽を広げた黄金ケルビムがおり、二人で見ている格好になっています。これはどういう意味でしょう?神さまは義なるお方ですから、一片の罪も赦すことができません。「良いよ、何でも赦すよ」と言ったら神さまではなくなります。義なる神さまは、罪であるなら必ずさばかなければなりません。しかし、同時に神さまは、愛なる神さまですから、罪を赦して救ってあげたいのです。この矛盾をどのように解決できるでしょうか?そのために、御子イエスが身代わりに死んで、ご自分の血を流したのです。神さまはその血を見て、満足され、その結果、罪に対する怒りがなだめられたのです。では、代価はだれに支払われたのでしょう?それは、神ご自身の義であり、神の律法に対してであります。神さまは御子イエスの死によって、罪に対する怒りがなだめられ、キリストにあってすべての人を赦すことをお決めになられました。もう、神さまは私たちの個々の罪には、怒ってはおられません。神さまが一番、関心があるのは、罪を贖われたキリストをどうするかです。罪を贖われたキリストを信じない罪こそが、もっとも大きな罪なのです。やがて人々が神さまの前に立つときがきます。神さまが一番先に問われるのは、「あなたはどうしてキリストを信じなかったのですか」ということです。キリストが十字架にかかってから、罪の概念が全く変わりました。キリストを信じない、不信仰の罪が最も大きな罪なのです。

 イエス様は十字架でいくつかの言葉を発せられ、これらが福音書に載っています。それぞれの記者たちが、これがもっとも大切だと思ったものではないかと思います。ヨハネはこのことばを書き記しました。ヨハネ19:28、30「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」このところに、「完了した」と二度書かれています。一体何が完了したのでしょうか?「完了した」はギリシャ語でテテレスタイという言葉です。これは商業用語で「支払った」という意味です。動詞の時制から正確に言うなら「ある時に支払いが完了し、その結果が今も影響を与えている」ということです。まさしく、さきほどヘブル9章を引用したように、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げたということです。イエス様はどれくらいの代価を払ってくださったのでしょうか?全人類のためです。これから先に生まれ出てくる人の分もです。私たち個人で言うなら、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。いわば前払いです。「あなたはクリスチャンになってからも、こう言う罪を犯すだろう。でも、その分も私は支払っておくよ」ということなのです。キリスト教を国教にしたのは、コンスタンティヌス帝です。しかし、彼は死の直前までは洗礼受けなかったそうです。その当時は、洗礼以前の罪は知らないで犯したのだから赦される。しかし、洗礼後に犯した罪は自分で償う必要があるいう教えがありました。それで、洗礼を受けなかったのでしょう。でも、そうではありません。イエス・キリストは私の罪、そしてあなたの罪のために十字架で死なれ、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。ハレルヤ!一番の問題は、このお方をどうするかです。

 

2.赦しの中に生きる

 

 後半は、イエス・キリストの贖いを信じた人がどのように生きるべきか、ということです。私たちは毎週、日曜日、このように礼拝を捧げています。これは私たちの罪のために十字架につき、私たちが義とされるために三日目によみがえられたキリスト様をたたえるためです。私たちは神様に感謝と賛美をささげるためにここに集まっているのです。ある人たちは仕方なくて、日曜日、教会に来る人がいるかもしれません。「なぜなら、聖日礼拝厳守と言われ、礼拝を守らないと天国に行けないので、顔つなぎに来ています。」そういう人はおられるでしょうか?子どもの頃、夏休みにラジオ体操がありました。休むと先生から怒られるので、ハンコを押してもらうために行ったという記憶があります。でも、礼拝に来たらハンコを押してあげた方が出席率がアップするかもしれませんね。ローマ・カトリックは私たちの礼拝と少し異なります。礼拝ではなくミサと言います。ミサ自体は元来、「祭り」という意味ですから、問題ありません。でも、ミサの中には「キリストの犠牲が今も繰り返されている」という解釈です。つまり、今も、キリストは罪を赦すために、血を流しておられるということです。だから、ローマ・カトリックの教会には十字架に磔殺されたイエス様が飾られています。イエス様の御姿を見て、人々は罪を懺悔するのです。そして、「聖体」と言われるパンを食べて帰ります。それで、罪がきよめられて、また新しい一週間をはじめます。しかし、次の週、また罪を懺悔するために、教会堂に集まります。そして、磔殺されたイエス様から罪の赦しをいただきます。プロテスタントは犠牲の伴ったミサをあげることに反対しました。なぜなら、「キリストは一度で、すべての罪を贖った」という聖書のことばを信じているからです。罪を贖われたイエス様は、三日目に復活し、今は神さまの右の座に座られています。イエス様は今、何をなさっておられるのでしょうか?ローマ8:34「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」Ⅰヨハネ2:1後半「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」ハレルヤ!イエス様は今、父なる神さまの右におられ、「どうか私の贖いのゆえに彼、彼女の罪を赦してください」と弁護しておられるのです。ハレルヤ!

 神さまはどれくらい私たちの罪を赦しておられるのでしょうか?詩篇103:8,12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。…東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」昔の人たちは、地球が大きな平面であると考えていました。その下には、地の基を支えている台座があります。上にはドームのような天蓋があります。星があり、また天の窓があります。彼らは地上が平面なので、東と西は永遠に交わることがないと考えていました。だから、神さまは私たちの罪を東から西へと遠くへ投げてくださったのです。だからもう、神さまは私たちの罪を二度と思い出すことをしないということです。ああ、それなのに、それなのに私たちの良心が、私たちを訴えるので罪責感にさいなまれることになります。でも、良心だからと言っていつでも正しいわけではありません。ヘブル人への手紙には「良心」ということばが何度も出てきます。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ここに「邪悪な良心」とありますが、どんな良心でしょうか?それは、「罪のために曲げられ、罪のゆえに絶えず告訴する良心」のことです。神さまがみことばをもって、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださっています。しかし、あなたの良心が、「いや、いや私の罪は大きすぎて、簡単には赦すことができない」と訴えることです。ものすごく傲慢ですね。神さまがおっしゃることと、自分の良心が言うこと、どちらを信じるべきなのでしょうか?仏教の教えでは、おそらく、「あなたは、その罪責を一生、負い続けなければならない」と言うでしょう。ある人たちは、自分が犯した罪のゆえに、幸せになってはいけない」と信じています。水子地蔵というのがありますが、お母さんたちは、自分が生きている限り、供養するのではないでしょうか?

 関西の有賀先生がこのようなお話をされました。あるところに一人の姉妹がいました。初孫が生まれて、自分がおばあちゃんになりました。赤ちゃんの白くて小さな足を見て、心の中に何か違和感を覚えました。それからと言うもの、毎晩、赤ちゃんの白くて小さな足が夢の中に出るようになりました。それも、4つです。なぜ、4つの足が毎晩出てくるのだろう?そのとき、はっと思い出しました。おばあちゃんは若い頃、2人の子どもを堕胎したことがありました。もう、何十年も昔のことなので、すっかり忘れていました。しかし、昔の罪を思い出したため、4つの足が毎晩出て、苦しむようになったのです。とうとう、困ってしまって有賀先生のところを訪ねました。「姉妹、イエス様の前に罪を告白しなさい。」と言われました。そして、姉妹はそのことを悔い改めました。続いて、先生は「イエス・キリストの血潮によって、あなたの罪は赦されています。姉妹を苦しめている悪魔よ、立ち去れ。キリストの血潮によって良心がきよめられるように。アーメン」と祈りました。昔のメッセージなので、正確には覚えていませんが、先生はそのようにお祈りしたそうです。翌日、おばあちゃんから電話がありました。「先生、出なくなりました。一週間ぶりにぐっすり眠れるようになりました」。邪悪な良心は悪魔にやられて、あなたを訴えるかもしれません。大体、罪を訴えるというのは、悪魔の仕業です。キリスト様がすべての罪を赦されたのだったら、だれがあなたを訴えることができるでしょうか?ですから、私たちは自分の良心にもはっきりと教えなければなりません。「私の良心よ、絶対者なる神さまが赦されたのだから、私を赦しなさい。アーメン。」そうすると、きれいさっぱり、きよめられます。大切なのはキリストの血潮です。キリストの血によって私たちの罪がきよめられたのです。また、同時に、キリストの血が私たちの邪悪な良心をきよめてくださるのです。ですから、私たちは良心の咎めが去って、心おきなく恵みの座に近づくことができるのです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ちゃぽんと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ざぶんと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」

 私たちは日々、キリストの赦しの中を歩む必要があります。では、どうしたら罪の赦しの中を歩むことができるのでしょうか?イエス様はご自分が十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださいました。でも、私たちは罪に満ちた地上で生活していますと、罪を犯してしまいます。わざとではありませんが、弱さや過失ということがあります。Ⅰヨハネ1:9はクリスチャンに対するみことばです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。それでも、また罪を犯して、だれかがあなたを訴えたらどうするでしょうか?Ⅰヨハネ2:1「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」そうです。悪魔が私たちを訴えたとしても大丈夫です。なぜなら、私たちには御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。すでにイエス様はなだめの供え物となって、前もって代価を払っておられるからです。天国の銀行には、赦しのための多大な預金があるので、一生涯大丈夫です。もしも、昔の罪やトラウマが浮かんだときは、神さまを礼拝する時とすれば良いのです。私たちはイエス様の血によって、大胆に神さまのところに近づくことができます。「イエス様、あなたの血潮で心を聖めてください。主よ、あの罪も、この罪も赦してくださりありがとうございます。主よ、あなたを礼拝します。ハレルヤ!」どんなときでもイエス様を礼拝し、みことばとイエス様に留まり、罪の赦しの中を歩み続けましょう。