2013.4.14「家系の癒し 申命記5:8-10」

イスラエルでは、家系を重んじていたようですが、日本ではどうでしょうか?あるテレビ番組に、明治天皇や有名な政治家の子孫などが出ていましたが、みなさんはどのような家系の中におられるでしょうか?昔はお寺に過去帳というのがあったと思いますが、役所が戸籍を管理するようになってからは古くまで辿れないかもしれません。きょうは、「家系の癒し」と題して、メッセージしたいと思います。申命記のみことばには「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と書いてあります。そのように、旧約聖書には罪や問題が家族代々に及ぶことが語られています。私たちはどのようなものを両親や先祖から受け継いでいるのでしょうか?そこには良いものもあれば、悪いものもあるでしょう。

 

1.家系を通して流れる罪

 エリヤ・ハウスのジョン・サンフォード師は、家系を通して流れる罪は3つの道筋で私たちに影響を及ぼすと述べています。第一は遺伝的なものです。現在はDNAの研究が大変進んでいます。DNAには膨大な情報が含まれています。たとえば、遺伝によって糖尿病、血友病、心臓疾患、癌、色盲、精神病などを受け継いでしまうことがあるでしょう。もちろん、その中には良いものもあって、運動神経とか、芸術性、IQなども受け継ぐことでしょう。髪の毛の色や性質(ちぢれ毛)、皮膚、顔立ち、身長なども親から受け継ぎます。うちの子どもたちは、鈴木家と家内の遠藤家のどちらかを受け継いでいます。両者ともに目が悪いので、みんなメガネをしています。娘が美人なのは、鈴木家の血統だからかもしれません。息子たちが美男なのは遠藤家にしておきたいと思います。修徳の入学式のとき、教会の前をたくさんの親子が通ります。「ああ、この二人は親子だなー」とすぐ分かります。顔つきだけでなく、体型や歩き方までそっくりだからです。私たちは「遺伝」と聞くと、「ああ、遺伝だからしょうがない」と諦めてしまうかもしれません。でも、必ずしも悪い方に行くとは限りません。「神さま、私の細胞組織、DNAを祝福してください」と祈っても良いのではないでしょうか?

第二は模範です。子どもは親が口にすることばよりも、行動に従うものです。「子は親の背中を見て育つ」と日本でも良く言われます。ジョエル・オースティンのおじいちゃんは、毎朝、コーヒーをおいしそうに飲みました。一口すすった後に、「あー」と深い息をもらしました。すると、3人の孫たちも、ミルクやジュースを飲んだ後、「あー」と深い息をもらしました。昔の話ですが、テレビのチャンネルがまだ手動の頃です。お父さんがねそべりながら、足の指でチャンネルを回していたそうです。ある時、子どもがねそべりながら、テレビを見ていました。なんと、その子どもも足の指でチャンネルを回そうとしたそうです。本当に、こっけいです。どうでしょうか?みなさんはお父さん、あるいはお母さんの生活から何か模範として、受け継いでいるものがあるでしょうか?誠実さとか、きちょうめんなところとか受け継いだら良いですね。逆に、虐待とか、悪いことば、臆病なところを受け継ぐこともあるかもしれません。私などは、ゆっくり夕食を取ったこと、つまり、家族団欒という体験がありません。晩酌をしている父がいつ暴れるか分からないからです。だから、食べたらさっさと、食卓を離れる習慣がつきました。食後にお茶を飲むということが全くありませんでした。だから、今も、飲まないです。私は良くない模範を示しているかもしれません。その代わり、家内がゆっくり食卓に座って、子供たちと話をしています。

第三は神の法則、つまり「種まきと刈り取り」です。ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」1カ月前、「苦い根の癒し」で既に話しました。私たちが刈り取るものは良いものもありますし、悪いものもあります。私たちはだれかが飛行機を発明したので、海外旅行にも短時間で行けるようになりました。また、だれかが自動車を発明したので、その恩恵を受けて車に乗っています。色んなお薬でもそうです。私たちは先祖が残した良いものを現在、受け取っています。同時に、残念ですが、悪いものも刈り取ります。たとえば、ダビデは罪を犯しましたが、後に悔い改めたのでダビデ自身は赦されました。しかし、それで終わりだったわけではありません。Ⅱサムエル12:10-11「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす…。』」という預言を受けました。結果的に、ダビデの家系には、殺人と性的な罪が絶えませんでした。

エリヤ・ハウスに一人の女性がカウンセリングを受けに来ました。彼女は重い鬱病の人でした。話しを聞くと、彼女には9人の兄弟と3人の姉妹がいるそうです。9人の兄弟は一人残らず、アルコール中毒で、ある者は死にかけていました。また、彼女を含め、3人の姉妹はすべて精神的な病にかかっていました。末っ子の弟は悪魔崇拝者であり、彼らの聖書を持っていました。ジョン・サンフォード師が、家族に流れる破滅のパターンのすべてが、イエス・キリストの十字架によって押し留められるように祈りました。そして、神からの天使が遣わされて、彼女の兄弟姉妹、すべての周りを取り囲み、暗やみから光へと導き出してくれるように祈りました。2年後、コロラド州でカンファレンスが開かれました。そのとき、非常に美しく、髪の毛も顔も輝いている女性が先生のもとに近づいてきました。彼女は「私のこと覚えていらっしゃいませんよね」と聞きました。先生は「覚えていません」と答えました。なぜなら、彼女があまりにも違っていたからです。あれから、ポップコーンがはじけるように、次々と兄弟姉妹がイエスさまを救い主として受け入れたそうです。神さまは種まきと刈り取りの法則を全宇宙が愛のうちにますます建て上げられていくことを望まれました。しかし、罪が入ったために、この同じ法則が、今日、私たちに悪い結果をもたらすものとなってしまったのです。私たちはこの「原因と結果」ということを忘れてはいけません。しかし、イエスさまは何のために来られたのでしょうか?イエスさまは「悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)とおっしゃいました。

 

2.家系を通して流れる咎

イザヤ59:12「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」この箇所には罪に対する3つの言葉が全部書かれています。そむきの罪と、罪と、咎です。3つ目の咎に注目したいと思います。咎というのはヘブル語でアーオーンと言います。罪と咎とは微妙に違います。咎というのは、「曲がる」あるいは「変える」という意味があります。たとえば、ある人が弓を持って、矢で射ようとします。もし、その矢が曲がっていたならどうでしょう?まっすぐ的を射たつもりでも、曲がってしまいます。これを家系の咎ということに適用したらどうなるでしょうか?先祖の咎が、下の代に何らかの影響を与えるということです。先祖のだれかが罪深い生き方、あるいは考えを抱いたとしたとします。それは、私たちの先祖が何かを曲げることになります。それを咎と言いますが、咎は子孫の私たちを直接、支配するというのではありません。厳密にいうと、影響を与えるということです。どのように、でしょうか?英語でvisit、訪ねて来るということです。友達が家に訪ねてきて、ドアをノックしているようなものです。近所の人が訪ねて来て、悩み事とか相談を持ちかけるようなものです。家系の咎というのは、そのように、私たちのところに訪ねてくるのです。どういった時でしょうか?それは、私たちが先祖と同じような状況に置かれたときです。

エリヤ・ハウスのロブという人の証です。ロブはよく息子と口論しました。最初はおだやかに話そうと思うのですが、いつも口論になります。ロブの心の中に、何か敵対心のようなものが起こってきます。あまりにもひどいので「この息子は、私の子どもじゃないよ。あなたの子どもだよ」と言ったこともあります。しかし、ある日、2000回目か分かりませんが、息子と口論になったときに、神さまが彼に語られました。「家系の中で、代々、受け継がれているお父さんと息子の間に、敵対心がある。あなたにも、妻の家系にもそういうものがある」と教えてくれました。息子は両方の家系から、それを受け継いでしまったのです。神さまに「一体、家系のどこで、息子とお父さんの間に、敵対心が生まれたのでしょうか。未解決のまま放っておかれたそういう口論があったのでしょうか?」と聞いてみました。数週間かかりましたが、ある日、なんとなくですが、お父さんと息子が立っている姿が見えました。ふたりとも腕組みをしながら、背中合わせに立っていました。その姿は口論が激しくなったので、もう、口を利きたくないという状態でした。そのとき、「もう、これ以上、このことに関わりたくない」と誓ったようでした。ロブは神さまに祈りました。「私の先祖のだれかが、お父さんと息子と苦々しい思いを持ちました。お互いに赦そうとしないで、そのまま無視して、それを忘れてしまいました。だから、私はそのことを告白して、あなたが来て、そのことを赦してくださるように」と祈りました。それからどうなったでしょう?息子と何かについて話し合おうとすると、また、口論が始まりました。そのとき、「ああ、馬鹿馬鹿しいな。こんなことで口論しなくて良いんだ」と笑うことができました。そうすると、息子にも「防御しなければ」という気持ちがなくなりました。すると、息子は「お父さん、ごめんなさい」と謝ってきました。何か、パターンが変わって、前のような口論にはならなくなりました。つまり、だれかがこの家系の問題を取り扱って祈るなら、自分ばかりか、周りの人も変えられるということです。咎が取り去られ、神さまの祝福が流れ込むようになるということです。

でも、こういうことが本当に聖書的なのでしょうか?旧約聖書には先祖が犯した罪、あるいは咎に対して、子孫が祈っているという箇所がいくつもあります。エレミヤ14:20-21「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」エレミヤはユダ王国が滅ぼされる直前の預言者です。イスラエル北王国は100年以上も前に、アッシリアに滅ぼされました。今度はユダ王国がバビロンによって滅ぼされてしまいます。本来、イスラエルとユダは1つの国でありました。神さまはアブラハムとの契約、またダビデとの契約を守ってきました。しかし、イスラエルの民はとてもかたくなな民で、罪を犯しても悔い改めることをしませんでした。神さまは裁きのために、彼らが外国に連れ去られることを許します。しかし、それは彼らを滅ぼすためでなく、罪を洗い流し、きよめるためでした。エレミヤは主のみこころを知りながらも、「なんとか、外国に連れ去られることだけは勘弁できませんでしょうか?」と願いました。しかし、主は「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ」(エレミヤ15:1)とおっしゃいました。では、エレミヤのとりなしが無駄だったのでしょうか?そうではありません。主は70年後、バビロンから彼らを必ず連れ戻すと約束しました。神さまも、「子孫のだれかが、先祖が犯した罪、あるいは咎のためにとりなしてくれる人はいないか」と探しておられます。

私たちは先祖の咎によって下ってきた呪いを自分のところでストップさせる必要があります。ジョエル・オースティンの本に書いてありました。ベッツィという美しい女性が拒食症と戦っていました。彼女は、自分の母親が拒食症だったことも私にも説明してくれました。聞けば、叔母にも同じ状態の方がいますし、叔母の妹さんたちも、従姉妹の中にも拒食症の方がいるというのです。この一つの病気のせいで、家族はズタズタにされていたのです。これは単なる偶然の一致ではありません。これは家族に受け継がれてきた、否定的で、破壊的な霊の力です。放っておけば、間違いなく今後も、家族をことごとく傷めつけていくことになるでしょう。ベッツィが呪われた流れの下に生きることをやめて、神様が下さる祝福の下に生きるのだと決意しない限りは、延々と続くことになるでしょう。ベッツィは拒食症との戦いは単に肉体上のものだけではないことを分かってくれました。それは霊的な戦いでもあったのです。彼女は、これらの呪いを断ち切る権威、つまりイエスの御名の権威を行使しました。そのとき、ベッツィが受け継いできた過去の呪縛を一切断ち切ることができました。彼女は自由な身となり拒食症からも抜け出ることができました。あなたにも、絶えず葛藤を覚えている分野がないか調べてみましょう。家族を見ていると、どうも同じところで足をすくわれているように見える分野です。離婚ということもあるでしょう。貧困もよくあります。依存症というのは最たるものですし、虐待も続きます。鬱病やときには病気でさえも、霊的な呪の中で起こっていることがあるのです。どうぞ、先祖が踏み外したためにやって来た咎を悔い改めましょう。また、先祖から下ってきた呪縛をイエス・キリストの御名によって打ち砕きましょう。

 

3.家系を通して流れる祝福

申命記5:9-10「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」神さまのご性質はどのようなものでしょうか?聖書が啓示している神さまは「呪いを与える神さま」でしょうか?あるいは「祝福を与えたい神さま」でしょうか?四代と千代では、250倍も違います。四代は約120年ですが、千代だと3000年になります。もちろん、数学的な意味ではないでしょうが、そんなに違います。神さまは私たちの家系を祝福したいと願っておられるのです。この世の神さまは私たちに災いとか罰を下す怖い神さまです。だから、そういうことのないようにお供えをしたり、祀ったりします。決して「神さまを愛し、その命令を守れ」とは言いません。私たちの神さまは私たちをとても愛しておられるので、「私を愛しなさい」とおっしゃるのです。聖書には一人の信仰によって、祝福が末代にまで及ぶという約束が記されています。その筆頭が、アブラハムです。創世記12:1-2主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。アブラハムが召命を受けたのは、75歳でした。アブラハムの生まれ故郷は、カルデアのウルでした。そこはバビロンの異教地でした。最初に召命を受けたのは、アブラハムの父、テラであったと思われます。テラはウルを出て、カナンの地を目指しました。ところが、テラは、途中のハランまで来ましたが、そこに住みついて、そこで死にました。アブラハムが召命を受けたのは、父が死んだ直後でした。「父の家」とは、ハランであり、妥協した場所です。主なる神さまは「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束されました。

この間、家内とこのようなことを話しました。家内の実家は岩手です。彼女のお父さんは昨年、亡くなり、一周忌で出かけました。お母さんは座間に何度か訪れました。そのとき、役員の青木姉の導きで、イエスさまを信じる祈りをしました。今もお母さんにはイエス様を信じる信仰があります。家内は、「私は岩手を離れて、都会に来たのでイエスさまを信じられた」と言いました。田舎は因習が強くて、よっぽどのことがない限り、キリスト教を信じるということはありません。私もそうですが、こっちに出て来たので、クリスチャンになれたのだと思います。しかし、一代目というのは、とても荒削りです。この世を捨てて来たので、この世に対しては挑戦的になります。私たちには子どもが4人いますが、私たちの必死さがありません。神さまの恵みの有難さを知りません。逆に、「両親が信じている神さまは本当なのか?」と疑ってかかっています。私たちは「すばらしい真理と、すばらしい神さまに出会えた」という喜びと感動がありました。しかし、子どもたちにはそれがありません。でも、一代目の私たちと違って、力みがありません。アメリカや韓国では、4代目、5代目のクリスチャンがたくさんいます。そういう人たちは、信仰という言葉を使わなくても、信仰がにじみ出ています。数年前、韓国のキム・ソンゴンのセミナーで学んだことがあります。キム師のお母さんは6代目のクリスチャンで、大阪で生まれました。やがて女性の伝道師になりました。ところが、戦争が始まり、韓国に帰りました。韓国語がほとんど分からないので、大変苦労したそうです。その後、4代目のクリスチャンのご主人と出会って結婚しました。ご主人はとても貧しい村で育ちました。その村にはクリスチャンがほとんどいませんでした。お母さんのお腹にソンゴン師が宿って妊娠8カ月の時、お母さんは祈祷山に登りました。そして、1週間断食して、お腹の子を神さまにささげる祈りをしました。やがて、息子のソンゴン師は信仰を持ちましたが、建築の設計士になりました。彼は会社の社長になることを夢見て一生懸命働きました。ところが、31歳に転機が訪れました。36歳で牧師になりましたが、お母さんは36年間祈っていたことを初めて話したそうです。やがて、生まれ育った村を訪れる機会がありました。既に、村ではリバイバルが起こっており、90%がクリスチャンになっていました。「ああ、あの息子がこんなに立派になって」と村人たちは大歓迎しました。現在、キム・ソンゴン師にはお孫さんがおり、とても自慢します。お孫さんは父方で行くと7代目のクリスチャンです。3歳のとき、聖書を持っておじいちゃんの真似をしたそうです。先生は「7代目は祝福のレベルが違う。私たちの祝福を全部背負っている」と言いました。

神さまは私たち自身だけではなく、家族を、そして家系を祝福したいと願っておられます。私たちは、異教の神さまを離れ、天地を造られたまことの神さまを信じました。とにもかくにも、私たちが神さまの系図に加えられたことを感謝します。神様の御心は、のろいではなく、先代に至る祝福を与えることです。信仰を持ったあなたが、千代に至る恵みの流れの一端を担っているのです。信仰をもったあなたが、呪いの扉を閉じ、今度は祝福の扉を開ける門番なのです。