2013.2.3「盲人の癒し マルコ10:46-52」

 かつてヨシュアは、難攻不落のエリコを神の奇蹟的な力で滅ぼしました。そのとき、ヨシュアは、このように呪いました。ヨシュア6:26「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」何世紀もの間、ヨシュアの呪いを恐れ、エリコの町の再建に着手しようする者がいませんでした。ところが、アハブ王の時代、ある者がエリコの町を再建しようとしました。そのとき、ヨシュアの呪いが成就して、彼は長子と末の子を失いました。新約時代、イエスさまはエリコのザアカイの家に、あえて泊まりました。また、「良きサマリヤ人のたとえ」の舞台にしました。その日、イエスさまはエルサレムに行くために、エリコの町を通過されました。町の門の近くに、バルテマイという盲人の物乞いがいました。イエスさまが彼の目を癒した時、「あなたの信仰があなたを救った」と褒めました。それはどのような信仰だったのでしょうか?

1.求める信仰

 

バルテマイは盲人ですから、自活することができません。毎日、人が出入りする町の門に出かけ、通路の端にゴザを敷き、器を置きました。「私をあわれんでください」と、人の施しを頼りに生活していました。その日の施しが多ければ、その分だけ、飲んで食べました。もし、その日の施しがなければ水しか飲むことができませんでした。人の施し次第で、その日、暮らしをしていました。彼はきょうもゴザと器を持って町の門に出かけました。しかし、その日は、ふだんとは違って、大ぜいの足音が聞こえました。「おお、きょうはたくさん身入りが入るぞ」と喜びました。耳をすまして聴くと、近頃、噂になっているメシヤがこの町を通るということでした。仲間の情報によると、「ダビデの子イエスは、どんな病気でも治すことができる。これまでも盲人や足なえを数多く治してきた」ということです。バルテマイの胸の音は高鳴りました。いよいよ、イエスさまが近くに来られたようです。群衆のざわめきで分かります。バルテマイは目が見えませんでしたので、自分からイエスさまのところに行くことができません。そこで、彼は大声を上げました。10:47-48「ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」目が見えない彼にできることは、大声をあげて、イエスさまの足を止めることでした。ところが、あんまり、彼の声が高いので、「うるさい、黙れ」と大ぜいの人がたしなめました。しかし、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。英語の聖書には、cry outとなっています。あらん限りの力を込めて叫んだのです。黙れと言われても黙らず、ますます泣き叫びました。

すると、どうなったでしょう?49節「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている』と言った。」イエスさまは、バルテマイの呼びかけを無視しませんでした。本当は、エルサレムに苦難が待ち受けているので緊張していました。盲人の乞食のことなどかまっている暇はありません。全世界の救いがかかっているからです。でも、イエスさまは足を止められ、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。イエスさまが足を止めたのは、彼の信仰を見たからです。「人々が『うるさい、黙れ』と制止しても、さらに大きく叫び求めるとは、なんという信仰なのだろう」思ったのです。イエスさまは「真夜中にパンを求めに来る友人」のたとえ話をしたことがあります。なぜ、友人にパンをあげたのでしょう?友人だからではありません。「あくまで頼み続けるので、そのあつかましのゆえに」必要なものを与えたのです。イエスさまは、あつかましい人がお好きなようです。日本よりもお隣の韓国や中国の方がはるかに救われる人が多いのはなぜでしょうか?日本人より、あつかましいからかもしれません。彼らは「主よ、主よ」と、日夜叫びながら家族や友人が救われるように祈っています。日本は、「みこころならば御救いください」と上品で静かです。二人の人が川で溺れているとします。救命士はどちらの方を先に助けるでしょうか?「助けてくれ!もうだめだ。おぼれ死ぬー」と泣き叫んでいる方でしょうか?それとも「もし、お手すきならば助けてください」と言っている方でしょうか?おそらく、前者の方を先に助けるでしょう。

バルテマイは、知っていたかどうかわかりませんが、最後のチャンスを逃しませんでした。イエスさまがエルサレムに行ったら、エリコには戻ってきません。十字架にかかって死ぬつもりだからです。もし、この機会をなくしたなら、二度とイエスさまとお会いできなかったでしょう。だから、バルテマイはあらん限りの声をあげて、イエスさまの足をとめたのです。この箇所を表すような聖歌もあります。聖歌540「主よ、わがそばをすぎゆかず。なが目をば、われに向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ。せつに呼びまつるわが声に。」イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあります。バルテマイは最後のチャンスを逃しませんでした。チャンスの神さまはキューピーちゃんに似ているそうです。体は裸でつるんつるんで、髪の毛は前にしかありません。「来たなー」を思ったら、前の髪の毛を捕まえなければなりません。お尻や背中だと、つるんとつかみそこねてしまいます。人生は決断の連続です。あまりあせってはいけませんが、「今がこの時だ」というチャンスを逃してはいけません。人生、救われるチャンスはいっぱいありそうですが、実はそんなにありません。私たちが求めていると、イエスさまが「良いよ」と、答えてくださる時があります。そのチャンスを逃してはいけません。イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」です。

 

2.行動する信仰

 

マルコ10:50「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」この短い聖句の中に、バルテマイの信仰が表れています。当時は現在のように、福祉制度がありませんでした。その代わり、「金持ちは、貧しい人に施すべきである。そのために神さまがその人を金持ちにしたのだ」という考えがありました。だけど、中には自分で生活できるのに、人の施しで生きるようとする怠け者がいました。そういうことがないように、政府では、特別な上着を支給しました。「この上着を身につけている者は、通りで物乞いをしても良い」という許可証みたいなものでした。彼は、いのちの次にこの上着が大切でした。なぜなら、これを身につけていないと、物乞いができないからです。ところがどうでしょう?イエスさまから呼ばれたとき、バルテマイは大事な上着を脱ぎ捨てました。暑いから捨てたのではありません。「もう、この上着には用はない。これからは人の施しには頼らない」という覚悟で脱ぎ捨てたのです。日本のことわざで、「退路を断つ」とか「後ろの橋を焼く」ということばがあります。もう、後戻りしはしないという覚悟です。バルテマイは「イエスさまは私の人生を変えてくださる。もう、物乞いはしなくても良い」ということを信じたということです。なんというすごい信仰でしょうか?

ある村で雨乞いの祈りをするために、人々が教会に集まりました。もう半年も雨が降らないために、農作物が枯れてしまいます。村人たちが教会に集まりましたが、一人の女の子だけは他の人と違っていました。その子だけが長靴をはき、傘を持ってきたからです。村人たちは、「こんなに天気が良いのに」と、その女の子をからかいました。それから村人たちは、「雨が降るように」と、一生懸命に祈りました。そのあと、みんなでお昼ご飯をいただきました。午後になり、帰ろうかと思ったら、大雨が降り出しました。でも、雨の中を帰ることができたのはたった一人だけでした。他の人たちは、「まさか、雨が降ることはないだろう」と疑っていたのです。神さまはだれの祈りを聞かれたのでしょうか?一人の女の子の祈りではないでしょうか?私たちはあることを神さまに求めたならば、それに相応しい行動をしなければなりません。バルテマイは、イエスさまに人生をかける決断をしました。バルテマイは目が見えること以上のことを願っていました。彼はイエスさまに従っていきたいと願っていたのです。52節の最後に何と書いてあるでしょう?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」と書いてあります。目が見えるようになったら、「自分の好き勝手なことをしたい」ではありません。彼は上着を脱ぎ捨て、イエスさまに従っていく人生を選んでいたのです。

ヤコブは「行いのない信仰は死んでいるのです」と言いました。逆に言うなら、本当に信仰があるなら、行動が伴うということです。たとえば、だれかを夕食に招くとします。その人が玄関に来てから、あわてて準備を始めるでしょうか?その日の夕食のために、一日がかりで準備をするのではないでしょうか?まず、部屋を掃除するでしょう。前日には食事の材料を買いに行くでしょう。その日には、テーブルに花を飾ったり、デザートも買っておくでしょう。準備万端を整えて、来られるのを期待して待つでしょう。同じようなことが人生にも言えます。神さまはみことばを通して、いろんな約束をくださいます。それを「もし、こうなったら良いのになー」と受け身的に待つのは正しくありません。あたかも実現しているように待つのです。そうすると、正しい準備、正しい行いが伴ってきます。バルテマイは目が良くなって、自分の足で生活することができるということを信じていたのです。だから、盲人の生活を保障していた上着を捨てたのです。さらには、「自分はこれからの人生をイエスさまに従っていくんだ」ということまで考えていたかもしれません。普通だったら、「ああ、これから好き勝手なことをいっぱいしようと」思うかもしれません。でも、バルテマイはイエスさまに従う人生を望んでいました。だから、目が見えるようになって、「すぐさま、イエスの行かれる所について行った」のです。

 

3.告白する信仰


マルコ10:51-52「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」イエスさまは、神さまですから、バルテマイが何を求めて来たか分かるはずです。バルテマイの方も「イエスさまの意地悪!これですよ、これ」と、指さして教えることもできたでしょう。でも、イエスさまは「私に何をしてほしいのか」とあえて聞きました。なぜでしょう?バルテマイは「私をあわれんでください」、「私をあわれんでください」と叫び求めました。でも、この言葉は、これまで人から施しを乞う時に良く使っていました。イエスさまは「私をあわれんでください」では、良く分からないだけではなく、不服だったのかもしれません。私たちクリスチャンはイエスさまに「私をあわれんでください」と求めるべきでしょうか?これは罪人が神さまに求める祈りです。でも、イエスさまは私たちのために十字架にかかり、既に、十分なあわれみを与えてくださいました。もし、私たちがイエスさまに、「私をあわれんでください」と願ったなら、イエスさまはどう答えられるでしょうか?おそらく、イエスさまは「私は既にあなたをあわれみました。何を願いたいのですか?願いたいなら、私の名によって求めなさい」とおっしゃるでしょう。イエスさまは私たちを罪人や乞食として扱ってはおられません。贖われた神の子どもとして扱っておられるのです。ですから、イエスさまは、上着を脱いでやって来たバルテマイを乞食として扱っておられません。その代わり、「わたしに何をしてほしいのか」と対等に聞かれたのです。
バルテマイは、「先生。目が見えるようになることです」ときっぱり告白しました。これは、とても大きな祈りではないでしょうか?ここに盲人が100人集まったとして、100人全員がイエスさまに「目が見えるようになることです」と求めるでしょうか?医者も「医学的に不可能なので、諦めなさい」と言ったでしょう。ある人は「奇跡なんか信じないで、現実を踏まえて生きなさい」と言ったかもしれません。また、ある人は「もし、答えられなかったら、それ以上に失望するから祈らない方が良い」と言いました。人は何を神さまに求めるかによって、その人の信仰が計られます。もし、神さまに大きなものを求めるなら、大きな信仰があるでしょう。もし、神さまに小さなものしか求めないなら、小さな信仰しかありません。なぜなら、神さまにはできないと思っているからです。イエスさまは、バルテマイがどんな信仰を持っているのか、その口から聞きたかったのです。バルテマイは、人にはできない、不可能なことを大胆に求めました。「先生。目が見えるようになることです。」イエスさまは、彼の信仰を見て喜ばれました。だから、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。ウィリアム・ケアリーはプロテスタント教会では、宣教の父と呼ばれています。彼は聖書を専門に勉強した人ではありませんでした。靴を修理する信徒伝道者でした。彼が言った有名なことばがあります。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」です。では、スムーズに宣教が進んだかというとそうではありません。インドに渡って、7年目に始めてインド人クリスチャンが生まれました。それから、迫害が続き、殉教者も出ました。経済的にも苦しみ、彼の息子が死にました。さらには、妻が12年間精神を病んだ末に亡くなりました。ウィリアム・ケアリーは73歳で亡くなりましたが、彼の精神が多くの人々に影響を与えました。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。小さな信仰には小さな障害が、大きな信仰には大きな障害が起こるでしょう。でも、神さまはどちらの信仰を喜ばれるでしょうか?ご自分に、不可能だと思えるような大きなことを求める人を喜ばれるでしょう。私たちはあまりにも常識的で、理性的かもしれません。人から変人だと思われないように、奇跡を求めることをしません。そういう人は、「目が見えるようになることです」とは、求めないでしょう。しかし、バルテマイは、自分の口で「先生。目が見えるようになることです」と告白しました。
私たちは毎日、どのようなことを告白しているでしょうか?「ああ、またやっかいなことが起こった」「お金がないからできないよ」「誰も、私を雇ってくれない」「不景気だから、仕事がない」「もう、年なので無理はしたくない」「ああ、老後が心配だ」。否定的なことばが多いのではないでしょうか?「私は年だ」と口で言うと、体全体が老化するように準備するそうです。「私にはチャンスが巡って来ない」と口で言うなら、あなたの環境がどのように準備するそうです。箴言にすばらしいみことばがあります。箴言18:20-21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」これは本当です。昔、私が高校生の頃「私ってダメな男」という欽ちゃんのことばがはやりました。一人の級友が何かある度に「私ってダメな男」を連発していました。私たちも彼を馬鹿にしました。そして、その級友は落第してしまいました。しかし、どうでしょう?一級落第した彼は、下のクラスでトップになりました。全く、別人になっていました。おそらく、あの流行語から卒業したからでしょう。どうぞ、世の人たちの否定的なことばを真似しないようにしましょう。クリスチャンは、神さまの子どもです。王子であり、王女です。ですから、ことばを信仰的なものに変えなければなりません。バルテマイは「幸せになりたい」とか漠然と求めたのではありません。「目が見えるようになることです」と具体的に求めました。ですから、私たちの祈りも、具体的でなければなりません。聞かれたか、聞かれないか、答えが分かるような祈りであるべきです。神さまはあなたの信仰に答えてくださるからです。
イエスさまは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼はどこに行ったのでしょうか?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」のです。イエスさまの救いとは、どういうものでしょうか?それは根本的な救いです。お金がいくらか与えられても、数日間だけ生活が楽になるだけです。でも、目が見えるようになったらどうでしょう?これからは人の施しに頼る必要はありません。自分で働いて生活することができるようになります。「ああ、これから好きなことができるぞ」と喜んだでしょうか?そうでもないようです。バルテマイはイエスさまが人生の主であることを認めました。なぜなら、肉体の目が開かれたと当時に、霊的な目も開かれたからです。だから、これからは自己中な生活を送るのではなく、イエスさまに従う人生に切り替えたのです。イエスさまを証ししながら、イエスさまと共に生きる人生を選んだのです。バルテマイの信仰とその人生を、私たちも倣うべきではないでしょうか?私たちはまなじっか、肉体の目が見えるので、イエスさまに従わなくても生きていけそうな気がします。この肉眼で、見えるものだけを見て、判断するところがあります。私はみことばを瞑想して祈るときは、目をつぶります。目をつぶると、見えない世界が見えてきます。目をつぶると、恐れが消えて、神さまにだけ信頼しようと思います。目をつぶると、自分の思いが消えて、神さまのみこころがさやかになります。イエスさまの救いは、一部ではなく、全人格的なものです。肉眼で見える世界も、肉眼で見えない世界も見えるようになりたいです。生活の物質的な豊かさも必要ですが、心の豊かさも得たいと思います。「愛は寛容である」というみことばがあります。もし、怒りぽくて、人をさばいて、いらいらしていたなら愛がないということになります。寛容さを持っているのは、愛があるというしるしです。そういう目に見えない、豊かさも必要です。生活全体の救いを得たいと思います。
マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです」とあります。マルチン・ルターは、この言葉から、「私たちは神さまなしでは生きてゆけない存在である。人類はみな乞食である」と言いました。ある人たちは「いやいや、私は神さまなしでも生きてゆける」と思っているでしょう。でも、本当にそうでしょうか?バルテマイは恥も外聞も捨てて、イエスさまに叫び求めました。私たちの本当の必要は何でしょうか?不信仰のゆえに、中途半端な生き方をしているのではないでしょうか?そうではなく、最善を最高のものを神さまに求めましょう。イエスさまはきょうも、「私に何をしてほしいのか」と聞いておられます。