2012.12.16「メシヤのミニストリー イザヤ61:1-3」

クリスマス、つまりイエス様が、最初に来られた時の目的は何だったのでしょうか?イエス様は5つのミニストリー(働き)をするために地上に来られました。そのことが、メシヤの預言としてイザヤ61章に記されています。しかし、同じみことばがルカ4章にもあります。イエス様ご自身が、宣教を開始されたとき、このイザヤ書を引用して、「きょう実現した」と宣言されました。まず、イエス様は5つの働きを行なうことができるように、聖霊によって油注ぎを受ける必要がありました。メシヤ自体が、油注がれた者という意味です。メシヤはギリシャ語では、キリストです。イエス・キリストは、神さまの奉仕をするために、聖霊の油注ぎを受けたのです。それでは、イエス様のミニストリーを1つずつ学びたいと思います。

 

1.福音宣教

 

イザヤ書61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」とあります。イエス様のミニストリーの第一は福音を宣べ伝えることであります。でもここに「貧しい人に」と書いてあります。どうして、貧しい人なのでしょうか?マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」とあります。他には、「悲しむ者、義に飢え渇いている者、迫害を受けている者たちが幸いである」と言われています。なぜでしょう?そういう人だけが、福音を受け入れるからです。反対に「富む者、笑っている者、みなの人がほめるときは哀れである」と言われています。既に他もので満たされていて、福音を受け入れる余地がないからです。イエス様は貧しい者に福音を伝えたのであります。その点、教会はどうでしょうか?「教育のある人、地位の高い人、金銭的に豊かな人が教会に来たら良い」と思うでしょう。「本当の罪人、精神的に病んでいる人、何かの中毒の人は来られたら困るなー」と思っているのではないでしょうか?イエス様は「私は正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはとっても深いおことばです。クリスチャンを長年やっていますと、いつしか、「自分に価値があったから、救われたんだ」と思ってしまいます。もちろん、神さまから造られたのですから、価値があったでしょう。でも、罪の中に失われていて、自分ではどうすることもできませんでした。「いや、私はそんな罪は犯したことがありませんよ」いう人があるかもしれません。でも、心の中で人を妬んだり、憎んだり、見下げたりしなかったでしょうか?泥棒や殺人も罪ですが、醜い心も罪ではないかと思います。当時、最も正しいと思われていた律法学者やパリサイ人、祭司長たちが福音を受け入れませんでした。「自分は正しいので、救い主はいらない」とメシヤを拒絶しました。

 イエス様は弟子たちに「福音を宣べ伝えなさい」と命じました。教会は何のために存在しているのでしょうか?それは、イエス様の命令を行なうためです。当教会にはいろんなセル、小グループがあります。ゴスペル、フラワーアレンジメント、ゴスペルフラ、お菓子部というのもあります。賜物を用いて、何をやっても構いません。でも、「最終的なゴールは伝道ですから」とお願いしています。もし、教会が伝道を忘れてしまうと、次第に内向きになり、数も減り、やがては消滅してしまうでしょう。イギリスとかドイツの教会は余り伝道をしません。多くは国教会であり、人々は生まれた時から教会に属しています。宗教税があり、牧師や司教は公務員です。しかし、日本の場合はそうではありません。「信仰のある人が教会に行く」という、自由教会になっています。逆に、仏教や神道が国の宗教のようになって、キリスト教は外国の宗教と思われています。ですから、日本は当たり前でない、キリストの福音を伝えなければなりません。セールスで言うなら、「家は仏教ですから、結構です」と断られるところから始まります。腕の良いセールスマンは、「まず断られるところからセールスが始まる」と言います。その点、なんと私たちは打たれ弱いでしょうか?一度、断られると、深く傷ついて、もう伝えることをやめてしまいます。どうぞ、自分のときのことを思い出してください。一回で信じたでしょうか?何回も断って、悪態をついたりしてから、信じたのではないでしょうか?そして、「今のままじゃダメだなー」と貧しくなった時に信じたと思います。福音宣教は、イエス様がこの地上で、第一になさったことです。また、イエス様の私たちに対する最大の命令、ミニストリーでもあります。どうぞ、天に召される日まで、福音を宣べ伝えていきましょう。

 

2.心の癒し

 

 イザヤ61:1の半ばに、「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」とあります。ルカ福音書4章は、「しいたげられている人々を自由にし」とあり、同じことを言っているのではないかと思います。心理学の父はユダヤ人のフロイトと言われています。しかし、彼はクリスチャンではありませんでした。彼はスーパー・エゴという、欲望に動かされる自我というものを強調しました。少し前までは、精神分析が主流でしたが、最近は認知行動療法になりました。また、アメリカでは脳の化学物質が問題で起こるという見地から、様々な薬が処方されるようになりました。昔は「それはノイローゼ(神経症)だよ」と言われましたが、そういう言葉はもうないそうです。その代わり、「○○性パーソナリティ障害」という病名が10種類くらい出てきました。境界性というのは「正常と精神病の間くらい」という意味だそうです。現代は、学校や職場に行けない人がたくさん出ています。勉強や仕事は嫌いではありません。むしろ、良くできる方です。しかし、人との関わりが苦手なのです。戦前、戦後は、生きるために必死でした。心が傷ついたとか、虐待されたなどと言っている暇がありませんでした。親も学校の先生も子どもをよく叩きました。では、精神的に病気の人や傷害の人がいなかったかというとそうではありません。ほったらかしにされるか、あるいは家で隔離されるかどちらかでした。私が小学生の頃ですが、朝礼でみんなが座っているのに、一人の男の子が、ポールを昇ったり降りたりしていました。今でいうADHDだったと思います。私は今なら、学習障害といわれるくらい、落ち着きがなかったようです。先生から一番、叱られました。でも、その原因は人から認められたかったからです。8人兄弟の7番目で、いつもミソにされていました。だから、「自分はここにいるぞ」と過剰にアピールしたのだと思います。

 これまでのキリスト教会は「心の癒し」をほとんどしてきませんでした。「罪があるからそうなるんだ。罪を悔い改めたら癒される」とやってきました。私もホーリネスの神学校に行きましたが、「自我に死んで、キリストに生きれば、新しくなる」と教えられました。キリスト教会は加害者の部分を扱いますが、被害者の部分はあまり扱いません。そのため、救われた後も、怒りが爆発して、人を傷つけしまうのです。なぜなら、被害者の部分が贖われていなかったからです。「この恨み晴らさずにおくべきか!」ということです。だから、似たような人、似たような状況に置かれたときに、「どっかん」と爆破するのです。では、聖書に「心の癒し」が言われていないのでしょうか?箴言4:23 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。箴言14:30「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」聖書は、心と体が密接につながっていることを教えています。心が癒されるなら、体も、生活も変わってくるということです。では、イエス様はカウンセリングをしたことがあるのでしょうか?カウンセリングとは書いていませんが、イエス様は個人的に話されたことはよくあります。ヨハネ3章にありますが、ココデモが夜こっそりとイエス様を訪ねて来ました。イエス様は「あなたは新しく生まれる必要がある」と言われました。ヨハネ4章で、イエス様は水を汲みに来たサマリヤの女性と出会いました。5人と結婚し、現在は6人目と同棲している、したたかな女性でした。イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われました。彼女は「私のしたことを何もかも、言い当てた人がいます」(口語訳)とサマリヤに伝道に行きました。ヨハネ5章には、38年間も病に臥せっている人が記されています。泉が動くのをじっとまっているだけでした。イエス様は彼に「良くなりたいのか」と言われました。彼はブツブツ言い訳をしましたが、床を取り上げて歩きました。イエス様は個人的に出会って、問題を解決して下さいました。いわゆる心理学者と違いますが、人々の心を癒してあげました。

 心理学の手法や化学療法の手助けを得ても構いません。しかし、イエス・キリストご自身がその人の心を癒し、新しい心を与えてくださるのです。私たちはイエス様と当人が出会えるようにお手伝いすることができます。「私がその人の心を癒す」となると、負いきれない重荷を負って、こっちらが潰れるかもしれません。本人が「治りたい」「変わりたい」という気持ちがあるなら、手助けすることは可能です。選択・決断は、あくまでも本人だということを忘れてはいけません。今日もニーズがたくさんあります。私は、セルフイメージの傷、親子関係の傷、苦い根の期待、怒り、恐れ…心の傷の問屋みたいでした。ですから、心の傷の癒しには大変、重荷があります。私たち今も生きているイエス様と一緒に、いのちのみことばを用いながら、心の癒しのミニストリーをすべきであろうと思います。

 

3.悪霊からの解放

 

 さらに「捕らわれ人には解放を」とあります。何故、悪霊に縛られる人がいるのでしょうか?イエス様は、地上に来られたとき、人々から悪霊を追い出しました。日本では悪霊(あくりょう)と言いますが、正しくは悪霊(あくれい)です。東洋の国々は精霊崇拝をし、霊的な存在を信じています。日本人も山や大木を拝んだり、死んだ人や動物さえも拝んでいます。あっちの方角や良いとか、こっちの方角が悪いとか言っています。パワースポットみたいな所に好んで行きます。頭では科学を信じていますが、心はアニミズムです。それに比べ、西洋周りで来たキリスト教は霊的な存在を信じません。「キリストが十字架で勝利したので、悪魔は敗北してしまった。だから、もう意識しなくて良い」とか言っています。でも、使徒の働きを見ますと、パウロは悪霊と戦っています。また、エペソ6章では、こう命じています。「最後に言います。…悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」私たちの周りには、目に見えない霊的な敵がいるということです。ここで重要なことは、バランスです。何でも悪霊のせいにしてはいけません。悪霊とは関係なく病気になったり、事故に合うこともあります。多くの場合は、自分の不注意や不摂生が原因しています。しかし、故意に占い師や拝み屋に通うならば、悪霊に対して、ドアを開くことになります。それは、悪魔と契約を結ぶことになるので、注意しなければなりません。

 では、イエス様は悪霊にどのように立ち向かわれたでしょうか?あるとき、イエス様が口をきけなくする霊を追い出しておられました。悪霊が出て行くと、人々は「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と批判しました。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたなら荒れすたれる」と言われました。イエス様はこのところで、はっきりとサタンには国があると言っています。サタンもしくは悪魔は、その国の支配者です。しかし、神さまのように偏在できないので、ピラミッド型の組織によって、この世を支配しています。さらに、イエス様はこう言われました。ルカ11:21-22「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」「強い人」とは、だれでしょう?サタンです。では、もっと強い者とはだれでしょう?イエス・キリストご自身です。イエス・キリストがサタンに打ち勝ち、彼の武具を奪い、分捕り品を分けるのです。分捕り品とは、サタンに捕らわれていた私たち人間です。イエス様が十字架で罪の代価を支払ったので、サタンは私たちを訴えることができません。武装が解除されてはいますが、悪霊が勝手に動いている状態です。ルカ11:24-26「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」ここで言われている家とは、私たち人間の体のことです。悪霊は肉体がないので住むべき家を探しています。たとえば、私たちが不動産に行って家を借りる場合、どのような家を借りるでしょう?おそらく自分の好みやライフ・スタイルに合った家を探すでしょう。汚れた霊も住むべき家を捜して、あちこち歩き回っています。「あ、この家が良い。私の好みにピッタリだ」と家を発見して、そこに入ります。どういう意味でしょう?汚れた霊は、汚れたことをしている人に入るのです。その人が悪霊に入られたので汚れたことをするのではありません。汚れたことをしていたので、汚れた霊が入って、ますますその人は汚れたことを行うのです。私たちは罪や誘惑から離れて、きよい生活をする必要があります。そして自分の家にイエス・キリストを主人としてお迎えし、住んでいただく必要があります。

 

4.病の癒しと奇跡

 

 イザヤ書には「囚人には釈放を告げ」とありますが、ルカ福音書は「盲人には目の開かれることを告げるために」と書いてあります。牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネが、イエス様のところに弟子を遣わしました。そして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」と聞かせました。ちょうど、イエス様は多くの人々の病気を癒し、悪霊を追い出していました。そして、ヨハネの弟子にこう答えました。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:22-23)これはどういう意味でしょう?バプテスマのヨハネは「メシヤというものはローマを倒し、イスラエル王国を建てる方だ。しかし、世の中の不正は改革されず、悪者どもがのさばっているではないか。どうして、神のさばきが来ないのか!」と半分、躓いていたのです。しかし、最初に地上に来られたときのメシヤは違います。さばきのためではなく、人々が神の国に入るために、平和の君としてやって来られたのです。「神の国には病気もなく、死もない。身体の不自由な人も完全に回復される」ということを証明しに来られたのです。だから、病の癒しと奇跡は、イエス様にとっては、ご自分がメシヤであることの証拠でした。本物のメシヤだったら、病気を癒し、奇跡を行うのが当然のことだったのです。問題は、「今日の教会でも病の癒しや奇跡を行うべきか」ということでしょう。そのことが、第五番目と関係があります。第五番目のミニストリーこそが、そのことを証明しているからです。

 

5.恵みの年の宣言

 

イザヤ61:2主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」「主の恵みの年」とはどういう意味でしょうか?「恵みの年」とは、旧約聖書で言う「ヨベルの年」であります。ヨベルの年とは何でしょう?イスラエルの律法では、7年ごとに土地を休ませる安息年が定められています。その安息年が7度巡った翌年の50年目の年がヨベルの年です。ヨベルとは「雄牛の角」という意味で、この年の7月10日に角笛を鳴り響かせるところからこの名がつけられたと思われます。ヨベルの年にはすばらしいことが起こります。売却されていた土地が無償で売主のもとに返されました。また、貧困のため身売りした者、つまり奴隷が解放されました。ヨベルの年とは、「回復と解放」ということです。イエス様はルカ4章でイザヤ61章を引用しながら「きょう、実現しました」と言われました。これは「罪に捕らわれていた罪人が、イエス・キリストによって回復と解放がやって来た」ということです。では、私たちが主の恵みの年、ヨベルの年を告げ知らせるとはどういう意味でしょう。これまで、4つのことが言われていました。福音宣教、心の癒し、悪霊からの解放、病の癒しと奇跡、これで十分なのではないでしょうか?5つ目の「恵みの年を告げ知らせる」とは何なのでしょうか?私が敬愛しています、インドネシアのエディレオ先生は、「神の国について語ることである」と言われました。アーメンです。

使徒パウロが最後まで行ったことは何でしょう?使徒28:30-31「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」では、福音宣教だけでは不十分なのでしょうか?不十分です。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。神の国は私たちが行くべきところ、いわばゴールであります。私たちは罪赦され永遠の命が与えられ、肉体が癒されて、心が癒されたとしても、行くべき場所が必要です。ヨベルの年、恵みの年においては、完全に回復され、完全に解放されるということです。それはやはり、御国においてであります。御国に行ったならば救いが完成するのです。イエス様は主の祈りで「御国が来るように」祈れと命じられました。やがてこの世が終わり、御国が来ます。神の国、御国こそが、私たちのゴールです。しかし、これは将来だけではなく、「この地に、今の私の生活にも御国が来ますように」という意味です。ハレルヤ!私たちはどこにいて、どこに向かっているのでしょうか?御国、天のエルサレムです。イエス様が2000年まえ、何のために、この地上にやって来られたのでしょうか?私たちが罪赦され、神の子となり、永遠の御国を受け継ぐためであります。確かに、今は恵みの時、救いの日です。どうか、救い主イエス・キリストを受け入れ、御国を受け継ぐ者となりますように。