2013.3.24「十字架のことば Ⅰコリント1:18-25」

 今日から受難週が始まりますので十字架に関するメッセージをさせていただきます。18節に「十字架のことば」とありますが、これはどういう意味でしょう?英国の聖書は、「十字架の教義」と訳されています。JBフィリップスは「十字架の説教」と訳しています。他には「十字架のメッセージ」とも訳されているのもあります。パウロはかつて、コリントの人たちに「十字架のことば」を語りました。これは福音であり、この福音によってコリントの人たちが救われ、教会ができました。きょうもこの礼拝において、「十字架のことば」を語ります。結果的にどうなるでしょうか?ある人は福音を信じて救われ、また、ある人は救いの確信を持つことができるでしょう。

 

1.十字架のことば

 使徒パウロは、福音は「神の力」であると言っています。力はギリシャ語では、ディユナミスと言って、ダイナマイトの語源になっています。ご存じのように、ダイナマイトにはものすごい破壊力があります。では、「神のダイナマイト」とはどんな力なのでしょうか?パウロは「救いを受ける私たちには神の力です」と言っています。福音を心の中に受け入れると、「どかん」と爆発します。そして、不信仰や罪の塊が砕かれ、「あぁー、イエス様を信じます」と救われます。しかし、みんながみんなそうではありません。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かである」と書いてあります。「愚か」とはナンセンス、馬鹿馬鹿しいという意味です。つまり、ある人たちにとっては、十字架のことばが力にならないということです。十字架のことばが万能ではないとは、一体、どういうことなのでしょうか?よく、見るとこの世に2種類の人がいるようです。前者は救いを受ける取る人たちです。彼らには十字架のことばが神の力になっています。しかし、後者は滅びに至る人たちがいます。彼らには十字架のことばが力にならないのです。一体、どちらに責任があるのでしょうか?十字架のことばでしょうか?それとも、「愚かだなー」と思って排除している人の方でしょうか?

 パウロの時代、大きく分けて二種類の人たちがいました。1つはユダヤ人です。彼らは「自分たちは神から選ばれた者であり、既に救いを得ている」と自負していました。もう1つはギリシャ人です。23節には「異邦人」という名称で出ています。異邦人とは「神さまの選びから漏れている人たち」という意味です。これは、ユダヤ人が他の人たちを馬鹿にして言った表現です。ここでは、異邦人の代表としてギリシャ人のことが取り上げられています。当時のギリシャ人の特徴は何だったでしょうか?コリントはギリシャの影響を受けていました。ここに出て来る「知恵ある者」「知者」「学者」「この世の議論家」「この世の知恵」など、すべての表現は、ギリシャ人にあてはめられたものです。私たちも、歴史でギリシャ人がどのようなものかを知っています。ギリシャ人は哲学で有名です。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという名前はだれでも知っているでしょう。パウロの頃は少し後だったので、エピクロス派とかストア派の哲学者たちが主流だったようです。とにかく、ギリシャ人が最も誇りにしていたのは知恵(ソフィア)でした。哲学、フィロソフィーは「知恵を愛する」から来ています。彼らが最も頼りにしているのは人間の理性です。彼らは「理性こそが、真理を見出し、神にも達することができるんだ」と信じていました。神と言っても人格的なものではなく、超越的な存在です。彼らは「自分たちが知者であり、最高の知恵を持っている」と誇っていました。しかし、パウロは、それは「この世の議論家」であり「この世の知者」であると定義しています。なぜなら、「この世が自分の知恵によって神を知ることができない」からです。生まれつきの人間には、十字架のことばが愚かに見えるでしょう。彼らの知恵や理性では、十字架のことばを救いにいたるものそして理解できないのです。

 一方、神の知恵とはどういうものなのでしょうか?世の中から見たら、神の知恵は愚かに思えるでしょう。なぜなら、人間の理性に反するからです。ギリシャ人にとって第一に理解できなかったのは、神が肉体をとって人間になるということでした。彼らは、「霊魂は善であり、肉体は悪である。善なる霊魂が肉体という牢獄の中に閉じ込められている」と考えました。霊魂の不滅は信じましたが、肉体の復活には興味がありませんでした。なぜなら、肉体は悪であり、不要なものとみなされていたからです。もう1つは、神が人間の身代わりに死ぬということでした。不滅の神が死ぬということ自体、解せません。彼らは、神は超越者であって、人間とは全く、関わりの持たないものだと考えていました。しかも、人間には自分で救われるための知恵があり、罪の贖いなど不要だと考えていたのです。ですから、「十字架のことば」は、全く愚かでナンセンスだと思ったのです。実は日本人もギリシャ人と似たところがある異邦人です。日本は、簡単に言うと、仏教とアニミズムが混じった国です。神観がとても曖昧で、「人は死んだらどこかに行く」位にしか思っていません。鎖国が解かれてから、日本に西洋文化が入ってきました。いわゆる文明開化です。西洋文化にはキリスト教が根底にありました。しかし、日本人はとても器用な民族で、底のものは捨てて、上澄みの良いところだけを受け取りました。学校教育も西洋の哲学、西洋の学問が主流です。産業革命も手伝って、産業に役立つ型どおりの知識を詰め込みます。そうすると、ギリシャ人そっくりになります。十字架のことばは、世の中を生きて行くのに役に立たないし、かえって邪魔になるので、日本人には愚かに思えるのです。

 ある有名な人がこう言いました。「『私はクリスチャンではありません』と言う人がいますが、日本人としては至極当然なことです。そこには説明はいりません。しかし、日本において、『私はクリスチャンです』と言う人は、『どうしてですか?』と特別な説明が求められるでしょう」と。本当です。日本は全くの異邦人であって、クリスチャンになりにくい人種なのです。だから、人口の1%にも満たないのです。でも、どうしてある人たちはクリスチャンになるのでしょうか?「あなたはどうしてクリスチャンになったのでしょうか?」みなさんの中に「だれか、論理立てて説明してくれたので、私はキリストを信じました?」という人はいるでしょうか?あるいは、「この人が言っているなら、間違いないのでは?」と人を見て信じたでしょうか?多くの場合、日本人は、「この人は本当に信頼できるだろうか?」としばらく眺めています。そして、「この人は良い人だ。私はこの人が好きだ。この人が信用できる」と思うようになります。その次に、「この人が言っているならば、真理じゃないだろうか。それじゃ、信じよう」となります。どうしても、日本人は人が間に入らなければなりません。でも、中国人や韓国、大陸の人たちは、人間は関係ありません。言っている人がどうであろうとも、真理であるならば信じるそうです。「それが、真理であるならば、信じる」。だから、クリスチャン人口が高いのかもしれません。しかし、どちらにしても、信じるために、克服しなければならないものがあります。それは人間の知恵であり、理性です。マインド・コントロールは半強制的に、そういうものを休ませて、信じさせます。脅したり、長時間眠らせないで、同じことばを繰り返します。理性が働かない状態して、あることを信じ込ませます。しかし、それは神さまの方法に反しています。神さまの方法とは何なのでしょうか?Ⅰコリント1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。つまり、人間の知恵や理性では、神さまを見出すことはできません。人間は神の被造物であり、被造物が「神はなんぞや」とは言えないのです。まるで「道端の蟻が人間とはこういうものだ」と言っているようなものです。この世の知恵では神を見出すことも、救いを得ることもできません。その代わり、十字架のことばを語るのです。「人間には罪があって、このままでは神さまのところに行けません。このままでは、滅びてしまう存在です。しかし、イエス・キリストがこの世に降りてきて、私たちの罪の身代わりに死なれました。キリストは三日目によみがえり、神さまのところへ道を設けてくださいました。私たちはこのキリストを通して、神さまのところへ行けるのです。」これが十字架のことばです。しかし、「なんで、キリストの2000年前の出来事が、私と関係があるの?私が十字架にかかってくれと頼んだ訳でもないのに、勝手に死んだのに。」これが人間の知性の限界です。しかし、ある時、「ああ、そうなんだ。キリストの十字架は私のためだったんだ。キリストは私の罪のために死なれたんだ」と分かる時があります。キリスト教が啓示の宗教と言われるのはこのためです。哲学は人間の理性で、真理を見出し、神さまのところに到達しようとします。しかし、キリストは何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。キリストは「私が道、私が真理、私がいのち」と言われました。つまり、キリストの啓示が上から臨むときに、哲学は終了します。私たちに残されているのは、十字架のことばを「受け入れるか、受け入れないか」「信じるか信じないか」の二つに一つになるのです。もし、あなたが信じて受け入れるならば、神のダイナマイトとして働いて、あなたに救いをもたらすでしょう。その結果、あなたは救いを受ける人たちの中に入るのです。

 

2.宣教のことば

 Ⅰコリント1:21-23「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」ここに「宣教のことば」と出て来ますが、さきほどの「十字架のことば」と違うのでしょうか?文脈から見ると、同じであろうと思います。しかし、パウロはあえて「宣教のことば」あるいは「キリストを宣べ伝える」と言い直しています。「宣教する」はギリシャ語では「ケーリュッソー」と言います。英語ではproclaimとかpreach と訳されています。つまり、「十字架のことば」を告知したり、説教するということです。今、私は講壇の上で、「十字架のことば」を説教しているところです。しかし、「宣教する」に対して「教える」があります。これはギリシャ語で「ディダスコー」と言います。宣教はキリストを信じていない人に、十字架のことばを語って、その人が信じるようにと働きかけるものです。そして、教えとは、どちらかと言うとその人が信じていることに確信を持たせるために働きかけるものです。信じた後、どのように生きるべきかについて教えます。イエスさまは両方行いました。マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」とあります。使徒パウロも、十字架のことばについて宣教し、また、教えました。どっちが難しいでしょうか?どっちも難しいですね。強いて言うなら、全く信じない人に対して、信じさせると言う方がより難しいでしょう。なぜなら、霊的に生まれ変わっていないので、霊的なことがさっぱり分かりません。その点、クリスチャンは霊の目が開かれているので、みことばを理解することができます。

 さて、パウロは信じていない人に対して、十字架のことばを宣教したのでしょうか、それとも教えたのでしょうか?宣教したのです。でも、どんな誘惑に駆られるでしょう?すぐれた知恵や知識、あるいは弁論術を用いたくなるでしょう?できる限り、彼らの理性に訴え、神さまとキリストを信じるように努力するでしょう。パウロはやろうと思えばできる人でした。なぜなら、ガマリエルの門下生で、エリート中のエリートでした。律法について熟知し、ヘブル語もギリシャ語も話すことができました。でも、パウロはどうしたのでしょうか?Ⅰコリント2:1-2「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」何ということでしょう。すぐれたことばや、すぐれた知恵を用いて宣べ伝えませんでした。そうではなく、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のことしか語らなかったのです。つまり、十字架の出来事を単純に宣べ伝えたということです。多くの場合、牧師になるために神学校に行って勉強をします。神学を勉強することは良いことです。でも、信じていない人に、宣教をする場合はあまり役に立ちません。知性に訴えるために、難しい用語を使いますので、かえって遠ざけてしまうでしょう。人を救いに導くための、神さまのみこころは何でしょう?Ⅰコリント1:21「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。愚かになることを覚悟して、十字架のことばを単純に語るしかないのです。

 太平洋伝道協会の羽鳥明牧師の弟さんに、羽鳥純二牧師がいらっしゃいました(昨年、天に召されました)。彼は若い頃、東京帝国大学の理学部に入りましたが、在学中に終戦を迎えました。卒業後、共産党に入り、地下にもぐって活動しました。羽鳥明牧師がアメリカの留学から帰ってきて、弟を教会に誘いました。「礼拝に来ないか」と言うと「行く」と言うのです。ちょうどその日は、復活祭でした。説教をしている牧師はずうずう弁で、「福音」のことを「ふぐいん」と言って、まるで土から掘られたような方でした。羽鳥明牧師は心の中で「弟は東大の化学を出たんだから、もっと難しい話しをしてほしい。死んだ人がよみがえったなんて果たして信じるだろうか」と疑ったそうです。説教の後、牧師先生が「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげなさい」と招きをしました。羽鳥明先生は「えー?無理だろう?」と縮こまっていました。すると、弟の純二さんが「すーっ」と手を挙げたそうです。後で、「純二や、どうして信じられたんだ」と聞きました。純二さんが答えました。「僕はイデオロギーが人間を変えると信じて、共産党に入り、地下活動をしました。しかし、理想の国家を作ると言っていた人たちの、腐敗した姿を見て失望しました。ちょうどそのときに、お兄さんから誘われたのです。」と涙ながら答えたそうです。純二さんは、宣教の愚かさを通して救われたんです。

既に天に帰られましたが、羽鳥明牧師の友人で、本田弘慈という伝道者がおられました。本田先生のメッセージはとても単純でしたが、大ぜいの人が救われました。先生の伝道説教には、そんなにレパートリーはないんです。私は「さっちゃん」の話しが忘れられません。何度聞いても、涙を流しました。さっちゃんは小学校5年生です。さっちゃんのお母さんの顔には大きなやけどがありました。あるとき、さっちゃんの家で誕生パーティーを開くことになりました。みんな友達が集まりました。友達は「さっちゃんのお母さんを紹介してよ。あの人がお母さんなの?」と聞きました。「いいえ、あの人はお手伝いさんなの。お母さんは外国に出掛けているの」と嘘をつきました。ある時、授業参観がありました。さっちゃんは「お母さんはお化けみたいだから、学校に来なくて良いから」と断わりました。ある日、時間があったので、お母さんが顔のやけどについてさっちゃんに話しました。「さっちゃんが3歳位の頃だったわ。私が夕食の買い物をするためちょっと留守したの。帰ってくると、近所が火事だというので良く見たら、自分の家だったの。家がすごく燃えて、周りの人が止めたけど、家の中に飛び込んだの。そして、さっちゃんを抱きかかえて出るとき、大やけどをしちゃったの。消防員は『子どもがいろりの傍で、マッチ箱で遊んでいたからだろう』と言っていたわ。でも、良かったわ。さっちゃんが助かったんだから」と告げました。さっちゃんは「お母さん、お化けみたいだなんて言って、ごめんなさい。私を助けるためだったのね」と謝りました。それから、さっちゃんは、クラスのみんなに「さっちゃんのお母さんは、日本一のお母さんよ!」と自慢するようになったそうです。本田先生はこう続けます。「愛する兄弟姉妹。イエスさまは、私たちが自分の罪によって罰を受けなければならないところを、身代わりになって死んでくださいました。十字架で『父よ、彼らをお赦しください』と祈られました。だれのために祈られたのでしょう。そうです。あなたのためです。あなたの罪のためにイエスさまは十字架で死なれたのです。」そのように話してから、「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげてくさい」と招きをします。すると、大ぜいの人が手をあげます。

人間の知性や理性を駆使して語っても、ある程度のところまでは行きます。しかし、「私の罪のために十字架にかかられたイエスさまを信じる」ところまでは行きません。こっち側とあっち側には、とても大きなギャップがあります。人間の知性や理性では、そのギャップを埋めることができません。最後は、その人がジャンプするしかありません。宣べ伝える方はできるだけ、そのギャップが狭くなるように手助けはできます。でも、理性では無理なんです。どうしてもそこに、聖霊が臨んでくれなければなりません。なぜなら聖霊が罪を認めさせ、十字架の救いを啓示してくださるからです。また、十字架のことばを宣べ伝える方にも責任があります。神さまはあえて生身の人間、それも元罪人を用いられます。天使はキリストの贖いを語ることができません。なぜなら、救われた経験がないからです。十字架のことばを語れる人は、本当に十字架体験がある人です。「私の罪のためにイエスさまが十字架で死なれた。十字架の贖いによって私は救われた」。そういう、確信がなければ、十字架のことばを語ることができません。たくさん聖書を勉強し、人に教えることができても、十字架のことばを語るのは別問題です。そこに命がかかっているかどうかは、聞いている人が分かります。いくら知的なことを語っても、十字架の体験がなければ嘘っぽく聞こえます。逆にしゃべるのが下手でも、トツトツとしても、贖いを体験している人は十字架のことばを語ることができます。聖歌402に「丘に立てる荒削りの」という歌があります。最初は「荒削りの」って何のことかと思いました。丘とはゴルゴタの丘です。「荒削りの」というのは、ちゃんと加工していない丸太のことです。一般的に十字架というと、輝いているシルバーのアクセサリーを思い浮かべます。そうではなく、イエスさまは荒削りの十字架にかかれたのです。聖歌は「十字架の悩みはわが罪のためなり」と歌います。悩みとは「神から捨てられた苦しみと痛み」のことです。しかも、それは私の罪のためだったのです。だれか他の人のためではありません。私の罪のためだったのです。ここの接点がある人こそが、十字架のことばに生かされている人なのです。十字架のことばに生かされている人は、十字架のことばを宣べ伝えずにはおられません。なぜなら、自分がそれで救われたからです。Ⅰコリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」