2013.1.13「神の子とされる ガラテヤ4:1-7」

 きょうは、「救い」ということを身分という面から考えたいと思います。イエス様を信じると、身分が変わり、神の子とされるということです。身分とは別の言い方では、アイディンテティということです。もし、「自分がだれか」ということを行いの上に置いていたならどうでしょうか?上手く行っているときは問題ありませんが、何かの理由で上手く行かないときは大きく崩れてしまうでしょう。そうではなく、「自分がだれか」ということを「神の子である」という存在に置いたならどうでしょう?たとえ上手くいかないことがあっても、神の子であるという身分は揺らぐことはありません。もし、本当に神の子であるということを心から自覚したならば、自然と行いが生まれてくるのではないでしょうか?「行い」で自分を決めるのではなく、「ある」という存在で決めたらどうでしょう?

 

1.奴隷とは

 キリストを信じる前の私たちは、奴隷と何ら変わりありませんでした。ガラテヤ4章には、奴隷と相続人のたとえが記されています。子どものときは、全財産を相続できるのに、後見人や管理人が代わりに持っていたということです。何も持っていないので、奴隷と何ら変わらないように見えます。しかし、その子が親から認められる年齢に達したとき、財産を相続することができます。これと同じように、私たちがキリストを信じる前は、奴隷と同じでした。この世の幼稚な教えの下に支配されていました。親や学校から、さまざまな知識や道徳、人生哲学を教えられて育ちました。多くの場合、聖書の価値感と異なる、この世の教えであります。この世では、いろんな知識や技術、資格を得ることによって人間の価値がきまるという考えがあります。奴隷は「何ができるか」で、値打ちが決まります。肉体的に頑丈で、いろんな技術を持っていると役に立ちます。知識があれば、子どもの家庭教師や仕事の管理ができるでしょう。また、この世では、親や学校の先生、上司、権威ある人に従うことを教え込まれます。奴隷は、罰せられるのが恐いので主人に従うのです。「いつ捨てられるか」と、ビクビクして主人の顔色を伺っています。また、この世では、明日のことが心配で、保険に入ったり、お金や物をできるだけ蓄えるでしょう。奴隷も同じで、お金や物をできるだけ蓄えておかないと心配です。人生の目的などいう高尚なものは捨てて、ただ生き延びるために生きています。いくつかあてはまることはないでしょうか?

 イエス様はマタイによる福音書6章で何と教えておられるでしょうか?「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」かつての私たちには、天の父がいませんでした。自分を養ってくれる天の父がいないなら、どうするでしょうか?学歴や資格を身につけ、必死に稼ぐしかありません。私はクリスチャンになっていたにもかかわらず、奴隷として生活していました。なぜでしょう?生まれ、育った環境が奴隷状態だったからです。父は国鉄を辞めてからあまり働かなくなりました。酒を飲んでは、暴れるので裸足で逃げたこともあります。母は、わずかな田んぼや畑を耕していましたが現金収入がありません。そのため、長女や長男がお家にお金を入れてくれました。母は彼らを「姉さん」「兄さん」と呼んで頼っていました。父はそれが気に食わなかったようです。小さな私に何ができるでしょう?井戸水を汲んだり、槙を割ったり、縄綯いの手伝いをしました。リヤカーを押して田んぼに行き、帰りは母を乗せてきました。春は笹の竹の子を取りに行ってそれを売りました。栗拾いとか、銀杏拾いなどをすると、燃えてきます。父や兄たちは「人は食うために生きるのか、生きるために食うのか」と議論していました。私は「人は何のために生きるのだろう」と悩んでいました。しかし、実際は、生き延びるために生きていました。

 奴隷が指導者になることはできません。箴言30:21-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となることだ」とあります。どうして、奴隷が王になったら、ダメなのでしょうか?ある本にこのように書いてありました。「奴隷は、生まれた時から、取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分には大した価値がないこと、また自分の意見は尊重されないことを成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大なものとなったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることが出来ないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ」。私が辛口のユーモアを言ってきたのは、生き延びるためでした。私のジョークは人々を陥れ、馬鹿にする内容でした。なぜなら、自分は末っ子のゆえにミソにされ、アイディンテティを攻撃されて育ったからです。自分のユーモアで人々ばかりか、自分自身を傷つけていたのです。モーセはどうして、イスラエルの人たちを奴隷から解放することができたのでしょうか?モーセはパロの宮殿で育てられることにより、奴隷の考えではなく、王子としての生き方を学ぶ必要がありました。奴隷の考えを持っているリーダーは、実際に奴隷として捕らわれている民を解放する力がないからです。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年と同様に重要な年月だったのです。モーセだけが、奴隷ではなく、王子の息子として育てられました。ところがイスラエルの民は何百年も奴隷だったので、その生活しかないと思っていたのです。モーセは自分が偉大な者であるという認識があったからこそ、イスラエルの民を救い出すことができたのです。

 この世の教えは「何ができるか」で人の価値を判断します。しかし、もっと重要なことは、「自分はだれか」ということです。もし、「自分がだれか」ということを正しく認識するなら、それに伴った行いが生じてくるでしょう。つまり、doing行いよりも、being存在の方が重要なのです。もし、私たちが奴隷ではなく、神さまにあって王子、王女であることを認識するなら、どのような行い、どのような生き方が生じてくるのでしょうか?

 

2神の子とされる

ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」「血によって」とは、血統とか血筋という意味です。今はそうではありませんが、中世ヨーロッパでは、血統がすべてでした。貴族で生まれたら貴族、農奴で生まれたら農奴でした。日本だって、200年くらいまでそういう制度がありました。「肉の欲求や人の意欲」とは、努力や頑張りという意味です。この世では、人を押しのけてでも偉くなろうとする人がいます。力や権力があれば何でも得られるのでしょうか?遠慮がちで気が弱い人は、カスしか掴めないのでしょうか?神の子どもとされるために、そういう人間的なものは一切関係ありません。神さまがイエス様を信じた人に、神の子どもという特権を与えてくださるのです。イエス様はすべての人のために十字架にかかり代価を払ってくださいました。だから、すべての人が救いの候補者です。キリストにあって選ばれているのです。あなたが、神の子であるならば、神さまは私たちのお父さんです。神さまは王様です。すると神さまの息子はどういう立場でしょうか?そうです。王子、プリンスです。では、神さまの娘はどういう立場でしょうか?そうです。王女、プリンセスです。王子であるなら、冠をかぶっています。王女であるなら、ティアラをかぶっています。もし、私たちが失望落胆してうなだれたらどうなるでしょう?冠が「ぽろっと」落ちてしまうでしょう。私たちのお父さんは全能の神様です。神様が私たちの味方です。だったら、私たちはうなだれてはいけません。王家の王子として、王女として、堂々と胸を張って生きるべきです。

ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。…私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」と書いてあります。神さまは宇宙全体を持っておられます。神さまが持っておられるすべてのものを私たちも受け継ぐことができるのです。かなり前にNHKの教育テレビで見たことがあります。星雲が核融合していくと、だんだん質量の高いものに変化していくそうです。「ある星雲は全部、金でできている」と言っていました。私はそれを見て、とても感激しました。星雲全部が金とは、果たしてどのくらいの量でしょうか?でも、黙示録の最後の記事を見ますと、「なるほどなー」と分かります。天のエルサレム、聖なる都の大通りは何でできているでしょうか?透き通るような純金でできています。さらに、都の城壁の土台は何でできているでしょうか?碧玉、サファイヤ、メノウ、エメラルド、トパーズ、アメジスト、あらゆる宝石で飾られています。皆さん、道路とか建物の土台というのは最も安価な材料が用いられます。アスファルトとか、砂利、コンクリートです。聖なる都では、道路に純金を敷き、土台に高価な宝石を用いるとは、神様は何と金持ちなのでしょう。私たちはこの神様の子ども、御国の世継なのです。私は思います。「天国に行ってからではなく、純金の一塊で良いから、地上に落としてくれないかなー」と。

 数年前、『パワー・フォーリビング』という青い小冊子が無料で配られたことがあります。お読みになった方はおられるでしょうか?その本の中にとても感動的な話が載っていました。ある町に、一人の少年がいました。お母さんは未婚で彼を生んだので、学校ではイヤなあだ名で呼ばれました。そのため、休み時間や昼食のときは、一人でどこかへ行っていました。土曜日の午後、町に行くと、「だれが彼の父親なのだろう」とじろじろ見ました。12歳頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。少年はいつも遅れて礼拝に行き、早めに抜け出していました。あるとき、早めに抜け出そうと思ったのに、人々が扉をふさいでいました。そのとき、大きな手が肩の上に置かれました。見上げると、牧師先生が「坊や、君はだれだね。だれの子かね?」と質問しました。昔から、あの重い気持ちがのしかかって来ました。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年の顔をじっくり見て、ほほえんで言いました。「ちょっと待てよ。君がだれだか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は神様の子どもだ。」そう言うと、牧師は彼のお尻をぽんと叩いて、さらにこう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って自分のものだと主張しなさい。」その少年はやがてどうなったでしょう?テネシーの人たちは、私生児を州知事に選出したのです。知事の名前は、ベン・フーバーです。私たちは、すばらしい遺産を受け継いでいます。私たちは神の栄光をあらわすために、その遺産を自分のものとすることができるのです。

 本当に私たちは神の子どもとされているのでしょうか?疑う人がいるかもしれません。救われていない人は、御霊も宿っていないので、神さまをお父さんと呼ぶことができません。私たちがイエス様を受け入れると、私たちの内に聖霊が宿られます。この聖霊はかつて、イエス様の中にもおられました。イエス様はこの地上で、聖霊によって力あるわざを行うことができました。また、肉体を持たれたイエス様は聖霊によって「アバ父よ」と親しく交わっておられました。もし、私たちの内に同じ聖霊が宿られたらどうなるでしょうか?私たちも神さまを「アバ、父よ」と呼び、イエス様と同じ行いができるのです。本来、神さまをお父さんと言えるお方は、御子イエス・キリストだけです。しかし、私たちは神の養子として迎えられ、子どもと同じ身分になるのです。神さまは、ご自分を「アバ父よ。(おとうちゃん)と呼んで良い」と許可してくださるのです。地上のお父さんは不完全であり、私たちは多かれ少なかれ、傷を受けて育ちました。でも、父なる神さまは完全なお父さんであり、無条件で私たちを愛してくださいます。ちょうど、放蕩息子のお父さんのようです。私たちは「天のお父様」と何でもお願いすることができます。神さまの子どもですから、すべての必要が与えられ、守りが与えられ、平安が与えられるのです。

 

3.神の子とされた目的

 でも、父なる神さまが私たちを神の子どもとしてくださったのは、私たちがただ自己充足的な生き方をするだけではありません。「王子、王女として永遠に暮らしました」。それもすばらしいことです。でも、神さまが何故、私たちを王子、王女にしてくださったのでしょうか?それは、神の御国を一緒に治めてもらいたいからです。残念ながら、神の国はまだ完成していません。私たちはすでに神の国に入っています。しかし、父なる神さまは、もっと多くの人をご自分の国にお入れしたいと願っておられます。多くのクリスチャンは自分が救われたら、教会に来て、神さまを賛美して喜んでいます。しかし、それだけでは、父なる神さまは喜ばれません。父なる神さまは、御子イエスをこの世に遣わし、救いを成し遂げられました。十字架と復活によって、サタンの国は壊され、多大なダメージを受けました。それなのに、人々はサタンの国に捕らえられたままです。そこを出て、御国に入ったら良いのに何故でしょう?サタンは「救いなんかないんだ。このままで良いじゃないか」と、人々を欺いているのです。かつての私たちは、自分たちが奴隷であることすら分かりませんでした。うす暗い中で、「多少不自由であっても、今が良ければいいんだ」と生きてきました。一生懸命、れんがを作って働いていたのです。でも、それは本来の生き方ではありません。神の子どもではなく、まさしく奴隷でした。なぜなら、生き延びるために生きていたからです。

 でも、神さまは私たちに御国をくださいました。これから下さるのではありません。すでに、くださっているのです。ルカ12:32「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。私たちは御国の住人であり、王子、王女です。でも、イエス様は「主の祈り」の中で「御国を来たらせたまえと祈りなさい」とおっしゃいました。ということは、神さまはこの地に、御国が来ることを願っておられるということです。しかし、これはだれもができることではありません。救われていても、自分が奴隷であると思っている人にはできません。モーセのように自分は王様の子どもであると腹の底から思っている人でなければなりません。私も救われてクリスチャンになり、牧師になっても、まだ、奴隷でした。「私は神の子です」と口では言っていましたが、奴隷の考えが抜け切っていませんでした。業績思考で生きていたので、みんながライバルでした。だれよりもすぐれた牧師になって、大きな教会を建てようと思いました。神の子どもなのに、「ちくしょう、ちくしょう」と、怒りと憎しみが心の中に渦巻いていました。まさしく、奴隷が王となっていたようなものです。だから、多くの人たちを傷つけても、何とも思いませんでした。「躓いた奴が悪いんだ」と豪語していました。神さまを見上げると、「歯がゆいぞ!何をしているんだ」と怒っているように思えました。しかし、神さまは私たちがイエス様を信じただけで、もう満足しています。「もう、肉によって自分を喜ばせる必要はない」とまでおっしゃっています。でも、神さまは、私たちが王子、あるいは王女であることを自覚して、この世に御国をもたらせたいと願っておられるのです。

ヨハネ15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス様は弟子たちと同じように、私たちをしもべとは呼ばれません。友と呼ばれます。神さまの友となるとはどういう意味でしょうか?創世記18章に、アブラハムと主との会話が記されています。創世記18:17「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。』」。そして、アブラハムにソドムとゴモラの罪がきわめて重いので滅ぼす旨を告げました。アブラハムは「いや、いや待ってください」と談判しました。最後に主は「その町に正しい人が10人いたら滅ぼさない」と約束しました。主は本当は、アブラハムにとりなしてもらいたかったのです。父なる神さまも、私たちに「こういうことをしたいのだが…」と相談されます。私たちは、断ることもできます。しかし、恐いからではなく、神さまを愛しているので、答えたいと思うでしょう。これまでは、神さまに認められたいためにがんばってきました。しかし、もう神さまの愛を獲得するためにすべきことは何もありません。ただ「自分自身」であることで既に、神さまの目には高価で尊いからです。私たちは恐いから神さまに従うのではありません。もう、すでに愛されているので、その愛に応えたいと思うのです。

うちの娘のことを言って申し訳ありませんが、私の子どものときとは全く違います。私は今でも、テーブルにおいしいものがあると食べられません。ごはんを作っても、メインのものは食べません。しかし、娘はだれも手をつけていないものを平気で食べます。私はそれができません。なぜなら、自分には相応しくないと、どこかでまだ思っているからです。あなたは高級レストランに行って食べると、何か後ろめたいと思うでしょうか?あなたは人に物をあげるのは好きだけど、人からされるのが恥ずかしいでしょうか?他人を喜ばせるために自分の意見を簡単に変えるでしょうか?自分のことを話しているとき、人が急がしているように感じるでしょうか?ある人たちは、宮殿の王子、王女なのに、宿無しのように生きているかもしれません。本来は、自分のものなのに、相応しくないと思って遠ざけているかもしれません。クリスチャンであるならば、王子であり、王女です。神による相続人です。生き延びるために生きるのではありません。今もこれからも、豊かに得ているのです。私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。私たちはこの世に違いをもたらすことができます。なぜなら、私たちは神さまの王子であり、王女だからです。