2013.1.1「救いの完結 イザヤ66:18-24」

昨年度は、ペテロ第一と第二の手紙から、終りの時代について学びました。終わりの時代とは、主が再び来られて、御国を完成してくださるということです。このことは、旧約聖書のいたるところにも預言されています。きょうは、イザヤ書の一番最後から、「救いの完成」というテーマでご一緒に学びたいと思います。昨年末は、マヤ歴から「2012年でこの世は終わるかもしれない」という噂が飛び交いました。中国では宗教団体が騒動を巻き起こし、政府も鎮圧のために動いたということです。「世の終わり」ということを話すと、「ああ、またか」と人々は笑い飛ばすかもしれません。まるで、「オオカミ少年」のようであります。私たちは聖書から、世の終わりは単なる人類の滅亡ではなく、御国の完成、つまり救いの完結であると捉えるべきであります。イザヤ書によると、救いの完成に至るために、3つの出来事があることがわかります。

1.人々を集める

 イザヤ66:18-19「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」終わりの日、つまり御国が完成する時、主は「すべての国々と種族とを集めに来る」と言うことです。原文では、「すべての国民と舌」と書いてあります。舌は、いろいろな言語を話す種族であります。ウィクリフ聖書翻訳協会では、2,075の聖書翻訳を目指しています。タルシシュは地中海北部の国々であろうと思います。プロとルデは北アフリカの国々です。トバルとヤワンは小アジアの国々です。さらに、「遠い島々」とあります。遠い島々にかかる形容詞は、何となっているでしょう?「これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない」となっています。ですから、地中海沿岸の国々よりもはるかに遠い島々です。インドネシヤとかフィリピン、そして日本です。日本は古くからジパングと呼ばれてきました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、「ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。」とあります。日本は、西洋から見たら、あこがれの国であったわけです。なぜ、人肉か分かりませんが、台湾の原住民であったらその可能性はあります。しかし、主のうわさを聞いたこともない遠い島々からも救われる人たちが集められるとは、すばらしいことです。でも、周りの国々と比べると、かなり少ないような感じがします。

 イエスさまはヨハネ14章で何と約束されたでしょうか?ヨハネ14:3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」準備ができ次第、戻って来られるということです。しかし、「だれでも」というわけではありません。19節に「わたしは彼らの中にしるしを置く」と書いてあります。「しるし」とは何でしょう?イエスさまを信じて、救われている人に何かの「しるし」があるのでしょうか?エペソ1章にそのようなことが書いてあります。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。聖霊自体が証印なのか、それとも聖霊が「この人はキリストのものである」と何らかのしるしをつけるということでしょうか?このしるしは普通の人には見えません。かなり前に、稲毛浜海浜プールにCSの子どもたちを連れて行ったことがあります。普通はプールで泳ぐのですが、近くの砂浜にも行きたい人がいます。すると出入口のゲートに係り員が立って、手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬、ひやっとしますが、何も見えません。もう一度、砂浜から帰って、プールに入る時、そのゲートを通過しなければなりません。係り員が大きな虫メガネみたいなものを手にかざします。すると、見えなかったはずの、「しるし」が浮き上がってきます。おそらく、蛍光塗料の一種なのかもしれません。通常では見えませんが、ある機材を通すと見えるのです。この世においては、クリスチャンなのかどうかは外見では分かりません。世の終わり、御使いがやってきて、聖霊によって証印を押されている人たちを見つけ出します。そのとき、麦と毒麦、羊と山羊を分けるように、分けられるのです。

 私たちは世の終わりの終わりに生きています。競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。きょうは初日の出を見に多くの人たちが、海や山に行っているでしょう。夜明けになると、東の空が、赤みがかってきます。そして、明けの明星が輝いています。そのようなみことばが聖書にあります。Ⅱペテロ2:19「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」私たちは一年、一年、御国の完成の時に近づいています。御使いたちが、人々を集めるために、いつ来るのかわかりません。しかし、確かに言えることは、また一年、その日に近づいたということです。さらに、ゴールに近づいたということです。だから、いつ来ても良いように、準備をしていたいと思います。罪の中に埋没していると、御使いが取り残してしまうかもしれません。聖霊によって押された証印を、消すことのないように保っていきたいと思います。

 

2.礼拝に来る

 イザヤ66:23「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る、と主は仰せられる。」このみことばは、御国が完成した時の様子です。つまり、礼拝は新しい天と新しい地においても行われる、永遠のものであるということです。私たちはこの地上で、礼拝をしています。きょうは元旦礼拝です。この間、12月30日も礼拝をしました。たった2日前です。その前は、24日のイブ礼拝、23日のクリスマス礼拝をささげました。何が面白くて、クリスチャンは礼拝をささげるのでしょうか?元旦早々、教会に来るとは、なんてまじめなんでしょう?世の多くの人たちは、元旦には初詣に出かけます。ある人たちは夜明け前から、遠くの神社に出かけるかもしれません。でも、彼らは私たちのように、毎週は行かないでしょう。困った時や何か特別な行事がある時ぐらいでしょう。その点、クリスチャンはまじめです。もしろん、たまにしか来ない人もいますが…。でも、どうして礼拝をささげなければならないのでしょうか?「ささげなければならない」となると、義務的になりますが、そうではありません。礼拝をささげるというのは、特権であり、喜びなのです。なぜなら、私たちは神さまから造られ、そして神さまから贖われた存在だからです。神さまから、大きな借りがあるんです。「借り」というのも変ですが、多くのものを神さまから与えられています。この命も、家も財産も、家族も、さまざまな能力も、です。中には、「そのわりにはひどかった」という人もいないわけではありません。生まれた時から病気がちだったり、両親が離婚したり、いたのに虐待されたり、いろいろあったかもしれません。また、学校や職場では、どちらかと言うと「負け組」に入っていたかもしれません。でも、みなさん私たちが神さまから救われたということは、すべてのことが益になるのです。今まで、無目的で生きてきたのに、1つ1つに意味が与えられます。あのことがあったから、イエスさまに出会えたのかもしれません。幸せな家庭で生まれ、なんでもうまくいっていたなら、福音には目もくれなかったでしょう。人生がひどければひどいほど、救われた喜びが大きいのではないでしょうか?

 礼拝とは神さまから何かをもらう行為ではなく、ささげるものです。なぜなら、もう既に多くのものを受けているからです。目に見えないものから、目に見えるものまで、多くのものを得ています。だから、私たちは神さまに礼拝をささげるのです。聖書が書かれた時代の文脈からですが、人々がいろんなものを主の宮に携えてくることがわかります。イザヤ66:20「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」当時は、今のように車や貨車がなかったので、馬や騾馬、らくだの上に乗せて運びました。ソロモンの時代は、金や銀、宝石、さまざまな特産物でした。しかし、この箇所を良く見ると、そういうことを書いているのではありません。なんと、「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである」と書かれています。つまり、「ささげ物」はたとえであり、本当のものは別だということです。では、本当の贈り物とは何なのでしょうか?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて」書いてあります。乗せるのは物ではなく、救われた人たちであるということです。すべての国々から人々が集められます。その人たちを今度は、聖なる山、エルサレムに運んでくるということです。つまり、主への贈り物とは、金や銀ではなく、救われた人々だということです。神さまはすべてのものを持っておられる豊かなる神さまです。でも、欲しいものがあります。それは魂です。死んだ動物ではなく、生きている人々です。

 パウロはローマ12章でこのように教えています。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」このみことばからも分かるように、私たちこそが、もっとも価値ある贈り物なのです。私たちが救われたからだを、このように神さまのところに運んでくる、これが礼拝なのです。でも、神さまは何とおっしゃっているでしょう?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として」とあります。神さまはどこかの国だけではなく、すべての国々から来るように願っておられます。そして、「あなたがたの同胞をみな」とあります。ということは、ここに集まっている人たちだけではなく、私たちの同胞がみな、主の前に来ることを願っておられるということです。私にはまだ救われていない肉の兄弟がたくさんいます。私も今年で60年になりますが、兄や姉もけっこうな年になっています。私も何度かアプローチしてきましたが、興味を持ってくれません。牧師として恥ずかしい思いがします。でも、この新しい年、もう一度、奮起して肉の兄弟にもアプローチしていきたいと思います。どうぞ、私たちが住んでいる地域の人たちも、そのターゲットに当てたいと思います。コリントの町はとても汚れた町でした。でも、神さまは何とおっしゃったでしょう?使徒18:10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。…この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われました。ですから、日本のこの町にも、神さまの救いを受けるべき民がたくさんいるということです。

 

3.さばきがある

 ここに、救いと滅びとの明暗があることが分かります。イザヤ66:24「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」イザヤ書の一番最後が、さばきで終わっています。一方は、御国において、永遠のいのちをいただいています。しかし、もう一方は地獄において、永遠のさばきを受けるのです。私が赴任して、まもない頃です。役員会の中で、地獄があるかないか、議論されました。議論というよりも、自分の信仰を分かち合うときがありました。2人の方が、「地獄はないと思う」とはっきりおっしゃいました。「どうしてですか?」と聞くと、「愛なる神さまが地獄を作るわけがない。最後にはみんな救われるんだ」と言われました。私は「どう答えようか」と少々熱くなりかけていました。そこに、役員ではありませんが、オブザーバーとして山崎長老さんが同席していました。山崎さんは「聖書に書いてあるから地獄はある」とはっきりおっしゃいました。私は「さすがだなー」と感心しました。このイザヤ書66章と同じことばをイエスさまが福音書で語っておられます。マルコ9章から少し長いですが引用させていただきます。マルコ9:43-48「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」イエスさまはこのところで、「片手や片足を切り捨ててでも、地獄を避けて、御国に入りなさい」と教えています。ゲヘナとは地獄のことです。ゲヘナの火は消えることがありません。不思議なことに、そこには肉体を食べるうじもいるということです。しかばねのままで、永遠に生きるということです。イエスさまは、地獄があることをはっきりおっしゃっています。だから、あるのです。

 昨年末から、「救い」に関して学んでいます。救いにはいろんな意味があることを学びます。でも、みなさん、窮極的な救いとはどういうものでしょうか?罪が赦される、肉体が癒される、心が解放される。それらもすばらしいことだと思います。でも、窮極的な救いとは、永遠の滅び、地獄からの救いではないでしょうか?本来は滅びて当然だったのに、救われて永遠の御国に入る。何とすばらしいことでしょう。そう考えると、地上で不公平を味わったとか、病気で早く死んだというのは関係ないですね。たとえ、この世で、若くして死んでも、向こうには永遠があります。ジョエル・オースチンの本に書いてありました。5歳の娘が不治の病にかかりました。ご両親はどうしようもできず、本当に心が痛みました。いよいよ、娘さんはこん睡状態に入りました。ご両親は、「ああ、もうダメだな」と愕然としました。すると、娘さんは目をぱっちり開けて、こう言いました。「『イエスさまがね、こっちへ来て良いよ』と言ってくれたよ」。その直後、息を引き取りました。その一言で、ご両親は、本当に励まされたそうです。永遠の滅びから永遠の命こそが究極の救いであります。私たちには死後、さばかれないで、住むべき永遠の御国があるのです。たとえ全世界を得たとしても、永遠をなくしたなら、何の儲けがあるのでしょう。

 元旦そうそう天国と地獄の話もないかもしれません。もっと、希望を与える爽やかなメッセージを期待して来られた方もおられるでしょう。私はあまりDVDは見ませんが、年末年始は、DVDをたんまり借りてきて、おうちで映画を見る方もおられるのではないでしょうか?大体、DVDの映画というのは、映画館かテレビで一度見たものです。007にしても、ミッション・インポッシブルにしても結末を知っています。この人は死なない、ハッピーエンドで終わるのが分かっています。それでも、また見ます。一番最初に見た時よりも、はらはらドキドキ感はないです。でも、楽しむことはできます。今日、学んだ箇所は、「救いの完結」という一番最後の部分です。「ああ、自分の人生は、最終的にはこっちなんだなー」と分かるとどうでしょうか?「この先、病気や事故、いのちの危険にさらされることがあっても、まぁ、いいか?」となるでしょう。だって、最後は永遠の御国、ハッピーエンドなんですから。正しい歴史観は、結末の部分から時間をまきもどすことです。何年か何百年かわかりません。DVDを戻すように、2013年まで戻すんです。おそらく今は、競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。私たちはそういう時代に生かされているのです。ということを知りながら、この新しい年も生きるのです。みなさんは何歳になるのか分かりませんが、この地上の命はそんなに長くありません。でも、短いからと言って、粗末にしてはいけません。永遠と比べたなら本当に一瞬です。まばたきの瞬間くらいです。本当に短いんです。だったらみなさん、不平不満を言っている暇はありません。自分の境遇や環境を呪う暇もありません。リストラされたとか、人間関係がうまくいかないとか、借金で首がまわらないとか、確かに大変です。この世では勝ち組と負け組があるようです。ひょっとしたら、自分はこの世では負け組に入っているかもしれません。でも、イエスさまを信じて、永遠の御国をいただいていたら、どんな人でも勝ち組の中に入ります。地獄ではなく、永遠の御国をいただいている人は、勝ち組に入っているのです。この世でどんなに成功して、どんなに幸福であっても、最後は滅びであったら、負け組です。クリスチャンはこの世でどんな生活であったとしても、主にあって勝ち組に入っているのです。人生をそこから始めましょう。マイナスから始めるのではなく、プラスから始めるのです。私たちは、何をしても、どんな小さなことでも、プラスになるのです。ある人が数学の話をしました。ここに、マイナスの人生を歩んでいる人がいたとします。すごいマイナスです。でも、この数字をかっこでくくり、その前にマイナスをつけるとどうなるでしょうか?マイナス、かっこ、マイナス○○です。なんと、マイナスがひっくり返ってプラスになります。私たちクリスチャンはこの地上でマイナスの時があても、神さまが常にプラスになるように働いてくださるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」