2013.5.5「中毒からの解放 ピリピ2:12-16」

 日本語では依存症が軽症で、中毒は重症と分けて使っているかもしれません。中毒と言われると、ものすごいインパクトがあります。依存症と言われると、「ああ、ちょっと病的な感じかな」と捉えるかもしれません。しかし、英語のaddictは、麻薬などの常用者、中毒者という意味があります。また、addictionは依存症と言うときに使われます。ということは、外国では依存症も中毒もほとんど同じ意味で使われているということです。今回はエリヤハウスから、かなり引用していますが、「中毒」という言い方で統一したいと思います。でも、「中毒」というと、「私には関係ないなー」と思う方がいらっしゃるでしょうから、後半のメッセージは「悪習慣からの解放」にさせていただきました。

 

1.中毒からの解放

 

 私たちの人生に楽しみをもたらしてくれるものがたくさんあります。コーヒーやチョコレートが大好きな人もいます。お酒やたばこをたしなんでいる方もいるでしょう。パチンコやギャンブルが好きだという人もいます。プレミアム・アウトレットでのショッピングが好きな人がいるでしょう。仕事に没頭して妻や子供のことを忘れてしまう男性もいるでしょうか。ゲームやパソコン、スマホーに熱中している若者がいます。DVDやインターネットを夜遅くまで見ている人もいます。どれもこれも、人の自由であり、罪ではないでしょう。しかし、パウロは何と言っているでしょうか?Ⅰコリント10:23「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」私たちは何をしても良いのです。が、すべてが益になるわけでありません。でも、人生に楽しみをもたらすものというのは、中毒性があるということを忘れてはいけません。アメリカでは寝る前にアイスクリームのバケツサイズを食べないといけない人がいるようです。たばこは今一箱410円くらいするのでしょうか?1か月吸うと1万円以上になり、肺がんになる確率もぐっと増します。カードで買うのはとても楽ですが、支払いが大変になります。ゲームもちょっとだけなら良いのですが、朝までやったらどうなるでしょう?多くの人は「いや、いつでもやめられますよ」と言います。ところが、そう簡単ではありません。一度、依存症に陥ると専門機関の助けが必要になります。私たちは中毒や依存症と言うと、「麻薬やお酒だろう」と言うかもしれませんが、それだけではありません。もし、そういうもので、頭がいっぱいになり、自分の生活が支配されているなら、立派な中毒や依存症であることを認めなければなりません。

 では、人はなぜ中毒になるのでしょうか?ある人は、ほどほどで済ますことができるかもしれません。しかし、ある人はそれにはまって抜け出せない人がいます。エリヤハウスではこのように教えています。中毒も、束縛をもたらすとりで(要塞)の1つです。中毒という要塞に囚われてしまった人は、もうそれ以外の生き方を考えられません。正常な生き方、つまり中毒がない生き方というのを考えられない状態にある人です。また、中毒は痛みを和らげる手段になります。神様は癒しを与えてくださいますが、中毒は痛みを麻痺させるだけです。もし、心の深い部分に痛みがあるならば、それに向き合って、神様のところへ持っていくべきです。しかし、中毒にはまると、その苦しみの部分だけをごまかしてしまいます。酒やたばこの以外にも、気分転換のために習慣的に用いるものがたくさんあります。ある一人の女性は、買い物をするということに中毒になっていました。彼女は浪費することに中毒であり、必要じゃないものを買ってしまいます。どうして買ってしまうか分からない状態です。それは、面白いとかおかしいという範囲を越えていました。なぜなら、家族に様々な問題をもたらしたからです。その根っこにあるものは、大抵の場合、貧しさです。「足りないんじゃないか」「お腹をすかせて死んでしまうんじゃないか」という貧困の体験が、それへの恐れとして、浪費やショッピングに走るのです。また、テレビやDVD中毒もあります。現実に向き合いたくないので、しばらくの間、そういう夢の世界に逃げるのです。テレビやDVDで一体、何を見ているのでしょうか。暴力的なものを好んで見ているなら、心の中に深い怒りがあって、それを映像の中で処理しているのです。よく運動する人がいますが、長距離を走っているとある程度行くと、しんどい所を乗り越えて、ハイになります。自分の力を使い果たしたときに、ある物質が脳の中に出て、ハイの状態になるのです。すると運動が目的ではなくて、ハイになるために、そこまで無理やり運動をするということになります。

 中毒や依存症は、「別に何も問題はありませんよ」という「否認」があります。ある女性は、あまりにも太りすぎていて、自分の足で自分の体重を支えることができないくらいでした。彼女は心に深い怒りを抱えていました。しかし、カウンセラーが「食べ物」ということについて質問し出すと、彼女は「別に、私は食生活のパターンに問題はありません」と答えました。食べ物に対して自分が中毒になっているということに盲目だったのです。そしてそれが自分の人生にどういう影響をもたらしているか分かっていませんでした。その根本には、深い痛みと罪が隠されていました。否認はどのようにして、できて行くのでしょうか。それは、中毒がどのようにして出来ていくのかというのと同じことです。

中毒はどのようにしてできていくのでしょう?エリヤハウスでは原因を5つあげています。第一は両親によって養育としつけがあまりなされなかった場合です。両親が不在、あるいいは、体はそこにいても、心がそこにない状態でした。子供の基本的な必要は、愛とふれあいと、認めてもらうことです。しかし、だれも子供に声をかけてくれませんでした。さらに、子供の心に痛みを注ぎ込む場合です。痛みがたまってくると、子供の人生に影響を及ぼすようになります。

第二は家庭が敵意に満ちた場所である場合、守りを感じない場所である場合にも、中毒や否認が形成されます。虐待や性的虐待がある場合もその一つです。やがて、その子は愛を求めるために、不健全なものにはまっていくでしょう。

第三は人とうまく付き合う方法が欠如しているときに中毒ができていきます。あなたのお父さん、お母さんはストレス下にあるとき、どのような行動をとったでしょうか。お父さん、お母さんは自分の感情をどのように表現したでしょうか。何らかの他の罪深い形でストレスを処理していたら、子供も似たような行動を取ります。私は結婚したての頃、何度か喧嘩したことがあります。家内は無口になり、私は自分の部屋に籠って本を読みました。今は牧師室がありますが、心休まる場所でもあります。牧師室に寝泊まりして、礼拝に出てくる牧師がいると聞いたこともあります。そういう家庭で育った人は、気をつけないといけませんね。

第四は心理的、社会的、霊的に満たされないときに中毒ができていきます。私たちはみな愛されたい、受け入れられたいという願いがあります。私たちは人々とのきずなの中で、一体感の中で生きていく存在として造られているので、人とのつながり(親密感)を求めます。現代はスマホーや携帯を離すことができない人がたくさんいます。メールやチャットでだれかとつながっていないと不安なのです。これは人間依存といえるでしょう。

 第五は家系を通して受け継がれる罪があります。恥意識が処理されない場合、人々はそれを他の人に伝えて、周りの人に流していきます。その家系や家庭、あるいは文化が、「あなたは完全でなければ、受け入れられない」というメッセージを伝える場合があります。また、何かがある度に、暴力や怒りという行動に出るということが家系代々続いてきた場合があります。自分の家系において、人々がどのように困難に直面してきたかを見ると、私たちも自然に同様の弱さを受け継いでいます。アルコール中毒の場合も、その1つですが、家系代々続く場合が多いようです

こういうことを話すと何の希望もないように感じてきます。もし、中毒や依存症を一言でいうならこうなると思います。心の深い必要や傷を神様からではなく、この世のものから求めるということです。十戒では偶像礼拝を禁じていますが、神様以外のものを頼り、それを第一にするのは立派な偶像礼拝です。「いや、私はそういうものにとらわれていません」と否定するかもしれません。チェックする方法があります。朝、一番、最初に何を考えるかです。最初に、考えるものがあなたの神様です。ちょっと言いすぎでしょうか?それなら、あなたが最も時間とエネルギーとお金をかけているものが、あなたの神様です。ある人は仕事かもしれません。仕事中毒というのがあります。だれか人にしばられている人は、共依存の可能性があります。中毒からどのように癒され、解放されるのでしょうか?エリヤハウスでは、5つの段階で解決します。第一は認めることです。否認している限りは、癒しは起こりません。自分の問題を認めなければなりません。第二は根をさぐるということです。たとえば性的依存症の場合、男性が母親に対する敬わない思いが原因していることが多いようです。つまり、母親が操作的、支配的で、父親が弱い場合です。女性は性的虐待や父親との絆がないと依存症に走ります。その女性はボーイフレンドを失う恐れに満ちています。第三は告白と悔い改めと赦しです。心の空虚さを埋めるために、別のものに向かっていました。そして、それによって捕らえられていたのです。解放のためには神様の助けも必要ですが、自分の意思も必要です。「それを断わり、捨てます」と告白します。「○○したいです」ではなく、「○○します」と信仰によって告白します。そうすれば、神様は「あなたの信仰のようになるように」と私たちを変えてくださいます。第五は悪い構造を取り扱います。中毒の構造を取り払い、新しい構造を与えます。アルコール中毒者のためにAAというものがあります。AAとは、「無名のアルコール依存者たち」という意味だそうですが、私たちが言うセルグループです。中毒や依存症の場合は、説明責任を持ち合える小グループが特に必要です。「先週大丈夫だった?」と聞いてくれる友が必要です。また、誘惑に陥りそうな時に、助けてくれる友が必要です。中毒や依存症はいわば闇の世界です。しかし、光なる神様のところへ持っていくならば解放されます。エペソ5:11-13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」神様の前に、正直になることが解放の一歩です。

 

2.悪習慣からの解放

 

中毒とか依存症と言うと、「精神科やプロのカウンセラーでなければ扱うことができないでしょう」とおっしゃるかもしれません。確かに、そのような分野もあるでしょう。しかし、悪習慣がひどくなったものが中毒とか依存症ではないでしょうか?逆に、そのような病名をつけてしまうので、「私は依存症なので治るのは難しい」という信仰が生まれるのです。そうではなく、悪習慣のABCがあれば、Cかもしれないと捉えるべきであろうと思います。つまり、だれでも悪習慣からCの段階に行くことがあるということです。また、たとえCの段階であっても、悪習慣から解放される術を学び、解放のステップを歩めば良いということです。もちろん、神様は奇跡を起こしてくださいます。でも、私たちがなすべき分もあるということを知らなければなりません。アメリカのあるインディアン部族に伝わる昔話です。おじいさんが孫たちにあることを教えました。「お前たちの心の中で、二匹の狼が戦っておるじゃろう。一匹は悪い狼で、怒りっぽく、妬み深く、人を赦さず、高慢で、怠け者の狼じゃ。もう一匹は良い狼で、愛があり、親切で、謙遜で、自制できる狼じゃ。心の中で二匹の狼が常に戦っておるんじゃ。子供たちは「おじいちゃん、どっちの狼が勝つの?」と聞きました。おじいちゃんはニッコリほほ笑みながら「お前が餌をやる方じゃよ」と答えました。私たちはどうして人を赦せないのでしょう?すぐ怒ったり、セルフイメージが低いのはなぜでしょう?それは、悪い狼に餌をやっているからです。答えは簡単です。悪い狼に餌を与えず、餓死させれば良いのです。悪い狼とは私たちの悪習慣です。良い狼は良い習慣と言えるでしょう。

学者によりますと、私たちの毎日の生活の90%は習慣に基づいているそうです。朝起きてから、夜寝るまで大体パターン化しています。では、お金の使い方はどうでしょう?何を見て、何に関心を払うでしょうか?ある人はしょっちゅうおやつを食べています。また、ある人はコーヒーを何倍も飲んでいます。また、ある人は毎晩、お酒を飲んで酔っ払っています。また、ある人は愚痴や不平が絶えません。また、ある人はしょっちゅう怒りを人や物にぶつけています。また、ある人はくよくよ心配し、気持ちが落ち込んでいます。また、ある人は寝る前に甘いものを食べないと眠れません。またある人はゲームやパソコンをやめられず寝るのが12時過ぎになります。また、ある人は時間にルーズで、いつも遅刻してしまいます。また、ある人はクレジットで買い物をしすぎて、支払いのために頭を抱えています。どうでしょう?何か思い当たる節はあるでしょうか?「私は中毒とか依存症ではありませんよ」と言うかもしれません。でも、やめたくてもやめられない悪習慣はないでしょうか?使徒パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」(ローマ7:19)と嘆いています。あのパウロをしてそうなのなら、一般の私たちはどうでしょうか?ジョエル・オースチンは「もっと向上したいと本気で望むなら、自分の習慣の棚卸をしてみたらどうでしょうか?」と薦めています。私もちょっと思い当たるふしがありました。私は思っていることをすぐ口に出す癖があります。そのことを家内によく注意されてきましたが、悪習慣だとは思っていませんでした。また、ジョエル・オースチンの英語版の本に、「worryという悪習慣がある」と書いてありました。worryというのは、「心配する、くよくよする」という意味です。私の家は機能不全で争いに満ちていました。安心して過ごせないところで育ちました。家でも学校でも責められて育ちました。ですから、「だれかから、何か責められるんじゃないか」と心配する習慣がついています。「ああ、これは悪習慣だなー」と分かりました。どうぞ、みなさんも無意識でやっていること、あるいは「これは悪習慣じゃない」と否認していることはありませんか?どうぞ、この際、悪習慣の棚卸をしてみましょう。

専門家によりますと、一度身に付いた習慣を崩すためには6週間かかるそうです。日数で言うと、42日間です。酒もたばこも42日間やらないと解放されます。私はパソコンの中にあるスパイダー・ソリティアに何度かはまりました。そのゲームをやると20分から30分を無駄に過ごしてしまいます。「これは中毒になるぞ」と思って、すべてのパソコンからそのゲームのソフトを外しました。しかし、あとからインターネットでもやれることを知りました。3日間やりましたが、やめました。でも、しばらくの間、やりたくてうずうずしていました。今は、もう大丈夫です。悪習慣あるいは中毒的なものをやめるとき、最初、ものすごい労力と苦しみが伴います。でも、どうでしょうか?どんな悪習慣も中毒もそうですが、良いのはその時だけです。しかし、あとからものすごい苦しみのしかかってきます。やがては精神も体もぼろぼろになり、生活がなりたたなるでしょう。やめるときの苦しみが良いでしょうか、それとも中毒にはまった苦しみが良いのでしょうか?宇宙に飛び出すロケットのことを少し考えてみたいと思います。ロケットが地球の重力に逆らって、宇宙に飛び出すとき、ほとんどの燃料を使い果たすそうです。しかし、ロケットが宇宙空間に達すると、あとはわずかな燃料で飛ぶことができます。悪習慣や中毒も、地球の重力と同じです。その重力によって私たちはひっぱられて生きています。最初、悪習慣や中毒を絶つときのエネルギーと苦痛は想像を絶するほど大きなものです。禁断症状が起こり、頭痛やめまい、体中が変になるでしょう。でも、4週間耐え忍び、6週間たつと自分でも信じられないくらい自由になります。

ある女性は、何十年もたばこを吸い続けてきたヘビースモーカーでした。あるとき、彼女は「今が、やめる時だ」と決心しました。数週間は吸わないで過ごすことができました。しかし、あるときご主人と言い争いました。彼女は腹を立てて、家を飛び出しました。そして、お店でたばこを買いました。そして、「夫に一箱吸っているところを見せてやろう」と思いました。最初の一本に火を付けようとしたときです。内側で何か声がしました。「あなたがこれまでしたことが全部無駄になります。もし、たばこを吸うなら、全部一からやり直すことになります。なぜなら、あなたは感情をコントロールできなのですから」。その瞬間、それをやめるための苦労が脳裏を横切りました。ここまで来るために努力してきたことが、次から次へと浮かんできたのです。彼女は手に持っていたたばこを置いて、再び吸わないという決意をしました。私たちはいろんな言い訳をして、いろんな理屈をつけて、変わることを拒んできました。「だって、ストレス解消のためには仕方がないんです」「クレジット・カードを使わずに過ごすなんて無理ですよ」「心に浮かんだ思いをぶちまけないで終わらせるなんてできません」「うちの親や兄弟も皆そうなんです。これは家系ですよ」「この習慣だけは変えられません」と、そう言っている限りは、解放されることはありません。神様は全能のお方ですが、あなたの決断を代わりになさろうとは思われません。決断するのはあなた自身です。そして、「神様、私がそのようになれるように助けてください」と真剣に願うなら、神様がその力を与えてくださいます。実は、悪習慣を取り除くだけでは十分ではありません。悪習慣の代わりに良い習慣を育みましょう。時間を守ること、倹約的なお金の使い方、健康管理、積極的で生産的なことば、神様との交わり、どんなときでも喜ぶこと、愛と親切にあふれた関係。最初は大変で、ものすごい労力がいるでしょう。でも、習慣になると宇宙のロケットのようになります。ピリピ2:12-13「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」私たちは天国に行ったら完全にきよめられます。でも、神様はこの地上で、私たちが神の似姿に変えられて成長することを願っておられます。それが、「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということです。悪い狼に餌をやっていると、滅びを刈り取ることになります。私たちが悪いもので縛られて暮らしているなら神のこどもとしてふさわしくありません。良い狼に餌をやりましょう。神様はもっと上の段階の、豊かな人生を私たちに備えておられます。