2013.4.28「~見えないものにこそ目を留める~」

<Ⅱコリント人への手紙 4:13-18>

4:13

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 

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コリント人への手紙は、異邦人伝道を行ったパウロがコリントの信徒へ送った手紙です。

コリントはギリシャの港町で、パウロはそこに1年半ほど滞在し、そこで出会ったアクラとプリスキラという夫婦とともに伝道をした場所です。

 

コリントでは、パウロはユダヤ人からかなりの迫害を受けていました。また、キリスト者の中にも、パウロがイエス様の12弟子、12使徒のひとりではなかったことから、パウロの使徒性を疑う人がいました。その上、誤った教えを説く偽教師が現れて、コリントの信徒を惑わしたりしたので、パウロは心を痛めていました。

 

そのような偽りに惑わされている信徒に対して、パウロは苦難に立ち向かえる信仰が持てるようにと励まし、永遠のいのち、永遠の栄光について力強く語っています。

そして、「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めるように」と教えています。

 

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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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さて、ここでいう”見えるもの”と”見えないもの”とは何でしょうか。

 

“見えるもの”は、16節に書かれている“外なる人”と関連があり、私たちの死ぬべき肉体。外見的な優秀性、生まれながらの性格や欲望などを含めて、外なる人に属する一切のものを指します。

 

今日のこの第二コリントの箇所は、何週か前に鈴木牧師がメッセージされた、“土の器”の箇所の後に書かれています。“土の器”というもろい肉体を持った私たちの外なる人は一時的でいつかは衰えて滅びます。

 

そして、“見えないもの”は、同じく16節に書かれている“内なる人”と関連があり、外見によっては分からない、神様によって日々新しくされる部分です。イエス様の十字架によって、やがて到達する永遠の栄光を含めて、内なる人の喜ぶ一切のものを指します。この内なる人はいつまでも続きます。

 

クリスチャンは、この外なる人と、内なる人を併せ持っているという現実があります。

ですから、たびたび内なる人が外なる人に支配されて葛藤を覚えることがあります。

 

では、見えないもの(内なる人)に目を留めるには、どのようにすれば良いのでしょうか。

 

◆見えないものに目を留めるには・・・

①聖書のみことばを人生の基準とする。

 

私たちが住んでいるこの世界にはいろんな基準や教えがありますが、聖書はその中でも、特別な書物として扱われています。旧約聖書、特にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、おもに律法について書かれています。この律法のことを、ヘブライ語で“トーラー”と言い、“教え”という意味があります。旧約聖書は、キリスト教だけではなく、ユダヤ教、イスラム教でも、教えの土台となっています。

 

キリスト教は、この旧約聖書を土台として、新約聖書を使います。

新約聖書には、旧約聖書の預言が、新約聖書においてひとつひとつ成就されて行った様子が記されています。

 

私たちキリスト者にとって、聖書は、神様からの啓示や、私たちが人として生きて行く上で、最も大切な戒めから、生活に必要な知恵や知識、また、愛や励ましまで、たくさん詰まっている神様からのラブレターです。

 

66巻の聖書の記事を「正典(あるいは聖典)」といいます。「正典」のことを古典ギリシャ語では「カノン」と言います。「カノン」とは「葦」という意味です。葦の節は、ものさしのように同じ幅で刻まれていることから、正典=カノン=葦=ものさし=基準という意味になります。

 

私たちが使っているこの66巻の正典は、諸説ありますが、4世紀ごろ、たくさんのユダヤ教、キリスト教について書かれた書物から、正典に選ばれたものです。正典に選ばれなかったものでも、外典として使われている書物もあります。カトリックは、ソロモンの知恵やベン・シラの知恵の書とか、マカバイ記などの外典を正典にしています。

 

いずれにしても、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであって、絶対の権威があることは一致しています。

 

ですから、見えないものに目を留めるには、まず、①聖書のみことばを人生の基準として、ぶれない信仰を保つことが大切です。

 

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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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と書かれている通りです。

 

私が神学校に行っていたころ、ある先生から、説教者の心得としてこのようなアドバイスをいただきました。

それは、「感動的な、泣ける話を語って、聞く人にその例話が印象に残ったとしても、どんなに優れたパフォーマンスで語って“あの先生すごい!話にどんどん引き込まれた!”と褒められたとしても、説教を聞いた人に、聖書のみことばが残らなければ、その説教は失敗だ。」というアドバイスです。

逆に言えば、「例話だとか、誰が語ったとか、そんな事は全部忘れてもらってもいい。聖書のみことばが聞く人に残ればいい。」という事です。ですから、私はその言葉を肝に銘じて、メッセージが終わった後に、「あれ?今日の聖書のみことばは何だったっけ?」とならないように語ることを目標にしています。

 

みなさんも、ただ礼拝に来て、メッセージを聞くのではなく、今日、引用している聖書のみことばを1節でもいいので覚えて行っていただけたらと思います。

 

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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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とか、本日の聖書個所から、

 

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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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とか、覚えて帰っていただけたらなぁーと願います・・・。

 

また、日頃、聖書を全く開かないという方もおられるかもしれませんが、聖書通読はとても大切です。

聖書は本棚の飾りでもなく、持ち歩けば良いというお守りでもありません。読みましょう!Read the Bible!!

書いている内容が解らなければ、鈴木先生や、私や、聖書に詳しい方に聞いてください。

 

◆見えないものに目を留めるには・・・

②イエス様を模範として見えるものを吟味する。

 

私たちは目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られています。

 

例えば、普段の会話ですが・・・

これは、アメリカの心理学者、アルバート・マレービアン博士による、人が他人から受け取る情報(感情や態度など)の割合についての実験結果です。

 

  • マレービアンの実験の結果は・・・・

*顔の表情 55%

*声の質(高低)、大きさ、テンポ、 38%

*話す言葉の内容 7%

 

なんと私たちは、実際話す言葉の内容からは7%しか情報を受け取らず、残りの93%は顔の表情や声の質によって他人を判断しているというのです。その中でも人が目で見て判断する表情、動作などの割合の大きさは55パーセントと高い率。

 

ですから、今私がここで一生懸命話していても、みなさんには、私の表情とか、声の感じなど、どうでもいいことが93%届いていて、肝心の話の内容が実際は7%しか届いてないということになります。

 

これでは困ります・・・。みなさんは、この話をどこまで信じますか?

しかし考えてみれば、私たちがこの目で見ているものというのは、すべて自分の基準や、自分のものさしで見て判断しているのです。

 

人間の視覚の基準ほどいい加減なものはありません。もうひとつ、ある心理学の実験でこういった実験があります。

 

<ストラットンの視野逆転実験>

 

視覚と知覚の実験ですが、簡単に言うと・・・

 

物が上下逆さまにみえる眼鏡、“逆さま眼鏡”を被験者にかけてもらって、8日間過ごしたところ、最初は上下が逆さまに見えていたのに、そのうち逆さま眼鏡をかけていても上下が正常な位置に見えるようになったという実験です。

 

実験が終わって逆さま眼鏡をはずすと、今度は、眼鏡をかけていないと逆さまに見えるらしく、眼鏡をはずして何日かすると、また上下が正常な方向に戻ったそうです。

 

これは、人間が目で見ているものは、視覚だけではなく、聴覚、触覚、位置感覚、内部感覚が関係して判断しているということの証明です。つまり、何が逆さで何が正位かは、何が基準になっているかによって決まるのです。空は上にあって、地面は下だというのは、その位置づけが正しいと私たちが感覚的に思っているから、そのように見えるのです。

 

つまり、目に見えるものは、すべて自分の基準で判断しているのです。ですから、同じ人物を見ていても、ある人には、ものすごく素敵に見えても、ある人には全く逆に見えたりするということが起こるのです。

 

そこにもし、恋心などが加われば、素敵に見えていた人は更に素敵に見え、ぜんぜんイケてないと思っていた人が突然素敵に見えたりするという現象が起こります。

 

こんな話を聞くと、自分が見て、判断しているものは正しいのかなぁーと心配になってきます。

 

でも、大丈夫です!

私たちクリスチャンにはイエス様という私たちの人生の基準であられる御方、また、最高の模範を見せてくださった御方がおられます。イエス様が、私たちをどのように愛して、接して下さったか、そのイエス様の愛にどのように私たちが応えていけば良いのかを聖書が教えてくれています。

 

イエス様の価値観で目に見えることや出来事を考えてみると、「失敗した!」と思うような出来事があったとき、それは本当に失敗だったのかと考えてみると、案外そうでもないということがあります。後で振り返ってみると、結果的には良かったと思えることがあります。

 

また逆に「うまくいった!成功した!」と思う事があった時、それは本当に成功したと言えるのかと考えてみると、案外そうでもないことがあります。

 

しかし、目に見えるものすべてが悪いものだというのではありません。

私たちの目に麗しく、喜ばしい出来事も、神様は私たちに与えてくださいます。今の時期であれば、お子様が入学したり、進級したりして、元気に学校に行く姿などを見ると、思わず目を細めてしまいますが、そのような時は、素直に神様に感謝して喜べば良いのです。

 

ただ、<Ⅱコリント 4:18>に書かれているように、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」のです。目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られるのではなく、自分の基準や、自分のものさしで判断するのでもなく、イエス様の価値観で見えるものを吟味して行くことが大切です。

 

◆見えないものに目を留めるには・・・

③イエス様から目を離さないで歩みましょう。

 

今日は、目に見えるものと目に見えないものの事についてお話をしてきました。

もうひとつ、みなさんにお伝えしたい大切な事があります。

それは、“イエス様から目を離さないでいる”ということです。

 

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<ヘブル書 12:2>

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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私たちは、このイエス様から目を離さないで、イエス様を見上げて歩んで行けばよいのです。

イエス様は、私たちが患難に遭ったとき、人生につまずいて倒れそうになった時、必ず助け、導いて下さる神様です。イエス様に信頼しましょう。

 

キリスト教が、他の宗教と決定的に違うことは、三位一体の唯一の神様は、私たち人間と人格的な交わりを持ってくださる神様だという事です。

父なる神様は、人間を創造されたときから、神の御姿に似せて造られ、私たちを特別に愛してくださり、人間に重要な任務をお与えになりました。聖霊なる神様は、私たちを助け、力を与え、きよめ、慰めてくださる神様です。また、特にイエス様は、神様でありながら、人間となってくださった御方です。

ヘブル書に書かれているように、イエス様は、ご自分の前に置かれた喜び、つまり私たちの救いのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架に架かってくださいました。そして、よみがえられ、天に昇り、父なる神様の右に着座されました。

 

・・・こんな神様は他にはおられません!!

 

イエス様のよみがえりの事実は、イエス様御自身が神の御子であることの証明です。また、よみがえられたことは、十字架による贖罪の完成のしるしでもあり、キリスト者の復活と栄化の保証でもあります。

このイエス様からけっして目を離さないで歩んで行きましょう!

 

もう一度、確認しましょう!

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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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◆見えないものに目を留めるには・・・

①聖書のみことばを人生の基準とする。

②イエス様を模範として見えるものを吟味する。

③イエス様から目を離さないで歩みましょう。