2013.6.23「結婚の回復 エペソ5:22-33」

 イギリスの古いことわざからです。「あなたが1日幸せに過ごしたかったら、床屋に行きなさい。あなたが1週間幸せに過ごしたかったら、車を買いなさい。あなたが1か月幸せに過ごしたかったなら、結婚しなさい。あなたが1年幸せに過ごしたかったなら家を建てなさい。あなたが一生幸せでいたかったら、正直者になりなさい。」このことわざによると、結婚の賞味期限は1か月なのでしょうか?きょうは「結婚の回復」と題して、聖書からともに学びたいと思います。

1.結婚の土台

 二人がめでたく結婚することを「ゴール」と言いますが、そうではありません。それから、長く続く地道な結婚生活の「スタート」です。多くの人たちは、ぶっつけ本番で結婚生活をしますので、「こんなはずじゃなかった!」と後悔したりします。私たちは「結婚というものは何なのか?どういう風に結婚生活を送るべきなのか」ということを学ばなければなりません。残念ながら、この世においてはそういうことを教えるところがありません。結婚は単なる社会制度ではなく、神さまが制定されたものです。そのために私たちは、神さまのみことばである「聖書」から学ばなければなりません。聖書は人生の取り扱い説明書、「取説」です。電化製品を買うと、必ず取り扱い説明書がついてきます。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、エアコン、パソコンにも必ずついています。でも、ほとんど読まないで、「とにかく動かしてみよう」という人が多いのではないでしょうか?長いマニュアルを読みたくないですね。壊れたとき、「取説」をひっぱり出して、読むのではないでしょうか?結婚が壊れたとき、まだ壊れていなくても、私たちは人生の取り扱い説明書である「聖書」を読むべきです。その中に、「結婚」という項目もあります。きょうの「エペソ人への手紙5章」もその中の1つです。

 使徒パウロは結婚を「キリストと教会」にたとえて教えています。では、キリストとはだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。キリストは「夫」を象徴しています。では、教会はだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。教会は「妻」を象徴しています。つまり、キリストと教会の関係は、夫と妻の関係であるということです。最初に「妻たちよ」と命じられています。エペソ5:22-23「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」男性にとって、なんとすばらしいみことばでしょう!キリスト教書店に行くと、聖句を彫った額が売られています。「なぜ、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい』のみことばの額が売られていないのかなー」と、残念に思います。このところに書かれているのは、身分の違いではなく、機能の違いです。「かしら」というのは、上にあった方が便利です。なぜなら、「かしら」には、目や耳、口、鼻がくっついているからです。もし、「かしら」がお尻についていたり、膝についていたら不便です。かしらは体の一番上についているべきです。

でも、「かしら」とはどういう意味でしょうか?Ⅰコリントはこのことを補充しています。Ⅰコリント11:3「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」このところには、「キリストのかしらは神である」と書かれています。キリスト様と父なる神さま、どちらが偉いのでしょうか?どちらも三位一体の神さまですから、上下関係はありません。でも、「キリストのかしらは神です」とはどういう意味でしょうか?新約聖書を見ると分かりますが、キリストは神さまでしたが、父なる神さまにいつも従順しておられました。なぜなら、父なる神さまが救いを計画されたからです。そして、キリストは、父なる神さまが立てた救いの計画を実現するためにこの地上にやってこられました。だから、たえず父なる神さまに聞きしながら、事を進めていきました。これを夫と妻との関係で言うならば、夫がかしらであるというのは、「リーダーシップを取れ」ということです。別な言い方をすると、「すべての責任を負いなさい」ということです。そして、妻はかしらである夫を敬いながら、従って行きなさいということです。これを雨傘でたとえるならば、このようになります。神さまは、夫が家庭のかしらとしての役割を果たすように定められました。そうすれば、下にいる妻や子どもが守られます。ところが、夫が家庭をちゃんと治めていない場合はどうなるでしょう?ギャンブルや酒で働かない。外で仕事ばかりして、家の中のことは関知しない。そうすると傘に穴が開いて、雨が漏ってきます。機能不全の家庭です。「それじゃだめだ」と言って、妻が夫を出し抜いて、かしらになるとどうなるでしょう?傘がひっくり返った状態です。これでは、傘の役目を果たさなくなります。これは、神さまの秩序に反しているので、うまくいきません。

 今は終わりの時代ですが、家庭が破壊されている時代でもあります。世界の離婚率を調べてみました。ある資料によりますと、ロシアの離婚率は69%です。先ごろ、プーチンも離婚しました。アメリカが47%、英国が45%、韓国が40%、日本は37%です。離婚率は、キリスト教国であるとか、ないとか関係がありません。信仰が歯止めになっていないということは全く残念です。なぜでしょう?結婚の原則に土台していないからです。離婚の原因は夫、男性が「良いかしらになっていない」からです。エディ・レオ師は時々、ロシアに奉仕に出かけます。ウラジオストックの教会に行ったとき、ギターも賛美も司会もみんな女性たちだったそうです。エディ・レオ師が「父の心」をメッセージしたとき、女性たちが声を上げて泣き崩れました。ロシアの男性たちは寒いので、ウォッカをたくさん飲むそうです。酒に酔った夫が、妻に暴力を振るいます。それで、妻は耐えられず離婚をするのです。だから、教会には女性しかいません。アメリカも日本もそうですが、離婚すると子供たちが犠牲になります。継父によって虐待されます。先日、フィリピンのミンダナオ島の孤児を支援している藤先生の講演にでかけました。フィリピンでは10代前半で結婚し、多くの子供を産みます。でも、経済的に厳しくて十分に育てられません。フィリピンはカトリックの国なので離婚が認められていません。それで、女性は家庭を捨てて、他の男性のところに行きます。そのような家庭で育った女の子は、お母さんと同じように若くして結婚し、子供を産んだ後、蒸発します。そういうことが世代間連鎖になっています。藤先生たちは、捨てられた孤児たちを支援しています。人間の尊厳あるいは、価値というものがとても低いように思われました。何度も言いますが、夫は妻のかしら、家庭のかしらです。経済的にも、精神的にも、霊的にもリーダーシップを取り、責任を負う必要があるということです。

 それでは、妻が夫に従うというのはどのような従い方なのでしょうか?奴隷のように、何でもかんでも夫に従うことなのでしょうか?エペソ5:22,24「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。…教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」「教会がキリストに従うように」とはどういう意味でしょう?教会の歴史を見るとわかりますが、教会がはなはだ堕落し、キリストに全く従わないときもありました。中世のカトリックだけでなく、プロテスタント教会もそうです。ということは、妻が夫に従う従い方には、ある程度の「ゆるさ」があるということです。簡単に言うと、「まあまあ」でも許されるということです。では、夫はどうなんでしょうか?エペソ5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」キリスト様の教会に対する愛は、どういう愛だったでしょうか?キリストの愛は、一方的な愛、無条件の愛です。これはどういう意味でしょう?「夫は、妻が自分を愛してくれるのを待っていてはならない」ということです。「妻が愛してくれていなくても、愛する」ということです。つまり、夫がかしらであることの証明は、夫が愛においてイニシアチブを取るということです。この愛があってこそ、妻のかしらになれるということです。韓国で開かれた結婚セミナーでの一コマです。ある夫婦が、布団に入って寝ようとしていました。ところが、天井に電気がついていました。妻が「電気ついてるわね」と言いました。夫は「ああ、そうだな」と言いました。妻は「あなた消してよ」と言いました。夫は「お前が気付いたんだから、お前が消せよ」と言いました。妻は「あなたは男でしょう。あなたが消してよ」と言いました。夫は「こういうことは女がやるべきだ。お前が消せよ」と言いました。「いいえ、あなたが消すべきよ」「いや、お前が消せよ」。なんと、1つの電気をだれが消すかで、2時間やりあっていたそうです。

エペソ5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」「それはそうとして妻を愛せよ」とは、「無条件に愛せよ」ということです。なぜなら、教会がキリストに不従順であっても、キリスト様が無条件に教会を愛してくださっているからです。でも、最後に、ひとこと言わせてください。「妻もまた自分の夫を敬いなさい」とあるように、どうか妻たちよ、夫を敬ってやってください。夫は妻から敬われるとき、「ああ、妻を愛したい」という思いが湧いてくるからです。夫を見下したり、うとんじると、妻への愛もなくなります。どうか、夫を敬ってやってください。お願いします。

2.結婚の回復

エペソ5:31「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」とあります。「結ばれ」という原文「固くくっつく」という意味のことばです。英国の聖書は、cleave「主義などを固守する」あるいは「人に忠実である」という意味があります。カウンセリングの丸屋真也師はこう述べています。「『結ばれ』はコミットメントである。困難があってもそこから離れない。そのため、何かあったときに『解ける』という選択肢も持たない。ただ問題のあるのは、そういう確信を持っている中で、逆にこのコミットメントを悪用してしまうことである。相手にいろんなことを望み、自分の問題を改善しないために、いろんな悲劇が生まれる。そして、なお罪を犯し続ける。コミットメントとは機械的なものではなく、自発的なものである。繰り返すと切れてしまう。一旦、切れると修復できない。」「コミットメント」は日本語にするのが難しいことばです。強いて訳すなら、「専心」「献身」「打ち込み」という意味です。結婚に対するコミットメントを4つのレベルに分けることができます。一番高いレベル1ですが、「コミットメントがあり、愛もあるが問題もある」というレベルです。一番下のレベル4は「コミットメントも積極的な愛もなく、解決しようともしない」というレベルです。ハネムーンのときはお互いにコミットメントが高いでしょう。どんなことがあっても、お互いの気持ちが変わりません。なぜなら、「相手を良く見よう」「相手に良く見せよう」という原則が働いているからです。しかし、その後、何かが起こります。夫の借金が発覚したり、依存症が見えてきます。今までは「良く見せよう」としていたので、本当の姿が現れていなかったのです。妻は、夫に「改めて欲しい」と喧嘩をしますが、夫の問題行動が変わりません。妻のコミットメントは1であっても、夫のコミットメントはレベル2から3と下がっていきます。「夫は、クリスチャンは離婚はない」という確信があります。しかし、夫が全く変わらないので、妻の気持ちがどこかで落ちてきます。妻のコミットメントも2から3と下がっていきます。やがて、どうしようもない状態に定着します。妻は「この人はダメなんだ」と思います。そして、「クリスチャンは、離婚はしないけど」と言っても、別居します。

日本ではカウンセリングを受けるという習慣がほとんどありません。相談に行くところは、区役所か家庭裁判所であって、「どうやったら離婚できるか」ということを聞きにいきます。しかし、両者の間に介入することができたら、結婚が回復する可能性があります。丸屋先生は結婚と家族カウンセリングをよくなさっていますが、このようなことを聞きます。介入が始まると、今まで我慢していた分、妻が過激になります。「あなたとはやってゆけない!」と、これまでのことがバーッと出てきます。夫はそれで初めて、自分の状況を知ります。つまり、加害者が被害者から過激なことを聞くと、「底打ち」状態になります。つまり、それまでは「何をしても赦される」と高をくくって来ました。被害にあっている伴侶は、牧師に相談することさえ拒否します。なぜなら、「離婚してはならない」という神の明確なことばがあるからです。丸屋先生は「みことばに『離婚してはならない』と書いてあるのは、クリスチャンは離婚しないという前提ではない。罪が入るならば離婚もありうる」と言われました。そうなると、夫の方も真剣にならざるを得ません。しかし、コミットメントが下がった二人を引き上げるのは簡単ではありません。もし、夫が加害者であるならば、「ああ、底がついた。これはただことではない。本気で改めよう」と決意しなければなりません。そのため行動が変わってきます。でも、そのとき、夫は「俺はこんなに変わったのに、妻は変わっていない」と文句を言ってはいけません。妻の方はこれまで苦しみが長かったので、夫の「誠意への疑い」があります。「本当にそうなのかな?」と思って、コミットメントがなかなか上がりません。妻を責めるとますます上がらなくなります。なぜなら、人間には防衛本能があるからです。「妻に変わってほしいから、自分が変わる」というのは、本当の変化ではありません。夫は良い行いを継続していきます。しかし、妻は変わる様子がありません。妻の夫に対する「可能性への疑い」があります。それでも、夫は継続していきます。「どのくらい?」分かりません。もう、妻がどう判断するか関係なく、自分がすべきことをやっていきます。どのくらい続くのだろうか?妻の夫に対する「継続への疑い」があります。それを乗り越えるとやっと、妻の気持ちが上がり始めます。妻は3つの疑いの段階を乗り越えるとき、気持ちが回復します。そこで、初めて信頼関係ができます。

私たちは「結婚の回復」を考えるときに、「いつ家庭が壊れたのか?」ということを知らなければなりません。創世記3章にまで遡ります。ヘビに化けたサタンが、エバを誘惑しました。そして、エバは食べてはならない木の実を食べました。そばに、アダムがいたのに、止めませんでした。逆に、アダムはエバが差し出した、実を食べてしまいました。その後、神さまが、アダムに「あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか?」と聞きました。アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えました。神さまが、エバに聞くと「ヘビが私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と答えました。このところから第一にわかることは、サタンの策略は、家庭を破壊するということです。サタンは妻と夫を分離することによって、家庭を攻撃するのです。第二はアダムがかしらとしての役割を果たしていないということです。エバが最初に食べましたが、神さまがアダムに尋ねたのは理由がありました。エバは直接、神さまから命令を聞いていません。アダムがエバにちゃんと教えていませんでした。そればかりか、エバが誘惑されるのをそばで見ていたのです。正しい夫であるならば、ヘビの頭を叩いて、去らせるべきでした。第三はだれも責任をとっていないということです。アダムはエバのせいにしました。エバはヘビのせいにしました。今日も、家庭が壊れているのに、だれも責任を取らないということです。だれも敗れ口に立とうとせず、「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。神さまはご自分のかたちに似せて、男と女を創られました。二人が結婚して家庭を築き、ご自分おかたちを増殖させることは神さまのみこころでした。ところが、サタンが神さまの計画の邪魔したのです。サタンは、夫婦の間を壊すならば、家庭が壊れ、やがて社会全体が壊れることを知っていたのです。この時代、離婚率が上昇しているのは、サタンが大活躍しているからです。

しかし、イエス・キリストは結婚を回復し、家庭を回復するために、この世にやってこられました。イエス様はルカ11:17「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」と言われました。内輪もめしたらサタンの国ですら、立ち行くことができません。家にしても、夫婦がうちわで争えばつぶれます。私たちはそれを知ってか、知らぬか、やっています。そして、夫婦が別れ、子どもたちも散らされます。しかし、それはサタンの思うつぼであります。イエス様はヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。つまり、盗人であるサタンによって、家庭が攻撃されているということです。サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。本来なら二人でサタンに立ち向かわなければならないのに、内輪もめしています。「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。しかし、イエス様は何のために来られたのでしょう?「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様は豊かな人生を与えるために来られました。豊かな人生の中に、結婚の回復、家庭の回復も当然入っています。なぜなら、家庭こそが神さまが教会よりも、先に創られたからです。神さまの愛のかたちを現わしているのは、家庭の方が先だったのです。どのようにすれば回復されるのでしょうか?それは、贖い主であるイエス様を間に迎えるということです。イエス様は一度壊れた関係を結びなおしてくださいます。イエス様は一度死んだ関係を復活させてくださいます。なぜなら、ご自身が死んだ後、よみがえられたからです。しかし、私たちにやるべきことがあります。犯した罪を告白し主の赦しをいただきましょう。そして、訴えや、恨み事、過去の過ちを墓の中に埋めましょう。二人がイエス様の贖いの中に飛び込むとき、結婚が回復します。ある人たちは、「幸せになるために結婚します」と思っています。そうではありません。二人が神さまの命令を守って行くと、その後から幸せがくっついてくるのです。またある人たちは、「私を幸せにしてください。そうしたら、私もあなたを幸せにします」と伴侶に要求します。それも聖書的ではありません。愛は一方的で、無条件であるべきです。つまり、相手を幸せにするために仕えていくのです。見返りがすぐに、来るかどうか、わかりません。それでも、ひたすら相手を幸せにしようと仕えていきます。すると、やがて、相手が感謝のしるしに、「私もあなたを幸せにするように仕えます」となるのです。結論的には、結婚は幸せになるのが目的ではないということです。むしろ、結婚は神さまの御姿になるように建て上げられためにあるのです。箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」お互いが研ぎ合いながら、神さまの御姿になるのです。結婚は両者が建て上げられるために、すばらしい機会となるということです。