2013.2.10「病の霊からの解放 ルカ13:10-17」

 「病の霊」と言うと西洋的な見地からすると、まったくナンセンスに聞こえるかもしれません。しかし、東洋では実際、厄払いをしたり、祈祷師から拝んでもらうということがあります。なぜでしょう?「その病気が、霊的なものから来ているかもしれない」という恐れがあるからです。たとえば、家族に同じ病気や障害をもっている人がいるとか、病院に行っても原因が分からないものがあるからです。でも、すべての病気が悪霊から来るというのは極端な考えです。マタイ8章に、「みことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた」とあります。イエスさまは、悪霊の追い出しと病気の癒しを別々に取り扱いました。ですから、すべての病気が悪霊から来るものではなく、ある種の病気や障害は悪霊から来るものがあるということです。

1.病の霊とは

 

ルカ13:10-11「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。」ひとりの女性が、病の霊に取りつかれ、18年間も腰が曲がったままでした。そこは、会堂であって、神さまを礼拝している特別な場所でした。悪霊が会堂にいても、全く平気だったということは残念なことです。イエスさまがこの女性から悪霊を追い出し、癒してあげました。しかし、人々の反応はどうだったでしょうか?喜ぶどころか、「安息日に人を癒すのは何事か。他の日にできないのか」と憤りました。イエスさまは、「安息日でも牛やろばが水を飲むために解放されるように、安息日だからと言って束縛を解いてはいけないのか」と答えました。彼らにとって、人が癒されるよりも、安息日を守ることが大切だったのです。イエスさまは本当の安息を与えるために、18年間も悪霊に縛られていた女性を解放しました。明日まで待たないで、その日、解放してあげました。イエスさまが、あえて安息日にこだわったのか、あるいは一日でも早く解放して差し上げたいと思われたのか、どちらかでしょう。その両方かもしれません。今日の教会ではどうでしょうか?もし、私が他の教会に招かれて、説教のあとに、病の霊を追い出したら、どう思われるでしょうか?「ありがとうございました」と言われるでしょうか?あるいは、「今は病の霊など存在しません。混乱を与えるようなことはやめてください」と反対されるかもしれません。

10年くらい前になりますが、台湾に伝道旅行に行った際、新松戸の津村先生とある教会で奉仕をしました。説教が終わった後、津村先生がミニストリーをしました。すると青白い女性が、お母さんと一緒に祈りを求めて前に来ました。良く見ると、さっきまでオルガンを弾いていた若い女性です。津村先生がいきなり「病の霊よ、去れ!」と命じました。その女性はその場にパタリと仰向けに倒れました。近くにいた人たちが一斉に離れました。私は隣にいたのですが、その女性は紙おむつのようなものを履いていました。「ああ、この女性は何かの病気なんだなー」と思いました。台湾のその教会では、「病の癒しや悪霊の追い出しはやったことがない」と言っていました。病や障害をもたらす霊がいることは、聖書のいたるところに記されています。マルコ9章には、古い訳ですが「おしの霊」が出て来ます。その子は「てんかん」の症状と良く似ていました。なんと、その悪霊は何度も、その子を火の中や水の中に投げ込んで殺そうとしていたのです。また、マタイ12章には、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人がイエスさまのもとに連れてこられました。人々は、「ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」とイエスさまを批判しました。しかし、イエスさまは「神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです」とおっしゃいました。また、スロ・フェニキアの女性の娘が、病名はわかりませんが、悪霊によって苦しんでいました。旧約聖書には、ヨブの記事があります。ヨブが重い皮膚病になったのは、神さまが許可されたからでした。しかし、直接、ヨブを皮膚病にしたのはサタンでした。

では、なぜ私たちは病の霊によって病気になることがあるのでしょうか?その原因が2つあります。第一はアダムが罪を犯してから、私たち人間に神の権威がなくなったということです。簡単に言うと、神の守りがなくなったということです。第二は私たちが神に背いて、罪や咎を犯すことがあります。また、過労やストレスで免疫力が下がるときがあります。たまたま通りかかった病の霊が、その人に入りこむことがあるということです。なぜなら、悪霊は自分が入るべき肉体を探し求めているからです。一度は出ても、部屋が空っぽであったなら、他の仲間を連れて入りこみ、前よりももっと悪くなります。つまり、悪霊は二次的なもので、直接の原因は私たち人間にあるということです。逆に言うなら、私たちが神さまに立ち返り、罪咎を悔い改めたならば、悪霊は容易に出て行くということです。マルコ2章に、4人の友人に運ばれてきた中風の人が書いてあります。イエスさまは最初に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。そのあとで、「起きて、床をたたんで歩け」と命じられました。ここには悪霊とは書かれていませんが、罪と病が関係していることが暗示されています。また、出エジプト記20章には、「偶像を拝む者には、父の咎を子に報い、三代、四代まで及ぼす」と書いてあります。つまり、だれか先祖が犯した咎により、病や障害が子孫に入りこむ可能性があるということです。そのドアを閉じないかぎりは、悪霊が呪いを持ち込むかもしれないということです。

 すべての病気を悪霊やサタンのせいにしてはいけません。自然治癒か医療の助けによって治る病気がほとんどだと思います。しかし、いろいろな治療を施しても、治らない場合は、悪霊の可能性もあるということです。そういう場合は、罪や咎を悔い改め、祈っていただく必要があります。ヤコブ5:14-15「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」

2.病の霊の解放


第二は、こちらが病の霊を追い出す場合です。「自分もしくは、病の霊を持っている人を癒す祈りをどうするか」であります。病もそうですが、病の霊の場合は、正しくは「祈る」のではありません。「出て行け」と命じるのです。ルカ13:12-13「イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」ここでは、イエスさまは命令していません。どちらかというと、宣言して、手を置かれました。もちろん、信仰が来たなら、そのように宣言しても良いと思います。しかし、多くの場合は、イエスの御名によって、命じると病の霊は去っていきます。なぜなら、私たちはイエスさまの御名の権威を用いることができるからです。イエスさまは弟子たちに「そのようにせよ」と命じましたし、私たちにも同じことを命じておられます。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」これは、牧師だけに語られているのではありません。「信じる人々」、すべてであります。アダムが罪を犯したために、私たちから神の権威が取り去られました。しかし、イエス・キリストが十字架で罪を贖ってくださいました。その次には、神の権威を信仰によっていただくべきです。私たちが「イエスの御名」の権威を用いるならば、悪霊は言うことと聞かなければなりません。悪霊は私たちを恐れているのではなく、私たちの背後におられる、御子の権威を恐れているのです。私たちには、悪霊は見えません。しかし、悪霊の方が、「あいつにはイエスさまがついているなー」と恐れているのです。
現代は肉体的な病気だけではなく、精神的な病気がたくさんあります。すべての病気が、悪霊ということはありませんが、悪霊から来るものもあります。たとえば、うつ病があります。脳の機能障害から来るうつ病もありますが、悪霊から来るうつ病もあります。チョーヨンギ牧師が、あるとき原因不明のうつになりました。何もやる気が起こりません。失望落胆が心を支配して、生きる気力さえ失せてしまいました。なぜだろうと思いました。何か罪を犯したからだろうかとも考えましたが、心当たりがありません。「これはひょっとしたら」と思って、牧師室でこのように祈りました。「私はイエス・キリストによって贖われた存在である。悪霊とは何の関係もない。失望落胆をもたらしている悪霊よ、イエスの御名によって出て行け。二度と入ってくるな!」と命じました。すると、耳元で「きゅー」という声がして、出て行ったそうです。そうすると、さきほどのうつが嘘のようになくなり、気分爽快になったそうです。私もそういうときがたまにあります。自分に対して、イエスの御名によって、病の霊が出て行くように命じるのです。すると、「あれ?何だったんだろう」ということがあります。ケネス・へーゲンの本にこのように書いてありました。「悪霊は人間を抑圧しようとして、ある程度の影響を及ぼすことがあります。たといクリスチャンであっても、悪霊に許してしまうなら、悪霊は人々の体やたましいの内側からでも外側からでも、だれでも抑圧することができます。気分が悪くなって、何が大きな黒い雲がおおかぶさるようなこともあります。それはサタンによる抑圧です。けれども、私たちがイエスの御名によってその抑圧を叱りつけ、それに対抗して立ち、それに抵抗すると、悪魔は私たちから逃げ去ります。クリスチャンは敵の抑圧の下で生活する必要はありません。また、人が抑圧から解放される時、自分の両肩から重荷が取さられたように感じることもあります。」
私たちはお互いに祈り合う必要があります。自分で自分の病の癒しをしても、あまりききません。なぜでしょう?たとえば、私が後ろ手でつながれて、椅子に座らされているとします。束縛された状態です。なんとかふんばって、手からロープをはずそうとします。時間をかければできるかもしれません。でも、一番楽なのは、他のだれかからロープを切ってもらうことです。聖書に「互いに祈り合いなさい」と書かれています。ですから、自分が病の霊にやられているかもしれないと思ったなら、信仰のある人から祈ってもらうべきです。私の家内は看護師なので、医学的な知識があります。「こうなれば、こうなると」先のことを知っています。だから、彼女は「早く医者に行って診てもらいなさい」と言います。私は「祈ってくれ」と頼んでいるのに、「医者へ行けとは何だ」と言います。だから、病気に関しては、よく喧嘩して一致がないときがあります。神さまは本当に不思議だなーと思います。超自然的な働きを信じる人と、医学的な働きに従事している人をよくくっつけたものだと思います。時には、私も譲歩するときがあります。でも、一番良いのは、祈ってから医療を受けるということです。神は医療を用いて癒してくださるように願うべきです。霊的な分野と自然科学の分野を見分ける知恵とバランスも必要かと思われます。

3.病の霊の予防


病の霊に対して、もっともしてはらないことは、「恐れ」です。この世ではニュースやいろんなテレビ番組が、「病気や事故、災いに陥る恐れがあるから注意するように」と警告します。『本当は怖い家庭の医学』という番組があります。あの女の人の声を聞くだけでも、恐ろしいですね。あの番組は、病気の恐れを振りまいています。そういう病気があることは、否定しません。しかし、その病気が発病する確率は一体どれくらいなのでしょうか?おそらく、数万人か数十万人に一人の割合ではないでしょうか?ある人は「今年はインフルエンザが流行するから」と予防接種を受けます。予防接種が悪いとは言いません。でも、「もしも、自分がインフルエンザにかかったならどうしよう」という恐れは禁物です。また、三人に一人は癌になると言われると、がん保険に入ろうかと心配します。どうして、自分が三人の二人の方に入るとは思わないのでしょうか?そういうことを言うと、「先生は医学の知識がないから」と言うかもしれません。確かに、医学の専門家はありません。でも、人があることを恐れて準備をするならば、病の霊に対してドアを開くことになります。つまり、病気になった場合の準備をするということです。外出時は必ずマスクをして、帰ったら良く手を洗っている人を見かけます。マスクや手洗い、うがいの習慣は良いと思います。でも、それ以上に重要なのは、たとえ口から菌が入っても「私は病気にはならない」という信仰です。私たちは病気の準備よりも、病気にならないために免疫力をアップする必要があります。どうしたら良いのでしょうか?大事なのは、普段からの睡眠と休養です。十分な睡眠は免疫力をアップします。また、正しい食事を取り、ストレスをためない生活です。いつも喜び、たえず祈り、すべてのことを感謝することです。そして、「神の守りがあるので、私は病気にならない」という信仰を持つべきです。その約束が聖書にあります。詩篇91:1-7「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」アーメン。恐ろしい疫病が歩きまわっています。でも、主が私を守ってくださいます。多くの人たちは、「千人がそうなったら、自分もなる。万人がなったら、自分もそうなるかもしれない」と恐れています。しかし、千人が私のかたわらに、万人が私の右手に倒れても、私は大丈夫なんです。なぜなら、全能者なる神がわが避け所、わがとりで、わが大盾だからです。
私たちは「病気にならないように」と願うのではなく、むしろ神の健康をいただくべきであります。ある人たちは「病気にならないように」「病気にならないように」と注意しているのに病気になります。医者の息子がいました。彼は何かある度ごとに薬を飲んでいました。でも、風邪をひきやすく、また神経症のため起き上がれないことがよくありました。手もまんべんなく洗います。過敏なくらい清潔好きです。でも、よく病気になります。なぜでしょう?医学的な知識が豊富で、「こうしたらこういう病気になる。だから、こういう薬を飲んで予防しよう」と恐れているからです。風邪薬も普段から飲んでいると、いざ風邪にかかったときにききません。抗生物質を飲みすぎると、自分の中にもともとあった免疫力もなくなるからです。不思議に「病気にならないように」と恐れると病気になります。そうではなく、私たちは神の健康をいただくべきであります。神の健康とは何でしょうか?さきほど引用したケネス・へーゲン師はある著書でこう述べています。「これまで私たちは、すでに病気にかかっている人々の癒しに関心を払ってきましたが。神の子どもであるあなたに対する神の最善は、本当は癒し以上のものです。神のみこころは、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」(Ⅲヨハネ2)ことです。神は私たちの体力を鷲のように一新してくださいます。神のみこころは、私たちが幾度も幾度も救われることではありません。同じように、神の最善は、神が幾度も幾度も私たちを癒すことではなく、私たちが健康な状態にとどまることです。もし、私たちが神の命令に従順で、神と交わって生活するなら、神の健康を受けることは確かな権利なのです。ですから、サタンが私たちの体に病気をもたらそうとするとき、私たちは病気に負けてしまうまでじっとしているべきではありません。サタンが最初の一撃を受けたとき、私たちは立ち上がって彼をしかりつけなければなりません。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
私たちはグッドニュースである、聖書のみことばにいつも浸っているべきです。テレビ番組のバッドニュースをまにうけてはいけません。ある場合は、医者の言うことも聞き流さなければなりません。彼らは責任を逃れるために、最悪のことを言うときが多々あるからです。最悪を信じてはいけません。私たちは神さまのみことばから最善を信じなければなりません。ある時、当教会にメル・ボンド師が来られたことがあります。一人の姉妹が亀有駅からタクシーで来ました。「ひざが痛いので、二階には上がれないので、下で祈ってもらいたい」と言いました。しかし、集会が既に始まっていました。私は上で先生のメッセージを聞いていました。ミニストリーの時間になり、気がついたら彼女が前に進み出ました。メル・ボンド師が「ただリラックスして、癒しを受けなさい」と祈りました。そのあと、先生は彼女に「この通路を走ってみなさい」と言われました。彼女は「いいえ、医者から走ってはいけないと止められています」と拒否しました。先生は「あなたは医者のことばと神さまのことばと、どちらを信じるのですか」と言いました。彼女は「お医者さんです」と答えました。そして、ゆっくり、ゆっくり歩きました。彼女は帰りもタクシーで帰りました。メル・ボンド師の癒しが完璧であるとは言いません。でも、みことばに賭けることが重要ではないかと思います。使徒3章でペテロは生まれつき足なえの人に命じました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。そのとき、「いいえ、私は歩けません。これまで歩いたことがないからです」と断わったでしょうか?ペテロが右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、完全に癒されました。私たちがみことばに答えるならば、神の力が臨み、奇跡が起こるのです。私たちに、信仰によって踏み出す分があるということです。
イエス・キリストは十字架で私たちの病を背負われました。さらには、十字架で呪いとなってくださり、私たちの呪いも背負ってくださいました。ですから、私たちは健康になるのが当たり前なのです。神さまは私たちに永遠のいのちをくださいました。天国に行くまで病気でいなさいということではありません。神さまは、永遠のいのちが肉体にまで及ぶことを願っておられます。病の霊に負けないで、神の健康をいただきましょう。イザヤ40:29-31「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」