2013.3.10「苦い根の癒し ヘブル12:15」

 きょうからしばらく、「心の救い」に関して学びたいと思います。きょうは「苦い根の癒し」と題して、メッセージさせていただきます。これからの内容は、おもに「エリヤハウス・祈りのミニストリー」を参考にしたものです。30年くらい前から、心の癒し、内面の癒しが行われるようになりました。その中で最も知られているのが、「エリヤハウス」です。ヘブル12:15をもう一度、お読みいたします。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。


1.実を見て根をたどる


神さまは自然界に樹木を与えました。樹木と、私たちの心の状態が似ているところがあります。樹木の中で、リンゴ、みかん、梨、柿など実がなるものがあります。果実は私たちが結ぶ、人格的な実と言えるでしょう。ガラテヤ人への手紙5章には、御霊の実が記されています。クリスチャンには、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と9つの実がみのると約束されています。御霊の実は神さまと人々と自分自身を喜ばせる人格的な実です。リンゴやみかんのように、愛、喜び、平安の御霊の実もおいしいです。しかし、私たちの生活の中に、良くない実がみのっているということはないでしょうか?怒りや恐れ、中毒や依存症という悪い実はないでしょうか?怒りや恐れは、だれしもが持っている感情です。中毒までにはいかないけど、何かにはまっているものが1つや2つはあるのではないでしょうか?しかし、怒りや恐れ、中毒や依存症がひどくなり、健全な生活ができないとしたらどうなるでしょう。怒りが「どかん」と爆発すると、家族や周りの人が損害をうけます。恐れがひどすぎると、当人は学校や会社にも行くことができません。お酒やゲーム、パチンコ、ギャンブル、ポルノなど、依存症や中毒は体ばかりか家庭を壊してしまいます。そういうもので、自分の生活が支配され、悲惨な生活を強いられるとしたら、神さまの栄光を現わすことができません。せっかく、罪と死の法則から解放されたのに、みじめな奴隷生活に逆戻りになってしまいます。
悪い実を私たちはどう解決しようとするでしょう。一番、手っ取り早い方法は、悪い実をむしり取ることです。「怒ることは良くない」と、怒ることをやめて寛容になろうとします。「恐れは良くない」と、恐れることをやめて、平安な心を持とうとします。しばらくは、寛容で平和な時を過ごすことができるかもしれません。でも、どうでしょう?また、新たに悪い実がなります。取ったはずの、怒りや恐れの実が新たにみのるのです。「あれ?おかしいな?そんなはずじゃなかったのに?」と思います。それで、またその悪い実を取ります。しばらくは安心です。でも、また怒りや恐れ、中毒や依存症の実がみのって自分や周りの人々に害を及ぼします。何が良くないのでしょうか?私は子どものとき、おかずに対して良く文句を言いました。毎回、毎回、シャケの切り身でした。他に納豆と野菜いためがあれば良い方でした。「いつもこれか?」と言うと、母は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返されました。結婚してからどうなったでしょう?家内は納豆や豆腐をよく出しました。「こんなんじゃ足りないよ」と私と長男が文句を言いました。そのため、こんどは、私が夕食を作るようになりました。うちには子どもが何人もいますが、何と言われたでしょう?「いつもこれか?」と言われました。そのとき私は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返しました。「なんだか、同じことが繰り返されているなー」と思いました。私の父は酒を飲んでよく暴れて、母や子どもたちに暴力をふるいました。私たち子どもはそういう姿を見て、「おやじのようになるもんか」と心で誓いました。ところがどうでしょう?私の兄弟たちは、みなお酒を飲みます。私も未信者の頃、お酒を飲みました。結婚してから、怒ると家内や子供たちに、手をあげたくなる誘惑にかられました。私の兄弟もおそらく、同じような誘惑と戦っているのではないかと思います。
本当の解決は何でしょうか?それは「実を見て根をたどる」ということです。今、見えている実を取るだけではダメです。本当の問題は根にあるからです。「実を見て、根をたどっていく」という作業が、エリヤハウスではよく言われます。しかし、これは簡単なことではありません。なぜでしょう?まず、第一は、それを、認めたくないということです。それを否認と言いますが、暗い過去のことを思い出したくないのです。そして、「そんなことはないよ」と否定します。カウンセリングが無力な人は、自分のことを隠して言わない人です。自分も相当困っているはずなのに、「そんなことはない」と言い張ります。特に男性にそういう人が多いです。子どもの頃から「男たるものは泣いてはいけない。人に弱さを見せてはいけない」と教えられてきたからです。ですから、心を簡単には開きません。「自分は大丈夫だ。問題ない」と思っている人にはこういうミニストリーは無理です。だから、どん底に落ちている人ほど、癒されるチャンスがあります。第二は、地面を掘っていくと色々出てきて、お互いにびっくりするということです。祈りのミニストリーで、その人の生い立ちや過去が知らされます。すると、「え?」と驚くようなことがよくあります。地面から腐ったものや、ガラクタが出て来ます。また、根っこも入り組んで、どれが本当の問題か分からないことがあります。相手もそうですが、こっちも泥だらけになります。ですから、根を掘り当てるという作業は、たやすい作業ではありません。愛と根気と主の助けがなければ不可能です。でも、いつまでも蓋をしていたのでは解決がありません。癒しのためには、今、結んでいる悪い実から、根をさぐらなければならないからです。


2.根の問題


根と深く関係しているのが土壌です。根が土壌から良いものを吸い取っていると、樹木は健康に育ち、良い実がみのります。家庭に笑いがあり、愛と赦しにあふれているのは良い土壌です。そういう温かい家庭で育ったなら、人生においても良い実をたくさん結ぶことでしょう。クリスチャンでなくても、「育ちが良いなー」と思えるような人がたくさんいます。「きっと愛されて育ったんだろうなー」と、接している方も嬉しくなります。でも、世の中には、そういう家庭ばかりがあるわけではありません。励ましを受けるどころか、ことばや行いで虐待されることがよくあります。母親の感情が不安定なために、怒りや恐れをいだくこともあるでしょう。父親が自分を認めてくれないので、「くそっ」と怒ったかもしれません。では、人生の根の部分が形成されるのはいつ頃なのでしょうか?心理学者によると、ゼロ歳から6歳までが、最も重要な時期だと言われます。良い根も悪い根も、最初の6年間で形成されてしまうそうです。6年と言うと、小学校に入る前くらいです。成人になって、子どものときの記憶がほとんどありません。「そんな馬鹿な?」と思うかもしれません。しかし、人格形成の骨組みは、子どもの時だということは心理学者の間でも認められています。幼少のときにダメージを受けると、一生モンだということです。たとえば、松の木が、幼木の時に、傷つけられたらどうでしょう。枝を折ったり、ナイフで切ったとします。松の木が、大木に生長したときに、大きな傷跡として残るでしょう。教会員の中にも保育士の方が何人かいらっしゃいます。0歳児とかで預けられた子供は、愛情不足、間違いないそうです。「三つ子の魂、百までも」ということわざがあります。幼い時に得られなかったものを大人になってから取り返すのは大変なことです。お人形1個で良かったはずが、大人になったら50万円のハンド・バックを買っても満たされないでしょう。

「苦い根」と言っても色々あります。代表的な苦い根を3つだけ取り上げたいと思います。第一は、父と母を敬わなかったことから来るものです。エペソ6:2-3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」パウロがなぜ、「第一の戒め」と言っているのでしょう。それは、自分を含み、あらゆる人間関係のもとになるからです。私たちは「敬えるような親だったら、敬ってやる」と言うかもしれません。しかし、このみことばは「親であるという存在だけで、敬え」という神の戒めであり、条件は付いていません。残念ながら、完全な親はいません。不幸にも、家を守らない身勝手な父親がいるでしょう。感情だけで叱る母親がいないわけではありません。親が良かれと思って叱ったつもりでも、子どもの方が「ひどい」と怒るかもしれません。とにかく、幼い時に、父や母を怒ってさばいたりすることがあります。そうすると、種をまくことになります。その種が根をはり、芽を出し、花を咲かせ、実をみのらせます。「さばくとさばかれる」という法則があります。そのため、あなたが大人になったとき、困ったことがたくさん起こります。親を否定すると、自分のアイディンテティがそこなわれます。教師や上司など、権威ある者に対して逆らいたい気持ちがあります。結婚すると、伴侶とどうしてもうまくいきません。子どもが生まれても、愛情をもって育てられない。そういう人間関係の問題がおこります。それらは、親を敬わないで、さばいたという苦い根から来る実です。

第二は偽りや誓いです。親から「良い子にしていれば愛される」という偽りを教えられることがよくあります。悪いことをすると「あなたは家の子どもじゃない。どこかへ行って」と言われたらどうするでしょうか?親の言うことを聞かないと、無視され、ご飯をたべさせてもらえないとどうなるでしょう。子どもは生き延びるために、本音をかくし、仮面をかぶって生きることになります。あるいは、お母さんがお父さんの悪口をしょっちゅう言っているとします。子どもはどっちも好きなのに、困ってしまいます。男の子が「口やかましい女とは結婚しない」と誓ったとします。そうすると、口やかましい女性と結婚します。たとえ最初はそうでなくても、その女性は口やかましくなります。また、女の子が「家を空けて、帰ってこない男性とは結婚しない」と誓ったとします。やがて結婚すると、「この男性も家を空けて、帰ってこなくなる」と悪い期待を持ちます。そうすると、男性はその期待にこたえるようになります。

第三は傷ついた霊と家系の罪です。性的虐待、身体的虐待、心理的虐待があった場合などは、深く傷つきます。また、本来ならば親から受け取るべき愛情や育みを十分受けなかったことからも私たちは深く傷つきます。心の中に癒されていない部分があると、多様な問題を引き起こすことになります。エリヤハウスはどちらかと言うと因果応報的な考えが強いかもしれません。でも、「親と同じようなことはしない」「あの親のようにはならない」と誓っても、そうなってしまいます。親から虐待をうけた子どもが大きくなったら、自分の子どもを虐待するようになります。罪のパターンが繰り返されることがよくあるケースです。何故でしょう?それは無意識な世界と霊的な問題が関わっているからです。ひどいことがあったとき、意識は忘れていても、潜在意識の中でしっかり覚えているものです。同じような状況になったとき、むくっとその意識が戻ってきます。そして、親と同じわだちを踏んでしまいます。先祖や親がつけた「わだち」が存在しているということは否むことができません。このままで、終わると暗くなるので、最後は癒しについて語りたいと思います。


3.癒しの5つのステップ


いろんな心の傷や中毒があっても、癒しのステップは同じです。エリヤハウスでは5つのステップを用います。この癒しは「祈りのミニストリー」と言って、聖霊さまに聞きながら行います。専門家は一対一で行うようです。しかし、エリヤハウスは、4,5人の小グループで行います。まず、だれか一人がミニストリーを受けます。リーダーが質問をしながら進めていきます。また、サブリーダーがいて、何か気付いたときだけ介入します。さらに、何も言わないで祈っている人がいます。何も言わないと言っても、聖霊様から示されたら言ってもかまいません。リーダーは一生懸命「次は何を話そうか」考えています。しかし、サブリーダーと祈っている人は、別の角度から落ち着いて見ることができます。「あれ?何か隠している」「話が別方向に行った」「本当の問題はこれじゃないのか」ということが分かります。リーダーが行き詰ったら、「あなた御自身で、幼いころ何が起こったのか、神さまに聞いてみたらどうでしょうか?」と提案します。その人が祈っていると、神さまが突然、隠れている問題を示してくれます。このようにやると、専門家でなくても、聖霊が助けてくれるので、結構、うまくいきます。それでは、癒しの5つのステップをお話したいと思います。

 第一は認識です。根っこの問題は何かということを気付くということです。ご存じのように、樹木の根というものは1本ではありません。太いのもあれば、細いのもあります。途中で枝別れしたり、からまったりしています。しかし、最も影響を与えている根は何かということを発見するということです。キャシーが小さいとき、お母さんは怒ると、部屋にひきこもりました。ドアに鍵をかけて3、4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちを持ちました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。彼女は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。部屋にとじこもり、お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。彼女がお母さんを裁いたため、彼女自身もさばかれることになったのです。彼女の原因は、小さいときに、お母さんをさばいたということです。そのため、自分も同じようになったということです。このように、今、結ばれている実を見て、子どものときに何があったか調べるべきです。

 第二は告白し、罪があったら悔い改めます。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」おそらく、そのとき怒ったり、さばいたりしたのでしょう。しかし、いきなり、罪を悔い改めるということができない場合があります。自分がどんなに辛い思いをしたのか、泣いて訴えても良いのです。そうすれば、超自然的な方法で神さまが出会ってくださいます。神さまの愛と慈しみの手が幼い自分に置かれます。そうすると、自然に罪を告白したくなります。「ああ、あのとき怒って、さばいてしまいました。」「ああ、あのとき、だれも信用しないと誓いました。」「ああ、あの時、お父さんが死んでしまえば良いと考えました。」そして、「どうか、赦してください」と祈ります。一般的なカウンセリングには罪の悔い改めはありません。「悪いのは親だ、周りの人だ、社会だ」と言います。しかし、それでは苦い根を断ち切ることはできません。たとえ親が悪くても、自分が罪深い反応をしたことは事実だからです。
第三は、赦しです。自分を傷つけた人を赦すということです。これはなかなかできることではありません。十字架にかかられたイエスさまの声を聞きましょう。イエスさまは「私に免じて、どうか赦してやってくれ」と願われるでしょう。赦すということは、訴える証書を手放す、捨てるということです。感情ではなく、「赦します」と決断することです。多くの人は、赦さないために、多くの呪いを身にうけています。相手はとうの昔に忘れているのに、こちらだけが恨みを持って、毒を飲んでいることがあります。また、神さまを赦さない人がいます。「神さま、どうしてあんなことが起きたのですか?ひどいじゃないですか?」と。しかし、神さまは報いの神さまです。ひどいことに見舞われた人には、2倍の報いをもって弁償してくれます。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」
第四は、悪いものを十字架につけるということです。イエス様に来ていただいて、苦い根から出た習慣や行動をイエス様の十字架につけていただくように祈ります。さらに、私たちの苦い根がイエス様の十字架に付けられて、死んだものとされることを祈り、また認めます。苦い根というものは結構しぶといです。何べんもトラウマがやってきます。その度ごとに、苦い根を十字架につけ、十字架につけられたことを認めます。そうすると、だんだん弱くなって最後に傷跡しかのこりません。確かに傷跡はありますが、もう痛みがありません。
第五は、新しい命を注ぐということです。苦い根が十字架につけられたら、その代わり、新しい命と取りかえる必要があります。みことばに基いて、イエス様のところに行って、新しい構造、新しい真理を私たちの心に注いでもらうように願います。エペソ人4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」とあります。そのあと、どうでしょうか?エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。「悪いことをやめなさい」だけではなく、「このような良いものを身につけなさい」と命じられています。
なぜ、エリヤハウスという心の癒しが求められるようになったのでしょう。それは、教会がセルチャーチになるために、「お互いに心を開いて交わりましょう」ということになりました。今まで、遠くから距離をおいていたときは問題ありませんでした。しかし、小グループで親しく交わるとどうでしょうか?まもなく、「え?この人、こういう人だったの?」とショックを覚えます。富士山も遠くから見ていると綺麗です。でも、近くに行くと黒い岩がゴツゴツしています。私たちも、勉強会で学んでいるうちはそうでないかもしれません。しかし、本当に変わるためには、自分の感情や傷を分かち合うことが必要です。でも、それはもろ刃の剣になります。今まで眠っていた、怒りやさばきの心がむくっと目覚めてきます。本音で語り出すと、衝突して、お互いを傷つけあってしまいます。そのために、内面の癒し、エリヤハウスが必要となるのです。私たちは家庭やいろんな人間関係で傷ついてきました。しかし、その傷を直すのも人間関係なのです。私たちは本当の神の家族となるためには、傷つけ合う危険を冒してでも、交わる必要があります。イエスさまはあえて、あなたと合わない人を近くにおいて、根の問題は何かを教えておられます。まだ、同時に、心が癒されて、良い実がさらに多く結ぶように教会の交わりを与えておられます。多くの場合、「苦い根なんか私にはない」と蓋をしてきました。しかし、そのため自分では気づかずに人々を汚してきたかもしれません。どうか、主に苦い根を取り扱っていただき、人格的に甘い実を結ばせていただきましょう。