2013.5.19「ペンテコステの炎 使徒2:1-8」

 古来、イスラエルには3つの大きな祭りがありました。第一は過ぎ超しの祭りです。小羊の血によって、エジプトから脱出できたことを記念する祭りです。第二は仮庵の祭りです。かつて、イスラエルの民は荒野で40年間過ごしました。藁や草で作った庵に1週間、住んで、先祖たちの苦労を思い起こす祭りです。第三は五旬節の祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫が始まります。その祭りは最初の収穫を祝うものでした。五旬節の祭りは、過ぎ超しの祭りから、50日目にあたるので、ここからペンテコステという名称が生まれました。過ぎ超しの祭りの日、イエス・キリストが十字架にかかりました。3日目にキリストは復活しました。その日から、50日目に弟子たちがいたエルサレムに聖霊が下りました。最初の収穫として、3000人が救われました。きょうは、ギリシャ語の前置詞、エピ、エン、パラの3つのポイントでメッセージします。

 

1.エピ(上から)

 

 ペンテコステの日、聖霊が「上から」弟子たちに臨まれました。使徒1:8でイエス様がこのように預言しておられました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と書いてあります。「上に」というのはギリシャ語でエピ、英語ではuponであります。これは、天(神のみもと)から、聖霊が弟子たちの上に下ったということです。使徒2:3「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」と書いてあります。弟子たちひとり一人の頭の上に、聖霊の炎がとどまっているのが、肉眼で見えたということです。上から受けた聖霊は何を意味するのでしょうか?それは、聖霊が溢れ出るということを意味します。このことを、ヨハネがこのように書いています。ヨハネ7:38-39「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」まさしく、ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受け、聖霊に満たされたのであります。弟子たちはこの機を境に、キリストを大胆に証する者に変えられました。かつては、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは恐れて部屋の中に隠れていました。しかし、ペンテコステの日、上から聖霊を受けると、迫害を恐れずに、世界中に宣教に出かけました。今日も、聖霊はイエス様を証する力と勇気を与えてくれます。

 みなさんは、このような聖霊が自分の中から溢れ出るという体験をなさったことがおありでしょうか?ある人たちは、そのためには隠している罪をすべて悔い改めなければならないと言います。また、ある人たちは弟子たちが、二階座敷で祈ったように、聖霊を待ち望まなければならないと言います。また、ある人たちは油注がれた神の器によって、按手を受けなければならないと言います。どれも、間違ってはいません。ただ、言えることは私たちが思っている以上に、神様は私たちを聖霊で満たし、聖霊で溢れさせたいと願っているということです。ルカ11:13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」マタイによる福音書は「良いもの」としか書かれていません。しかし、ルカによる福音書は「良いものとは、聖霊である。天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と言っています。重要なのは、信仰であり、求めるなら必ず与えられるのです。たとえば、聖霊が上から臨んでから、ペテロはどのように変化したのでしょうか?ペテロは使徒2章でキリストの十字架と復活の意味を人々の前で大胆に語りました。ペテロは明らかに、預言の賜物を用いています。また、使徒3章ではペテロは生まれつき足萎えの男性を立たせました。これは、奇跡あるいは信仰の賜物です。使徒5章では、ペテロは知識の賜物でアナニヤとサッピラの罪をあばきました。それから病人を癒し、汚れた霊を追い出しました。使徒9章では、ドルカスという死んだ婦人を生き返らせました。これらは、すべて聖霊が与えてくださる力であり、賜物です。イエス様はヨハネ14章で弟子たちにこのように言われました。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。これはどういう意味でしょう?かつてのイエス様はご自身の神としての力ではなく、聖霊によっていろいろな奇跡を行いました。イエス様は復活後、父のみもとに戻られました。そのあと、弟子たちにイエス様のうちにおられた聖霊を送られたのです。だから、イエス様は「私のわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と約束されたのです。

 現代の教会は西洋の合理主義の影響を受けて、聖霊の賜物を軽んじる傾向があります。だから、教会が聖霊の力を発揮することができないのです。私たちも初代教会のように、ペンテコステの聖霊の炎を上からいただく必要があります。そうしたら、キリストを証する力、そして神様の働きを行う力が与えられるのです。私はセルチャーチ・ネットワークに属していますが、今年で7期、つまり7年目になります。先月の4月、清瀬教会でコーチングセミナーが開かれました。その時、私は「聖霊の油注ぎ」について語りました。なぜ、そういう主題で語ったかというと訳があります。セルのネットワークでは、この6年間、「教会の本質」について学んできました。ベン・ウォン師が「みなさんが教会の本質をつかむなら、教会は前に進む」と断言しました。しかし、6年間やったけれど、ぱっとしません。「それはなぜだろう?」と今年の1月、みんなで考えました。香港、台湾、インドネシア、シンガポール、ブラジルではセルチャーチがどんどん成長し、増え広がっています。「どこが、日本と違うのだろう?そうだ。あちらは、聖霊の力があるのがあたりまえで、わざわざ本質に加える必要がないんだ。しかし、日本はいくら本質を学んでも、それらを動かす聖霊の力がない」ということに気がつきました。いくら新しいプログラムを導入しても、まもなく、消えてしまいます。セルチャーチもその1つになる可能性があります。そうではない、初代教会がなぜ共同体がすばらしかったか?それはペンテコステの火を受けたからであるということが分かりました。私たちも、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎを上から受けたなら変わるはずです。力を受けて、身近なところから、世の果てまで、キリストの証人になることができるのです。今日、教会に最も必要なのは、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎであると信じます。

 

2.エン(内に)

 

 エンとは内にという意味であり、英語ではinになっています。弟子たちは上から聖霊を受けました。その後、聖霊は彼らの内に留まり続けました。何が変わったのでしょうか?弟子たちの性質が変わりました。聖霊の火によって、内側の肉的なものが焼き尽くされたのです。聖霊の火が、きよめの火と言われるのはこのためです。ペテロは大胆な人でしたが、信仰が安定していませんでした。人の顔を恐れ、イエス様を三度も知らないとまで言ってしまいました。ヨハネとヤコブは内側に怒りの問題を抱えていました。トマスはとても疑い深い人で、イエス様の復活を信じられませんでした。ピリポは信仰よりも、理性で生きているような人でした。弟子たち全員が、イエス様が捕らえられる直前まで、「自分たちの中でだれが一番偉いか」競い合っていました。どの弟子たちの中にも党派心と嫉妬心が宿っていました。よりにもよって、イエス様が、どうしてこのような人たちを選んだのか不思議でたまりません。でも、イエス様は彼らが聖霊を受けたならば、変わることを知っていたのです。初代教会の姿が、使徒の働き2章後半に記されています。使徒2:41-47「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒たちは、イエス様から教えられたことを教えました。しかし、単なる知的な聖書の教えではありません。「互いに愛するとはこういうことなんですよ」と模範を示したのです。かつての弟子たちは、3年半もイエス様から直に薫陶を受けましたが、内側が変わっていませんでした。しかし、聖霊を受けてから愛の人に変えられたのです。それが、3000人の人たちに影響を与えたのです。

 私たちも聖霊を内にいただくと、人格的な変化が訪れます。まず、死んでいた私たちの霊が生まれ変わります。それまでは、霊的に無感覚で、神様のことも知らないで、自己中心で生きてきました。ところが、イエス様を信じると、霊が内側から活動し始めます。神様に祈り、聖書を読み、兄弟姉妹と交わるということが可能になります。聖霊に留まると、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実がみのってきます。なぜ、このような変化が起こるのでしょう?Ⅰコリント6:19 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」これは、神さまが聖霊によって私たちのうちに住まわれるという約束です。これは、旧約聖書の時代になかったことです。神様は最初、エデンの園におられました。しかし、アダムが罪を犯してからエデンの園はもうありません。その次はモーセが作った天幕におられました。至聖所と言われるところに、臨在されました。その後、ソロモンが神殿を作りました。神様は神殿の至聖所に臨在されました。しかし、バビロンによって神殿が壊されました。その後、どうなったのでしょうか?そうです。神の御子であられる、イエス様の内に留まっておられました。しかし、イエス様は十字架で死なれ、三日後によみがえり、天にお帰りになられました。でも、イエス様は「もう一人の助け主を送るよ」と約束されました。もう一人の助け主とは聖霊様です。ペンテコステの日から、神の霊である聖霊が、私たちの中に住んでくださるのです。私たちのからだは自分のものであって、自分のものではありません。自分のからだを汚すということは、内におられる聖霊を汚すことになるからです。私たちのからだが、聖霊の宮なのですから、私たちの体を聖く、保つのが普通ではないでしょうか?

 聖霊は個人の内に住むだけではなく、私たちの中にも住んでくださいます。西洋は個人主義で、「自分の中に聖霊がいればそれで良い」とやってきました。しかし、聖霊は「私たちの中」、共同体の中に住まわれるということです。パウロは私たちの内に聖霊がおられることは奥義であると言いました。コロサイ1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」「あなたがたの中におられるキリスト」とは、聖霊のことであります。しかし、ここで言われているのは、個人の中に聖霊がいらっしゃるということではありません。「あなたがたの中」とは、「AさんとBさんの間に」という意味です。聖霊様は個人の中におられることもさることながら、共同体の中にもおられるということです。イエス様がルカ福音書で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたとおりです。ここから、わかることは、信仰生活は一人ではできないということです。聖霊が私という個人の中にいらっしゃることはすばらしいことです。同時に、また聖霊が私たちという共同体の中にいらっしゃるということはさらにすばらしいことです。しかし、一人でいるときがゆっくりできるという人もいます。人々の中に入ると、気の合わない人がいるので軋轢が生じるでしょう。でも、一人で孤立してしまうと淋しいです。神様は一人で生きるように人間を造りませんでした。でも、また人々の中に入ると、楽しい時もあるけれど、傷つくこともあります。どうしたら良いのでしょうか?解決は聖霊です。聖霊なる神が罪と肉の欲求に打ち勝つ力を与えてくれます。私たちはありのままでは、互いに愛し合うことは不可能です。まず自分が聖霊なる神を内側にいただきます。次に、聖霊なる神を、互いの間に歓迎する必要があります。聖霊は、共同体の軋轢を通して、私たちに愛のないことを教え、また愛を求めることを教えてくださいます。つまりは、共同体なくして、人格的な成長もありえないということです。

 

3.パラ(共に)

 

 パラとは「共に」とか「側に」という意味です。英語ではwithです。イエス様は、復活後、天に帰られてもう地上ではおられないはずです。しかし、弟子たちに何とおっしゃったでしょうか?マタイによる福音書28章では、「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」と言われました。イエス様が弟子たちとどのように共にいることができるのでしょうか?ヨハネ14:16「 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」このところに、パラ「ともに」という言葉があります。イエス様が弟子たちとともにいる方法は、「助け主」である聖霊によってであります。「もう一人の助け主」はギリシャ語で、アロス・パラクレートスです。アロスは、姿かたちは全く同じで、別のという意味です。パラクレートスはパラカレオー、「側に呼びよせる」という動詞からきています。イエス様は助け主でした。しかし、イエス様と同等の助け主である、聖霊を側に送るということなのです。聖霊が「キリストの御霊」と呼ばれているのはそのためです。地上に遣わされた聖霊は、イエス様とほとんど変わらないお方であったということです。これが三位一体の秘儀であります。かつて、肉体をもっておられたイエス様はガリラヤにいるときには、エルサレムにいることはできませんでした。しかし、御霊によって来られたイエス様は、ガリラヤにもエルサレムにも同時にいることができるということです。なぜなら、御霊なる神は偏在することが可能だからです。ですから、Aさんと共にいることができるし、Bさんとも共にいることができるのです。

 では、聖霊が共におられることは私たちにとってどのような恵みがあるのでしょうか?かつての弟子たちはイエス様と共に歩んでいました。何か問題があると、イエス様に助けを求めました。また、何か分からないことがあると、イエス様にお聞きしました。彼らは常に、イエス様が行くところへどこにでも従って行きました。今は、目には見えませんが、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになられて、私たちに教え、私たちを守り、私たちを導いてくださいます。初代教会もこういうことがありました。使徒13章には、アンテオケ教会から二人の使徒が宣教に遣わされた記事が記されています。だれが、二人の使徒を派遣したのでしょうか?教会でしょうか?それとも教団でしょうか?使徒13:2「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。」なんと、聖霊ご自身が教会に「二人の使徒が宣教に行くように」命じました。まさしく、二人は聖霊によって遣わされたのであります。今日の教団や教会が、聖霊のお声に耳を傾けているでしょうか?少しは祈りますが、会議によって「ここしよう、ああしよう」と決めるところがあるかもしれません。聖霊様は今も生きておられ、私たちがへりくだって耳を傾けるなら、はっきりと語ってくださいます。厳密に言うならば、肉声ではなく、心の内側に語ってくださいます。最初はよく、わかりませんが、次第に「ああ、これは聖霊様の声だな」と分かります。あの少年サムエルも、主から名前を呼ばれたとき、一度目と二度目は分かりませんでした。しかし、三度目にお声があったとき、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げました(Ⅰサムエル3:10)。

 聖霊様は様々な呼び方で言われています。聖霊はギリシャ語では、パラクレートスです。これは、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。この言葉は本来、法律用語で、「弁護人」「調停者」という意味があります。英語ではcomforter「慰め主」とも呼ばれています。こういうお方が、共におられるということは何と心強いことでしょう。しかし、私はこの説教を準備しているとき、自問自答しました。「私は聖霊の声を聞いて、御声に従っているだろうか?」「私は聖霊の導きを得て、その導きに従っているだろうか?」いろんな心理学的なアプローチについて学んでいるし、それをこの礼拝で分かち合っています。心の問題も大切ですが、もっと重要なことは、聖霊なる神に聞いて従うことではないかと気づかされました。私には「あれをやってもダメだった。これから新たに始めてもダメかな?」という失望観があります。もちろん、積極的な考えで、それらを吹き飛ばし、新しいことにチャレンジすることを心がけています。でも、自分の心が健全になることもさることながら、聖霊様のことをもっと意識することも重要ではないかと思います。聖霊が初代教会で豊かに働いたように、今日も、「こうしなさい。私が共にいるから」と導いてくださると信じます。あやふやな心で、「またダメかな?」と恐れているのは、聖霊様の声をよく聞いていないからだと思います。もし、聖霊様がはっきりと語られたならば、恐れや不安が去り、ただ、従うことしか残されていません。やはり、聖霊からくるビジョン、聖霊からくる確信がいのちです。「自分のこころが、聖霊様に聞き従う」これが、もっとも健全なこころではないかと思います。きょうはペンテコステ礼拝にちなんでエピ、パラ、エンと3つのポイントで学びました。聖霊が上から臨み、聖霊が内に留まり、そして聖霊が共に歩んで下さいます。ある人が、「聖霊を受けるためには罪を悔い改めなければならない。なぜなら、泥が入ったコップの中にきよい水は入れないから」と言いました。普通はコップをきれいにしてからきよい水を入れます。でも、初代教会のように聖霊が圧倒的に上から臨むならどうなるでしょう?私たちは経験上、知っています。勢いよく流れる水道の蛇口の下に泥が入ったコップを置くならどうなるでしょう。勢いよく流れる水が泥を攪拌し、溢れ出る水と一緒に外に出すでしょう。しばらくすると、泥がなくなり、澄んだ水になるのではないでしょうか?それと同じです。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」という約束を信じて、聖霊を溢れるばかりにいただきましょう。聖霊はあなたの上から臨み、あなたの内に留まり、あなたと共に世の終わりまで導いてくださいます。