2013.5.26「セルフ・イメージの回復 イザヤ43:1-4」

 セルフ・イメージとは何でしょう。直訳すると、自分に対するイメージ、自己像です。言い換えると、「自分で自分をどう評価しているか。価値ある存在と思っているか」ということです。箴言23:7「彼は、心のうちでは勘定ずくだから」という聖句があります。キング・ジェームス訳ですと“For as he thinks in his heart”「彼は心の中で考えているような人である」となります。つまり、自分自身について考えていることがらを合計したものが、自分そのものであるということです。その証拠に、人というものは自分自身の評価にふさわしく行動します。もし、自分を「価値がない存在だ」と思っていると、大きなことにチャレンジせず、目立たないようにして生きるでしょう。逆に「自分には価値があるんだ」と思っているなら、自分の能力を最大限に発揮できるようにチャレンジしていくでしょう。

 

1.傷ついたセルフ・イメージ

 セルフ・イメージが傷ついている人のライフ・スタイルは、以下のような特徴があります。これは李光雨師のセミナーから学んだものです。第一は自分存在の否定感を持っています。口に出すかは別として、「私はだめだ」という責める思いが常にあります。新しい人間関係とか、新しい仕事とか、そういうことを始めるときに、ものすごくエネルギーがいります。なぜなら、「私はだめだ」というマイナス3か4からスタートするからです。何かをし始めるのがしんどいので、原稿や宿題の提出を引き延ばしてしまいます。その人が「肯定的(積極的)な思考を持つと人生が変わるよ」というセミナーに出ても、付け焼刃であまり長持ちしません。そのときだけです。第二は他人の評価にとても固執します。セルフ・イメージの低い人ほど、他人の評価で生きていこうとします。人の評判を過度に気にして、常に良い評判を得ようと努力します。これが高じてくると「視線恐怖」「対人恐怖」「ひきこもり」へと発展していきます。

第三、他者の評価を気にする人は、間違いなく、攻撃的、批判的になります。何故かと言うと、他者の評価というのは、基本的には否定的なものだからです。「攻撃は最大の防御である」と言いますが、セルフ・イメージに傷があれば、拒絶的、批判的、攻撃的になります。相手が自分を評価してくれているなら関係がとてもスムーズにいきます。でも、一度、相手が批判的なことを言うと、関係をバシッと切ってしまいます。この時は、愛による注意とか忠告はうまくいきません。第四、他者からの評価に固執するライフ・スタイルの行き先は理想の自分像という偶像を作ります。理想の自分像を作って、人から受け入れられるようにします。「向上心がある。もっと上を目指している。栄光から栄光へと御姿を求めている」と言うかもしれません。それで、人々からも称賛されるでしょう。でも、理想の自分像が神さま以上になっているという意味で偶像です。第五は、理想の自分像を作ってかんばっているので、「到達できない」という未達成感、挫折感が常にあります。これは天国への終わりのない階段を上り続けている状態です。やがて、頑張ることに疲れ、抑うつ状態になり、何もできなくなります。「赤い靴」というアンデルセンの物語があります。少女は、赤い靴を履きながらずーっと踊りつづけます。最終的には、靴を脱ぐために足を切らなければなりません。それは、自己崩壊です。第六は、パーソナリティ(人格)障害に陥ります。これは、傷ついたセルフ・イメージを回復しようとして形成された「束縛されたライフ・スタイル」と考えることができます。この人には、自分の情動をコントロールできないという、不安定さが常にあります。六つだけ取り上げましたが、あてはまるものがあったでしょうか?

 では、どういう理由でセルフ・イメージが傷つくのでしょうか?最大の原因は、生育史の中で、自分が受容されたという経験がほとんどないということです。心理学者は「6歳までに、その人の性格の骨格が決まる」言います。コンクリートでいえば、まだ軟らかい時に傷つき、それが固まったならばどうなるでしょう。なかなかその形は変えられないでしょう。同じように、土台ができる6歳の時まで、自己に大きなダメージが与えられると、修復するのが困難になります。そうすると、心の病になる確率も高くなってしまいます。しかも、このセルフ・イメージの形成で最も重要な時というのは、0歳から2歳までです。この時、幼子が得なければならない課題は「絶対的(基本的)信頼感」です。心理学者のエリック・エリクソンは、「子供は生後2年間の環境次第で、この世を信頼できるものと考えるか、できないものと考えるか決定される」と言いました。なぜなら、赤子は自分では自分のことを何一つできず、結局自分の置かれた環境にすべてをゆだねるしかないからです。ですから、置かれた環境から自分の必要を満たされれば、「自分の世界は信頼できるところだ」と学ぶし、満たされなければ、「信頼的でないところだ」と学ぶのです。置かれた環境の主なものは、父親であり母親です。もし、子どもの側から見て、親から拒絶されたように感じるならどうなるでしょう?セルフ・イメージが傷つき、大人になってからも、精神的に非常に不安定になります。その人には、劣等感、自信喪失、不確かさ、不安定感がいつもつきまといます。現代は「20人に1人、30人に1人は、境界性パーソナリティ障害である」と聞きます。どういう人かと言うと、情動が不安定で、怒りや悲しみをコントロールできないということです。拒食症、リストカット、自殺願望に悩まされ、救急車で運ばれる人たちです。親自身が鬱で、子育てができない場合があります。また、共稼ぎのために保育園に預けっぱなし。幼児はかまってもらえないので泣くと、親から無視されるか虐待されます。そうすると、赤ちゃんは、怒りと悲しみで、泣きやまなくなります。親の方は、怒りが増し、「可愛くないねー、憎たらしいねー」となって悪循環になります。幼児はさらに、泣きわめき、情動のコントロールがきかない子供となります。

 私たちは、親や学校の友達、先生から否定的なことばをたくさん浴びせられて育ちました。他の兄弟と比べられて、ちっともほめてもらえない場合があります。私は8人兄弟の7番目で育ちました。小学校のときは、通知表に5が2つぐらいありました。図工と理科が常に5でした。これを両親に見せると、ぜんぜん喜んでくれません。神棚の下の引出しから、長女と長男の黄ばんだ通知表を出してきて、「これを見ろ」と言われます。秀とか優がいっぱい並んでいました。「姉や兄はクラスの1番だった」とか言って、ちっとも褒めてくれませんでした。親は姉や兄のことばかり自慢して、下の4人は「できそこない」みたいに思われていました。また、学校では、できたところよりも、できないところを強調します。「○○、バツ!○○バツ!」とバツを大きく言います。私たちは否定的な評価によってダメージを受けます。たとえば、周りの人たちが「かわいいね」を子供に10回言ったとします。そして、「馬鹿だね」と一回、子供に言ったとします。10-1=9、「かわいいね」と言ったことになるかと言うと、そうはならないのです。否定的なことばの方が強く子供の心の中に入っていきます。「馬鹿だね」という一回が、10回言った「かわいいね」を帳消しにしてしまうのです。たとえば、10人のうち9人から「あなたの洋服、とても似合っているわ」と言われたとします。しかし、最後の1人が「あなたの洋服、ぜんぜん似合っていないわ」と言ったら、どうなるでしょう?洋服をすぐ脱いで、タンスの奥底にしまって、二度と着ないんじゃないでしょうか?なぜなら、「9人のは御世辞で、1人は本音だ」と思ってしまうのです。それほど、否定的なことばには力があります。また、私たちにはアダム以来の罪があるので、何でも否定的に捉えやすいのです。

 多くの場合、私のように親からの拒絶や放任や低い評価によって、セフル・イメージが傷つきます。でも、意外と知られていないのが、「優等生の子供も危ない」ということです。親からレールを敷かれて、有名な大学を出ても、劣等感を持っている人がたくさんいます。ある本によると、極めて折り目正しく、学歴や教養も高く、善良な親によって不認証環境を生んでしまうということです。不認証環境とは、非共感的で、独断的で、本人の自信や尊厳を奪ってしまう環境です。親が子供を支配して、子供の気持ちを全くくみ取ってあげない場合があります。いわゆる、過干渉で、親が子供の代わりに何でも決めたりします。その子は、親の言いつけを聞く、「良い子」でなければなりません。もし、親の価値観から外れたら、全く評価されず、「失敗者」の烙印を押されてしまいます。そういう良い子で育てられた人は、入試の失敗、失業など、人生の壁にぶつかったときは大打撃をこうむることになります。つまり、ありのままの自分の存在そのものではなく、親の価値観で固められて人生だったからです。一般的に、「愛の反対は憎しみである」と言われます。しかし、エリヤハウスでは「愛の反対はコントロールである」と習いました。結論になりますが、セルフ・イメージが壊れている人はどんなメッセージが心の中にあるでしょう。「自分はありのままでは愛されない存在なんだ。だから愛されるために一生懸命に頑張るしかない。」「自分は人よりも劣っているので、人よりも頑張らなければならない。やがては、人よりも優れた人になるんだ」というものです。日本の精神風土には、こういう価値感があるのではないでしょうか?常に人の目を気にして、人の評価を得ようと努力しています。しかし、人というのは元来、いい加減なもので、自分のことしか考えていません。そういういい加減な評価をしている人に合わせると、こっちはいつも不安定になります。そうではなく、私たちは私たちの存在そのものを愛してくれて、存在そのものに価値があると言われる、絶対的な神と出会う必要があります。

 

2.セルフ・イメージの回復

 健全なセルフ・イメージを持っている人の自己表現というものはどのようなものでしょうか?第一に自信があるということです。これはいわゆる「自信家になる」ということではありません。本当の自信があるときには、人はありのままの自分を素直に表現できます。また、物事を積極的に考え、実行に移し、能力や技術を効果的に用いることができます。さらに、人生の中には必ずある困難な状況に陥ったときにも、不安や否定的な思いを取り除き、ついにはその状況を乗り越えることができます。第二は幸福であるということです。これは気分や感情のことではありません。ここで言う幸福とは、自分で決断する幸福のことです。聖書に「いつも喜んでいなさい」と書いてあります。これは命令です。ですから、こちらは「私は喜びます」と決断しなければなりません。こちらが、決断して喜ぶという態度をとると、幸福が身についてきます。第三は自己を生かすことができるということです。聖書には「あなたは神に愛されている。あなたは義であり神の子である」と書かれています。このように、健全な目で自分を見ることができるようになると、次にどうなるでしょうか?「私はみんなと同じでなくてならない」という考えから解放されます。「私はユニークな存在なので、自分らしく生きたい」と願うようになります。第四は他者を生かすことができるということです。健全なセルフ・イメージを持っている人は、劣等感からも優越感からも解放されていますので、他の人のことを省みることができます。セルフ・イメージの低い人というのは、自分よりも弱い人しか付き合うことができません。「彼らを支配して、自分に価値があるんだ」と認めているのです。それは他の人のことを省みているのではなく、自己中心や虚栄心でやっているのです。セルフ・イメージが健全だと、自分と同じように、他の人も大切にし、キリストを通して他の人を見るということを学ぶようになります。

 それでは、セルフ・イメージはどのように回復されるのでしょうか?その前に、私たちがどうしても知らなければならないこと、前提条件のようなものがあります。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このみことばは、セルフ・イメージについて語るときに必ずと言って良いほど引用される有名なみことばです。私たちは神の愛を説明するときに、神の愛とは「高価で尊いと認めて、そのように扱うことである」と言います。まさしく、神さまが人間を愛するというのは、「高価で尊いと認め、そのように取り扱ってくれる」ことです。でも、ここで質問があります。私たちクリスチャンが神様から「あなたは高価で尊い」と言われたのは、イエス様を信じたからでしょうか?私たちは元来、価値のない存在であって、十字架によって救われたことによって価値が出来たのでしょうか?言い換えると、私たちが罪の中で死んでいた時は、まったく価値のない存在だったのでしょうか?使徒パウロは自分のことを「私は罪びとのかしらである」と言いました。パウロがかしらだったら、私たちは「罪びとの帝王」かもしれません。私たちはキリストと出会う前、罪びとであり、無きに等しい存在でした。確かに私たちはそのことを認めます。しかし、私たちは元来、神のかたちに似せて作られた尊い存在でした。そして、罪を犯して、罪の中に死んでいた存在です。では、私たちは救いようのない無価値な存在であったかというとそうではありません。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちは正しい人でも、情け深い人でもありませんでした。罪人でした。でも、そんな私たちのためにイエス様が十字架で死なれたのは、私たちが救われるだけの価値があったからです。イエス様はご自分の命を払って、私たちを罪の中から買い戻してくださいました。イエス様は私たちのために、代価を払ったということです。普通、デパートの最上階には宝石売り場があります。ダイヤモンドなど貴金属が並べられています。近くに寄って、一十百千万、十万、百万…と、桁を数えてみます。とても手が出せませんが、中には札束を出して、買う人がいます。なぜでしょう?その宝石は、大枚を払うだけの価値があるからです。ということは、イエス様がご自身の命を投げ出したのは、私たちがイエス様の命と同じくらい価値があるからでしょう。つまり、私たちは救われる前から価値があったのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というみことばは、神様から離れ、罪を犯し続けていたイスラエルの民へのみことばです。これを新約的に解釈するなら、まさしく、罪の中に失われていた私たちへのことばではないでしょうか?だから、私たちは人の目からではなく、神さまの御目で、自分を見る必要があるのです。

それでは、傷ついたセルフ・イメージはどのようにして癒されるのでしょうか?それは、神さまの絶対的な愛、無条件の愛を得るということです。残念ながら、親であっても、子供に絶対的な信頼感を与えることはできません。ある人は、「私は親から大変、愛されて育ったので、絶対的信頼感を得ています」とおっしゃるかもしれません。確かに、そういう幸福な家庭環境だった人がいるでしょう。それはとても良いことです。しかし、それは錯覚であり、人間には絶対的信頼感を与えることはできません。いくら親の愛を受けても、最後には、神様の愛を得なければ、私たちの存在不安はなくなりません。いきなり、存在不安ということばを出しました。これは、李光雨師がよく使う表現です。アダム以来、神様から離れた人類は、だれであっても、存在不安を抱えながら生きています。アダムとエバがいちじくの葉っぱで、それを覆い隠そうとしました。いちじくの葉っぱにあたるものが、親の愛であり、経済的な豊かさであり、高学歴や立派な職業でしょう。結婚であったり、子供であったり、美貌や持ち物であったりします。でも、それは偽りのバリヤーであって、いずれは役に立たなくなります。突然、何かの出来事で、覆いがなくなって、中から存在不安がばっと出てくるときがきます。人々が急に、鬱になったり、パニック発作、あるいは境界性パーソナリティ障害になるのではありません。幼い時に、既にバリヤーの喪失体験をしていたのです。親から見捨てられたと感じた時、拒絶されたときが絶対あったはずです。そのときは、良い子になって、必至にしがみついたかもしれません。「あなたは生まれてこなければ良かった」とあからさまに言われた人もいるようです。しかし、口ではそう言われなくても、「子育ては、めんどうだった」と大多数の親は思っています。楽なわけがありません。少しでも、親にそういう気持ちがあれば、子供は敏感に悟ります。「ああ、私には生きる価値がないんだなー」と心の奥底で思ったはずです。結論を言いますと、多かれ少なかれ、私たちのセルフ・イメージが傷ついて育ったのです。でも、それをごまかして、「一生懸命、勉強すれば良い」とか、「役に立つ人になれば良い」と頑張ってきたのです。心の奥底では「ありのままでは愛されない。まだ標準に達していない」というマイナスのイメージがあったはずです。ある人はそれをバネにして「なにくそ!」と頑張りますが、それは一種の怨念晴らしです。動機が汚れているので、決して良い実を結ぶことはできません。箴言21:2「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」とあります。

あなたはどういう場所で、神様とお付き合いをしているでしょうか。思った通り、事が順調に運んでいるときでしょうか?それとも、何もかもうまくいかず、八方塞がりで、うなだれている時でしょうか?つまり、どん底で、神様と出会っているかということです。ルカ15章の放蕩息子の話はだれも知っています。1つ質問があります。親のもとを離れ、放蕩ざんまいして、落ちぶれていた弟息子は、その父の息子だったでしょうか?罪の中で、失われてはいましたが、息子でした。では、そのお父さんは息子が働いて身分を回復してから、家に迎えたでしょうか?そうではありません。息子が帰って来ただけで良かったのです。お父さんは汚いままの息子を抱き締め口付けし、一番良い着物を着せてあげました。ここに示されているのは、神様の無条件の愛、絶対的な愛です。私たちもこの愛と出会う必要があります。実際、産みの親から捨てられた人もいるでしょう?むちゃくちゃ虐待された人もいるでしょう?でも、聖書の神様はどんなお方でしょう?イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」アーメン。イエス様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。それは、「あなたに、決してさよならを言わない」ということです。こういう神様、こういうイエス様と出会う必要があります。それも、幼いときの自分です。拒絶されて泣いていた幼子です。一人ぼっちで淋しくて震えていた幼子です。親から捨てられて、どうしようもない孤独を感じていた幼子です。自分の価値を認められず、悔しい思いをした幼子です。父なる神様、イエス様は絶対的な愛で、あなたを受け入れ、こうおっしゃってくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。世界のだれにもまさって、あなたを一番愛している」と。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とお命じになられました。と言うことは、私たちは隣人を愛する前に、自分を正しく愛する必要があるということです。神様の無条件の愛を豊かにいただきましょう。