2013.2.17「罪による病の癒し ヨハネ5:1-14」

 なぜ、私たちに病や障害があるのでしょうか?その根本的な理由はアダムが罪を犯したからです。アダムの罪によって全人類に死と呪いが入りました。もし、病が死を弱くした形だとするなら、すべての人がその影響を受けるはずです。年を取れば取るほど、あちこち壊れてくるのはそのためです。アダムの罪によって肉体的にダメージを受けているので、不節制とか不養生が加わるならば、病気になるのは当然です。さらには、個人が犯す様々な罪によって、精神的な病あるいは肉体的な病になるということもあり得ます。きょうは、罪が原因している病とはどのようなものなのか?さらには、それに対する癒しとはどのようなものなのか、共に学びたいと思います。

1.罪による病


私たちが犯す罪によって、病気になることがあるのでしょうか?エルサレムのベテスダの池の周りには、さまざまな病人が伏せっていました。ヨハネ5:3-5「その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。」そこにいた全員が、罪による病であるということはないでしょう。しかし、38年もの間、病気にかかっている人は、原因がはっきりしていました。彼はイエスさまによって奇蹟的に癒されました。その後、イエスさまと再会したとき、こう言われました。ヨハネ5:14「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』」イエスさまの言葉から、この人の病気が何らかの罪を犯したことが原因であることが分かります。彼は自分が犯した罪のゆえに病気にかかり、それが38年間も及んだということです。病気の期間が長いので、「治りたい」という希望も失せていました。イエスさまが彼を見出し、一方的に癒して差し上げました。彼は「治りたい」と口で答えていません。でも、イエスさまが「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われたとき、そのことばに従いました。起き上がろうと決心したとき、体がたちまち癒されて、床を取り上げることができたのだと信じます。昔は、罪によってなる病気の代表は「梅毒」でした。この病気は胎内にいる子どもにまで移るので、大変、恐れられていました。旧約聖書では、罪のさばきのために、神さまから疫病が送り込まれることがありました。エジプト、イスラエル、アッシリヤの民が、ペストのような疫病で倒れています。

医者に行っても、「それはあなたが犯した罪のせいです」とは決して言われないでしょう。でも、申命記28章を見ると、そうでないことが分かります。申命記28章の前半には、「もし主の御声に従い、命令を守り行うなら、繁栄と祝福が与えられる」と書いてあります。しかし、「主の御声に聞き従わず、命令とおきてを守らないなら、呪われる」とも書いてあります。申命記28:22以降「主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。…主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。」現代的に、どういう病気なのか分からないものもありますが、肺結核、様々な熱病、皮膚病、腫瘍、精神的な病気や障害などが記されています。これらは呪いであり、神の律法を破ったゆえに来るものです。しかし、幸いなことに、イエス・キリストが律法の呪いを受けてくださいました。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」さらに、Ⅰペテロ2:24「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」とあります。ですから、キリストの十字架によって、申命記28章の病が、そのまま全部、私たちに及ぶことがなくなったということです。

 では、「クリスチャンになったら、病気にならないのか」というと。そういう意味ではありません。はっきりと申しあげられることは、「クリスチャンになったら病気にかかりにくい」ということです。でも、病気になることがあります。第一はアダムの罪から来た肉体的な死からだれも免れることができないということです。私たちが死ぬということは、何らかの病気になる可能性があるということです。第二は、クリスチャンであっても神さまの法則を破るならば、病気になることがあり得るでしょう。この自然界には、万有引力や作用反作用など、様々な法則があります。クリスチャンであっても、2階から落ちたら怪我をしますし、死ぬこともあります。私たちがもし、神さまのおきてや命令を破るならば、その支配を受けるということです。たとえば、同性愛は聖書で禁じられています。すべてのエイズが、同性愛が原因であるとは言いません。でも、同性愛者がエイズにかかる確率が高いということは事実であるようです。また、アルコールの飲みすぎやたばこの吸い過ぎも、病気になるでしょう。人を赦さない罪、激しい怒りや憎しみ、思い煩いも病気を招くことがあります。そういう風に考えますと、クリスチャンであっても神の法則を破るならば、病気になることがあるということです。もちろん、すべての病気がそうだとは申しません。車でも人からもらう交通事故があるように、インフルエンザとか食中毒、遺伝的な病気もあります。私がこういうことを話し続けると「医学的な知識のない牧師が何を言っているんだ」と反発する方もおられるでしょう。でも、特に西洋の医学は、唯物的で目に見えるものしか考えません。「アダムの罪とか、その人が犯した罪が原因です」という医者は皆無でしょう。でも、それが問題なのです。神のことばである聖書に私たちは耳を傾けなければなりません。なぜなら、人間の医学は病気と死に対して、完全な答えがないからです。神さまが全世界と私たち人間を造りました。神さまは創造された直後に、「すべてが良かった」と言われました。しかし、この世においては、病気や死が人々を支配しています。国家が、どの位の額を保険金や医療費にかけているでしょう?どんなに医学が発達しても、病気を完全に治すことができません。私たちはへりくだって、神のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか?


2.罪の告白による癒し

ダビデは大きな罪を犯したにもかかわらず、知らんぷりしていました。王さまということで、罪をもみ消していたのです。でも、彼の内側はどうだったでしょうか?詩篇32:3-4「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」このところに、病気とははっきり書かれていません。でも、骨や骨髄に死ぬほどの痛みがあったことは確かです。いろんな痛みがありますが、骨の痛みは尋常ではないと聞きます。骨膜というのがあるそうですが、骨膜は体の中でも最も強い痛みを感じる部分だそうです。ダビデのことばは、あるいは比ゆかもしれません。心の中の、ひどい苦しみをそのようにたとえたのかもしれません。とにかく、生きているここちがしないほどの苦しみがあったのでしょう。でも、彼が罪を告白したらどうなったでしょうか?詩篇32:5「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」詩篇32:1には「幸いである」と書いてあります。つまり、罪を隠していたときは苦しくてしょうがなかったけど、告白したら重荷が取り去られて楽になったということです。それは、精神的にも肉体的にも言えたのだと思います。罪を正しく処理していないために、病気になることもありえるのではないでしょうか?チョー・ヨンギ牧師のもとに、ひどい関節痛を患っている女性の校長先生がやってきました。チョー先生がいくら叫んでも癒されませんでした。チョー先生は「あなたはだれかを恨んでいませんか」と聞きました。彼女は、自分を捨てて他の女性のもとに行った元の夫を赦していませんでした。チョー先生は「憎しみと恨みが、関節痛を引き起こしているのです。元の夫を赦し、祝福しなさい」と言いました。彼女は目をつぶって、しばらくもがいていました。しかり、振り絞るような声で「赦します。祝福します」と信仰によって宣言しました。数日後に、彼女の関節痛は完全に治ったということです。

新約聖書マルコ2章には、中風の癒しの記事があります。4人は友人の病を癒してもらうためやって来たのに、イエスさまは何とおっしゃったでしょう?「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。このところはとても複雑ですが、罪と病気が関係していたと考えることも可能です。「彼の内側に罪責感があったのではないだろうか」と解釈する人もいます。もし、罪責感があるならば、「私は病気になって苦しむのが当たり前、癒しをいただくような権利がない」と考えるでしょう。罪責感が病の癒しを妨げているならば、罪の赦しの宣言を最初にすべきでしょう。理由ははっきりしませんが、イエスさまは罪を赦された後、彼の病を癒されました。また、ヤコブ5章に、人が病気になった場合どうすべきかについて記されています。ヤコブ5:14-16「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」このところに、「もし、病気であれば、長老たちを招いて、祈ってもらいなさい」と書かれています。この祈りは、病気の癒しのためであろうと思います。しかし、後半には、「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあります。全体の文脈から考えると、ある病気は、罪を告白していないことが原因しているということです。だから、癒しのためには、互いのために祈ることがとても大切だということが分かります。初代教会の頃は、こういうことが頻繁に行われたようです。ところが、いつからかプロテスタント教会では神さまに罪を告白すれば良いと個人主義的になりました。私たちも「罪は神さまにだけ告白すれば、それで赦されるんだ」と、やってきました。でも、ある罪は一人で祈っても解放されません。そのため、ある病気がその人をずっと支配しているならば、大変不幸なことです。ですから、私たちは、原点に帰って、癒しを受けるために、互いに罪を言い表すことが必要だということを学ぶべきです。みなさんは、互いに罪を言い表せるような信仰の友をお持ちでしょうか?ぜひ、そういう人を見つけて、この原則を守りたいものです。イエスさまは弟子たちを二人ひと組で遣わしました。ひとつの理由は、互いに祈ることができるためであります。

10年以上前に、LTGというものが教会に導入されました。LTGとは、ライフ・トランスフォーメーション・グループという意味です。直訳すると、「人生が変わるグループ」です。イエスさまはマタイ18章でこのように約束されました。マタイ18:19-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばによると「どんなことでもかなえられる」ということです。しかも、一人で祈るよりも、ふたりでも三人でも祈る方がより効果的だということです。罪を言い表すだけではなく、祈りの課題を出し合ったり、みことばの恵みを分かち合うこともできます。現代は携帯をだれでも持っている時代です。「このために祈って」とメールで流すこともできるでしょう。イエスさまは一人の祈りも聞かれますが、ふたりもしくは三人が心を一つにして祈る大切さを教えておられます。インドネシアのエディ・レオがこのように、言ったことがあります。「現代の教会で最も実行されていない、聖書の命令は、ヤコブ5章の互いに罪を言い表して祈ることある。その代わり、心の病気を持った人に、カウンセリングをして、あなたは悪くないと言う。さらにカウンセリングを一年、二年続ける。しかし、昔は、現代よりも心の病気が少なかった。なぜなら、互いに罪を告白して祈って、癒しを得たからである」と言いました。私たちはヤコブ5章の命令を再発見すべきです。ふたり、三人が互いに心を合わせていのる。また、互いに罪を言い表し、互いに祈る。そのことを実行して、心も体も癒され、健康になるように神さまに求めるべきです。


3.心の状態と病の関係

 

 昔の人たちは「病は気から」とよく言ったようです。しかし、これはまんざら嘘でもないようです。なぜなら、心と体は密接に関係しているからです。心の状態がそのまま、肉体に現れるということがよくあります。現代は「認知行動療法」というのが良く行われています。これはカウンセリングの一種ですが、パニック障害やうつにとても効果があるようです。最初に、ゆがんだ考え方を変える。すると感情が変わります。そうすると、行動や体調も変わっていくという論理です。逆に、行動を変えると感情や考えにも影響を及ぼしていくということもあるようです。心と体が関係している、これは何千年も前から聖書が教えています。箴言14:30「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」、箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」どういう心の状態が病気を引き起こすのでしょうか?まず言われているのは「激しい思い」です。英語の詳訳聖書によると、「妬み、嫉妬、怒り」となっています。みなさんの中に妬みや嫉妬、怒りはないでしょうか?それから「陰気な心」も良くないですね。何でも否定的、悲観的に見る心です。それに対して、「穏やかな心」は、からだのいのちです。英語の詳訳聖書によると、「平静な、乱されない心」となっています。単なる穏やかさではありません。思いがけないことがあっても、「主にあって大丈夫、なんとかなる」という心です。以前の私は小さなことでも、動揺し、反応しました。正直、今でもテレビを見て1つ1つ反応するので、家内によく注意されます。自分では、あまり意識していないのですが、怒ったり、つぶやいたりしているようです。日本人は感情を押し殺しがちですが、アメリカ人は感情をストレートに出します。反応するのは、私の性格なので、しょうがないと思います。でも、以前ほど、動揺しなくなりました。思いがけないことが起きたとしても、「そういうこともあるよね」と軽く流せるようになりました。なぜなら、主が万事を益としてくださることを腹の底から信じられるようになったからです。

興味深いことに、箴言17:22は英語の聖書にはこのように書かれています。A happy heart is good medicine and a cheerful mind works healingとなっています。直訳すると「幸せな心は、良い薬である。そして、明るい思いは癒しのために働く」ということです。ジョエル・オスチンというアメリカの牧師が『今日のためのホープ・バイブル』という聖書を出版しました。箴言17:22をこのようにコメントしています。「神さまはあなたに、健康で長生きし、幸いな人生を送るための処方箋を与えておられます。そのためには、笑うこと、それもたくさん笑うことです。笑いの薬は、健康に生きるための鍵です。しかし、あなたは笑いに関して調べることから始める必要があるかもしれません。学者たちは笑いが免疫システムを上昇させることを明らかにしました。さらに、笑いがストレスを削減し、心臓発作のリスクを削減し、まるで自然の安定剤のように働くということです。それらは、すべての人に必要な、健康の要素です。だから、石の顔で生きる人の行く道は悲惨なのです。敵はクリスチャンであるためには、陰気で真剣さが必要なことを、多くの人たちに信じ込ませています。だが、そんな嘘は信じないように。クリスチャンはこの地球上でもっとも、幸せな人々でなければならないのです。笑いで満たされた生き方を始めなさい。神様はあなたが笑って、健康に生きてもらいたいのです。」アーメンです。日本人はそれでなくても、シリアスで、何でも深刻に考えるところがあります。クリスチャンになったら、さらにその度合いが増すかもしれません。しかし、神さまは陰気で深刻な顔をしているクリスチャンを望んでいないようです。健康のためにも、よく笑い、ハッピーで明るいクリスチャンであるべきです。

イエスさまは「世にあっては患難がある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。病気も患難の1つであろうと思います。神さまが私たちに病気を与えているのではありません。自分の子どもが病気になるのを願っている親は一人もいないでしょう。そうではなく、私たちはこの世で肉体をもって生きているので、病になるときもあるということです。伝道者の書7:14「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」とあります。他の訳では「熟考せよ(深く考えよ)」となっています。そうです。私たちは病気になったとき、どうして病気になったんだろうと深く考えます。不節制だろうか?何か罪を犯したせいだろうか?それとも遺伝だろうか?「あのことが原因なのだろうか?このことが原因だったのだろうか?」と悩みます。理由が分かるときもあれば、わからないときもあります。しかし、もっと重要なことは、神さまのところに逃げ込み、深く交わるということではないでしょうか?普段、健康でうまくいっているときは、あまり祈りません。しかし、患難や、逆境、病気になったときはどうでしょう?私たちが、最も神さまの近くにいるときではないでしょうか?ある場合は罪を悔い改め、心からの癒しを求めます。ある場合は、お医者さんやお薬を用いてくださいと祈るでしょう。でも、病気になって、あるいは入院して、最も幸いなことは、神さまと深く交わることができるということです。時には嘆き、時には泣きながら、自分の思いを訴えます。最終的にはすべてを神さまにゆだねます。そうすると、神さまから深い慰めと平安がやって来ます。これは使徒パウロも経験しています。彼は3度も祈りましたが、癒されませんでした。しかし、主がパウロに言われました。Ⅱコリント12:9「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。弱さや病気があったままでも、それらを乗り越える力が与えられるということです。私たちができることは何でしょう?健康のときも、病のときも、神さまを喜び、感謝するということです。なぜなら、すべては神さまの御手の中にあるからです。