2013.4.21「トラウマからの解放 ヨハネ黙示録3:20-22」

「トラウマ」は、もともとはフロイトが精神分析のときに用いた言葉だったようです。トラウマは「心的外傷」とも言いますが、「心理的に大きな打撃を受けて、その影響が長く残るような体験」をさします。たとえば、私たちは事故にあったり、ひどいことをされた時に、「トラウマになった」と言います。そして、そのショックが心の中に傷として残り、次から「またそういうことが起こるんじゃないか」と恐れるようになります。私も自動車事故を起こした時などは。その時のことがしばらく忘れられません。トラウマになって、「またぶつかるんじゃないかな」と恐れます。ま、私の場合は、少し恐れた方が良いのかもしれません。これから、夏に向って暑くなるので、車を運転する方は要注意です。

 

1.いろいろなトラウマ

 解放の前に、「どのようなことで私たちはトラウマを受けるのか」ということを学びたいと思います。これは、エリヤハウスから学んだ内容をいくつか分かち合いたいと思います。第一は「恐れに基づいたトラウマ」です。事故の現場を見たとか、自分がその事故に巻き込まれたときにトラウマになります。また、虐待とかいじめなど、そのような犠牲者になったことによって体験することもあります。10年くらい前、地下鉄サリン事件がありました。あの事故に巻き込まれた人は、しばらく地下鉄に乗れない人がいたようです。しかし、全員がそうではありません。心のバリヤーが生まれつき薄い、あるいは弱い人がそのようになる傾向があるようです。また、間接的に、自分の兄弟が虐待されているのを見て、あるいはお父さんがお母さんを打ちたたいているところを見て、トラウマを受けることがあります。私は、そういう家庭で育ったので、ホームドラマを見るのが嫌いです。ドラマの中に無慈悲で意地悪な人が登場すると胸が圧迫されます。それよりも、水戸黄門とか東山の金さん、ランボーのような、勧善懲悪のものを好んで見ます。なぜなら、悪がきっちりさばかれるので、安心して見られるからです。

 第二は裏切りによっておこされるトラウマがあります。私たちが自然に信頼している人たちが、自分を虐待した場合です。その中には、両親とか近い親戚、先生や牧師がいます。もちろん虐待を受けたことによって、トラウマが起こります。が、それと同時に、自分を虐待から守ってくれる人たちが、自分を守ってくれなかったということで、トラウマの原因になることもあります。お父さんが子供に暴力をふるって、虐待をしているときに、止めるべき母親がそこにいたのに、止めてくれなかった場合です。また、配偶者が不倫をしたために起こるトラウマがあります。ある人が信頼を裏切って、自分のことを他の人に秘密をばらした。裏切るという偽りを信じてしまうと、トラウマを受けます。この世では、元カレとか元カノ、あるいはバツ1とかバツ2などと軽く言います。でも、それは受けたトラウマをはぐらかすような言い方です。人はそんなに強くはありません。人から裏切られると、深いトラウマになります。

第三は身体的なトラウマです。突然、怪我をしたり、傷害を受けた場合に起こります。また手術も私たちの脳の記憶に深い傷を負わせます。臓器移植とか、輸血などが体にトラウマとして残ります。もちろん、レイプも肉体的にトラウマとなります。また、心臓発作も身体的にトラウマを残します。私は骨折とか打ち傷のため祈るときがあります。表面がうっ血して、筋肉や骨がショックを受けています。ですから、細胞や組織からトラウマが取り除かれるように祈ります。心だけではなく、体自体がトラウマを受けているということを忘れてはいけません。「痛いの、痛いの、飛んで行け」と言ったりしますが、まんざら間違ってはいません。私たちが祈ることによって、神様が身体的なトラウマを取り去ってくださってくださいます。

 第四は喪失によるラウマです。あるものが突然なくなることによって起こります。仕事を突然失うとか、人間関係を失うとか、家が突然なくなるということです。2年前の東北大震災の津波で、家族も家も仕事もなくしたという人が大勢いらっしゃいました。亡くなった人も気の毒ですが、命だけが助かり避難所生活で暮らすの人も大変です。福島の原発事故で、ふるさとを失った人たちも大ぜいいます。喪失によるトラウマは、その悲しみが強く、また長期間続いてしまいます。テレビで見ることがありますが、子どもを事故や犯罪、自殺で失った親は、10年たっても抜け出せないということです。聖書で、ヨブはすべてを失ったときに、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました。すばらしい信仰です。でも、その後、ジワジワと痛みと疑いと悲しみがやってきたことも事実です。

 第五は性的なトラウマです。性的なトラウマというのは、性的ないたずらや不適切なタッチによって起こるものです。あるいはレイプされた、あるいは暴力的な行為をされた場合です。そして、このトラウマは肉体だけではなく、核の部分にまで達して影響を及ぼしてしまいます。アメリカの統計によると、女の子のうちの三人に一人、男の子は四人に一人が性的虐待や、性的ないたずらを受けているそうです。このタイプのトラウマは、私たちの魂だけではなくて、霊的にも傷を受けます。なぜかと言うと、このタイプのトラウマは、自分がだれであるかという、神様から与えられた栄光のかたちを傷つけ、それが恥であるとその人が思ってしまうからです。

第六は感情的なトラウマです。感情的に傷つけられたということによって起こるトラウマは、傷とか身体的な証拠がないために取り扱うのが難しいケースです。感情的に傷ついたトラウマというのは、魂だけではなく、やはり霊にも影響を及ぼすのでとても深刻です。また、ことばによっても、トラウマを受けます。ことばには力があります。「石は私たちの骨を傷つけることができるが、ことばは私たちを傷つけることはできない」ということわざがありますが、これは本当ではありません。ことばは私たちを傷つけます。『水からの伝言』という本があります。水にいろんなことばをかけたあと、水の結晶を顕微鏡で見ます。科学的に、祝福のことばと呪いの言葉ことばは、水の結晶に影響を及ぼすということが分かっています。子どもは、90%が水で出来ており、大人になると70%に減ります。私たちが語ることばには力があります。ことばは人を傷つけ、あるいは人を祝福します。

第七は放置によって起こるトラウマです。私たち人間には基本的な必要があります。愛情あふれる触れ合いとか、自分には価値があると認められることです。自分のことを知ってもらえる、わかってもらえるということが必要です。ですから、人間はどんな人であっても、自分が受け入れられて、愛されるという基本的な必要なのです。ですから、成長していく段階でこのような必要が満たされないと、そこで潰されて、歪んだかたちで成長していくことになります。

第八は家系からくるトラウマです。私たちは先祖から代々、命を受け継いでいます。だから、私たちの前の親やその前のDNAを受け継いでいます。ですから、前の先祖が体験した未解決のトラウマ、あるいは痛みや悲しみが私たちに影響を及ぼします。エリヤハウスの講師のテア先生の先祖はアイルランドの血をひいています。アイルランド人というのは、あまり感情を表さないそうです。感情に対してからかったり、あるいは飲んでまぎらわします。講師の家系の中では、泣くということがあまり受け入れられませんでした。誰かが泣くと、みんなかがからかいました。しかし、神様は「泣いていないあなたの家系の悲しみを、あなたが泣きなさい」と言われたそうです。講師は、泣くことによって不思議に力が与えられたと感じたそうです。日本人も感情をあまり外に出さない民族です。内側にためこむために、鬱になるか、あるときドカンと爆発するか2つに1つではないでしょうか?

 第九は霊的な虐待によるトラウマです。霊的な権威にある人たちが、自分のために、自分の名前や欲のために、権威をあやまって使うということによって起こるトラウマのことです。以前、私のところに何件か電話がありました。牧師から「あなたは二度と教会の敷居をまたぐな」と言われたそうです。「理由を教えてください」と言われても、「来たら、警察を呼ぶ」と言われたそうです。ある人は「あなたにはサタンが付いている」とか、「十分の一献金していない人は、泥棒だ」と言われて、トラウマを受けた人もいます。牧師の権威はわからない訳ではありませんが、霊的な虐待になる危険性がいつでもあります。

 9種類のトラウマをあげました。これだけたくさん言うと、「ああ、これがあるかな?」と思い当たるふしがあるのではないでしょうか?あるいは、「いいえ、私はトラウマなんかありませんよ」と言う人がいるかもしれません。でも、ときどき、何の前触れもなく、「イヤーなこと」を思い出すでしょう。思い出したときに同じような感情、つまり、失望、悲しみ、憤り、悔しさ、恐怖感が起こります。それがトラウマです。私たちはそれらと向き合って、神様から一度、癒していただく必要があります。そうすると、二度目からはそんなショックでなくなります。三度目、四度目とだんだん感じなくなります。

 

2.トラウマからの解放

 Dutch Sheets(ダッチ・シーツ)と言う人がTell Your Heart to Beat Again『心臓が再び動き出すように告げよ』という本を書きました。その本を引用しながら、エリヤハウスのテア先生がこのように説明してくださいました。トラウマに会うと心臓が止まってしまったような状態になります。そのときに、だれかが来て、そこにもう一度、命を吹き込んであげなければなりません。ダッチ・シーツの本の中にこのような話がありました。心臓を開ける手術のときに、私の兄弟のティムがそこに立ち会うことができました。患者の心臓は、鼓動をやめていました。もう一度、心臓を動かすために、医療スタッフがいろいろ手を尽しましたが、心臓を動かすことができませんでした。患者は意識のない状態でしたが、一人の外科医が、患者の耳の中に向けてこのようにささやきました。「あなたの助けが必要です。あなたの心臓を私たちは動かすことができません。自分の心臓にもう一度、動くように言ってください。」驚くようなことですが、そのとき、患者の心臓が動き始めました。トラウマの癒しというのは、心臓がもう一度、動き始めるようなものです。私たちの心臓をもう一度、動かしてもらわなければなりません。しかし、私たちは人を信頼することはとても難しい。また、希望を持つこともとても難しい。未解決なトラウマの部分に、イエス様をお招きするということはとても難しいことです。しかし、イエス様御自身をそのトラウマが起こった場所にお招きし、そのトラウマをイエス様が私たちの内側から取り除いてくださるようにお願いしなければなりません。黙示録3章で、「見よ、私は戸の外に立ってたたく」と言われています。イエス様は、私たちがイエス様をそこに招くことを願っておられます。神様は、私たちが心の扉を開けることによって、その痛みを取り除きたいと願っておられます。イエス様は、十字架でその痛みをすでに負ってくださいました。問題は、私たちが心の扉を開けて、イエス様がもう一度、私たちに息を吹き込んでくださることを許すかどうかということです。イエス様は鞭打たれて、十字架にかけられて、ひどい目にあったときに、弟子たちは希望を失いました。しかし、その後、イエス様は弟子たちに希望を取り戻してくださっただけではなく、新しい命令を与えてくださいました。そのように、イエス様は私たちにも、同じようにしなさいと言われます。つまり、トラウマの解放のカギは、イエス様を最も痛んだ心の中にお迎えすることです。イエスさまは「よくなりたいか」と問うておられます。私たちは、イエス様のお声を聞いて、自己憐憫という床を取り上げて立ち上がるべきです。

 ジョエル・オステーンの本に「心のチャンネルを替えよ」という文章がありました。リモコンで、テレビのチャンネルを替える方法はだれでも知っています。もし、それがつまらない番組であれば、すぐにチャンネルを替えるでしょう。同様に、過去の嫌な体験が予期せずに映し出されることがあります。でも、ある人たちは映画観賞でもするかのように、椅子を持ち出し、ポップコーンを片手に見てしまう人がいます。チャンネルを替えるどころか、自ら進んで過去の痛みを再現させます。そのため、失望といらだちと苦痛が起きてくるのは当然なことです。チャンネルを替えることを学びましょう。あなたの思いや心を絶望に浸らせてはいけません。その代わり、神様があなたの人生に与えてくれた良き出来事を考えるのです。あなたの周りに自己憐憫に浸っている人がいるかもしれません。彼らはそうすることによって、他人の関心を集めるのが楽しいのです。あまりにも長い間、そのように生きてきたので、彼らのアイディンテティの一部になっています。もちろん、トラウマになるような体験をした人は、元気を取り戻すまで、思いやりをもった扱いを受けるべきです。しかし、中には元気を取り戻したくない人もいます。彼らは注目されるのが好きなのです。15年前、フィルとジュディは一人息子を事故で亡くしました。それは慰めることばもないほどの悲惨な事故でした。家族や友人は何か月間も、この夫婦と痛みを共感し、励まし、なんとか元の生活に戻らせようとしました。彼らの心遣いにもかかわらず、フィルとジュディは悲しみを手放すことを拒否しました。息子の名前が出るたびに、二人は涙ぐみ、延々と嘆き悲しむのです。だんだんと、家族や友人たちの足が遠のき、電話をかけてくる人もなくなりました。それでも果敢に二人を元気付けようとする人が現れました。しかし、フィルは決まって「一人息子を失うのがどんなに辛いか、君にはわからないんだ」と答えるのです。

 ヨハネ福音書5章に、38年もの間、病気で伏せっている男性のことが記されています。彼はベテスダの池のそばで毎日過ごし、奇跡が起こるのを待っていました。イエス様はその人に近付き「良くなりたいか」と聞かれました。彼は「天使が来て、池の水をかき回したとき、真っ先に入った者がいやされます。でも、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです」と答えました。彼は「なおりたい」と言えず、ブツブツ言い訳をしました。ある人たちは、受けたトラウマによって長い間、伏せっています。過去の悲惨なことに捕らえられ、一歩も前に進むことができません。じっと横たわって、すべてを好転させる大事件が起こるのを待ち続けています。イエス様はこの男性に単純に、「良くなりたいか?」と聞いています。男性は、「私は一人ぼっちです。だれも助けてくれません。私にはチャンスがないんです」と答えました。イエスさまは「ああ、それは大変だったですね。同情しますよ」とは言いませんでした。「床を取り上げて歩きなさい」と言われました。今も、トラウマで座り込んでいる人に何と言われるでしょう。「あなたがそうなるのも無理はありません。なんとお気の毒な」とは言いません。そうではなく「良くなりたいか?人生を取り戻したいと真剣に思うなら、起きて床を取り上げ、そして歩きなさい」と言われるでしょう。

 多くの人たちは、「どうしてあんな病気になったのか?」と悩んでいます。「あんなことが起きなければ良かったのに」と訴えます。「どうして私ばかりがこんな目にあうんだ」と思っています。それらが、自己憐憫に溺れる言い訳になっています。しかし、そんな思いは捨てて、立ち上がって歩くのです。人生には、たくさんの「どうして」「なぜなの」という問が残されています。あるものは、原因がはっきりしています。しかし、理屈で割り切れないものがたくさんあります。一方的に被害を受けたり、ひどいことをされた場合は特にそうです。ジョエル・オステーンは「理解できない」ファイルを持つべきであると言っています。パソコンをやっている人はわかると思いますが、いろんなファイル(箱)があります。私たちの心にも、「理解できない」というカテゴリーのファイルを持つべきです。理屈では説明できない事態が起こったなら、無理やりそれを解明しようとせず、そのファイルに入れてしまえば良いのです。「どうして、あんなことになったのか?」と悩んで時間を無駄にするよりは、そこから何か自分のためになるものを探せば良いのです。イエス様は「今はわからないがあとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われました。「理解できない」ファイルに入れるとは、イエス様にゆだねるということです。他人に裏切られたり、ひどい扱いを受けたこともあるでしょう。祈りが聞かれなかったり、徒労に終わったこともあるでしょう。「どうしてあんなことを言われたのか?」「どうしてあんなことが起きたのだろうか?」今となっては、過去を変えることはできません。また、浮かんできた映像の前に、座って、ポップコーンを食べながら、辛い思い出に浸り続けるのでしょうか?それとも未来を信じて生きるべきでしょうか?イエス様は「良くなりたいか?」とあなたに告げています。

 もし、「私は、良くなりたいです」と答えた人は一番先に何をすべきでしょうか?それは自分を傷つけた人を赦すということです。私にひどいことを言ったり、ひどいことをした人を赦すことです。ある人は、「神様は一体何をしていたんだ」と神様を責めています。神様をも赦すべきです。もし、赦さないでおくならば毒が体中に回ります。恨み、憤り、憎しみは骨をも蝕みます。相手は、すっかり忘れて、なんとも思っていません。ただ、被害者であるあなたが、恨んで、毒を飲んでいるだけです。どうぞ、過去の恨みと傷を捨て去りましょう。床と取り上げて、歩きましょう。そうするなら、神様はあなたに新しい恵みを用意してくださいます。心の傷がいやされるだけではなく、新しい喜びが与えられます。これまでのマイナスが、大きなプラスになります。そして、いつの日か、「あのことがあって良かったんだ」と思えるようになります。「あのことがあって、今の私があるんだ」と喜べる日がきっとやってきます。それこそ、神様が用意しておられる逆転勝利の道です。被害者を英語でビクティムと言います。そして、勝利者をビクターと言います。両者はとても良く似ています。英語ではWe are not victim but victorという言い方があります。日本語では、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」となります。語呂あわせ的にはうまくいきませんが、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」は、とても良い表現です。「私たちは主にあって、被害者ではなく、勝利者です」ハレルヤ!アーメン。