2013.3.31「復活を生きる Ⅱコリント4:7-14」

イースターおめでとうございます。復活祭のメッセージはどのようなものでしょうか?おもに2つの面から語られます。それは、2000前、キリストが墓を破ってよみがえったことです。キリストの復活こそが信仰の土台であるということです。もう1つは、私たちが将来、復活にあずかることができるという希望です。なぜなら、キリストが初穂としてよみがえられたのですから、私たちも死後よみがえることができるという保証です。一方は復活を過去の事実として語り、他方は復活を将来の希望として語ります。本日はそのどちらでもなく、復活を現在のこととして、お語りしたいと思います。なぜなら、復活の力を現在の私たちが体験できるからです。

 

1.宝の性質

 Ⅱコリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」この宝とは何でしょうか?時間があったら、みんなで考えてもらうのも良いですね。礼拝ですので、私がいくつかあげてみますので、みなさんがお考えください。土の器とは、私たちの肉体です。イザヤ書には神さまが陶器師であり、私たちが陶器であると書かれています。陶器というのは、ご存じのとおり、欠けたり割れたりしやすい器です。「神さまはどうして、アルミとかステンレスのような金属の器にしなかったのかな?」と思います。しかし、それでは神さまの力が現れてこないからかもしれません。私たちの肉体は、土の器のように落ちれば割れる弱い存在です。でも、土の器の中に、宝があるということです。その宝には、測り知れない力があって、「ああ、それは自分のものではなくて、神さまから出たものである」と分かるということです。ということは、壊れそうでこわれない。死にそうで死なないということではないでしょうか?私たちは弱い土のような肉体を持っていますが、それだけではありません。計り知れない力が内側からあふれ出てくるということです。「なんだか、すごいなー。それは一体何だろう」と思います。でも、その前に、土の器に、宝を持っている人の特徴が4つありますので、1つ1つ取り上げてみたいと思います。宝を持っている人の特徴とはどういうものなのでしょうか?今回は、JB.フィリップス訳を参考にしながら学びたいと思います。

 第一は、Ⅱコリント4:8「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません」です。JB.フィリップス訳では、「あらゆる側面から圧迫されても、挫折しない」と書いてあります。挫折を意味するfrustrateは、「フラストレーションを起こさせない」ということでもあります。私たちは問題が起こり、思いどおり事が進まないとイライラします。でも、使徒パウロはどうして、イライラしなかったのでしょうか?それは、大いなる神さまの御手の中にあったからです。問題の向こうには神さまの御手があります。旧約聖書のヨセフは兄弟から妬みをかって、奴隷に売られました。しかし、主がヨセフと共におられたので、彼のすることをすべてを成功させました。しかし、主人の妻がヨセフを誘惑したので、ヨセフは上着を残して逃げました。ヨセフは嫌疑をかけられ、今度は監獄に入れられました。しかし、ヨセフは挫折しませんでした。監獄の中でも、主が彼と共におられたので、何をしても成功させてくれました。あるとき、パロの家来の夢を解き明かしてあげました。ヨセフは「あなたが幸せになったときには、私のことをパロに話してください」とお願いしました。しかし、家来はコロっと忘れてしまいました。それでも、ヨセフは挫折しませんでした。しかし、それから2年後、パロが夢を見ました。エジプトのすべて呪法師も知恵ある者もその夢を解き明かすことができませんでした。そのとき、家来がヨセフのことを思い出し、ヨセフは監獄から出され、その夢を解き明かしました。ヨセフはエジプトの総理大臣になり、大飢饉からエジプトを救いました。主が共におられるなら、四方八方から苦しめられても、窮することがないということです。

 第二は、「途方にくれていますが、行きづまることはありません」です。JB.フィリップス訳では、「困らされても、絶望しない」と書いてあります。困らされるは、puzzleということばです。パズルとは、困らせる人や物、難問、悩みという意味があります。これは、受け身形なので、だれかそういう人がいたり、そういう問題に出くわすということです。この世に生きている限り、敵対する人が必ずいるものです。また、めんどうなことや嫌なことが起こります。では、どうしたら行きづまることはないのでしょうか?私たちはどうしても、困らせる人物や事柄、あるいは嫌な問題に目が行きます。やがてそういうものが思いを支配して、それ以外、考えられなくなります。たとえば、歯が痛いと、歯のことしか考えられなくなります。同じように、嫌な人やめんどうなことに思いが集中してしまいます。どうしたら良いのでしょうか?鷲という鳥は、鶏やカラスとは違います。鶏は地面を見ながら、えさをついばみます。カラスは「カア、カア」と文句を言って、欠点を突っついてきます。カラスは小回りが利くので、鷲は突っつかれて、獲物を横取りされることがあるそうです。そのとき鷲はどうするでしょうか?天高く昇ります。向かい風が来れば来るほど、翼をかって高く昇ります。私たちクリスチャンは、力ある神さまの子どもですから、鶏やカラスとは違います。鷲のように、向かい風を捕えて、天高く昇るのです。どうぞ、日々起こる、問題に支配されないようにしましょう。主にあって、問題を踏みつけながら、成功と繁栄をいただきましょう。

第三は「迫害されていますが、見捨てられることはありません。」JB.フィリップス訳は、全く同じです。英語のdesertは、「家族、組織、職務から捨てられる」という意味があります。しかし、JB.フィリップスはbut we are never deserted「決して、見捨てられない」と訳しています。現代は終身雇用制というのがなくなってしまいました。「肩たたき」と言いましょうか、職場でも冷や飯を食わせられ、辞職に追い込まれることがあるようです。家庭内でも、子どもが育児放棄されることがあるでしょう。夫がどこかに行って、家に帰って来ません。それで、妻と子どもが淋しく暮らしている家庭もあります。本当にせちがらい世の中です。しかし、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?ヘブル13:5「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。特に日本では、キリスト教信仰を持っているだけで、目のかたきにされ、迫害に会う場合があります。黙っていたら、問題にならないでしょうが、福音を証すると必ず反対者が起こります。使徒パウロもユダヤ人から多くの迫害を受けました。でも、神さまはあらゆる迫害から、パウロを救い出しました。パウロは、Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです」と言いました。迫害があればあるほど、神の救いを体験し、結果的に私たちの信仰が強くなるのです。台風のような嵐がヤシの木に当たったらどうするでしょうか?ヤシの木は、強風によって、ものすごくしなります。もし、ヤシの木に人格があったら、どう思うでしょうか?「この嵐は永久に続く」と思うでしょうか?それとも「この嵐は一時的である」思うでしょうか?もちろん「一時的」です。ヤシの木はしっかりと地面に根をおろして耐え忍びます。嵐が去ると、またピンと真っすぐ立ちます。嵐の中にあっても、イエスさまは私たちを見捨ててはいません。嵐を私たちの中に入れない限りは大丈夫です。

第四は「倒されますが、滅びません」です。このところは、JB.フィリップス訳がとっても有名です。「私たちはノックダウンされることもあるでしょう。しかし、決してノックアウトされません」と訳されています。ボクシングでは10カウントでノックアウトになります。でも、おきあがりこぼしのように、倒されても再び立ち上がるのです。これは自分の頑張りではありません。主が私たちを支えていてくださるからです。詩篇37:24「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」とあります。日本は「一度、倒れたらもうおしまい」という考えがあります。スキャンダルとか、何かの罪でさばかれると「あの人は倒れてしまった。もう終わりだ」とレッテルを貼ってしまいます。政治家も芸能人も牧師も、そう言われる時があります。ダビデは姦淫と殺人をいっぺんに犯しました。しかし、主が彼の罪を赦し、きよめてくださいました。ダビデは再び立ち上がり、すばらしい王として神さまから愛されました。倒れることは恥ではありません。倒れたままでいることが恥なのです。私たちクリスチャンは、世の中の人よりも厳しいところがあります。なぜなら、神のことばと律法を持っているからです。みことばの剣で人々を切り刻みます。そうではなく、私たちは神の恵み、神の善、神の愛、神のあわれみをもっと強調しなければなりません。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字は殺し、御霊は生かすからです。」私たちは古い契約ではなく、新しい契約に仕える者です。私たちは土の器ですが、内側から主が支えてくださっておられます。私たちは土の器ですが、主が共におられ、外側からも支えてくださっておられます。だから、土の器であっても、壊れそうで壊れないのです。なぜなら、この宝を、土の器の中に入れているからです。

 

2.復活のいのち

それでは、この宝とは何でしょうか?ある人は「それは福音である」、またある人は「キリスト御自身である」と言うでしょう。もちろん、そうだと思います。しかし、もっとはっきりとしたことが記されています。Ⅱコリント4:10-11「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」この宝とは何でしょうか?さきほど、土の器とは私たちの弱い肉体であると申しあげました。それは、間違いありません。でも、私たちは弱いままではありません。なぜでしょう?私たちの肉体に不思議な力が作用していることが分かります。使徒パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」あるいは「イエスのために絶えず死に渡されている」と言いました。簡単に言うと、イエスさまの十字架の死に似たものとなったということです。パウロはいろんな迫害や苦しみを受け、イエスさまの死に似たものとなりました。普通、死というものは嫌なものであり、そこには何の希望も光も見えません。でも、イエスさまの死とはどういうものだったのでしょうか?イエスさまは十字架で死にました。それは、私たちの罪のために罰を受け、贖いとなるためでした。では、イエスさまはそのままずっと死んでいたのでしょうか?そうではありません。父なる神さまが、「もう使命を果たした」とばかり、イエスさまをよみがえらせてくださいました。つまり、イエスさまの死は、死で終わってはいないということです。どうなったのでしょうか?そうです。三日目によみがえったのです。だから、パウロは「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」あるいは、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」と言いました。

これはどういう意味でしょうか?イエスさまは、死んだけれども、復活しました。同じように、私たちも苦しみを受け、イエスさまの死と同じ状態にならば、どうなるでしょう?イエス様のいのちが明らかになるということです。なぜなら、父なる神さまが私たちをよみがえらせてくださるからです。ピリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは知っていました。キリストの死と同じ状態になると、復活の力が現れるということを知っていました。ここには神の逆説、パラドックスがあります。普通は死んだらおしまいです。私たちは、大けがをしたり、大病を患うと死にそうになります。普通は「ああ、もうおしまいだ」と思うでしょう。しかし、そのときにスイッチが入り、復活の命が作動するということです。この会堂の電気は、今は付いています。しかし、停電になったらどういうことが起こるでしょうか?実は天上には停電になったときにつく、電灯が4つ付いています。私たちはサイボーグではありませんが、あるところはサイボーグに似ています。この肉体が死に瀕するようなことがあると、なんと、自動的に復活の命が作動する仕掛けになっているのです。どうぞ、この世の人たちと同じように考えないでください。この世の人たちは、肉体の命がなくなったら、「もうおしまいだ」と諦めるでしょう。しかし、私たちはそうではありません。イエスさまの死を身に帯びているので、イエスさまのいのちが現れるときとなるのです。ジョエル・オスチーンのおばあちゃんが、お医者さんから「パーキンソン病の恐れがあります」と言われました。おばあちゃんは「私はそんな病気になるには年を取り過ぎています」と拒否しました。結局、パーキンソンにはなりませんでした。ジョエル・オスチーンのお母さんが、肝臓がんになりました。医者からもあと半年だと言われました。黄疸がひどくなりました。彼女は若い頃の写真を台所やトイレ、洗面台にはりました。そして、若い頃の自分をイメージしながら、癒しのみことばを唱えました。すると、癌がすっかり癒され、元通りになりました。これが、復活のいのちです。

Ⅱコリント4:14「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」と書いてあります。これは、将来のことだけを言っているのではありません。現在もそうだということです。クリスチャンであるならばキリストの復活を信じていると思います。「キリストが復活しなければ私たちの信仰はむなしい」とパウロが言いました。キリストは2000年前、復活しました。これは事実ですが、過去の出来事です。また、キリストは眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました。これは、私たちも将来、キリストのように死後、復活するということです。死んでも、やがて復活することができるというのはすばらしい希望です。でも、それは将来の出来事です。それでは、キリストの復活は現在、何の力も果たさないのでしょうか?キリストの復活は、大事な教理として、額縁に入れて飾っておけばよいのでしょうか?そうではありません。キリストの復活は、死ぬべき肉体を持っている私たちに働いているのです。死にそうで、死なない。それは、キリストの復活のいのちを帯びているからです。キリストの復活のいのちこそが、土の器の中にある宝ではないでしょうか。この宝を持った者はどうなるのでしょうか?「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」アーメン。

ヨハネ11章に、ラザロの物語があります。イエスさまがベタニヤに到着したとき、ラザロが死んで既に4日たっていました。マルタはイエスさまに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタは「もう遅すぎます」と言ったのです。残念ながら、これは過去の信仰です。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは「私は、終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると、信じております」と答えました。マルタはすばらしい告白をしました。しかし、残念ながら、それは未来の信仰です。なぜなら、イエスさまはラザロを終わりの日によみがえらせるのではなく、今、よみがえらせるとおっしゃったからです。イエスさまは「その石を取りのけなさい」と命じました。マルタは「主よ。もう、臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。これも、相変わらず過去の信仰です。イエスさまは彼女に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか」と言われました。イエスさまは父に感謝した後、「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると、死んでいた人が、手足を長い布で巻かれたまま出て来ました。なんと、ラザロがよみがえったのです。イエスさまがここで示したかったことは、何でしょう?イエスさまのよみがえりは、過去でもなく、未来でもありません。いつですか?「今でしょう!」「今、私を信じる者は、死んでも生きるのです」と、現在の信仰を語られたのです。私たちはキリストの復活について語ります。もちろん、それはキリスト教信仰の土台です。でも、過去の出来事です。私たちは死後の復活について語ります。もちろん、それは私たちの究極の希望です。私たちは死後、復活するのです。でも、それは未来の出来事です。私たちが最も必要なのは、今どうなのかということです。キリストの復活が、現在の私たちにどう働いているかということです。私たちはキリストの復活という過去の信仰だけでは不十分です。また、私たちは死後の復活という将来の信仰だけでも不十分です。そうではなく、今、私たちに復活の力が働いているという現在の信仰が重要なのです。

私たちは地上で生活していると、打ちのめされるようなことがあります。たまに、「あー、へこまされた」とか「へこんだ」と言うときがあります。でも、よく考えてください。イエスさまは金曜日、十字架につけられて死にました。悪魔から見たら、完全にへこまされた状態です。土曜日になっても音沙汰なしです。悪魔は大喜びで悪霊たちと祝宴をあげました。「やった。イエスは死んでしまった。これからは俺たちの時代だ」と言いました。ところが、どうでしょう日曜日の朝、イエスさまは死を打ち破って復活しました。私たちの生活において、死に瀕するような金曜日があります。土曜日も何の音沙汰もありません。たとい、どん底に落ちても、日曜日が来ます。神さまがイエスさまを死人からよみがえらされたように、私たちをよみがえらせてくださいます。私たちは毎週、日曜日に集まり、「金曜日はいつまでも続かない。復活の日曜日が来る」ということを確認するのです。あなたの人生において、どんなに落ち込むようなことがあっても、復活の日曜日は必ずやってきます。