2013.3.17「~人間の原罪と現罪~」

<Ⅰヨハネの手紙1:5-10>

1:5
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

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来週は受難週です。イエス様が私たちにしてくださった、ひとつひとつの事について思い起こし、イエス様の十字架の苦しみに思いを馳せる時です。イエス様の十字架の苦しみは、私たちが犯した罪のためです。
では、その罪とは何でしょうか。

先ほど読んだ第Ⅰヨハネには・・・

<第Ⅰヨハネ1:8 >
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
<第Ⅰヨハネ1:10 >
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と書かれています。
イエス様が十字架に架かって私たちの罪を贖ってくださったにも関わらず、私たちは今も尚、罪を犯していると聖書は言っています。これは一体どういう事でしょうか。

今日は、聖書の創世記、神様が人間を創造されたところまで遡って、私たち人間の罪について考えてみたいと思います。

<第Ⅰヨハネ1:5>には 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と書かれています。

私たちが、神の光の中を歩み、真理を行うためにはどうすればよいかについて、共に考えてみましょう。

◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・
①消えない人間の罪の性質を知る。

私たち人間は、信仰生活、家庭生活、社会生活において、度々、自分自身の無力さや不甲斐なさに、劣等感を感じることがあります。

私が通っている大学で声楽レッスンをしてくださっているI先生は、「私は劣等感を感じたことがないんです~。」と爽やかにおっしゃるのですが、まあ、そういう方も稀にいらっしゃるかも知れませんが、大抵の人は劣等感を感じた事があると思います。

でも、その劣等感を感じて、「私って何てダメなんだろう・・・」と葛藤した末に、それらを乗り越えた時にこそ、人は大きく成長するのではないでしょうか。

ですから、私たちが、人間として、またキリスト者として、成長していくためには、自分の持つ“負”の部分、つまり罪の性質について、自覚する必要があります。

人間には消えない罪の性質がふたつあります。

それは、ひとつ目は、アダムが犯した罪=原罪(original sin) 。
それとふたつ目は、今も尚、犯し続けている罪=現罪(actual sin)。このふたつです。

ひとつ目の、“アダムが犯した原罪”とは、創世記2:16,17に書かれている、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という、神様との最初の契約を破ったことです。
人間はその時から、神に逆らい、神から離れ、神の目から見て的外れな生き方をするようになりました。

その原罪によって犯した非行(原非行)は、私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救い主だと告白することによって赦されて消え去ります。

しかし、原罪によって汚染された心(原汚染)は消えずに残っているために、私たちは今もなお、現罪(actual sin)を、犯し続けるのです。心が汚染されるというのは、恐ろしいことです。罪の行為は赦されても、心の汚染は身体中を支配して、悪い思いや、悪い言葉、悪い行いとなってあちこちで暴れるのです。

この汚染された心による罪には、初代教会の信者たちも悩んでいたようで、パウロもペテロもヨハネも苦悩しています。私自身も・・・
「私はクリスチャンなのに、そんなこと思っていいの?そんなこと言っていいの?そんなことしていいの?」
と、度々頭を抱えます。みなさんはどうですか?

カトリック教会では、“告解”という制度があります。“告解”とは、洗礼を受けたあとに犯した罪を、司祭を通して神に言い表して懺悔することです。カトリック教会には、告解をする部屋があって、その部屋に入ると、壁の向こう側に司祭がいるので、信者はそっと罪を告げます。そして父と御子と聖霊の名によって、罪の赦しを受けます。司祭の顔は見えませんし、もちろん秘密は厳守されます。

また同じくカトリック教会の考えでは、召されてもすぐに御国に行けるわけではなく、“煉獄”という所に行って、この世での罪を償ったなら、御国に行けるという煉獄思想があります。

それもこれも、やはり、人には“現罪”があるからという事になるでしょう。
私たちは、キリスト者だと言いながらも、心、言葉、行いにおいて、罪を犯してしまうのです。ですからそのことを自覚する必要があります。なぜなら、罪に気付かなければ、悔い改めることもできないからです。

◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・ 
②本来の“神のかたち”とイエス様の十字架の意味を知る。

神様は人間をご自身のかたちに似せて創造される時、明確なご意思と目的をもって創造されました。
本来の“神のかたち”とは、どのようなものだったのでしょうか。

まず、創世記1:26-28を読んでみましょう。
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<創世記1:26-28>
1:26
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

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ここに書かれているように、神様は人間を“神のかたち=神の代理”としてこの地上にあるすべてのものを支配するために、特別な存在として造られました。

ですから、人は地に対して神の代理であり、神に対して地の代表でした。
更に、人間は、創造主である神に造られたのですから、本来、神なしでは生きられない、神に頼って生きる存在、つまり“他律”の存在です。しかし、人間は神との最初の契約を破って神から離れ、自らが神のようになろうとし、自分の栄光のために自分の力でどうにかして生きようとする“自律”の道へと進んでいきました。

“罪”という言葉はギリシャ語で“ハマルティア”・・・“的外れ”という意味があります。
聖書の教える“罪”とは、神様から離れて的外れな生き方をすることにあります。

ところで、皆さんは創世記のこの人間創造の記述をじっくり読んだことがありますでしょうか?
何となく読んでいたり、先入観で解釈してしまうと、アダムとエバについて勘違いしてしまいがちなことがいくつかあります。まず・・・

(1)アダムとエバは楽園で暮らしていたので、「あはは~っ!アダム~エバ~」と笑って暮らしていればよかった。

・・・っと、思っていた方はいらっしゃいませんか?
そんなことはありません!神様は人に仕事を与えました。

<創世記2:15> 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神様はアダムに、“土地を耕し、そこを守る”という仕事を与えました。
でも、それは食べるものを得るための仕事ではありません。人が食べるものは別に用意されていました。

<創世記2:9>神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
神様は園に見るからに好ましい、食べるのに良い木を生えさせたので、アダムとエバは食べるために土地を耕したのではなく、神様から与えられた、「神の仕事」をするために耕したのです。

これが、本来の人間の労働の姿です。
食べるために、またお金を得るために働くのではなく、神様から与えられた仕事をするために働くのです。
今、みなさんが携わっておられるお仕事が、神様の栄光を表す神の仕事であるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。

では、二つ目の勘違い・・・

(2)アダムとエバは死なないよ。永遠のいのちを持っていたからね。

・・・っと思っていた方はいらっしゃいませんか?
どうもそうではないようです。

先ほど読んだ聖書個所に「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」
と書かれていましたが、この園の中央にある“いのちの木”の実を食べたなら、アダムとエバは“永遠のいのち”を得ることができたようですが、彼らは、「食べてはいけない」と神様から言われていた“善悪の知識の木”の実の方を先に食べてしまったようです。

それは、<創世記3:22>に書かれている記述から読み取れます。

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<創世記3:22>
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
<創世記3:24>
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

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アダムはエデンの園から追い出されて、その後、創世記4章の始めに書かれている通り、その妻エバを知ったようです。そして、カインとアベルを生みました。

このように創世記を読むと、どうも、最初の人アダムとエバは、神様から創造されて間もなく・・・お互いを知る暇もなく・・・あっという間に・・・速攻で罪を犯したのではないか?と考えられます。

そう考えると、本当に、人間は愚かで傲慢なうえに、意志の弱い存在なんだと認めざるを得ません。

神様は、人間がこのように、いとも簡単に、あっという間に、神様の期待に反して罪を犯す事を、最初からご存知だったのでしょうか。「ああ、やっぱりな。」という感じだったのでしょうか。
だとしたら、どうせならもっと、強固な意思で神様に服従する心をもつ人間を創造していただきたかったです。

神様は神様との契約を破った人間を見て、どんなに落胆なさったことでしょうか。

このことを自分の人生に置き換えてみた場合、私は親や先生の忠告を聞かずに自我を通しては失敗し、何度も落胆させてしまったことを思い出します。

でも、自分が親になった時、気が付きました。忠告を聞かずに失敗した子どもに対して、「ああ、ほら・・・やっぱりそうなったでしょう」と、落胆はしますが、でも、どうにかして手を差し伸べて、助けてやりたいとも思うのです。

父なる神様も、きっと同じような思いで私たち人間を見て下さり、救い主イエス様を与えてくださったのではないでしょうか。イエス様の十字架は、罪深い私たち人間に対する、父なる神様からの大きな愛と憐れみなのです。

 

でも、その方法は、完全なる神であられるイエス様が、完全なる人となられてこの地上にお生まれになり、十字架という、もっとも残忍な方法で私たちの罪過のためのいけにえになってくださる・・・というものでした。

 

イエス様は私たちと同じ肉体を持たれたので、拷問や十字架刑による痛みと苦しみは、想像を絶するものだったことでしょう。それを思うと本当に心が痛みます。

 

では、私たちは、神様のこの愛に、イエス様の恵みに、どのように応えれば良いのでしょうか。

◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・
③勝利者キリストの血による恵みと聖霊の助けによる罪からのきよめを得る。

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

ところが、この世、特に日本では、進化論の考えが中心になっています。

 

先日、上野の国立科学博物館に行ってきました。

ここでは「生物の進化」について、進化論的考えを基に展示が構成されていました。

地球の始まりと人類の誕生について、世界中の科学者たちが長い年月をかけて、わずかに残された化石や出土品、文献などを手掛かりとして研究し、このような仮説を立てています。

 

「地球は46億年前に太陽系の他の惑星と共に誕生し、40億年前に海中で誕生した生命が、地球環境の変遷とともに進化し、ついには人類が誕生した。」

 

この地上の生物は、海中の微生物が陸に上がって両生類に、両生類から哺乳類に進化していったようです。そして人類に関しては、猿人が600万年前に、どこかから偶然発生して、原人が180万年前に現れ、旧人を経て、そして新人ホモ・サピエンスが20万年前に現れたようです。

 

この人類は、氷河期の過酷な時代などものともせず、進化して生き残っていったようです。

博物館では、その様子が、人物復元資料などと共にドラマティックに解説されていました。視覚的なインパクトがかなり大きいので、ほとんどの来場者が疑問を感じることなく事実として受け止めている様子でした。

 

科学者たちの理論の中には創造主である神の存在はなく、偶然の発生と、進化と、絶滅との繰り返しです。

進化論で考えられる人間は、人を“モノ”としてしか理解していません。“モノ”である人間は、目的を持たず、この地球で偶然に発生し、偶然に進化を重ねて“ヒト”となりました。そこには神は全く介入していませんし、進化論で考えられる人間は、いずれ絶滅するし、年を重ねるごとに衰えて、滅びてしまいます。

 

日本の教育は進化論しか教えませんので、その影響は、日本の社会や文化に現れています。

 

自己を神としたり、人を神にして偶像を作り上げ、偽の神を崇めます。その根底には、自分の力でどうにかしようとする“自律”の生き方があり、彼らがこの世で生きる目的は自己の栄光のためなのです。

そして、日本の社会では、歳をとると厄介者として扱われます。

私たちクリスチャンもついつい、そのような思想に押し流されてしまいそうになります。

 

しかし、神が創造された人間は、偶然発生したのではなく、目的を持って創造されました。

聖書で神様が語られているように、この地は滅びますが、人間は滅びてしまうのではありません。

罪を悔い改め、イエス様を救い主だと信じて告白した者には“永遠のいのち”が与えられるのです。

 

そして、キリスト者は、この地上での生活を全うするために、聖書のみことばを信仰と生活の最高規範とし、神に依存して生きる“他律”の生き方をします。

詩篇の一篇を読んでみましょう。

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<詩篇1:1>
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
<詩篇1:2>
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
<詩篇1:3>
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

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神のみことばに従う人は、ここに記されているように、水路のそばに植わった(神に植えられた)木のようであり、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」のです。

人間は、年を取るごとにますます栄えるように造られています。たとえ、体力が衰えて身体が動かなくなっても、記憶が衰えてしまっても、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみ、心が神様から離れなければ、その人は、何をしても栄えるのです。

この姿こそ本来神が創造された人間の姿なのです。

先ほども申しましたが・・・

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

とはいえ、現実は、私たちキリスト者は、自分がその心と、言葉と、行いにおいて、なお罪を犯してしまう“現罪”に苦しんでいます。

しかし、神は光であって、私たちは神の光の中を歩む者です。罪に負ける敗北者としてではなく、将来完全に勝利する者として罪と闘わなければなりません。

“現罪”は、この地上では完全に無くなることはありませんが、キリスト者においては、勝利者キリストの血による恵みと、聖霊の助けによって聖化され、徐々にきよめられます。

そしてイエス・キリストの再臨後に栄化されて完全に無くなるのです。

来週は受難週です。イエス様の十字架の贖いに感謝し、自らの罪を言い表し、神から与えられた仕事を忠実に行って、神の光の中を歩み、真理を行い、父なる神様の大きな愛への応答をいたしましょう。