2013.4.7「ほふられた小羊に ヨハネ黙示録5:6-14」

 先週はイースター、復活祭でした。カトリック教会に行くとイエスさまが十字架に磔になったままです。その御姿を見て、来た人々は罪を懺悔します。しかし、プロテスタント教会に来ると、十字架はありますが、イエスさまが付いていません。イエスさまはどこで、何をしていらっしゃるのでしょうか?聖書を見ると、イエスさまは復活したのち、40日間、弟子たちの前に現れました。その後、弟子たちの前で天に引き上げられました。そのとき、「また戻ってくる」と約束されました。ヨハネ黙示録はイエスさまが戻ってくるときの有様について書かれています。世の終わり、この地上では悲惨なことが起こりますが、天上ではそうではありません。今、天上ではどのようなことがなされているのか、ヨハネ黙示録から学びたいと思います。黙示録の初めに何と書いてあるでしょう。黙示録1:3「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」

 

1.ほふられた小羊に

 世の終わり、神のさばきが下されようとしているとき、封印された巻き物がありました。巻き物はギリシャ語ではビブロスであり、本のもとになったことばです。巻き物には七つの封印がしてあって、だれも開くことができませんでした。ひとりの強い御使いが大声で「巻き物を開くのにふさわしい者はだれか」と問いました。天にも、地にも、だれひとりその巻き物を開くことのできるものがいませんでした。ヨハネはふさわしい者がだれも見つからないので激しく泣いていました。黙示録5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」長老が言っているダビデの根が勝利を得た方とはイエス・キリストのことです。イエスさまは死に勝利されたお方です。だから、その巻き物の封印を解くことができるのです。しかし、黙示録を見ると、イエス・キリストではなく、別の呼び方がなされています。6節には「ほふられたと見える小羊」と書かれています。しばらく読んでも、「小羊」という呼び名しか出て来ません。なぜ、このような意味ありげな呼び方をしているのでしょうか?ヨハネ黙示録は、迫害の中で書かれた書物だからです。ですから、敵にわからないように幻やたとえで書かれているのです。でも、私たちは「ほふられた小羊」と聞くとぴーんときます。私たちの罪のためにいけにえとなって死んでくださったイエスさまのことです。旧約聖書ではいけにえを殺すとき、「ほふる」と言いました。イエスさまは私たちの身代わりに十字架で死なれました。バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊」と預言したとおりです。

 私たちクリスチャンは、ほふられた小羊の下にある存在です。それはどういう意味でしょうか?世の中には二種類の人がいます。ほふられた小羊の下にいない人と、ほふられた小羊の下にいる人です。世の終わりは、神のさばきがどの時代よりも、はっきりと臨む時です。ほふられた小羊の下にいない人は、神のさばきをもろに受ける人たちです。小羊なるイエスさまが巻き物の封印を解くとどうなるのでしょうか?黙示録を見て分かりますが、封印を解く度に、いろんな災いがこの地に下されます。黙示録6章には見ると、第一の封印、第二、第三、第四、第五、第六と解かれていくことが分かります。その度に、厳しいさばきが起こり、多くの人たちが死にます。「では、クリスチャンは大丈夫なのだろうか?」という疑問が起こります。このところは神学的に議論が分かれるところです。クリスチャンは天上に引き上げられているという考えと、いや、みんなと同じような試練を受けるという考えです。ここにはクリスチャンという呼び方はありませんが、信仰者がいます。信仰者もいろんな迫害にあって、殺されるというふうに書かれています。では、何が違うのでしょうか?ほふられた小羊の下にいない人は、自分の命を守るために、簡単に獣や反キリストに頭を下げます。彼らはひどい目に合うと、まことの神さまを憎むようになります。一方、ほふられた小羊の下にある人はどうなのでしょうか?全く、災難や試練に合わないか、というとそうでもないようです。信仰者も天変地異の影響を受けます。守られることは確かですが、中には命を落とす人も出て来るでしょう?彼らには白い衣が与えられ、肉体の命はなくしても、永遠の命と御住まいは保障されています。つまり、世の終わりの裁きの中でも救いがあるということです。

 私たちは雨の日に外出するとき、どうするでしょうか?傘をさします。傘をさすと、雨がまともに当たりません。でも、雨が強い場合は、肩や足元が濡れます。しかし、傘を全くささないよりはましです。雨の中で、傘をさしていないならば、ずぶ濡れになるでしょう。中学生とか高校生が傘なしで、通学しているのを見るときがあります。「いやー、若いなー」と感心します。もし、世の終わりのさばきに対して、何の守りもないならばどうでしょう?これは、ひどい状況になることは間違いありません。ほふられた小羊の下にあるとは、神さまの守りがあるということです。なぜでしょう?イエス・キリストは十字架ですべての人の罪のために死なれました。つまり、罪のいけにえとしてほふられたということです。イエスさまは全人類のために、そうされたのです。では、クリスチャンとはどういう人たちでしょうか?イエスさまの贖いをいただいた人のことです。神さまから、イエスさまの贖いを受けた人はどう見えるでしょうか?「ああ、この人には罪がない。義とされている存在である。この人は裁きの対象ではない」と見えるでしょう。なぜなら、イエスさまの贖いという衣を頭からすっぽり着ているからです。あとで、天使の守りについてもお話ししますが、天使がその人たちを守ってくれます。ここ数カ月、救いということを学んでいますが、窮極的な救いとは何でしょうか?窮極的な救いとは、世の終わりが来ても、さばかれないということです。なぜなら、御子イエスが神にさばかれた、つまり、ほふられたので、私は罪赦されている存在だということです。聖歌476で、世の終わりについて歌っています。「見よ、わが罪は十字架に釘付けされたり、このやすき、この喜び、だれもそこないえじ。すべてやすし、み神ともにませば。よしあめつち崩れ去り、ラッパの音と共に、御子イエスあらわるるとも、などておそるべしや。すべてやすし、み神ともにませば。」

 

2.賛美と誉れと栄光が

 黙示録を読んでいくとわかりますが、地上にいろいろな災いが臨んでいきます。しかし、天上はそうではありません。ほふられた小羊と神さまを礼拝しています。地上は火や災いが臨んで阿鼻叫喚の様ですが、天上はいたって平安です。黙示録5:7以降、特記すべきことを3つだけ取り上げたいと思います。第一は、小羊が礼拝を受けているということです。8節を見ると、「四つの生き物と二十四人の長老たちが、小羊の前にひれ伏した」と書いてあります。12節には「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と賛美されています。13節では「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」とすべての被造物から賛美を受けています。とういことは、小羊であられるイエスさまは神さまだということです。なぜなら、十戒にあるように、神さま以外に、礼拝をささげてはいけないからです。キリスト教の異端であるエホバの証人は「イエスは神ではない」と言います。彼らはエホバなる神さましか礼拝しません。イエスさまも聖霊も神ではないと言います。しかし、黙示録には「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と書かれています。つまり、神さまと小羊であるイエスさまが同等に扱われているということです。

私たちの団体が、キリスト教と言われているゆえんがここにあります。旧約聖書を学ぶことはとても重要です。そこにはキリスト教の基盤が書かれているからです。でも、私たちはイエス・キリストを通して旧約聖書を見なければなりません。なぜでしょう?私たちはイスラエルの民ではありません。イスラエルの人たちは、神さまに近づくために律法や儀式が必要でした。私たちは異邦人です。何が違うのでしょうか?律法や儀式ではなく、イエス・キリストの贖いを通して、神さまに近づくのです。律法や儀式はイエス・キリストの影であり、型です。本体が現れたならば影は退くしかありません。私たちは律法や儀式ではなく、キリストの血しおによって神さまに近づくのです。ことばを換えるなら、行いではなく恵みです。セブンスディという土曜日を安息日としているキリスト教の団体があります。彼らは旧約聖書のレビ記に記されている汚れた食物は食べません。いろんな自然食を独自に作っているようです。どういう訳か、コーヒーも飲まないようです。他にもいろんなところが、旧約聖書的で自由がありません。なぜでしょう?教えはあるかもしれませんが、キリストの恵みが強調されていないからです。使徒パウロが、Ⅱコリントでこのように教えています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:15-17「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」私たちはキリストの恵みによって救われた、新しい契約に仕える者なのです。

 第二は、このところに、おびただしい数の天使がいるということです。黙示録5:11「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。」「万の幾万倍」を計算してみると、数億から数十億になります。英語のある聖書には、myriadsと訳しています。これは「無数の」という意味です。つまり、天使は、星の数ほど無数にいるということです。なぜ、天使が無数にいる必要があるのでしょうか?天使もいくつかの階級に分かれているようです。最も高いのは天使長、アーク・エンジェルです。ミカエル、ガブリエルなどが有名です。サタンも堕落前は天使長の一人だと言われています。それから、天の軍勢、ホストがいます。彼らは天と地上の間で戦っている天使たちです。さらに、クリスチャンに仕え、クリスチャンを守っている天使がいます。ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」聖書の至るところに、天使が神の人を助けているシーンを見ることができます。ペテロが牢獄に捕えられ、明日には処刑されるところでした。なんと、ペテロはぐっすりと寝込んでいました。主の御使いが脇腹をたたいて彼を起こしました。彼は半分ねぼけていました。いつの間にか、手から鎖が落ち、第一、第二衛所を通り、最後に鉄の門もひとりでに空きました。朝方、マルコの母、マリヤの家に行くとどうでしょう?ロダという女中が、人々に「ペテロが門の外に立っている」と告げました。人々は「それは彼の御使いだろう」と信じようとしませんでした。このところに、主の御使いの助けがあります。また、初代教会の頃は、御使いが一人ひとりに付いていると思われていたということです。なぜ、無数の天使が存在しているのでしょうか?それは、何億もいるクリスチャン一人一人を守るためです。

現代も、天使に守られたという証をたくさん聞くことができます。真夜中、ある若い女性が駐車場にとめてある車のところに行こうと思いました。すると、男3人が10メートルくらい向こうの車の陰からぬっと、現れました。彼女は恐れによって体が硬直しました。しかし、その時、天を仰いで神さまに助けを求めて祈りました。どういう訳でしょう?3人の男はぎょっとした顔をして、その場に立ち止まりました。それから、数歩、後ずさりして、向きを換えて走って逃げました。後から、3人の男が別の事件で警察に捕まりました。彼らが警察にある夜、起きたことを告げたそうです。女性の間に、3メートルくらいの男が、両刃の剣を持って立っていたということです。天使を見て、3人は顔色を変えて逃げたのです。でも、天使に願わないようにしてください。父なる神さまに願うのです。そうすると、父なる神さまから私たちのもとに、天使が送られてくるからです。この世にはいろんな悲惨な事件があります。歩道を歩いていても、危ない時代です。父なる神さまは、天使を送って神の子たちを特別に守ってくださいます。

第三は、ここには礼拝の重要さが記されています。礼拝はこの地上のことだけではなく、天上でも行われている、永遠の出来事だということです。しかも、礼拝をささげる者は人間だけではないということです。黙示録5:13-14「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」アーメン。私たちは個人で礼拝をささげ、また日曜日は公で礼拝をささげます。なぜでしょう?先週の日曜日に、「金曜日で終わりではなく、復活の日曜日が来る」と申しあげました。イエスさまは金曜日、十字架につけられましたが、日曜日の朝、復活しました。だから、私たちも復活するということです。私たちがこのように、日曜日、公の礼拝を守っているのには訳があります。私たちは「イエスさまが日曜日に復活したんだ」ということを記念するために、ここに集まっているのです。しかし、記念というと言うならば、過去のことを覚えるという意味なので、十分ではありません。きょうは黙示録から学びましたが、なんとイエスさまは世の終わり、天上において礼拝を受けています。あらゆる生き物、4つの生き物、長老たち、数えきれない御使いたちが「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と礼拝しています。と言うことは、礼拝が記念ではなく、将来の先取りであるということです。私たちは天国に行ったら、御座に座る方と小羊を礼拝することになっています。礼拝は義務ではなく、尊い宿命であります。とすれば、私たちがこの地上で、このように天に向かって礼拝をささげているとき、神さまは何と思われるでしょうか?「偉い!なんと信仰のある信仰者たちなんだろう」と感心するでしょう。まだ、神さまを見ていないのに、礼拝をささげているのですから、すごいのではないでしょうか。

ところで、礼拝を英語で、worshipと言います。Worshipは、worth価値から来たことばであると聞いたことがあります。つまり、神さまを礼拝するということは、神さまに価値があることを認めているということです。不思議なことに、私たちが神さまの価値を認めると、私たちにも価値が与えられるということです。人はその人が何を一番大事にしているかで、価値が量られます。子どものときは牛乳瓶のふたとか、瓶の王冠を集めていたかもしれません。大人になると「なんで、あんなものを集めていたんだろう」とおかしく思います。ある人はお金を大事にして、お金に頭を下げています。ある人は美貌を大事にして、美貌に頭を下げています。また、ある人は趣味を大事にして、趣味に頭を下げています。あなたは何に頭を下げているでしょう。あなたが一番、お金と時間とエネルギーを費やしているものが、あなたの神なのです。多くの人たちは偶像を拝んで、偶像に支配されています。あなたは本当の神さまを礼拝しているでしょうか?御座に座る方と小羊は、私たちにとこしえの命を与え、喜びを与え、自由を与えてくださるお方です。私たちが礼拝をすればするほど、私たちの本当の価値がわかってくるのです。そして、こう叫ばずにはおらなくなります。「賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。アーメン。」

 

3.聖日礼拝を中心とした生活

 前のポイントで礼拝の重要さについてお話しました。この日曜日に公の礼拝をささげるのは、復活の記念だけではなく、将来の先取りであるということです。今、天上でも礼拝がなされております。そして、私たちもいずれはそこに加えられるということです。ということは、神様を礼拝することは一時的なことではなく、永遠に続くことがらであります。今日は4月7日で、今年度、最初の聖日礼拝です。先週、総会資料を作っていましたが、そこに現住倍餐会員の名簿があります。一番下に「現住倍餐会員礼拝に出席し、月定献金をささげている教会員をさす」という説明書きがあります。現在、111名の兄弟姉妹が名を連ねています。しかし、「しばらく来ていないなー」という名前がけっこう並んでいます。「ああ、どうしたんだろう?」と思います。「何かあったんでしょうか?」と電話をしたり、訪問すれば良いのですが、私はほとんどしません。その人の自由意思に任せているからです。でも、考えてみると「兄弟姉妹とか、神の家族」と言いながらも、関係が薄いなーと思います。私の家内は「カーブス」という「健康体操教室」に通っています。「きょうは行く気がしない」と休むときがあります。また、体重測定の日は行きたくないらしいんです。しばらく行かないと「どうされたんですか?」と電話が来ます。それで、励まされてまた行きます。私は「会員制」は堅苦しいのであまり使ってきませんでした。「誰でも、礼拝に来て良いですよ」というスタイルでやってきました。でも、「いやだったら、いつでも去って良いですよ」という意味もなりたちます。入口も広いですが、出口も広いということです。

 この世では、「信仰する」とか「○○に入る」と言います。一度入ったら、抜けられない宗教団体がたくさんあります。それに比べてキリスト教会はとても淡泊です。「最近、見てないなー」で終わってしまいます。「聖日礼拝厳守」とか、律法的な表現はしたくありません。でも、聖日礼拝を守ることは信仰のバロメーターであることは確かです。心を尽くして神様を愛するということは、神様に礼拝をささげることでもあります。「いや、私はインターネットで礼拝を守っています」という人がいます。でも、聖書には「力を尽くして神様を愛しなさい」と書かれています。力とは身体を表すことばです。つまり、体をそこまで運んで、犠牲を払う必要があるということです。私は聖日、日曜日を1週間の頂点に生活することをお勧めいたします。日曜日、休めるように普段から準備し、努力しておくということです。デートも教会でしたら良いでしょう。1週間に1日休むという安息日の律法があります。新約聖書的にも、休むことが必要ですが、その体を別のことに積極的に使うということです。そうすると、かえって疲れが取れるということです。午前中まで寝て、横になってテレビを見るのも良いですが、礼拝に来て力いっぱい賛美をささげるとかえって疲れが取れるということです。礼拝に来られた人たちを、神さまは手ぶらで帰らせません。新しい力と信仰と祝福を与えてくださいます。どうぞ、神様中心の生活をして、平安と祝福の中を歩みたいと思います。