2013.1.20「神の国に入る コロサイ1:13」

 「救い」ということを語るとき、なぜ、「神の国に入る」ということが大切なのでしょうか?それは「以前はどこにいて、今は、どこに住んでいるのか」ということを理解するためです。ある人たちは、救いとは「死んだら天国に行けることだ」と考えています。ということは、今、救われていることは、何のメリットも力もないということになります。もし、救いを生命保険ぐらいにしか考えていないならば、クリスチャンになっても、自堕落な生活をしてしまうでしょう。そうではありません。以前の私たちはサタンの王国で罪と死の奴隷でした。しかし、キリストによって贖われ、今は神の王国に移り住んでいるのです。ということは、死んでから天国に入るのではなく、今、生きているうちに神の国に入る必要があるということです。そして、この地上でも、神の国の豊かないのちを享受できるということです。

1.神の国に入るとは


使徒パウロは、私たちは以前、サタンの王国で奴隷となっていたことをはっきりと教えています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」これは、復活のイエスさまがパウロに語ったことばです。救われる以前の私たちはどのような存在だったのでしょうか?盲目で暗やみの中に住んでいました。なおかつ、サタンの支配のもとにありました。それでは、「救い」とはどういうことなのでしょうか?暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。それだけではありません。聖なるものとされ、御国を受け継ぐものとなるということです。御国とは神の国です。端的に言うと、救いとは、サタンの王国から、神の王国に移されることです。コロサイ人への手紙にも同じようなことが記されています。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。「救い出し」は英語の聖書では、deliveredとなっています。「配達する」とか、「引き渡す」という意味です。しかし、このことばの古い意味は「人を救い出す、救出する」であります。また、「移す」のギリシャ語の時制は、1回的な出来事が、今も影響を与えているということです。救われたということは、「サタンの支配から、神さまのもとへと救出されたことである」と理解することはとても重要です。なぜなら、今、自分がどこにいるかを知ることができるからです。あなたは、今、どこにいるのでしょうか?神さまのもと、キリストのご支配のもとにいるのです。
「救出」ということを一番良く表しているのが、出エジプトの出来事です。旧約聖書で最も偉大な出来事とは、イスラエルの民がエジプトから脱出したことです。しかも、この出来事とイエスさまがなされた十字架の贖いが重なっているということです。かつて、イスラエルの民はどのような生活をしていたのでしょうか?パロ王のもとで奴隷でした。日干しレンガを造ったり、町を建てるための労働が課せられていました。三食、食べることはできたかもしれませんが、身分の保障とか自由意思がありませんでした。なぜなら、奴隷だからです。奴隷は物とか家畜と同じで、用がすんだら捨てられます。神さまから選ばれたイスラエルがそんな生活をしていて良いのでしょうか?そこで、主なる神はモーセを指導者として立てました。いくつかの災いによって懲らしめましたが、パロ王はせっかくの労働力を簡単には手放しません。しかし、10番目の災いが及んだ時、パロは「分かった、出て行ってくれ」と言いました。それは何でしょう?家の入口の鴨居と門柱に、羊の血を塗った家は、神の怒りが過ぎ越します。しかし、塗っていな家の初子は殺されます。ある晩、主が行き廻り、王さまから奴隷の初子(長子)まで、打たれて死にました。それで、パロは降参したのです。でも、後から心変わりして、軍隊を派遣しました。前は海、後ろからは軍隊が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げた時、目の前の紅海が2つに分かれました。100万人以上の民が、海の底を渡りました。後から追いかけてきたエジプトの戦車と騎兵たちは、海にのみこまれてしまいました。モーセとイスラエルの民が主に向かって、歌いました。「主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神」と。「救い」の中にどのようなことが含まれているでしょうか?パロ王のもとから、脱出できたということです。そして、敵が打ち砕かれ、自分たちが勝利したということです。イスラエルの民は海を渡りました。もう、二度とエシプトには戻ってはいけないということです。エジプトとはこの世を象徴しており、パロ王はサタンです。私たちは、以前は、サタンの奴隷であったということです。
イエス・キリストがこの地上に来られたのは何のためだったでしょうか?イエスさまが変貌の山で、天に帰った二人を呼び戻して何やら協議していました。律法の代表モーセと預言者の代表エリヤとのサミット会議です。ルカ福音書には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話していた」と記されています。「ご最期」とは、ギリシャ語の聖書にはエキサダスと書いてあります。これは、ユダヤ人の70人訳聖書では、出エジプト記の題名になっています。つまり、イエスさまは、人類の「出エジプト」について話しておられたということです。イエスさまは弟子たちと最後の食事、「過ぎ越しの食事」をなさいました。そこで、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?マタイ26:27-28「みな、この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」まさしく、イエス・キリスト御自身がほふられる羊であり、流された血が人類を罪から解放するということです。予告どおりイエスさまは過ぎ越しの祭りのとき、十字架につけられて死なれました。ということは、旧約の出エジプトは、イエス・キリストの予表(型)であるということです。モーセはエジプトのパロ王からイスラエルの民を脱出させました。その時、決め手になったのは羊の血です。そして、イエス・キリストはサタンから人類を解放するために、十字架で血を流されました。ということは、サタンのかしらが打ち砕かれたということです。そして、キリストを信じる者が、罪と死から解放されるということです。紅海とはバプテスマの型であるとパウロが言っています。クリスチャンはこの世であるエジプトから脱出し、神の王国のもとに移された存在だということです。

2.神の国に入る条件


教会は福音を宣べ伝えてきました。福音とはイエス・キリストの十字架によってなされた「良き訪れ」です。そして、「イエス・キリストを救い主をして信じるだけで救われる」と説いてきました。しかし、よく考えてみると、イエスさまが宣べ伝えたのは単なる福音ではありません。マタイ4:23「御国の福音を宣べ伝え」と書いてあります。ルカ16:16「神の国の福音が宣べ伝えられ」と書いています。イエスさまは「御国の福音」あるいは「神の国の福音」を宣べ伝えられました。もちろん、他の箇所には「福音」とだけ書いてありますが、イエスさまの教えの中心は「神の国」でした。では、神の国とはどういう意味なのでしょうか?英語ではKingdom of Godです。神の王国です。ギリシャ語では「神の王的な支配」という意味であります。では、神の王国の王さまは一体、だれでしょうか?イエス・キリストが王であり、主です。復活昇天後、父なる神さまは御子イエスに王権をゆだねました。私たちが王国に入るとしたらどういうことが必要でしょうか?その国の法律を守り、国王を王として敬い、従うことが求められるのではないでしょうか?まず、王国に入るためには、市民権が必要です。数日滞在するとか、旅行くらいなら不要かもしれません。でも、そこに永住するためには、市民権が必要になるでしょう。もし、勝手に住んだら、強制送還させられるでしょう。

では、イエス・キリストを救い主として信じただけで、神の王国に入ることができるのでしょうか?私はこの方法でしばらくやってきました。そして、イエス・キリストを主あるいは王として信じることは、自由選択にしてきました。ある人にとってキリストは主でないので、従わないこともありえます。自分勝手に生きてうまくいっている時は「結構です」と言い、困った時に、救い主にお願いする。しかし、聖書はそういうことは言っていません。イエス・キリストは救い主だけではなく、主であり王です。キリストを信じたら、キリストに従うべきなのです。信じることと、従うことはコインの裏表であり、分離できないということです。でも、キリストを救い主として信じているだけなら、「いやだから、従わないよ」ということを許してしまうことになります。それは、神の王国に入りながらも、自分が王さまとして生きるということです。私はこれまで、わがままなクリスチャンを生み出してきました。ここにジャムパンがあるとします。わがままな子どもは、ジャムは食べるけど、パンは捨てるかもしれません。それではいけないのです。ジャムとパンを両方食べなければなりません。同じように、信じるとことと従うこと、両方必要だということです。キリストを信じたら従うのです。なぜなら、キリストは人生の主であり王だからです。

ルカ福音書にザアカイの物語があります。ザアカイはいつ救われたのでしょうか?イエスさまが木の上にいるザアカイにこう言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」家に泊まることにしているとは、なんと、身勝手でしょう?そのときザアカイは手帳を出して、「きょうは予定があるので、あさってなら空いています」と言えたでしょう。または、「突然、客を連れていくと家内が嫌な顔をするので、相談してから」と言っても良かったはずです。でも、ザアカイはどうしたでしょうか?ルカ19:6「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」そうです。この時、ザアカイは救われたのです。つまり、イエスさまの呼びかけに従ったときに、救われたのです。神の国に入る条件は神への従順であります。なぜなら、神の国は、神さまが王として治めているからです。しかし、イエスさまの呼びかけに応じなかった人たちもいます。青年役人が、「何をしたら永遠の命をいただけますか?」とイエスさまのところにやってきました。この青年は行いで永遠の命が得られるものと勘違いしていました。だから、イエスさまは行いによって救われる道を示されました。彼は「小さい時からみな守っている」と言うので、イエスさまは「持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、彼は非常に悲しんで去って行きました。もし、私が弟子のひとりだったら、後を追いかけてこう言ったでしょう。「ちょっとお待ちください。全部でなくて、少しずつで良いですよ。信仰がきたらささげれば良いのですよ」と。しかし、イエスさまは彼の後を追いかけませんでした。なぜでしょう?彼は神さまよりも、お金を信頼していたからです。今、従わないなら、これからも永久に従わないことを知っていたのです。ルカ9章で、イエスさまはある人に、「私について来なさい」と言われました。すると、その人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」イエスさまは「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました。

神の国に入る条件は従うということです。もちろん、キリストを信じることです。でも信じるということの中に従うということも含まれているということです。なぜなら、神の国は神さまが王として支配している国だからです。もし、私たちはキリストの主権を受け入れて、神の国に住まうならばどうでしょうか?どのような恩恵を受けるのでしょうか?これから、ずっと先まで、神さまがあなたの必要を満たし、あなたを外敵から守ってくださるということです。もし、神の王国にいながら、自分の王国で暮らすことは不可能です。なぜなら、王国には王さまが一人で十分だからです。「自分が王さまだ。だれの言うこともきかない」と言ったら、反逆罪で捕えられるでしょう。最初は、「救い主、私の友」としてだけ、信じて受け容れることもあるでしょう。同時に、イエスさまは王であり主であると受け容れる人は少ないかもしれません。でも、早かれ、遅かれ、王さまを交代しなければなりません。「自分が王ではなく、イエスさまが王なんだ」ということを認めなければなりません。でも、それが神の国において、平安で暮らせる秘訣なのです。あなたが救われているのに、いろんなことを恐れ、思い煩っているなら、自分が王さまであることの証拠です。王なるイエスさまにすべてをゆだねるなら、あなたに平安がやってきます。命も、財産も、将来も、イエスさまに何もかもゆだね、イエスさまがしなさいということをするのです。そうすれば、イエスさまはあなたの人生に責任を持ち、守りと必要を与えてくださるでしょう。

 

3.神の国に入った人の使命

 

もし、「救いとは死んだら天国に行けることだ」と定義するならどういうことになるでしょう?信じた人は、生命保険に入ったつもりで、死ぬまで好き勝手な生き方をするでしょう。死ぬ時に、「よろしくお願いします」と言うのです。そうではありません。「救いとは、神の国に入ることであり、王であるイエスに従うことである」と定義すべきです。そうなると、今、この地上に生きているときも、神の国の延長として大切になります。イエスさまは天に帰る前に弟子たちにこのようにおっしゃいました。ヨハネ17:15-18「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」簡単に言いますと、弟子たちはこの世に属しているのではなく、神の国に属している存在です。でも、この世から取去るのではなく、神さまのもとからこの世に派遣するということです。私たちも同じです。私たちはこの世に生きていますが、神さまのもとから派遣されている存在です。では、何のために派遣されているのでしょうか?主の祈りの中で、私たちは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。その祈りの中に「御国が来ますように」とあります。御国とは神の国ですが、どこに来るべきなのでしょうか?これは世の終わりに、御国が完成するようにという願いだけではありません。「今、この地上に御国が来て、神のみこころが行われますように」という意味です。私たちがこの地上に派遣されている目的は、神の国がこの地に広がるように働くということです。何をもって、そこで働くのでしょうか?

そのヒントになることばが、エペソ1章の後半にあります。エペソ1:2-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」このみことばの意味はこうです。神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っているということです。かしらはキリストです。そして、キリストのからだとは私たち教会です。私たち教会が器となって、神さまが持っておられるものをこの世に運んで行くのです。水を運ぶために器が必要なように、神さまは器が必要なのです。これまで教会は霊的なことだけにエネルギーを注いできました。もちろん、この世に霊的な救いをもたらすために福音を運ぶことが重要です。しかし、それだけではありません。神さまはあらゆる分野を神さまの良きもので満たしたいと願っておられるのです。神さまは芸術の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。神さまは政治の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。また、神さまは教育や医療の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。中世までは、すべては神さまの栄光のためにありました。しかし、17,18世紀になり啓蒙主義になって人間中心になりました。そのため、何のために生きるのか生きる目的を失いました。中世が良いというわけではありませんが、私たちは聖書から本来の目的を発見すべきであります。キリストが私たちをこの世から救い出してくださったのは、私たちが天国に行くためだけではありません。神さまは、この地上に神の国が来ることを願っておられます。

エクレーシアは教会というふうに訳されています。エクレーシアは「呼ばれたる者」という意味があります。でも、当時のギリシャ語の意味は少し違います。エクレーシアとは、「王さまが国を治めるために大臣を呼ぶ」という意味があるそうです。それは、大臣を任命する組閣と同じです。昨年末、自民党の大臣の組閣がありました。韓国でも大統領が選ばれたので、そのあと組閣がなされたと思います。当時の王さまは、自分と一緒にエクレーシアをつくるために、大臣を任命しました。ある大臣には国防を、ある大臣には貿易を、ある大臣には教育や医療を、ある大臣には都市計画を任せました。神さまはどんなお方でしょうか?神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っておられます。王なるイエスさまはある人には、ビジネスの分野を任せておられます。また、ある人には教育の分野を任せておられます。また、ある人には医療や福祉を任せておられます。またある人には政治の分野を任せておられます。またある人には音楽や芸術の分野を任せておられます。「いやー、私はそんな大それたことはできません」と断わるかもしれません。でも、自分がそこに派遣されている御国の大臣だと思うならば、どうでしょうか?これまでは、安い給料をもらうために嫌々働いていたかもしれません。でも、あなたは保育園に遣わされている御国の大臣、会社に遣わされている御国の大臣、家庭に遣わされている御国の大臣なのです。王なるキリストはあなたをその分野を治めてもらいたいと願っておられるのです。神の国の祝福を運び、神の国の拡大のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。そうすると、この地上での生き方が全く変わったものになるのではないでしょうか?天国に行くことだけが救いではありません。神さまはあなたに、御国の権威と御国の鍵を与えてくださいました。どうぞ、それらを豊かに用いて、この地に、御国が来るように働こうではありませんか。