2013.1.6「新生のみわざ ヨハネ3:1-10」

前回学びました「義とされる」とは神さまとの法的な関係でした。今回は、生命的な面で救いということを考えたいと思います。ヨハネの福音書には「永遠の命」ということが度々記されています。「永遠の命」とは何でしょうか?1000年、2000年と永遠に死なない命でしょうか?もちろん、そういう意味もありますが、それだけではありません。「永遠の命」とは神さまの命、霊的な命であります。私たちは肉体の命を持っています。肉体の命はこの世限りのものですが、「永遠の命」は、永遠の御国に住まうことのできる命です。私たちは救いを得るためには、神の命である、「永遠の命」をいただく必要があります。

 

1.新しく生まれるとは

 ヨハネ3章に出てくるニコデモは人間的には最高の人物でした。1節に「パリサイ人」とありますので、神の律法を厳格に守る人でした。ですから、道徳的にも非の打ち所のない人だったでしょう。また、「ユダヤ人の指導者」とも書いてあります。当時、エルサレムにはサンヒドリン議会というのがあって、ニコデモはその議員の一人でした。今でいうなら、衆議院の議員のような立場の人です。また、4節に「老年」とありますので、人生の経験を積み、人々から尊敬される年齢に達していました。10節には「イスラエルの教師」と書いてありますので、学問を積み、人々に真理を教えていました。さらに、ニコデモはイエス様の埋葬のとき、王様を葬るような大量の没薬と香料を持ってきました。彼はかなりの金持ちあったと思われます。ニコデモは、地位と名誉があり、品行方正で、学問があり、人生経験が豊富な人で、金持ちでした。人々は「ニコデモだったら、間違いなく神の国に入れる人物だ」と推薦したでしょう。でも、イエス様は彼に何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ3:3「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と告げました。「新しく生まれる」とは、英語の聖書にはborn again「再び生まれる」と訳されています。それで、彼は何と答えたでしょうか?「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」彼は、「再び生まれる」と聞いたので、「もう一度、母の胎に入って生まれなおすのですか?どうして、どうやってそんなことが可能なのでしょうか?」と聞いたのです。イエス様は、このすぐ後で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われました。彼は人間的には豊かな経験と学問がありましたが、霊的なことはさっぱりだったのです。

 さて、ここで言われている「新しく生まれる」とはどういう意味なのでしょう。「どんな人でも、新しく生まれないと神の国を見ることができないし、神の国に入ることもできない」と言われています。では、「新しく生まれる」ためには、どうしたら良いのでしょうか?ヨハネ3:5「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』」ここに、二種類の誕生が記されています。イエス様は「水と御霊によって生まれなければ…」と言われました。水とは何か、神学的に、色々議論されてきました。ある人は「水のバプテスマ、洗礼である」という人もいます。しかし、ユダヤ人がこのみことばを読むと「それは、お母さんのお腹の羊水」であると直ちに理解するそうです。第一に、お母さんのお腹から肉体的に誕生する必要があるということです。まず、この地上に生まれなければ事は始まりません。でも、イエス様は「肉によってうまれたものは肉です」と言われました。それはどういう意味でしょう?確かにその人には肉体的な命があります。でも、それでは、神の国に入ることができません。なぜなら、神の国は永遠の御国であり、100年ももたない肉体では不可能だということです。そこで、必要なのは第二の誕生です。それは、御霊によって生まれるということです。御霊とは何でしょう?8節には、風のように見えない神の霊であることがわかります。そして、神の霊は人を新たに生まれさせる力があるということです。神の霊がその人に吹くならば、その人が新たに生まれ、神の国に入ることができる永遠の命をいただくということです。神の霊がくださる命は永遠の命であり、神の命です。神の命ですから、当然、永遠なのです。

 それでは肉の命と神の命とはどう違うのでしょうか?ある家で綺麗な声でなくカナリヤを飼っていました。家族のみんなは、「このカナリヤは家族同然だ」と可愛がっていました。しかし、夕食時になったら、さっさと自分たちで食卓を囲みました。カナリヤは家族同然のはずなのに、何故、一緒にごはんを食べられないのでしょう?そうです。いくら可愛くても、カナリヤはカナリヤであり、人間とは命が違います。また、こういう話があります。ある人が、ひよこの群とあひる子の群を小川のそばに連れていきました。川辺についた時、あひるの子は水に入ってとても楽しそうでした。体を浮かせて、すいすい泳いでいました。一方、ひよこはどうでしょう?ひよこは水を恐れ、驚いて遠くへ去っていきました。ひよことあひるの子と何が違うのでしょうか?命が違うのです。イエス様は何とおっしゃられたでしょう?「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ニコデモは、その時代、人間的には最もすぐれた人物だったかもしれません。でも、肉によって生まれた者は肉でした。そのままでは、神の国を見ることもできないし、神の国にも入ることもできません。そのためには、肉の命だけではなく、霊の命が必要です。昔、中国に一生懸命、瓦を磨いている人がいました。「何をやっているんですか?」と聞きました。その人は汗を拭きながら、「瓦を磨いて玉にしているんです」と答えました。しかし、いくら瓦を磨いたところで、それは瓦です。磨く前に、質が変わらなければなりません。もし、それがダイヤモンドの原石であるならば、磨いたら玉になるでしょう。生まれつきの人間も同じです。肉であるならば、どんなに修養しても無駄であるということです。もし、その人が霊的に生まれ変わったならば、主と同じかたちに変えられていくでしょう。キリスト教は修養ではなく、生まれ変わりの宗教だからです。

 なぜ、霊的に新しく生まれる必要があるのでしょう?別の面から話したいと思います。人間が創造されたときはどうだったでしょうか?創世記1章と2章には、自然界の創造と人間の創造について記されています。神さまは、植物や動物を誕生させるときには、ことばによって創造されました。しかし、人間はそうではありませんでした。「ご自分のかたち」、つまり神のかたちに似せて、人を創造しました。まず、神さまは土地のちりで人を形造りました。その後に、鼻から「いのちの息」を吹き込まれました。すると、人は生きものとなりました。「息」ということばは、ヘブライ語で霊と同じ意味のことばです。人が動物と違うのは、霊があるからです。外側の肉体は物質と交わるためにあります。見る、聞く、触るなどの五感は、物を知るためのものです。内側にある魂は人々と交わるためにあります。魂は心とも言いますが、知性、感情、意思をつかさどっています。しかし、最も深いところにある霊は、神さまと交わるためにあります。私たちは霊によって、目で見えず、手でも触れない神さまと交わるのです。なぜなら、神さまは霊だからです。しかし、創世記3章にありますが、アダムが食べてはいけない木から食べたとき、霊的に死にました。そして、神さまから独立し、自分の魂で生きるようになりました。また、その肉体も死んで土に帰る運命になったのです。霊的に死んだといっても、わずかですが「神のかたち」が残っています。だから、人間には真理や愛、神様や永遠を慕い求めるところがあるのです。でも、それらは不完全です。なぜなら、霊的に死んでいるからです。だから、イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とか、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」とおっしゃったのです。私たちはすでに肉体的にこの世に誕生しています。もう1つ必要なのは、霊的に新しく生まれることであります。日本人の多くは「人は死んでから生まれ変わる」、あるいは「死んでから天国に行く」と、信じています。しかし、そうではありません。人は生きているうちに生まれ変わる必要があるのです。生きているうちに天国に入る必要があるのです。

 

2.新しく生まれるため

 では、私たちはどうしたら霊的に新しく生まれることができるのでしょうか?ヨハネ3:14-15「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」14,15節はイエス様のことばで、16節はヨハネ自身のことばです。イエス様はご自分のことを「人の子」と不思議な呼び方をされました。ダニエル書では、「人の子」とはメシヤを暗示している呼び名です。イエス様が旧約聖書の出来事を引用しながら、信じるとはどういうことなのかを教えておられます。結論的には、人が新しく生まれるためには、ひとり子であるイエス様を信じなければならないということです。でも、信じるとはどういうことなのでしょうか?「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、どのような出来事だったのでしょうか?民数記21章にはこのような事件が記されています。イスラエルの民が荒野で「ここにはパンもなく、水もない」と不平をもらしました。すると、主は民の中に燃える蛇を送られました。これは毒蛇であり、噛まれたら体が火ように熱くなるということでしょう。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。民たちはモーセに、「私たちは罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください」とお願いしました。すると、主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。すべてかまれたものは、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは、1つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。イスラエルの民の中には、善人も悪人もいたでしょう。でも、そこいら中、蛇が這い回り、善人も悪人も関係なく噛んだのです。善人だからと言って、そのままで救われるわけではありません。では、どうしたら蛇の毒から解放され、癒されるのでしょうか?そうです。青銅の蛇を仰ぎ見るならば癒されたのです。イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。イエス様はどこに上げられたのでしょう?イエス様はゴルゴタの丘で、十字架の上に付けられました。アダムのゆえに、すべての人は死の毒にやられています。今は生きているかもしれませんが、確実に死に向かっています。死後は、神のさばきがあり、永遠の死が待っています。では、どうすれば肉体の死を乗り越える永遠の命が与えられるのでしょうか?民たちの中で、旗ざおの蛇を仰ぎ見た者だけが、生きることができました。私たちも十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見れば、死の毒から癒されるのです。「仰ぎ見る」とは、信じるということです。日本語の「信仰」は、「信じて仰ぐ」と書くので、とても良くできています。善人も悪人も関係ありません。イエス様を信じたら、死の毒から解放され、永遠の命をいただくことができるのです。

 スポルジョンは英国が生んだ、最も偉大な説教家の一人です。しかし、スポルジョンも若い頃は、救いの確信がなく、悶々と暮らしていました。ある日曜日、スポルジョンは教会に向かいましたが、大吹雪でした。「これ以上進めない」と、路地を折り返すと、小さいメソジストの教会がありました。教会の中には14,5人の人々がいました。その朝は、多分、雪のために、牧師が来る事ができなかったのでしょう。見たところ、靴屋か仕立て屋といった風采の、一人の貧相な男が講壇にのぼって説教をしました。スポルジョンは「説教者とは十分な教育を受けた人であるべきなのに、この人は何と無学な人なんだろう」と思いました。聖書のみことばを、ただ何度も繰り返すだけです。しかも、単語すら正しく発音できません。しかし、スポルジョンはそれが問題でないことが気付きました。男が選んだ聖書のことばが、イザヤ書の45章22節「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」でした。男はこのように語り始めました。「愛する友よ。これは、本当に短い聖句です。『見よ』と書いてあります。それは、非常な努力の要ることではありません。足を上げることでも、指を上げることでもありません。ただ、見るのです。さて、人は、見ることを学ぶために、大学へ行く必要はありません。見るのに、千年も費やす必要はありません。誰でも見ることができます。小さな子供でも見ることができます。しかし、これがこの聖句の謂わんとするところです。そして、みことばは、『私を見よ』と言います。ああ、多くの人は、自分自身を見ております。自分自身を見ても無益なことです。あなたは、決してあなた自身のうちに平安を見出すことができません。イエス・キリストは『わたしを見よ』と言います。」男は、10分たって話が尽きてしまいました。人数が少なかったので、男は、スポルジョンが新来者であることが分かりました。そして、講壇からこう言ったのです。「お若いの。君は非常に辛そうに見える。若者よ。イエス・キリストを見よ!もし、君がこのみことばに従わないなら、これからもずっと惨めであろう。その命においても惨め、その死においても惨め。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ。」さらに彼は、メソジストのやり方で叫びました。「若者よ。イエス・キリストを見よ!」。しかし、その時、スポルジョンは「見た」のです。その時、そこで、雲は晴れ、暗黒は消え去りました。その時、スポルジョンは太陽を見たのです。つまり、救いの確信が与えられたのです。

 イエス様は「それを仰ぎ見れば、生きる。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と言われました。続いて、ヨハネは、聖書で最も有名なことばを語っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アメリカの大伝道者、D.L.ムーディはこう言いました。「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ3章16節のみことばさえあれば、人は救われる」と。さらにこう言いました。「太平洋の水をインクにして、地球の森のすべての木を筆にして、あの大空に書いてすべての人に知らせたい。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」言うことが、大きいですね。でも、ここには私たちが信じて救われる偉大な根拠が記されています。私たちが、ただ仰ぎ見て救われる根拠が記されています。それは、父なる神が、御子イエスを地上に与えたということです。何のためでしょう?それは、御子イエスが全人類の罪を負って、代わりにさばかれるということです。本来なら、アダムの罪と個人が犯した罪のゆえに、すべての人がさばかれて地獄に行くしかありません。しかし、父なる神さまはたった1つの例外、逃げ道を設けられました。それは、御子を信じる者だけが、自らの罪で滅びないで、永遠の命を持つことができるということです。全人類、どんな人でも、滅びないで永遠のいのちを得る道は1つだけです。使徒ペテロがこう言っています。使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」人類は不老不死の薬を求めてきました。世界には病気を治すいろんな薬があります。アンチ・エィジングの薬もあるでしょう。しかし、人は病気で死ぬか、事故で死ぬか、自分で死ぬか、老衰で死にます。だれも、死には勝てません。では、なぜ死が全人類に入り、今も全人類を支配しているのでしょうか?それは、人類の先祖であるアダムの罪が原因しています。たとえて言うなら、上流でだれかが死の毒を入れました。下流に住む人がその水を飲んだら死ぬということです。でも、神さまはもう1つ別の川、恵みの川を与えました。ひとりの違反により、死が支配しました。しかし、今度はひとりの従順により、多くの人が義とされるのです。パウロはこう述べています。ローマ5:21「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」アーメン。

 あなたはどちらの川の中に生きているでしょうか?アダム以来の死の川でしょうか?多くの人は、恵みを知らないで、死の川の中にいます。でも、2000年前、イエス・キリストが来られ、死に勝利できる、命の川を与えました。信仰によって、命の川に飛び込むならどうでしょうか?罪が赦され、永遠の命が与えられます。父なる神さまは私たちが救われるために、御子イエス様をこの世に与えました。イエス様はこの世に降りて来て、私たちの罪を負って十字架に死なれました。しかし、3日に死に勝利してよみがえりました。私たちが救われるために、努力する必要は全くありません。なぜなら、神さまが救われるための手立てを全部、完成しておられるからです。イエス様を救い主として信じれば救われ、永遠の命が与えられるのです。残念ながら、人間の方がそれでは申し訳ないと言って、良い行いをしたり、罪を償ったり、難行苦行をするかもしれません。しかし、それは完成しているテーブルにカンナをかけるようなものです。この講壇は完成しています。だれかが、カンナをかけたら、かえって台無しになるでしょう。救いも同じで、もう完成されています。私たちはただ受け取るだけで良いのです。「イエス様、あなたを救い主として信じます」アーメン。するとどうなるでしょうか?聖霊が風のようにその人の魂に吹き付けます。だれにも見えませんが、何かが起こります。何が起こるのでしょうか?その人の霊が新しく生まれ変わるのです。霊が生まれ変わると、霊が心と体を支配するようになります。それまでは感情の起伏が激しかったり、優柔不断だったりした心が変わります。平安と喜びと秩序がやってきます。肉体も魂が天に召される日まで、健康で力強いものになります。ある人は長年の頭痛が癒されたり、病気や怪我が俄然と少なくなります。なぜなら、あなたの霊が聖霊によって新たにされたからです。神さまは私たちが地上でいながらも、天国の命を味わえるようにしてくださいます。なぜなら、その人は死から命に移されているからです。そうです。私たちは死んでからではなく、生きているうちにイエス・キリストを信じて、生まれ変わる必要があります。永遠の命は死後いただくものではなく、現在、あなたのものになるのです。