2012.12.23「メシヤの苦しみ イザヤ53:1-6」

この世において、クリスマスとはどういうものでしょうか?光り輝くイルミネーション、素敵なプレゼント、豪華なパーティ、そしてサンタクロースでしょうか?しかし、それらはすべて商業目的で作られたクリスマスのイメージです。ロマンチックなムードにひたりためにカップルが年に一度、教会を訪れるでしょう。そういうことから、クリスマスを華やかに祝わない宣教師たちもいます。その代わり、家族で主のご降誕を静かに祝うのです。きょうは、福音書からではなく預言書から、クリスマスについてメッセージしたいと思います。イザヤ書53章は、メシヤがこの地上に何のために来られたのか、その使命と目的が記されています。私たちが救いを得るために、多大な犠牲と苦しみがあったことを忘れてはいけません。

1.メシヤの外見

 この世においては外見がすべてであります。テレビのCMやニュースキャスターは、男女共ども外見の良い人たちでしょう。女性は、お化粧や髪形に気を配ります。その次には、ボデイのシェイプアップです。「カーブス」という女性専用のフィットネスがあります。ちなみに、カーブスは曲線美という意味から来ています。いつか、そういう姿になりたいと汗をかくのです。その次には、何を着るか、何を身につけるかであります。流行を取り入れながらも、自分の個性をかもしだそうとするでしょう。そういうファッション雑誌がたくさんあります。男性はどうでしょうか?少しでも若く、見せたいですね。それから、何を持っているかであります。学歴や職業というスティタス、そして乗っている車です。アウディに乗ったら格好良いでしょうか。お家は一戸建ての注文住宅、野菜が作れる庭があったらもっと良いですね。休みの日は、クルージングで無人島に行くとか。今のは、みんな空想です。
 それに比べ、地上に来られたメシヤの外見はどうでしょうか?イザヤ書53:1-2「 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」「若枝」は、弱くてすぐにでも折れそうです。「砂漠の地から出る根」は、どうでしょうか?根自体が醜いし、その地が砂漠だったらヒョロヒョロしているでしょう。メシヤは外見から言うと全く話になりません。テレビのCMやニュースキャスターには出られません。イエス・キリストを象徴するものとして、旧約聖書には幕屋があります。神さまとお会いするための天幕、テントであります。幕屋の外側は何でできているのでしょうか?じゅごんの皮であります。じゅごんは、いるかやあざらしに似ている、海に住む哺乳類です。灰色で黒味がかっていてきれいではありません。その下は、赤くなめした雄羊の皮です。しかし、一番内側は、青色や紫糸、緋糸の撚り糸で作られたケルビムが刺繍されています。外側は見栄えのしないじゅごんの皮ですが、内側はとても豪華です。幕屋は、イエス・キリストの外見と人格を象徴しています。
 イエス様はどこで生まれたのでしょうか?ベツレヘムの馬小屋であります。しかも、寝かされたのは、飼い葉桶です。一般に、王様の子どもが生まれるところは、宮殿でしょう。東の博士たちが、宮殿を訪ねましたのも無理はありません。大事なお子さんですから、お医者さんや召使たちが看護するでしょう。それに比べ、馬小屋は不衛生で、何の設備もありません。一体だれが、出産を手伝ったのでしょうか?産湯はあったのでしょうか?しかも、メシヤが育ったところは、ナザレの田舎です。ナザレは昔、アッシリアに滅ぼされ、捕囚にあったところです。ナタナエルは当時の言い伝えを引用し、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と吐き捨てました。イエス様の仕事は肉体労働でした。メシヤだったら、エルサレムで律法を学び、宗教的な儀式を会得するのが本筋でしょう。しかし、イエス様は元大工であり、従えていた弟子たちはガリラヤの漁師たちでした。エルサレムにいた律法学者や祭司たちは、「何の権威があって教えるのか?」と反抗しました。サムエルがイスラエルの次の王様を任命するためにエッサイの家を訪れました。サムエルの前に7人の息子たちが集められました。サムエルは、長男のエリアブを見て、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、主はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべだけを見るが、主は心を見る」と、仰せられました。最後に、野原で羊の番をしていたダビデが呼ばれました。主は「さあ、この者に油を注げ。これがそれだ」と仰せられました。人を外見で判断してはいけないということです。来るべきメシヤも、人が見とれるような姿もなく、輝きもなく、人が慕うような見栄えもありませんでした。これは、1つの罠です。救いは、畑に隠された宝を見出すようなものです。

2.メシヤの扱われ方

 メシヤは人々からどのように扱われたのでしょうか?羨望の的になって、あがめられたのでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」これを読むと、何かの間違いではないかと思ってしまいます。だって、イエス様は神さまの独り子です。預言者たちのような、神さまの使いではありません。キリストは、神さまのあり方を捨てて、仕える姿をとり、人間と同じようになられました。低くなって来られたメシヤを、人々は見下げ、拒絶しました。イザヤ書に何と書いてあるでしょうか?「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。日本では学校や会社でいじめがあります。いじめは日本独特のものかと言うと、そうではないようです。2000前、イエス様がこの地上に来られたとき、いじめがありました。「さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけるほどさげすまれ…」とあります。「自分はいじめられた、虐待された」と言う人がいますが、イエス様はそれ以上でした。だって、人間を造られた神様が、人間からひどい目に合わされたのです。しかも、イエス様は人類をなんとか救おうと天から降りて来てくださったのです。イエス様は、メシヤ、救世主です。本来なら、尊ばれて当然のお方ではないでしょうか?福音書を見ますと、イエス様も多くの人から慕われ、尊ばれている時もありました。一番の頂点は、5000人の給食の奇跡を行ったときです。ヨハネ6:14-15「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」その後、イエス様は「私は天から下ってきたパンです。このパンを食べる者は永遠に生きます」と言われました。するとどうなったでしょう?「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と、弟子たちの多くの者が離れ去っていきました。さらに、当時の宗教家たちは「なんとかイエス様を捕らえて殺そう」と機会を狙いました。
 人々は経済的な問題を解決してくれるメシヤを期待していました。また、ローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを期待していました。さらに、神の超自然的な力をもって支配してくださるカリスマ的なメシヤを期待していました。まるで、どこかの国の選挙みたいです。「経済が良くなれば、生活も良くなる」と言われますが、本当でしょうか?「生活が第一」というもの欺瞞があるように思います。大体、「民主主義」という構造自体が問題ではないでしょうか?本来、世界を治めるお方は、創造主なる神さまでなければなりません。私たち人間は、神さまと和解し、神さまが願う政治や暮らしを求めるべきであります。その当時も、今も、世界を救ってくださるメシヤ観はあまり変わっていないように思います。イエス様が、本当の解決について話したら、多くの人たちが去って行きました。そして、最後には、「除け、除け。十字架につけろ!」と叫んだのであります。イエス様は、人々から捨てられ、宗教的な指導者たちから拒絶され、ローマの兵士たちによって殺されました。でも、すぐ、十字架で殺されたのではありません。平手でたたかれ、頭をこずかれ、つばきをかけられ、ひげを抜かれ、さんざん嘲弄ろうされ、鞭打たれた後、こずきまわされた後に十字架につけられたのです。
 ある教会で「イエス・キリストのご生涯」の劇をやったそうです。青年会で最も目立っていた人がイエス様の役に抜擢されました。もう一人の青年がイエス様を十字架につけるローマ兵として選ばれました。しかし、その青年はイエス様役の兄弟を「生意気な奴だ」と普段から憎んでいました。いよいよ、十字架のシーンになりました。ローマ兵がイエス様を平手でたたきました。彼は「うっ」とこらえました。台本にあるので仕方がありません。でも、ちょっと強いような気がしました。そして、彼は十字架に付けられました。その後、ローマ兵がイエス様を罵倒し、顔につばきをかけました。ところが、イエス様役の青年は、「つばきをかけるとは何だ」と真っ赤になって怒りました。そして、ローマ兵役の青年に「ぺっ」とつばきを吐き返しました。ローマ兵も負けじ、とばかり、「ぺっ」とつばきをかけました。イエス様役の青年は、「くそっ」と、再びつばきをかけました。会衆は「イエス様がつばきをかけるなんて聖書にあったかな?」と唖然として見ていました。イエス様役の青年は、十字架に付けられているので手も足も出ません。彼は何と言ったでしょうか?「父よ。私は彼を絶対、赦すことはできません」と叫んだそうです。みなさん、これが現実です。「やられたら、悔しいのでやり返す」これが人間です。ましてや、神の子が、ご自分の民を救うために下って来られたのに、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられるとは、なんという仕打ちでしょうか?悔しくはないのでしょうか?聖書のイエス様は、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。ご自分を殺すローマ兵やユダヤ人だけではなく、私たち全人類のためにとしなしてくださったのです。

3.メシヤのなさったこと

 しかし、メシヤであるイエス・キリストには目的がありました。たとえ、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられても、なすべきことがあったのです。それは何でしょうか?イザヤ53:4 -5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」このところに、イエス様が、地上に来られたメシヤとして、私たちのためにしてくださったことが記されています。第一は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったということです。ヘブル語の聖書には、「弱さと不幸」を負ったと書いています。何故、弱さと不幸が私たちにやって来たのでしょうか?仏教の人たちは、「先祖から来た因果だ」と言います。でも、もっともっと遡ると、その先祖とはだれなのでしょうか?そうです。アダムです。アダムが神さまに背いたために、弱さや病気がやってきたのです。本来、神さまは人間に豊かな命と幸いと喜びを与えたかったのですが、それがなくなってしまったのです。イエス様はそれらを私たちに取り返すために、来られたのです。人となられたイエス様は「深い悲しみと不幸と痛み」を体験されました。だから、今も、私たちを救ってくださいます。第二は、私たちの罪を負ってくださいました。私たちの罪を負われたので、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。また、そむきの罪のために刺し通されたとも書いてあります。そむき罪とは何でしょう?それは、逸脱する、限度を越えること。あるいは、法を破るということです。私たちは神さまが定めた範囲内で生きていれば良いのに、それを越えてしまうことが良くあります。たとえば、車で50キロのところを、70キロで走ってしまうことがあります。また、道徳の問題でも、一線を越えるということがあります。「ハンプティ・ダンプティ」というたまごの物語があります。彼は塀の向こう側が見たくなって、塀によじ登りました。そして、塀から落ちて割れてしまいました。もうだれも彼を治すことができません。「覆水盆に返らず」です。しかし、福音的な物語では、高貴なお方が通りかかって、癒してあげました。イエス様は私たちの罪と背きの罪を赦すために、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。イエス様は人からだけではなく、神さまからも捨てられたのです。
 さらにイエス様は私たちの咎のために砕かれました。「咎」とは何でしょう?咎とは、「何かを曲げる、何かをゆがめる」という意味があります。たとえば、私の先祖が怒って、親からもらえるはずの財産を放棄したとします。すると、その咎が私にも及んで、本来、受けられるべき財産を放棄してしまうということです。せっかく、もらえるはずの恩恵を、意地を張って「そんなの、いらないよ」と言ってしまう。あるいは自分が主張できる権利を放棄してしまう。そういうことはないでしょうか?フィジーという南国の島があります。いつしか、その島には魚も来なくなり、果実も実らなくなりました。水も苦くなり人々は病気がちになりました。「なぜだろう?何か呪いがあるのでは」と思いました。昔の歴史を調べると、フィジーにはいくつかの部族がいましたが、部族同士で争い、多くの人が死にました。流された血によって土地が呪われてしまったのです。部族の子孫がみんな集まり、悔い改め、キリストにあって一致しました。するとどうでしょう?たくさんの魚が集まり、果実も4倍もの大きさになりました。また、水も良くなり、人々は健康になりました。キリスト教ではそれを変革、トランスフォーメーションと言います。先祖たちの咎、曲げてしまった罪を悔い改めたときに、本来の祝福がやって来たということです。私たちにも家系を伝わる罪があります。離婚、破産、性的罪、癌、摂食障害、中毒や依存症…多くのものは、家系からくる咎が原因していると言われています。私たちはそういうものがあることに気付いたら、自らが代表として先祖のために悔い改めるべきです。そうすることによって、後ろのドアが閉められ、呪いがやってこなくなります。ガラテヤ書3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
 結果的に、メシヤは私たちに何をもたらしてくださったのでしょうか?「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。ここに書かれている動詞はすべて過去形であります。メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。また、メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。私たちの罪の問題、病、咎、呪いがすべて解決されているということです。いつですか?2000年前、イエス・キリストがこの地に来られ、十字架ですべてのものを負ってくださったということです。キリストによって、罪の代価が支払われ、病が癒され、呪いから解放されました。では、私たちに何が足りないのでしょう?信仰によってそれらを受け取るということです。ある人たちは、知らなかったという無知のために、受け取ることができません。また、ある人たちは、頭では知っていたけど、実際に受け取らなかったかもしれません。また、ある人たちは、「私には受ける資格がありません」「私にはいりません」と拒否しているかもしれません。信仰とは見えない手です。神さまが「あなたに罪の赦しをあげますよ。病の癒しをあげますよ。あるいは呪いからの解放をあげますよ。」と言われたとします。そのとき、信仰の手を出して掴む必要があります。聖書を読んでいるとき、あるいは神さまと交わっているとき、あるいは道をあるいているとき、神さまがあなたに語られます。「あなたの病は癒されました」「呪いが砕かれ、平安がもたらされました」。「アーメン、そうですか。信じます。受け取ります。」それで良いのです。たまには思い込みだったりすることもあります。私もそういうことが、何べんもあります。でも、諦めないでください。あるときは、本当に神さまの約束のときがあるのです。私は13年苦しんでいた皮膚病が癒されました。1999年から2012年までの13年間です。何をやってもダメでした。もちろん、医者や薬の助けも借りました。でも、過剰な免疫がなくなり、体質が変わったのです。私に残されているのは、亀有教会が100名を越えて、350名礼拝になることです。「まだ、100名も越えたことがないのに、350名ですか?」同じ神さまの奇跡だったら、1万名でも良いのですが、かなり謙遜しています。みなさん、潮が満ちてきたらそうなります。

あるオフィスの部屋に一枚の絵が掲げられていました。ボートが砂浜の上にあり、オールが砂に突き刺さっている絵です。普通、ボートというものは、海に浮いているものです。ところが、そのボートは砂に埋もれたままです。見ている方が憂鬱になります。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵画のタイトルのような文章がありました。何と書かれていたのかと言うと「潮の流れは、必ず戻ってくる」でした。絵の持ち主の重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通りました。そのとき、彼は小さな画廊でこの絵画に出会い、たった数ドルで手に入れました。彼はこの絵をのぞき込むたびに、自分に言い聞かせたのです。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」と。メシヤであるイエス・キリストは2000年前、十字架と復活によってすべてを成し遂げてくださいました。あなたの人生に必ず潮が満ちてくる人生がやってきます。流れは良い方向に変わります。