2013.2.24「運命からの救い ヨハネ9:1-7」

 ある人は運命に流され、ある人は運命に立ち向かおうとするでしょう。どちらにしても、「人間は運命という大きな力によって翻弄されている存在である」という前提があります。私たちクリスチャンは運命ではなく、摂理という言葉を用います。運命は偶然の積み重ねですが、摂理はそうではありません。摂理とは、万事が益となるために、働いてくださる神のご計画です。神さまは善なるお方で、私たちを滅ぼそうとするようなお方ではありません。きょうは、「運命からの救い」と題して、聖書から共に学びたいと思います。


1.神のみわざ


弟子たちは生まれつきの盲人を見て何と言ったでしょうか?ヨハネ9:2「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」当時のユダヤ人は、「先祖の咎が子に報いる」と考えていました。日本にも、過去の出来事が現在に及ぶという、因果応報の考えがあります。しかし、弟子たちは両親だけではなく、「その人自身が罪を犯したからですか?」と聞いています。生まれつきの盲人は、いつ罪を犯したのでしょうか?胎内にいたときから罪を犯したのでしょうか?詩篇51:5「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」このみことばは、赤ちゃんも罪の影響を受けており、赤ちゃん自身にも罪があることを示唆しています。しかし、元をたどれば、それは人類の先祖、アダムであります。すべての人類はアダムの子孫として生まれました。だから、本人や両親、祖父母ばかりが罪を犯したのではありません。アダムの罪のゆえに、人類に死が入り、様々な病気や障害が入ったのです。しかし、「だれが罪を犯したのか?」ということを探し当てたとしても、この人の目が見えるようになるのでしょうか?私たちも不慮の事故が起きたとき、「何故、こんなことが起きたんだ。だれのせいだ」と言わないでしょうか?重い病気になったときも、「何故、私だけがこんな病気になったんだ」と嘆くでしょう。「何故」「だれのせい」という問いは、あまり役にたちません。なぜなら、人生において、原因がわからないことの方がはるかに多いからです。運命も同じです。私たちは運命に翻弄されて、「何故、どうしてこんなことが起こったんだ」と嘆くのです。
でも、運命とは別の見方があります。ヨハネ9:1「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」ある英語の聖書を訳すとこうなります。「イエスが通過されるとき、生まれた時から盲目である一人の男性を注目した」。もし、この男性がイエスさまに目をとめられなかったら一生このまま、盲目のままだったでしょう。彼は運命の流れのまま、盲人に生まれ、盲人で過ごし、盲人のまま死ぬしかありませんでした。でも、イエスさまが彼の人生に介入されたのです。イエスさまは、どのように答えられたでしょうか?ヨハネ9:2「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」イエスさまはだれかの罪のせいではなく、「神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃいました。このところで一番、注目すべきことばは「ため」という言い方です。先ほどのものは、「何故、どうしてこんなことが起きたのだろう」という質問でした。しかし、そうではありません。私たちは「何のためですか?」と質問を変えるべきです。私たちは、不慮の事故、病気、障害、さらにはいろんな災害に遭遇します。その度に、「何故、どうしてこんなことが起きたのだろう」と嘆いてきました。そうではなく、「何のために、こういうことが起きたのですか」と問うべきです。そうすると、イエスさまはどう答えるでしょうか?「神のわざが現れるためです」と答えるでしょう。なんと力強いことばでしょう。人生おいて、私たちがどうしても埋めることのできない欠けがあります。この人のような生まれつきの障害であったり、不慮の事故、取り返しのつかないような出来事があります。でも、イエスさまは「神のわざが現れるためです」とおっしゃいます。でも、これはどういう意味でしょうか?それは、イエスさまが私たちの欠けたるところを満たしてくださるということです。表現を変えるなら、運命に勝利させてくださるということです。

それでは、この男性に起こった、イエスさまの満たしとは何だったのでしょうか?この男性は生まれつき目が見えませんでした。一般の人と比べて、目が見えないというハンディを負っていました。ところが、イエスさまは彼に光を与えました。なぜ、イエスさまが生まれつきの盲人に目を止められたのでしょうか?イエスさまにはイエスさまの理由がありました。ヨハネ9:5「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスさまはこの地上にいるとき、世の光として働く使命を担っていました。簡単に言うと、「私は世の光である」ということを示すために、地上におられたということです。するとそこに、光を持っていない、生まれつきの盲人がいました。イエスさまは何と思われたでしょう?「ああ、私は世の光なので、この人に光を与えなければならない。なぜなら、それが私の使命だから」と思われたでしょう。もし、その人の目が見えていたならば、イエスさまは黙って通り過ぎていたでしょう。なぜなら、改めて、神のわざを現わす必要がないからです。でも、その人は生まれつき盲人で、光がありませんでした。だから、イエスさまにとって、自分が世の光であることを示す、良い機会だったのです。ヨハネによる福音書には「奇跡」ということばはありません。そのかわり、「しるし」と言い換えています。「しるし」とは、単なる奇跡ではなく、そこには意味があるということです。イエスさまはご自身が、世の光であることを示すために、奇跡を行われたのです。

「神のわざが現れるため」とは、運命を乗り越える、すばらしい回答ではないでしょうか?でも、自動的にすべてのことに神のわざが現れるのではありません。最も重要なことは、イエスさまがそこに来られ、介入するということです。イエスさまが御手を伸べてくださるとき、神のわざが現れるからです。今も、イエスさまは御霊によってこちらにお出でになっておられます。キリスト教用語では、「臨在」と言います。神さまが臨在されるとき、救いのみわざが起こるということです。今も、イエスさまが御霊によって、私たちの欠けたるところを満たそうと歩きまわっておられます。イエスさまはあなたの運命を変えてくださる、力あるお方です。


2.人間の参加

 イエスさまは神のみわざを行うために、生まれつきの盲人に出会ってくださいました。イエスさまはどのようなことをして、彼に光を与えたのでしょうか?ヨハネ9:6「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」イエスさまはことばだけでも、彼の目をあけることができました。しかし、このところでは、かなり面倒なことをしています。なんと、地面につばきをして、泥を作り、その泥を盲人の目に塗りました。さらには、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じました。第一の質問はなぜ、泥を作って目に塗ったのかということです。創世記2章には、人間は土のちりで作られたと書いてあります。動物はみことばで造られましたが、人間は手造りでした。生まれつきの盲人ということは、目に欠陥があったということです。イエスさまは土を泥にして、目の部分を作りなおしたと考えても良いかもしれません。でも、それだけではないと思います。もっと重要なのは、彼にも運命からの救いに参加してもらいたかったからです。もし、彼が「馬鹿にするな」と言って、シロアムの池に行かなければ、どうでしょうか?目は開かれませんでした。彼には、すべきことがありました。イエスさまの言うことを聞いて、手探りでもシロアムの池まで行ったということです。その場所から、シロアムまでどの位の距離があったか分かりません。でも、彼はシロアムまで行き、その池の水で洗うという課題が残されていました。目が見える人なら楽ですが、盲人にとっては大変なことだったでしょう。そして、「どうしてそんなことをするのか?」不可解なことでもありました。しかし、どうでしょう?「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」アーメン。ハレルヤです。イエスさまは私たちの運命を変えるとき、私たちのすべき分を少しだけ残しておられるようです。それは私たちが神さまのわざに参加するということです。表現を変えると、自分の分を果たすということです。自分の分を果たしたときに、神のわざが現れるのです。

昨年末、星野富広詩歌展がお茶の水で開かれていました。星野富広さんといえば、「詩歌集カレンダー」で有名です。彼は体育教師でしたが、跳び箱の実技をしているとき、頸椎を損傷してしまいました。その事故以来、首から下全部が麻痺してしまいました。その会場で、星野富広さんの証のCDが流れていました。事故があった後、病院に運ばれて、手術を受けました。何時間かたったのでしょう?ストレッチャーに乗せられて、手術室から出てきました。自分の病室に入るとき、トイレのそばを通ったのでしょう。おしっこの匂いがしました。星野さんは「ああ、おしっこの匂いがする。「自分は生きているんだ」。おしっこの匂いがなつかしく感じたそうです。しかし、それからが大変な人生でした。普通なら「なんでこんなことが起きたんだ」と自暴自棄になってもおかしくありません。しかし、病室に訪ねて来た牧師やクリスチャンによって、信仰に導かれました。星野さんにとって、神のわざが現れるとはどうことだったのでしょう?一番良いのは奇跡的に麻痺が治って、元通りになるということでしょう?神さまの計画は、そうではありませんでした。彼は筆を口にくわえ、絵を描くことを学びました。手でも描けないのに、口で描くとは何と大変なことでしょう?ある時、野良仕事で帰ってきたお母さんに見せました。「あっ」と、お母さんが驚いてくれました。それが何よりも嬉しかったそうです。星野さんは1カ月に大体2枚の絵を描きました。そして、とても深い数行の詩をそこに書き加えました。その詩がまた奥が深い。星野さんが癒されることもすばらしいことですが、彼が描いた絵と詩が、数えきれない人を励ましました。日本ばかりか、ニューヨークやサンフランシスコ、ワルシャワにも渡ったそうです。彼の体はいやされませんでしたが、神のわざは十分に現れたと信じます。では、星野さんが運命を変えるために、参加したことは何でしょう。それは、口に筆をくわえて絵や文章を書いたということです。彼は体が動く以上に、多くの人にキリスト教の感化を与えました。でも、彼は、体が回復することを願っていなかったかというとそうではありません。『ぺんぺん草』という題ですが、こう書いてあります。「神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした。」天国に行ったら、そのことが実現すると確信します。一度ではなく、何遍もです。

 もちろん、体が奇跡的に癒されて運命が変えられた人もいます。ケネス・へーゲン牧師は、血液の病気で、他の子どもたちのように走ったり遊んだりすることができませんでした。なぜなら、彼の心臓は奇形で、不治の血液病も患っていたからです。世界でも有名な医者から「医学史上、君の病気を患った人で16歳まで生きた人は一人もいない」と言われました。16歳の誕生日を迎える4カ月前は、寝たっきりの状態でした。ある日、自分の内側に静かな声が聞こえました。「あなたは、この若い歳で死ぬ必要はありません。あなたは癒されることができます」。彼は「どうすれば、私はいやされることができるのでしょうか?」と聞きました。同じ内なる御声がこう言いました。「それはすべて、あの本の中にあります。」彼は「あの本とは聖書のことだな」とすぐ分かりました。それで彼は、昼も夜も聖書を熱心に学び始めました。彼がマルコ11:23,24を読んだ時、子牛に焼きごてで烙印が付けられるように、そのみことばが彼の霊に押されました。「あなたが祈って求めているどんなものでも、受け取っていると信じていなさい。そうすれば、あなたがたに成ります。」先生はその日から、65年間ずっと癒されているそうです。ケネス・へーゲン師がいやしの中でよく主張していることがあります。先生の本に「あなたがすべきことをしなければならない」という題でこう書いてありました。いやしは私たちのものです。しかし、ほとんどの人がミスをしてしまうのは、次のように考えるからです。「もし、いやしが私のものであるのなら、どうして私はそれを受けていないのだろう?」つまり、「熟したサクランボが木から落ちるように、神のその恵みを自動的に私の上に落ちて来るはずだ」と彼らは思っているのです。この恵みは、神の書かれたことばへの信仰によって自分のものとしなければならないのです。つまり、神がご自分のみことばの中で私たちのためにすでに備えてくださった数々の恵みを、私たちは信仰によって受け取らなければならないのです。
生まれつき盲人の人は、イエスさまから「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられました。もし、彼が「いやです」と行かなかったらどうでしょう?彼の目は一生、癒されませんでした。彼はイエスさまのことばに従ったのです。私たちも同じように、みことばに基づいて行動するときに、癒しの油が注がれるのです。イエスさまは、運命を変えるとき、あなたにも信仰を用いて、行動すべき余地があることを教えておられます。私たちが信仰によって一歩踏み出すときに、神のみわざが現れるのです。

3.神の報い

 因果応報ということばはあります。その意味は、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。もとは仏教語で、行為の善悪に応じて、その報いがあること」とありました。どうしても、因果応報はあきらめることにつながるようです。運命の一面をとらえていることばかもしれません。しかし、神さまは因果応報から、また運命から救ってくださるお方です。ところで、良い報いであっても、プラスマイナス・ゼロという感じがします。同じように、神さまの回復ということを言うとき、プラスマイナス・ゼロなのでしょうか?旧約聖書に償いという考えがあります。出エジプト22:1「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」さらに、22:4「もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。」だれかが、償いをする場合、同じ量ではいけません。五倍、あるいは四倍、少なくとも二倍にして償わなければなりません。もし、神さまが私たちの運命を償うとしたならば、どうなるでしょうか?同じ量だけをお返しになるでしょうか?それとも、二倍、四倍、あるいは五倍に報いてくれるでしょうか?旧約聖書にヨブ記というとても長い書物があります。ヨブは一度にすべての財産と10人の子どもを失いました。さらには健康まで失い、友達から「何か罪を犯したからだろう」と責められました。ヨブは「なぜ、どうしてですか?」と神さまに問いましたが、答えてくれませんでした。ヨブ記の主題は「善人でも災いが及ぶのか」ということです。なんと、善人でも災いが及ぶことがあるのです。神さまはヨブの質問には答えませんでした。しかし、ヨブは霊的な目が開かれて、神さまがすべてのことを支配していることを知りました。ヨブ42:5「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」そして、ヨブの人生の後半はどうなったでしょうか?ヨブ42:12「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」。神さまは新たに10人の子どもを与えました。財産もすべて二倍になりました。「この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た」とあります。はっきり分かることは、神さまは二倍以上の報いを与えたということです。
では、このところに出て来る青年はどうなのでしょうか?彼は生まれた時から目が見えなかったので、物乞いをして暮らしていました。それが、彼の運命でした。ところが、イエスさまに出会ってどうなったのでしょう?シロアムの池で洗ったら、目が見えるようになりました。「どうして目が見えるようになったのか」と、当時の宗教家たちに呼びつけられました。彼らは「安息日をやぶって、目をいやすのは罪人だ」と言いました。しかし、彼は何と答えたでしょうか?ヨハネ9:25「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」これは、アメイジング・グレイスの歌詞の一部にもなっています。彼は立派な証をしましたが、「お前もあの弟子か」と言われ、会堂から追い出されました。当時、ユダヤ人の会堂から追い出されるということは、破門と同じで、救われないということでした。彼は再びイエスさまと出会いました。ヨハネ9:38「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」。これはどういう意味でしょう?彼は肉体の目ばかりか、霊の目が開かれたということです。肉体の目が開かれたのなら、プラスマイナス・ゼロです。目の癒しだけなら、他の人たちと同じになったということです。これもすばらしいことです。でも、さらにすばらしいことは、霊の目が開かれ、イエスさまを主と告白して救われたということです。当時の宗教家たちは肉体の目は確かに開かれていました。しかし、そのことが災いして、イエスさまのことが分からなかったのです。イエスさまが「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」と言われたとおりです。この若者の運命はどうなったのでしょうか?肉体の目が開かれただけではありません。霊の目が開かれ、永遠の命が与えられました。彼はこれまで物乞いとして生活していました。目が癒されたので、他の人と同じような生活をすることができたでしょう。しかし、それが回復ではありません。霊の目が開かれ、永遠の命と御国が与えられました。二倍、四倍、あるいは五倍に報いられたということです。
イエスさまは今も、御霊によってこちらにお出でになっておられます。そして、私たちがどのような運命の中にあるのか、目をとめてくださいます。「あの人のせいだ。あのことが起こったからだ」と、自分の運命を呪って生きる道も1つの道です。しかし、イエスさまは「神のわざがあなたに現れるためです」と、あなたの運命を変えてくださいます。そうです、私たちの欠けたるところにこそ、神さまのわざが満たされるのです。信仰によって、神さまのみわざに参加しましょう。神さまにとって、取り返しのつかないことはありません。神さまは取り返してくださいます。少なくとも二倍、あるいは四倍、五倍に報いてくださいます。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」