2013.3.3「悪霊からの解放 マルコ5:1-13」

 昔、「エクソシスト」という悪魔祓いの映画がありました。きょうのメッセージは、まさしくそのような箇所です。ある人たちは、「そんなの迷信だ」「精神的な病だ」と、信じないかもしれません。しかし、隠れたところで、悪魔は人々を惑わし、拘束し、最後には死に向かわせます。この世の神である悪魔は、組織的に働いて人間を苦しめています。大きなものは、戦争であって「戦争は悪魔のリバイバルだ」と言われています。中くらいなものは、宗教や思想によって人々を支配します。また、個人的には病気や犯罪、殺人、自殺など、悪魔が関係しているものもあります。悪魔は別名、サタンと呼ばれています。サタンとは「敵」という意味であり、神に敵対する霊的な存在です。神さまに対抗してもかなわないので、もっぱら神の被造物の冠である人間を攻撃します。サタンの策略とは、人間をできる限り、神から引き離し、栄光を現わせなくすることです。


1.ゲラサ人のケース

 

 ゲラサ人に入った悪霊は「汚れた霊」でした。しかし、その数はレギオン級でした。レギオンとはローマの1軍団であり、6000人で構成されていました。ここではそれが「大ぜい」という意味で用いられています。あとで、2000匹の豚が、狂って崖から駆け降り、死んでしまいました。それくらい、大きな破壊力があるということです。しかし、彼の場合はとても重症なケースで人格まで乗っ取られていました。イエスさまが彼の名前を尋ねましたが、彼自身ではなく、彼の中にいた悪霊が「私の名はレギオンです」と答えたからです。悪霊に取りつかれた場合、英語ではpossessedと言います。これは「所有された」という意味です。彼の場合は人格まで支配されていたのですから、よっぽどの重症であったのでしょう。しかし、このような人は稀で、多くの人は霊、魂、あるいは肉体の一部分を支配されます。私たちの心には意志という門番がいますので、神さまであっても、勝手に入ることができません。何かの理由で、一部分を支配されたということです。悪霊から、どこか一部を握られていると、そっちの方にひっぱられてしまいます。たとえば、耳たぶとか、小指であっても、ひっぱられるとそっちへ行ってしまうでしょう。この人は人々の中で暮らすことができず、墓場に住んでいました。彼は怪力の持ち主で、人々が鎖でつないでおいても、ダメでした。マルコ5:5「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」とあります。人々ばかりか、自分自身をも破滅させてしまうのが、悪霊の目的です。
イエスさまはこの人と出会ってくださいました。この人は自分の意志が支配されていますので、自分からは何もできません。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエスさまは悪霊によって捕えられている、あわれな兄弟を救おうとされたのです。悪霊どもはイエスさまをとても恐れていました。マルコ5:6-7「大声で叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、『汚れた霊よ。この人から出て行け』と言われたからである」。人間には分かりませんが、悪霊の世界では、イエスさまは有名でした。イエスさまが「いと高き神の子」であることが分かっていました。悪霊はイエスさまを拝みましたが、それは怖いからであり、滅ぼされたくないからです。「まだ、世の終わりの裁きは来ていないでしょう」と言いたかったのです。ある人たちは、このケースを誤解して解釈し、「悪霊の名前を聞いてから、追い出すべきである」と言います。イエスさまは名前を聞きましたが、それは悪霊に聞いたのではありません。その人の中にいた、悪霊たちが勝手に答えたのです。イエスさまは「汚れた霊よ。この人から出て行け」と命じられただけです。私たちも同じように、悪霊と会話をすべきではありません。悪魔の手下、悪霊もそうですが、とても嘘つきです。あちらの方が、私たちよりも何千年も長生きしているので、知識や知恵ではかないません。悪霊と会話しただけで、既に、敵の陣地に自分が入っているということを忘れてはいけません。多くの人たちが、悪霊を追い出すミニストリーをしています。しかし、ある人たちは完全に欺かれています。なぜなら、悪霊と会話したために、聖書的でない考えを受けてしまっています。ですから、悪霊とは会話をしてはいけません。取り引きもしてはいけません。ただ「イエスの御名によって出て行け!」と命じれば良いのです。
悪霊を追い出してもらった後、この人はどうなったでしょう?マルコ5:15「そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。」これは、彼が完全に癒されたということを意味しています。彼は解放され、社会生活ができるようになりました。彼はイエスさまのお供をしたいと願いました。しかし、イエスさまは「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と言われました。ある人はイエスさまに着いて行くことが求められ、ある人は家に帰って証をするように求められます。彼は家に帰って、証をする方がみこころだったです。マルコ5:20「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」ここには、人々が信じたとは書いてありません。でも、かつて悪霊に支配されていたのに、正気になったということでとても驚いたことは確かです。彼は3つのことを伝えました。かつては、墓場で自分を傷つけて裸で暮らしていたこと。イエスさまが悪霊を追い出してくれたこと。今は、自分が正気になって暮らしていることです。私たちもケースや内容は同じでなくても、この3つのポイントで証をすることができます。

ある教会にこういう牧師がいました。「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と事あるごとに証をしていました。教会員は耳にタコができるくらい聞いたので、「先生が精神病院にいたことを何べんも聞くのは嫌ですから、もうやめてください」とお願いしました。先生はそれから、その証をしなくなりました。それから、説教に力が入りません。イザヤ51:1「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。先生は教会員にお願いしました。やっぱり、あのことを話さなければ、力が出ませんと言いました。再び、「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と証しました。すると、元どおり力強く説教できるようになったということです。私が「8人兄弟の7番目に生まれた」と言うのと同じです。私たちはイエスさまと出会う前、どんなに暗い生活をしていたか、忘れてはいけません。自分がどんなに罪深かったか、悪かったかということも話しても結構です。でも、もっと重要なことはイエスさまが自分にどんなに大きなことしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを証することです。恥は我がもの、栄は主のものです。デパートの宝石売り場に行くと、ダイヤモンドはどういう布の上に展示されているでしょうか?白い布ではありません。ビロードのような黒い艶消しの上です。かつての私たちが暗い生活をしていたなら、それに比例して、イエスさまの輝きが増すのです。イエスさまを最も愛した人はだれでしょう?また、イエスさまから最も愛された人はだれでしょう?それは、マグダラのマリヤです。彼女はかつて7つの悪霊を宿していた人です。7つとは完全数です。完全に悪霊に所有され、汚れた女性であったと思われます。しかし、イエスさまは悪霊を追い出し、「汚れ」とマリヤ自身とを分離してくださいました。今も同じように、イエスさまは私たちを悪霊から解放し、神の息子、娘にしてくださいます。


2.悪霊の対抗策


ことわざに「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」とあります。悪霊は私たちの敵です。やはり、彼らの策略を知り、それに対抗することが恵まれた生活を送る秘訣ではないでしょうか。エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」このところに出て来る「機会」は、ギリシャ語ではトポスと言い「場所」という意味です。しかし、これが悪霊との関係で用いられるときは、「足場」とか「足がかり」という意味になります。もし、これがもっとひどくなると、「要塞」になります。怒ることは、必ずしも罪ではありません。しかし、怒ったままでいると、つまり怒りを次の日まで持ち越すとそれが悪霊の足場になるということです。聖書に「苦い根」という言葉が出て来ます。人を赦さない罪、怒り、憎しみが根を張るとどうなるでしょう。そこから、悪いものが出てきて人々を汚します。苦い根は、一度、生えるとなかなか抜くことができません。なぜなら、そこに悪霊が場所を設けることがあるからです。私たちはそういう意味でも、心と体を敵が侵入しないように守るべきではないでしょうか?
悪霊が場所を設ける罪には3つの種類があります。悪霊は霊的な存在ですから、肉体を持っていません。私たちの肉体は悪霊にとってお家であり、悪霊は住むべきお家を探しています。では、どんな罪を犯している人に悪霊が入るのでしょうか?第一は霊的な罪です。これは、偶像礼拝、占い、オカルト、霊能者の祈りを通して入るものです。たとえば、ある人が仏壇を拝んでいるとします。仏壇は物ですから、それ自体が悪霊ではありません。しかし、悪霊は人から拝まれたいと望んでいます。たまたま、通った悪霊が「ああ、仏壇を拝んでいる人がいる。しかも、いろいろお願いしている。拝んでいる人のところに入ろう」と思うのです。その人に、悪霊が入ると、本当の神さまを信じることが困難になります。「ご先祖様のところに行くのが、当たり前。日本には日本の宗教がある」と思ってしまいます。悪霊も、「キリスト教は外国の宗教だ。だまされてはいけない」と言うでしょう。ある人は、お宮参りとか七五三のために、神社にお参りに行きます。多くは感謝の気持ちで行くのですが、ある人は「この子を末永く守ってください」と奉げるような祈りをするかもしれません。もし、神社の背後に悪霊がいたら、「わかった。そうしましょう」と言うでしょう。それは一種の契約であり、クリスチャンになった後であっても、効力があります。クリスチャンになってから偶像崇拝をする人はいません。影響を与えるのは、クリスチャンになる前のものです。自分あるいは、親による偶像崇拝によって、悪霊が足場を設けることがあります。多くの人たちは、神社の氏子になっています。知らないでお願いしたかもしれません。そういう場合は、悔い改めた後、イエスの御名によって契約を断ち切る祈りをすべきです。10数年前に、解放のキャンプというものがありました。クリスチャンになりたての頃、こういう偶像崇拝を悔い改め、悪霊から解放される必要があります。そうすると、霊的な成長がぐーんと早まります。
第二番目は魂の罪です。ここで言う魂とは感情や思いのことです。怒りとか憎しみ、深い悲しみなどからも悪霊が入ります。だから、パウロは「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と警告しているのです。夫婦が離婚にまで発展するのは、怒りや憤りをそのままにしておくからです。また、受けたトラウマや失望落胆から鬱になり、自殺をする人がいます。全部とは言いませんが、あるものはそうです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」とあります。盗人とは悪魔のことであり、私たちのことを盗み、殺し、滅ぼすため、日夜働いています。また、私たちの「思い」は霊的な戦場と言えるでしょう。ユダはどうしてイエスさまを裏切ったのでしょうか?ヨハネ13:2「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と書いてあります。これは最後の晩餐の前であります。しかし、ルカ福音書には「イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った」(ルカ22:3)とあります。おそらく、思いの方が先であり、そのあとでサタンが入ったと思われます。私たちの思いには、4つの声が聞こえてきます。イエス様の声、自分の声、人々の声、そして悪魔の声です。私たちは聖書を読み、イエスさまと常に交わっている必要があります。「羊はその声を聞き分ける」(ヨハネ10:3)とあるからです。しかし、ほとんど祈らないで、人のことばや、テレビ、この世の情報に耳を傾けています。そうすると、いつの間にか否定的で破壊的な思いによって、支配されるでしょう。

解決法は何でしょうか?Ⅱコリント10:5「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」とあります。パソコンにウイルスが入ると、ウイルスソフトが起動して、「ばー」と取り囲みます。私たちも神の知識に逆らうものが入ったとき、それを虜にして、キリストに服従させなければなりません。どうぞ、感情と思いを守ってください。マインド・コントロールというのがありますが、カルト宗教だけから来るものではありません。親が子供に、怒って吐いたことばがマインド・コントロールになります。たとえば「お前は一生、出世しない。貧乏で暮らせ」と呪ったとします。その人の思いを支配して、手かせ足かせとなってしまいます。私たちは人々から、非難や中傷、呪いのことばを受けるときがあります。そのことばが、トラウマになって、毒蛇にかまれたような状態になるでしょう。悪霊がそこにやってくると、束縛され、自由がなくなります。パウロは遭難からせっかく助かったのに、一匹のまむしが手に噛みつきました。島の人々は、「この人は人殺しだ。まもなく死ぬぞ」と言いました。ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。どうぞ、人々からの非難や中傷を振り落としましょう。いつも、感情と思いを守ってください。なぜなら、いのちの泉はそこから湧くからです。

 第三は肉体の罪です。悪い習慣からも、悪霊が入りこみます。汚れた霊が入るから、汚れたことをするのではありません。ある人が汚れたことをしょっちゅうしているとします。たまたま、汚れた霊がそばを通るとき、「ああ、この家は私の好みだ。住みたいと思って」入るのです。そうるとその人は、一層、汚れたことをするようになります。男性の場合は、ポルノのDVDとかウェブは要注意です。悪いことばもそうです。私は兄には力で負けるので、悪口や皮肉を言って対抗しました。今もなかなか、抜けないところがあります。ヤコブは「舌は少しもじっとしない悪であり、死の毒に満ちている」(ヤコブ3:8)と言いました。また、薬物や麻薬によって、悪霊が入ります。そのために、いろんな幻覚や幻聴が聞こえるようになります。薬物は体だけではなく、精神を狂わせ、悪霊に対してドアを開くことになります。テレビのニュースで強盗殺人を繰り返した人が出て来ます。なぜ、彼がそこまでエスカレートしてしまったのでしょうか?それは、いつも悪いことを考え、さらには悪いことを行っていたからです。そこに、悪霊が入って、その人自身に残酷なことをさせたのです。でも、責任はその人にあります。その人が、悪いことを継続的に行って、悪霊にドアを開いたからです。私たちは主の祈りでいつも祈ります。「我らを試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ」と。「悪」とは単なる悪いことではありません。誘惑を持ち込み、悪いことさせる悪魔のことであります。この世は悪魔が支配しています。だから、私たちは常に神のご支配を求め、悪魔から救い出してもらう必要があるのです。

3.私たちの立場


最後に私たちがどういう者であるのか、ということを知ることがとても重要です。ある人たちは、霊的戦いをとても強調します。常に悪霊を意識して、人々の背後に、物影に悪霊が働いていると思っています。もちろん、パウロが言うように、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着ける」(エペソ6:11)必要があります。でも、それよりも重要なことがあります。それは、自分が主にあって何者であるか、ということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。これはどういう意味でしょう?私たちの肉体はこの世、つまり地上にあります。私たちの上に霊的な存在がいます。天使や悪霊は目に見えませんが、私たちの上に働いています。特に悪霊は未信者を虜にして、いじめています。悪霊は私たちをも誘惑し、攻撃してきます。しかし、私たちには聖霊と天使の守りがあります。私たちが主の御名によって祈るとき、神のもとから天使が遣わされ、私たちを守ってくれます。これまでの教会は、このくらいまでしか話しませんでした。天国に行くまで、悪霊に負けるか勝つかの戦いに明け暮れるしかないのでしょうか?そうではありません。エペソ2章にあるように、私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。私たちは霊的には悪魔よりも高い、神の御座に座っているのです。私たちは地上から天に向かって「神さま私を助けてください」と叫ぶ必要はありません。目をつぶるならば、私たちのすぐ隣にはイエスさまがおり、その向こうには父なる神さまがおられます。なぜなら、私たちはイエスさまと共に天の所に座らされているからです。ハレルヤ!私たちには神の子としての、霊的権威が授けられているのですから、悪魔を踏みつけることができるのです。私たちのバックには、神さまの権威がついているのです。悪魔や悪霊は私たちを怖がっているのではありません。背後にいる、神さまの権威を怖がっているのです。
私は毎朝、散歩しますが、青砥陸橋の下を通ります。たまに、白バイの運転手や婦人警官が橋の下に立っています。「ピピピー」と笛を吹くと、10トンのダンプトラックも言うことを聞きます。400馬力もあるようなダンプカーが、一人の小さな人間の言うことを聞くのは何故でしょうか?ダンプカーには確かに大きなパワーがあります。しかし、警察官には権威という力があります。ギリシャ語で権威はエクスーアです。私たちはパワーも必要ですが、エクスーア(権威)も必要です。イエスさまは天にお帰りになるとき、弟子たちに何と言われたでしょうか?マタイ28:18,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。私たちがイエスさまを信じているなら神の子であり、いっさいの権威が与えられているのです。だから、私たちは悪魔に立ち向かうことができるのです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。