2013.6.2「不安と恐れに打ち勝つ 詩篇91:1-16」

 大川牧師が書かれた『あなたにも夜がある』という本があります。その中に、夜泣きをする赤ん坊のことが書かれています。ピーター・バーガーという学者が「なぜ、赤ん坊が夜泣きをするのか?それは、これから大きくなるにつれて、体験する様々な恐怖を本能的にキャッチして泣いているんだ」と言いました。赤ん坊が夜泣きをすると「お母さんがついているから大丈夫よ」と言ってあやします。しかし、最近は、お父さんの方が、「お父さんがついているから大丈夫だよ」とあやします。しかし、この子は、これからいろんな病気や事故と戦わなければなりません。学校へ入れば、いじめがあるし、受験戦争があります。病気や怪我、交通事故など、さまざまな危険があるでしょう。お母さんがついていても、お父さんがついていても、大丈夫でないことは彼らが一番知っています。きょう取り上げる不安と恐れは、誰にでもやってくる否定的な感情です。

 

1.不安と恐れの障害

 少し前までは、「不安症」とか「神経症」でひとくくりにしていました。しかし、現代の精神科医は、もっと細かく分類しています。彼らは「そういう病気が起こるのは、脳内の化学物質の分泌に異常があるからだ。これらは、薬品を投与することによって緩和できる」と言います。確かに、ある病気は薬によって軽減されます。ですから、カウンセリングする人は、専門医の助けを借りることはとても重要です。特に、自殺願望のある人はそういうところとタイアップしながら、家族全員で援助する必要があるでしょう。私たちはその人の症状を聞いて、「ああ、あなたは○○病ですね」とか「○○障害ですね」とは言ってはいけません。なぜなら、診断するのはお医者さんだからです。私も少しだけ勉強していますので、つい、そういう誘惑に駆られます。これから、いろんな不安や恐れの障害を申し上げますが、私にとって専門外のことなので、大目に見てください。でも、「ああ、こういう病気や障害があるんだなー」と覚えておきますと、自分や他の人がなったとき、落ち着いて対処できます。ですから、素人であっても、ある程度の枠組みを知るということは、とても重要なことであると思います。

昔は「○○神経症」と言いましたが、今は使われなくなりました。そのかわり、「○○障害」と、病気の一種に分類されるようになりました。不安や恐れが病的になったものを「不安障害」言いますが、これが従来の神経症を包括したものです。「不安障害」の中には、6つくらいの障害が含まれています。統計によりますと、日本人の10人から11人に一人は何らかの「不安障害」を経験しているそうです。また、男性よりも女性の方が、有病率が高いということです。「不安障害」でもっとも良く知られているのが、「パニック障害」です。従来は「不安神経症」の一部として扱われてきましたが、現在は独立した病気として扱われています。李光雨師によると「繰り返されるパニック発作によって、ライフ・スタイルが強く束縛されている状態。過呼吸はパニック障害の典型的な症状の1つである。パニック障害は、今、とっても多い。特に若い女性に多い(高校生の女の子)。ある統計によると男女合わせて、生涯有病率は3%。100人いたら3人パニック障害の人がいる。10代から30代ぐらいまでの女性の中で、20%ぐらいの人はパニック傷害とそれに付随する世界を持っている。パニック発作が起こったところが怖くなって、それを避けるために、生活がどんどん縮められていく」と言っていました。ですから、パニック発作が起こると、できないことが多くなります。電車に乗れない、車を運転できない、横断歩道を渡れない、トンネルに入れない、劇場の真中に座れないということもあります。今から20年くらい前、統一教会に入った若い男性の救出にあたったことがあります。そのため、お父さんは単身赴任先から戻って来ました。お母さんとおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん全員で当たりました。私はその人の家に1週間くらい寝泊まりしました。そして、1か月くらいでやっとマインド・コントロールが解けました。しかし、そのお母さんの方にも問題がありました。買い物の途中で歩けなくなり、息苦しくなって座り込むということがありました。お医者さんにも通っていましたが、電車に乗って帰ってくるのが命がけだということでした。外見からは、そんなふうには見えませんでした。しかし、今思えば、パニック障害だったのかもしれません。丸屋師によると「パニック障害の多くは、日常生活にストレスを溜め込みやすい環境で暮らしている人がなりやすい」ということです。お母さんは、ご主人が単身赴任ということもあり、ストレスを貯めていたのかもしれません。

「不安障害」の中に「恐怖症」というのがあります。その中の、単純恐怖症は、1つのものや出来事に対する恐れです。たとえば、犬、蛇、蜘蛛、飛行機が怖い。高いところが怖い、狭いところが怖い、血液、注射が怖いなどです。エリヤハウスのキャッシーは、夜、窓を開けたままにしておくことをとても恐れていました。日が暮れてくると、家中を走り回って窓を閉め、ブラインドを閉めました。ある時、夫のロバートが遊び半分で、暗い部屋からバンと飛び出しました。彼女はものすごく怒って、ロバートは殺されるんじゃないかと思ったそうです。話を聞いたら、彼女が1歳の頃、ご両親とフィリピンに住んでいたことがありました。その家には窓ガラスがなく、雨戸みたいなもので閉めていました。50年も前だったので、フィリピンの人たちはアメリカ人に非常に好奇心を持っていました。彼らは時々、窓の隙間から部屋の中を覗いていました。私たちが留守のとき、部屋から色んなものを持ち去って行きました。その時から、窓が開いたままになっていることを怖がるようになったということが分かりました。また、「広場恐怖症」は、単独での交通機関の利用や車の運転、公共の場所への立ち入りができません。「突然、パニック発作が起こるのではないか」という恐れがあります。他に「社会恐怖症」があります。これは、いわゆる「あがり症」の強度なものです。人前に出て、強い不安を感じるあまり、震えや吐き気などの身体症状が出てきます。仲人さんなのに、結婚式のスピーチができなくなったりします。

 また、「強迫性障害」というものがあります。従来、強迫神経症と呼ばれていたものです。自分の意思に反して、無意味で非現実的な考えが、強迫観念として繰り返し浮かんできます。また、それを打ち消そうとして繰り返し反復するので、やがて強迫行動に囚われてしまいます。不潔恐怖や手洗い強迫、縁起恐怖、不完全恐怖、確認恐怖、収集癖などがあります。あるウェブに不潔恐怖に対するレベルチェックがありました。レベル10は家族共用のリモコンのボタンを押す。レベル20は自販機やエレベーターのボタンを押す。レベル80は床に落ちたボールペンをそのまま使う。レベル90は駅やコンビニのゴミ箱に触れる。レベル100は公衆トイレの便座を使う。ある人が、「手洗い強迫」のため、1時間以上洗っていたそうです。半年後、それがエスカレートして、入浴に数時間かけるようになったということです。「ゼーット」という声優の水木さんは、縁起恐怖があるようです。階段を上るとき、あるはお風呂に入るとき、右足から始めなければなりません。ある時、お風呂に入るとき、うっかり左足から入ってしまいました。お風呂から出て、気持ちを改めた後、右足から入ったということです。ある人たちは、不安と恐れに囚われてしまって、自由がなくなります。そのような束縛されたライフ・スタイルを何とかしなければなりません。

 

2.不安と恐れの原因

現代の精神医学は、「大脳における神経伝達の分泌などに何らかの障害が生じた結果である」と言います。彼らが用いる薬物療法は、一定の症状を緩和させることができます。もう1つは心理療法があります。薬物療法の助けを借りながらも、その人の間違ったところを正していくという方法です。かなり前に、「森田療法」というのがありました。一口で言うと「ありのままで良い」ということのようです。今は、認知行動療法や精神療法が効果的に用いられています。私は、李光雨師の「存在不安を覆うバリヤー」という捉え方が、最も良いと思っています。人間はだれしも存在不安を抱えて生きています。そして、存在不安をいろんなバリヤーで覆っています。男性だったら、会社かもしれません。女性だったら、結婚でしょうか?お母さんだったら、子どもが通っている学校かもしれません。牧師だったら、礼拝堂の大きさとか礼拝の出席人数ということがあります。多くの人たちは、自分の存在不安を美貌や健康、お金や物、地位や名誉をバリヤーにして生きています。でも、そういうバリヤーというのは決して丈夫で長持ちするものではありません。突然、会社をリストラされることもあるでしょう。突然、良い子が反抗的になるでしょう。1つのスキャンダルで地位も名誉も吹き飛びます。もし、ガンと宣告されたら、どん底に落ちるでしょう。そして、「不安障害」になる人というのは、バリヤーがもともと薄い人であったということです。両親との関係、家庭環境、社会的な環境、経済関係、いろんなところでバリヤーが薄くなっている。そのところに、何か危機な体験をします。そのとき、パニック発作が出てきて、それが恒常化していくというものです。

では、そもそも、人間の存在不安はどこから来たのでしょうか?これは、創世記3章まで遡ります。アダムとエバが食べてはいけない木から、取ったためにどのようなことが起きたでしょうか?創世記3:7-10「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」罪を犯して、神さまから離れたために、恥と不安と恐れがやってきました。ここで言う、存在不安であります。二人は、自分たちの存在不安を隠すためにどうしたでしょうか?いちじくの葉というバリヤーで覆いました。アダムとエバ以来、すべての人は自分の存在不安を覆うために、人工的なバリヤーで覆っています。バリヤーとは、お金、持ち物もの、地位、家庭、子供であります。しかし、いちじくの葉はやがて枯れてしまいます。昨日まで肩で風切っていた部長さんが、リストラされて、ペシャンコになります。期待していた、子どもが不登校になるとお母さんが鬱になります。でも、人間はバリヤーの修復作業に奔走します。新たに別の会社を探す。長男でだめだったら次男に期待する。ある人は、神様をバリヤーにします。「神様、会社クビになりましたので、もっと良い就職口を与えてください」と祈ります。でも、それらの人工的なものは、解決になりません。やがて、違ったところから、存在不安が噴出してきます。

では、不安と恐れの本当の解決はどこにあるのでしょう?創世記3章の後半を見ますと、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてあげました。エデンの園で初めて、血が流されました。皮の衣とは、主イエス・キリストの贖いを象徴しています。神様を利用するのではなく、自分の最も困ったところで、イエス様と出会う必要があります。従来のバリヤーが壊れたということは、実は良いことなのです。なぜなら、本当のバリヤーで覆うことができるからです。だから、マタイ5章でイエス様が「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」とおっしゃったのです。本当のバリヤーとは何でしょう?それは、私たちの罪を赦し、傷を癒してくださる神様の愛です。絶対的な神様の愛で、私たちが覆われたならば、安心と守りがやってきます。英語でsecureという言葉があります。これは「安全な、危険のない、安定した、心配のない」という意味です。反対の言葉がinsecureです。これは、危険だとか、危ないという意味ではありません。「不安な、不安定な」という意味です。みなさんの心の中は、どうでしょうか? Insecure、何とも言えない不安感を抱えてはいないでしょうか?

 

3.不安と恐れの癒しと解放

解決は、現在、困っている状況から、根をさぐるということです。生活の中での失敗体験や恐怖体験があります。1回、2回はそれを乗り越えられたかもしれないが、それが症状として、固定します。電車に乗れないとか、人混みが怖い。パニック発作が出る。あるいは、潔癖症が度を越している。いろいろあるでしょう?その破れ口をたどって、過去に遡ります。つまり、幼少の頃、何かのショックでバリヤーが壊れたことはないかということです。あるいは何かの出来事で、ダメージを受けて薄くなったことがあるはずです。ある人は、子供のときお母さんが入院して、おばさんの家に預けられました。そのとき、「お母さんがいなくなった」という強い恐怖感があったそうです。あるいは、子供のとき家族のだれかが死んだために、死の恐れが入ってしまうこともあります。あるいは喘息になって、生きが吸えないという死の恐怖を味わう場合もあります。高いところから落ちたとか、流血の現場を見たとか、大怪我をしたことがあるかもしれません。私の家はトタン屋さんでした。屋根とか煙突などのトタン板が立てかけてありました。夜、トイレに行く時、トタンの角で左足のお皿の下をザクっと切りました。その当時は、赤チンしかなく、あとで傷口が化膿しました。ですから、私は怪我をして血を見るとあせります。化膿しないように、早く手当てをしなければならないと思います。いろいろ、探っていくと恐怖体験をしたということがあるかもしれません。近所の犬にかまれたとか。何か食べ物であたって、それ以来、ある物が食べられないという人もいます。とにかく、子どものときに受けた恐怖感は、大きなダメージを受けます。そこが足場になって、悪魔がその人を束縛します。

その次に、神さまがどんなお方か、聖書からイメージする必要があります。詩篇91:1「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあります。私たちの神様は全能者です。詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」アーメン。主が大きな羽で私たちを覆ってくださいます。私たちは翼の下に隠れることができます。新約聖書のイエス様はどんなお方でしょう?イエス様は愛に満ちていただけではなく、悪霊を追い出すことができました。私たちはそういう神様を自分の過去にお迎えするのです。そして、バリヤーが壊れてしまったただ中に、来てもらいます。ある人は子どものとき、大きな木が倒れ、下敷きになったことがあるそうです。幻の中で、倒れた木を下から支えている神さまの御手が見えました。それで自分が死ななかったことが分かったそうです。イエス様は、子どもの私たちが分かるような方法で、secure「安全で心配がない」ことを教えてくれます。その後、自分で作ったいちじくの葉っぱではなく、神さまご自身をバリヤーにしていただくのです。詩篇91:2にあるように「主は、わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」です。神さまご自身が私を守ってくれるのですから、怖いものなどないのです。

私たちは、「○○障害」にならないように、聖書的なライフ・スタイルを身につける必要があります。そのためには、「日々、恐れと不安を捨てて、主を信頼することを選び取っていく」ということです。聖書には「恐れるな」と、365回書いてあります。神さまは、毎日、私たちに「恐れるな」とおっしゃっておられます。恐れと信仰は一緒に歩くことができません。恐れと信仰は、相反するものですが、共通点があります。両者は、まだ見えていないものを、信じるように要求するからです。恐れは「脇腹に痛みがありますか?それは癌かもしれない。お母さんも癌だったから」と言います。信仰は「その痛みは一時的なもので、すぐ直ります」と言います。恐れは「不景気だから、仕事がなくなる」と言います。信仰は「神様が良い仕事を与えてくださる」と言います。恐れは「たくさん努力してきたけど、幸せにはなれない」と言います。信仰は「最も良い日が、これから先に用意されている」と言います。あなたはどちらの考えを選択し、どちらの考えを心の中に入れるでしょうか?もし、あなたが恐れからくる否定的な考えを、心の中に、繰り返し、繰り返し入れたならどうなるでしょう?それらがあなたの現実となるでしょう?ヨブという人の上に悪いことが立て続けに起こりました。全財産と10人の子供をいっぺんになくしました。その後、ヨブは「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ3:25)」と言いました。もし、恐れによって、否定的な思いを抱くならばどうなるでしょう?恐れたものが現実となって、やってくるでしょう。イエス様はマタイ9:19「あなたがたの信仰のとおりになれ」とおっしゃいました。あなたは、どのような信仰を持っておられるでしょうか?

あるところに、一組の夫婦がいました。奥さんはある時から、「いつか、銃を持った人が自分の家に押し入ってくる」という、恐れに取り付かれました。ベッドに着いた後、週に一回以上は、「あなた、どろぼうが来たかもしれないから、下に行って調べてよ」とお願いしました。優しいご主人はそれを何年も、何年も続けました。ある夜、「あなた起きてよ。下で何か物音がしたわ。行って調べて来てよ」と言いました。優しいご主人は「はい、はい」と降りていきました。階段の下に、本当のどろぼうがいて、銃を顔に付きつけ「声を出すな。金目のものを出せ!」と言いました。ご主人は、言われとおりに、宝石と現金を彼に渡しました。どろぼうが立ち去ろうとした時、ご主人がこう言いました。「ちょっと待って下さい。あなたは二階に上がって私の妻と会うべきです。彼女はあなたが来ることを30年間も期待して待っていました」。私たちは恐れに目をとめるのではなく、信仰に目をとめる必要があります。なぜなら、どちらも目に見える形でいつかやってくるからです。決して口で、「この仕事はだめになる」「私たちの結婚はだめになる」「私はいつか病気になる」と言ってはなりません。そうすると、あなたが恐れたとおりになります。その代わりに「神様が経済を祝福してくださる」「神様が二人に愛を注いでくださる」「私は健康で長生きできる」と告白すべきです。そうすると、神様があなたに恵みを運んでくださいます。不思議なことに恐れは周りの人たちに伝染します。12人の偵察隊がカナンの地を探りに行って帰ってきました。その中の10人は「確かにあそこは乳と蜜の流れるところだ。しかし、巨人がいて自分ちはいなごに見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と言いました。他の2人は「その地の人々を恐れてはならない」と言いました。しかし、恐れの方が勝って、全会衆は大声をあげて泣き叫びました。その結果、イスラエルの民は不信仰のゆえに約束の地に入ることができませんでした。私たちは恐れを選んではいけません。信仰を選び取るのです。人々の非難、テレビの悪いニュースを思いの中に入れないでください。私たちは神のことば、グッド・ニュースを思いの中に入れるのです。詩篇91:16「わたしは、彼(あなた)を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼(あなた)に見せよう。」